マレーの虎、山下奉文履歴考 |
(最新見直し2011.6.6日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
【山下奉文履歴考】 | ||||||
1885.11.8(明治18)〜 1946.2.23(昭和21) | ||||||
高知県香美郡暁霞村(香北町)出身。雅号を巨杉。開業医の父・佐吉、母・由宇の次男として生まれる。長男の山下奉表(7-1-15-29)は海軍軍医少将。 |
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1945.9.3日、フィリピンのバギオにて降伏調印。当初、捕虜として扱われたが、すぐに戦犯としてフィリピンのマニラにて軍事裁判にかけられた。裁判は、1945年末と1946年初頭にマニラで開かれ起訴された。その経歴は、「1941年満州において南進の為の特別演習軍を訓練していた。1942年、彼はパーシヴァル将軍に勝利した。1945年、彼は貧弱な装備の軍隊による巧妙なルソンの防衛戦によってマッカーサー将軍に勝利した。山下は、彼の飢えきった部隊のほとんどをもってルソンの山岳部で8ヶ月もちこたえて、裕仁から降伏するよう命令を受けた時にはじめて降伏した。5千人の山下の兵士は、マニラ湾の入口にある要塞島コレヒドールを、1945年にアメリカ軍が島に上陸した後も11日間にわたって防衛した。4千人のマッカーサーの部下は、1942年に初めて日本軍がそこに足を踏み入れた時、12時間以内に同島を放棄していた」。このような業績は、山下の誉れではあっても罪を問えるようなものではなかった。 法廷は山下の戦犯度を追及したが、あらを捜すことができなかった。彼は正しい戦争の指揮に対して非常に厳格な人物であった。むしろ、1941年から42年にかけてのマニラの戦場で、イギリス軍に対する残虐行為を許した彼の指揮下の将校を懲戒したいた。それは辻や裕仁の不満を招いた。1944年12月、彼が最後の凄まじい防衛戦を行う計画を立てた際、バギオを取り巻くルソンの山岳地帯の外へ全てのアメリカ人戦争捕虜と収容者を連れ出すために骨を折り、そのためにガソリンを費消していた。山下の抑止力は、フィリピンの捕虜収容所の所長が、アメリカ人捕虜の解放を許すよりもむしろ全員を殺せという、東京の天皇の大本営からの示唆に従うことを防止するのに役立った。これらの事実にもかかわらず、マッカーサーは山下を裁くことを欲した。 山下は、彼には罪のなかったマニラの暴行と同様に、1944.1月のパラワン島におけるアメリカ人捕虜150人の焚殺、及び1945年初頭のパタンガス地方のフィりピン人部落に対する一連の報復虐殺の指導責任を負わされた。裁判で明らかになったことは、パラワンは残虐行為が為された頃は、東京が指令する海軍航空隊の指揮下にあったというのが事実であり、パタンガス報復爆撃もまた、山中に位置していた山下の指令によって為されたのではなく、むしろ東京からの命令で為されたと云うのが事実であった。フィリピン人の証言では、パタンガスの部落がゲリラ活動の中心であったことが裏付けられている。ゲリラが権利を持たないというのは、国際法上の戦争行為の一般に認められた準則である。如何なる理由をこじつけても、山下処刑が選ばれた。 山下は法廷で、自己弁護に際して、簡明な雄弁をもって陳述した。「私に責任がないわけではない」、「私が自決したのでは責任を取る者がいなくて残った者に迷惑をかける」と述べ、紳士的な態度を貫いた。次のようにも述べている。
判決は、「軍司令官上級職の権限によって、情報を与えられていない時でも、また命令を取り消されたときでも、自分の軍団に対して引き続き責任を負うべきである」とされた。それは、「戦争犯罪の法的責任が、彼の性格や動機や知識の状態に関わりなく、一連の指揮の連鎖の中にある誰に対しても、帰謬法によって判定され得ることを意味していた」。 1945.12.7日、真珠湾4周年記念日に、山下に絞首刑の判決が言い渡された。マニラで山下の死刑判決が下された。これに対して、原告側からも同情的な意見も出、弁護団も判決を不服とし死刑執行の差し止めと人身保護令の懇願をした。マッカーサー直属であったアメリカ軍の法律部門からの志願者から選ばれた山下の弁護人は、合衆国最高裁判所に対してこの判決を上訴した。1946.1月、裁判所はこの上訴を受理したが、1ヶ月の審理の後、合衆国最高裁判所の判事の6対2の投票によって、いかに情状酌量に値するものであっても、軍司令官がまさに彼の部下の犯罪に対して責任を負うものであることが承認され、却下された。 反対は、フランク・マーフィー、ウィレィ・レトレッジの両判事。その反対意見書は次の一節。
マーカーサーの見解は次の通り。
山下の弁護人は、着任したばかりのハーリー・トルーマン大統領のいるホワイトハウスに上訴した。大統領は、「マッカーサーの仕事に干渉する事を辞退した」。 |
(私論.私見)