キッシンジャー考 |
(最新見直し2007.4.2日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
2007.3.末、キッシンジャーが来日した。その政治的狙いが奈辺にあるのかは不明である。4.1日の六本木ミッドヒルズのオープンに絡んでいるのかも知れない。メディア、政党は、こたびのキッシンジャーが来日目的を訝らず、ひたすら提灯報道し続けている。 膨大になりつつあるれんだいこサイトの中にキッシンジャー論が含まれていなかったので、ここに追加する。ネット検索で出てきた「ウィキペディアのヘンリー・キッシンジャー」、田中宇・氏の2002.12.2日付け「激化するアメリカ権力中枢の戦い」その他を資料的価値としてのみ参照し、れんだいこ的キッシンジャー論を書き上げることにする。 それにしても、ろくなキッシンジャー論がない。改めて、日本左派運動の理論的貧困を痛苦せざるを得ない。れんだいこの以下の検証が役立てば幸いである。 2007.4.2日 れんだいこ拝 |
【ヘンリー・アルフレッド・キッシンジャー(Henry Alfred Kissinger、1923.5.27 - )】 |
1923.5.27日、ドイツ・ヴァイマル共和国のフュルトに生まれる。本来の姓名はHeinz Alfred Kissinger(ハインツ・アルフレート・キッシンガー)で、苗字はバート・キッシンゲン(Bad Kissingen)に由来。父ルイス・キッシンガーは女子高で歴史と地理を教え、母パウラ(旧姓シュテルン)はアンスバッハ近郊ロイタースハウゼン出身の富裕な家畜業者の娘。両親ともにユダヤ人である。 |
ハインツは、1歳下の弟ヴァルターと共に幸福な少年時代を過ごしたが、19633年、ヒトラー支配のもと反ユダヤ人政策を推し進めるナチスが政権を掌握したために運命が一変した。1938年、15歳の時、ユダヤ人迫害を逃れてアメリカへ移住。1943年、アメリカに帰化した。(ドイツに残った親類はナチに殺害された、と云われている) |
ニューヨーク市立大学シティカレッジを卒業後、第二次世界大戦にはアメリカ軍情報部の士官として参戦し、戦後は母国ドイツに駐留した。その後ハーバード大学に進学、19世紀のヨーロッパ外交史を研究した。 |
1950年、ハーバード大学を最優秀の成績で卒業。その後、1969年まで同校の政治学部教授として教鞭をとった。 |
1951年、キッシンジャーが初来日している。 |
1953年、中曽根がハーバード大学のセミナーに参加し、この時キッシンジャーと面識を得ている。 |
1954年、博士の学位を取得する。(邦訳「回復された世界平和」)。 |
この間、外交問題の研究指導者となり、外交問題評議会への参加を通じて、同時代の安全保障政策に積極的な提言をはじめる。アイゼンハワー政権の採用した核政策(「大量報復戦略」)の硬直性を辛辣に批判し、後のケネディ政権が採用する「柔軟反応戦略」のひな型ともいえる、核兵器・通常兵器の段階的な運用による制限戦争の展開を主張した。 |
1968年、大統領選では共和党の大統領候補指名選に立候補している。ニクソンに敗北したネルソン・ロックフェラーの外交顧問を務めた。 |
1969.1月、第37代米国大統領ニクソン政権の誕生とともに政権入りし、国家安全保障担当大統領補佐官(国家安全保障)として外交全般を取り仕切る。ソ連と第一次戦略兵器制限条約(SALT1)を締結するなどデタント政策を推進した。 |
1971.7月、極秘に中華人民共和国を二度訪問し、ニクソン大統領の中国訪問による米中和解への道筋をつけた。キッシンジャーと周恩来の会談は冷戦後の米中指導者の初会談となり、歴史的転換点となる会合だった。 |
1972年、日本の田中角栄首相が訪中し日中国交正常化を図る計画を知り、「ジャップ」との表現を用いて田中首相の日中国交回復の動きに対して、「最悪の裏切り者」と非難した。 |
1973年、国務長官に就任する(1977年まで)。 |
1973.3.29日、米軍がベトナムから撤退した。 |
同年、パリ協定締結へ向けての努力など、ベトナム戦争終結への貢献を理由にノーベル平和賞を受賞した。 |
同年、南米チリのアウグスト・ピノチェト将軍による、世界初の自由選挙による社会主義政権であるサルバドール・アジェンデ政権に対する軍事クーデターが発生した。キッシンジャーは、CIAを使ってこれを裏支援したとして、後に国際的な非難を浴びた(関連記事) 。 |
同年11月、キッシンジャーはニクソン訪中後再訪中し、再び周恩来と会談している。この会談で、翌年までに台湾にある米軍の核兵器とU2偵察機、F4戦闘機をすべて撤去する、と表明している。しかし、アメリカがこのことを台湾政府に伝えたのは半年も経った後だった。(関連記事) |
1974年、ニクソン大統領が「ウォーターゲート事件」で失脚した。 |
フォード政権が誕生し、キッシンジャーは引き続き政府中枢に居残って国務長官をつとめることになった。 |
キッシンジャー国務長官は、中東でアラブ諸国とイスラエルの対立を緩和するために「シャトル外交」を展開し、エジプトとイスラエルを和解させた。 |
1974年、シリアで行われた同国のアサド大統領との会談において、直前にインドで行われた地下核実験が「パキスタン、中華人民共和国を神経質にするだろう」と発言。さらに同氏は「日本も核を開発すると思う」と指摘。 |
1977年、フォード政権の国務長官を退任後、国際コンサルティング会社「キッシンジャー・アソシエーツ」を設立し、社長に就任。同社にはジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ政権で国務副長官(後に国務長官)を務めたローレンス・イーグルバーガーや、国家安全保障担当大統領補佐官を務めたブレント・スコウクロフトなどが参加している。 |
1979年、キッシンジャーは回顧録を出版。 |
2007.3.30日、来日し、東京都港区のホテルオークラで講演会が開かれた。数多くのホテルの中でホテルオークラで「国際政治の激流と新時代の予兆」と題した講演を行った。講演会は、フジサンケイグループとFCG懇話会主催で開かれた。フジサンケイグループとFCG懇話会がキッシンジャーとよほど親しい関係にあることが分かる。 4.1日、早稲田大学の名誉博士号が授与され、記念講演が行われた。同日午後7時半、フジテレビ系列が、春の報道特番「目覚めよ!日本人」を放送した。 |
【キッシンジャーはシオン長老の議定書派の政治黒子ではないのか】 | ||||
以上のような経歴を示すキッシンジャー対して、「国際政治学者にしてパワー・ポリティクスの権化」と評するのはまだしも、「ニクソン/フォード政権の外交を支え、ベトナム戦争を終わらせ、米中国交回復を実現させた」と表層的になぞるのは、例え事実だとしても何と味気ない評し方だろう。「ロックフェラー家などアメリカのユダヤ系金融資本の番頭」との評も為されているが、これまた同様で、ロックフェラー奥の院のロスチャイルドまで見据えて、シオン長老の議定書派の走狗であり、議定書マニュフェストの忠実な請負人とみなさねば不十分だろう。 2007.3月末日、キッシンジャーが来日したが何の目的で来たのか分からない。4.1日の六本木ニュービルのオープンセレモニーと関係あるのかどうか。いずれにせよ、六本木はますます植民地化されつつあり租界化しつつあるようだ。石原都知事辺りは、この方面にはまるで危機感がないと云うか嬉嬉として招致しているのだろう。おめでたい防衛論者ではある。 もとへ。キッシンジャーは活躍した七十年代から30年も経過しており、さすがに老いを見せた。それは自然のことであろうが、れんだいこが変に納得したのは全く非教養な老人ぶりを晒していたことである。背丈も小柄であることが分かった。いかり肩であることをも判明させた。 そういう外形的なことはさておいて、れんだいこは、キッシンジャーとはそも何者であったのかに関心がある。思うに、「シオン長老の議定書」文中にしばしば出てくる「賢者」であったのではなかろうか。シオン長老の議定書は、キッシンジャーをして彼らの政治目的に沿う指南役を務めさせたのではなかろうか。キッシンジャーは黒幕として充分に職責を果たした。れんだいこは、そのように受け取る。キッシンジャーとは実にそういう役割を担ったのではなかろうか。 シオン長老の議定書文中に次のような記述がある。
文中に、「我らの賢人長老」、「数人の賢者」、「三人の顧問」という記述がある。ユダヤ人の伝統的な政治手法として、神権政治を理想とするが、その王は卓越した「賢者顧問」に指導される。彼らの理想的政体はこのようなものであるらしい。れんだいこは、キッシンジャーをそのような賢者の一人として窺う。してみれば、キッシンジャーとは、単に政治学者であったのではなく、明らかにシオンの議定書派の政治目的を持って政治に臨んだのであり、そういう黒子として立ち働いていたことを知るべきではなかろうか。 かく想定した上で、彼がいかような政治を行ったのか、これを検証することが求められているのであり、他の観点からのキッシンジャー論は本質から外れていよう。俗におざなり評論と云う。おざなりならまだしも、聞こえてくるのは賛辞論ばかりである。石破元防衛長官がキッシンジャーと対談していたが、あの相好崩しぶりは何なんだ。強硬防衛論者の卑屈な姿を見たのは、れんだいこだけだっただろうか。 まっいずれにせよ、れんだいこは、賢者と想定されているキッシンジャーが老いてみせる非教養な容姿から、彼が本質的にはそのような人物であることを判じる。これがネオ・シオニスト賢人の本質かもしれない。ユダヤ政体の本質かも知れない。それも分からず、運命共同体路線で突っ走ろうとする一群のシオニスタンが、戦前の軍部の姿とダブって見える。歴史は繰り返すということか。 2007.4.2日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評277 | れんだいこ | 2007/03/31 |
【キッシンジャー考】 キッシンジャー元米国務長官が来日していると云う。2007.3.30日、東京都港区のホテルオークラで講演会が開かれた。数多くのホテルの中でホテルオークラで開かれた意味は大きい。講演会は、フジサンケイグループとFCG懇話会主催で開かれた。フジサンケイグループとFCG懇話会がキッシンジャーとよほど親しい関係にあることが分かる。 そのキッシンジャーは、「国際政治の激流と新時代の予兆」と題した講演を行った。4.1日、早稲田大学の名誉博士号を授与される予定で、記念講演も企画されている。フジテレビ系列は、4.1日午後7時半から春の報道特番「目覚めよ!日本人」を放送する、と云う。 3.30日のキッシンジャー講演で、れんだいこが注目するのは、キッシンジャーが1951年に初来日しているこどてある。この時の政治目的は分からない。次に、1953年、中曽根がハーバード大学のセミナーに参加し、この時キッシンジャーと面識を得ていることである。キッシンジャーは、概要「それ以来の親友で、手紙のやり取りが始まり、私は手紙の中で、いつか彼が首相になると記している」と述べたようである。 これは、かなり重要なことを明らかにしている。キッシンジャーが重要な秘密を隠しきれないほど耄碌(もうろく)したのか、重要な機密を明らかにしても良いほど日本支配が完遂した自信の表れか定かでないが、れんだいこが政治学的に読み取れば、キッシンジャーは、1953年にハーバード大学のセミナーで中曽根と知り合って以来親交を深め続け、中曽根を将来の日本国首相にすることを請合い、以来種々工作したということになる。 思うに、そもそもキッシンジャーと中曽根がまみえた「ハーバード大学のセミナー」とは何のセミナーだったのだろうか。恐らく中曽根のネオ・シオニズムに対するエージェント契約に纏わる何かであろう。とすると、中曽根は、1953年来良からぬ使い走りをしてきたことになる。主として、原子力発電の日本導入と再軍備に奔走してきたことは知られている通りである。その他諸々の黒い利権に群がってきたことも知られている通りである。 世は、角栄をもって「諸悪の元凶」とする論が流行っているが、れんだいこは、中曽根、その二世である小泉こそ「諸悪の元凶」とみなしている。世評とれんだいこと観点が大きく違っていることになる。もとへ。その中曽根は、ロッキード事件を奇禍として、角栄-大平同盟を駆逐して首相の座に上り詰めた。 こたびのキッシンジャー発言によれば、キッシンジャーの目論見通りに推移したことになる。その中曽根が首相時代に手がけたのは、国鉄、電信電話公社の民営化であった。その他国債再発行による財政悪化であった。バブル経済導入による日本経済大混乱の先鞭であった。不沈空母論による防衛費の突出化等々であった。これらの諸政策は、日本の内治上必要であったものは一つもない。すべて現代世界を牛耳るネオ・シオニズムの要請によるものであったことが判明している。 れんだいこの記憶するキッシンジャーは、米中国交回復時にニクソンと毛沢東会談の橋渡しをしたことである。クエーカー教徒のニクソンを陰に陽にいたぶり最終的に追放したことである。ソ連邦崩壊時に、中曽根をモスクワまで出向かせ、見届けさせたことである。これらの裏舞台に常にキッシンジャー戦略が発動していたことになる。 キッシンジャーは確かに一時代を築いたが、常に黒子的役割であり、それは例のシオン長老の議定書に記されている通りの幼少時より特別の英才教育により育てられる権謀術数家の典型のように見える。日本サヨ派はシオン長老の議定書を偽書である云う。れんだいこは、これこそネオ・シオニズムの陰謀的世界支配マニュフェストであり、命がけで入手されたものであるとみなす。どちらが本当なのだろうか。以上、思いつくまま発信しておく。 2007.3.31日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評278 | れんだいこ | 2007/04/03 | ||||
【キッシンジャーはシオン長老の議定書派の政治黒子ではないのか】
以上のような経歴を示すキッシンジャー対して、「国際政治学者にしてパワー・ポリティクスの権化」と評するのはまだしも、「ニクソン/フォード政権の外交を支え、ベトナム戦争を終わらせ、米中国交回復を実現させた」と表層的になぞるのは、例え事実だとしても何と味気ない評し方だろう。「ロックフェラー家などアメリカのユダヤ系金融資本の番頭」との評も為されているが、これまた同様で、ロックフェラー奥の院のロスチャイルドまで見据えて、シオン長老の議定書派の走狗であり、議定書マニュフェストの忠実な請負人とみなさねば不十分だろう。 2007.3月末日、キッシンジャーが来日したが何の目的で来たのか分からない。4.1日の六本木ニュービルのオープンセレモニーと関係あるのかどうか。いずれにせよ、六本木はますます植民地化されつつあり租界化しつつあるようだ。石原都知事辺りは、この方面にはまるで危機感がないと云うか嬉嬉として招致しているのだろう。おめでたい防衛論者ではある。 もとへ。キッシンジャーは活躍した七十年代から30年も経過しており、さすがに老いを見せた。それは自然のことであろうが、れんだいこが変に納得したのは全く非教養な老人ぶりを晒していたことである。背丈も小柄であることが分かった。いかり肩であることをも判明させた。 そういう外形的なことはさておいて、れんだいこは、キッシンジャーとはそも何者であったのかに関心がある。思うに、「シオン長老の議定書」文中にしばしば出てくる「賢者」であったのではなかろうか。シオン長老の議定書派は、キッシンジャーをして彼らの政治目的に沿う指南役を務めさせたのではなかろうか。キッシンジャーは黒幕として充分に職責を果たした。れんだいこは、そのように受け取る。キッシンジャーとは実にそういう役割を担ったのではなかろうか。 シオン長老の議定書文中に次のような記述がある。
文中に、「我らの賢人長老」、「数人の賢者」、「三人の顧問」という記述がある。ユダヤ人の伝統的な政治手法として、神権政治を理想とするが、その王は卓越した「賢者顧問」に指導される。彼らの理想的政体はこのようなものであるらしい。れんだいこは、キッシンジャーをそのような賢者の一人として窺う。してみれば、キッシンジャーとは、単に政治学者であったのではなく、明らかにシオンの議定書派の政治目的を持って政治に臨んだのであり、そういう黒子として立ち働いていたことを知るべきではなかろうか。 かく想定した上で、彼がいかような政治を行ったのか、これを検証することが求められているのであり、他の観点からのキッシンジャー論は本質から外れていよう。俗におざなり評論と云う。おざなりならまだしも、聞こえてくるのは賛辞論ばかりである。石破元防衛長官がキッシンジャーと対談していたが、あの相好崩しぶりは何なんだ。強硬防衛論者の卑屈な姿を見たのは、れんだいこだけだっただろうか。 まっいずれにせよ、れんだいこは、賢者と想定されているキッシンジャーが老いてみせる非教養な容姿から、彼が本質的にはそのような人物であることを判じる。これがネオ・シオニスト賢人の本質かもしれない。ユダヤ政体の本質かも知れない。それも分からず、運命共同体路線で突っ走ろうとする一群のシオニスタンが、戦前の軍部の姿とダブって見える。歴史は繰り返すということか。 2007.4.3日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)