田沼意次の政治履歴考

 更新日/2022(平成31.5.1栄和元/栄和4).7.24日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「田沼意次の政治履歴考」をものしておく。

 2010.11.14日 れんだいこ拝


【田沼意次の政治履歴考】
 2022.7.23日、「田沼意次はワイロ政治家というより優秀な経済人? 評価の見直し進む」参照。
 江戸時代の賄賂政治家と云う悪人の代名詞として知られている田沼意次の評価が非常に高まっている。そこで、その生涯を見ておく。

 意次の父は、紀州藩士から旗本になった人。徳川吉宗が紀州藩主になる前に側近として見出され、吉宗が八代将軍になったときに江戸にお供して旗本になっている。六代・徳川家宣、七代・徳川家継の時代に老中格として権勢を振るっていた間部詮房は左遷&減封されていた。

 意次は次代将軍となる家重の小姓として仕え始めた。16歳で父から600石を受け継ぎ、武士としてのデビューを果たした。延享二年(1745年)、徳川家重が将軍就任に伴い本丸で仕えるようになった。寛延元年(1748年)、1400石を加増され、以降少しずつ加増されていった。宝暦八年(1758年)、美濃郡上(ぐじょう藩で起きた郡上一揆に関する裁判を意次に担当させるため、1万石の大名になっている。ある程度の家格や領国がないと裁判でナメられるので、急ごしらえで加増されたことによる。郡上一揆の場合、年貢を巡る「藩vs農民」の対立がこじれにこじれ、農民たちが江戸までやってきて幕府に直接訴えるまでに至っていた。郡上一揆に対する家重の視点はなかなかに鋭く、彼も将軍としての能力をきちんと有していたことが窺えて面白い。

 江戸城で政務に携わり、地元の内政も指示を出し徳川家重の下で働く意次の姿を、十代将軍となる家治も見ていた。宝暦十一年(1761年)、家重が亡くなり、家治が将軍に就任する。昇進と加増が続けられた。明和四年(1767年)、将軍の側近である側用人となり、またまた5000石加増されると、同時に官位も進み2万石の相良城主(現・静岡県牧之原市)となった。意次自身はずっと江戸城にいたため、城の工事や国元のことは全て家臣に任せていた。その間、城下町や街道、港の整備や、瓦屋根を推し進めて火事対策にするため助成金を出したり、インフラと公共の福祉に尽力するよう指示をしていた。郡上一揆の裁判を担当した経験から「年貢を増やすだけでは経済は改善しない」と思っていたため「年貢を増やすのはやめろ」と家中に戒めていた。このため百姓は喜び、藩が奨励した養蚕や製塩業も成功を収め、食糧備蓄もできていた。意次の施策には先見の明があった。

 安永元年(1772年)、相良藩5万7000石の大名に取り立てられ、さらに老中を兼任することになった。元は600石の旗本であること。側用人から老中になった初めての例であった。どちらも稀に見る昇進ぶりであった。意次は、相良での成功を幕政に活かした。悪化し続ける幕府の財布事情を改善するため、田沼意次は商業を重視した政策を採り始めた。内容は大きく分けて、①「新たな徴税対象の創出」、②「土地開発による第一次産業の奨励」の2本。「農民だけに増税すると一揆が起きやすくなるのならば、別のところから税を取ろう」という合理的な考えをしていた。前者①の例は、株仲間の結成・銅座などの専売制の実施により、商人に特権を与える代わりに税金を納めさせた。後者②は各地の鉱山・蝦夷地などの開発計画や印旛沼の干拓を行い、田畑や坑道を増やして生産量を増やそうとしていた。他には、俵物(※いりなまこ・干しアワビ・フカヒレなどの海産物乾物のことで、中国料理の高級食材が多い。俵に詰めて清へ輸出されていたので同名で呼ばれた)などの専売による外国との貿易の拡大なども考えていた。当時の交易相手は清とオランダでしたが、意次はロシアとの交易も計画していた。実に壮大なものだった。

 こうして幕府の収入源が増えたため財政が良くなり始めた。いわゆる景気が良くなり町人文化の発展に繋がった。但し、貨幣経済の重視が贈賄・収賄の横行へ繋がった。意次の不幸は、こうして評判が悪化する中で、明和の大火、浅間山噴火、天明の大飢饉の大災害が続いたことだった。同時に印旛沼の干拓工事も失敗した。都市圏に出る農民が増え犯罪も増えた。こうしたことが反田沼の動きへ繋がった。やがて地方でも都市部でも「田沼のせいで生活が苦しくなった!!」という怨嗟の声が高まった。意次が蘭学や実力主義を重んじたことも、幕閣保守派の反発を買っていた。こうして意次の評判がダダ下がりする中、息子で若年寄を勤めていた田沼意知(おきとも)が江戸城内で旗本・佐野政言(まさこと)に暗殺される事件が起きた。動機がハッキリしなかったため、幕府は「乱心による犯行」として処理した。民衆は「自業自得」とみなしたようで、政言を「世直し大明神」と崇め、墓参りをする者も多かった。運の悪いことに、このタイミングで徳川家治が病気になってしまった。あっという間に老中を辞任させられ、領地を没収され、大坂の蔵屋敷と江戸屋敷の明け渡しまで命じられている。その後、蟄居と二回目の減封に加え、相良城は破却され、城内の金や米まで没収。意次は失意の中、天明8年(1788年)7月24日、田沼意次が江戸で亡くなっている。

 田沼家自体は、孫の龍助が陸奥1万石に減・転封の上で、何とか大名として存続している。さらに意次の死から35年後、四男の意正が陸奥下村藩(福島県福島市)から相良に復帰し、城跡に陣屋(屋敷)を建てて政庁としていた。彼は若年寄なども務めており、一応復権した。明治元年(1868年)に意正の孫・意尊が上総小久保藩(現・千葉県富津市)に移されるまで、田沼家は相良にいた。明治維新の後、田沼家は子爵に叙された。が、経済的負担からか、後に爵位を返上し一般人となっている。中には南米に移り住んだ人もいるとか。

 2021.4.25日、「田沼意知 暗殺!佐野政言が江戸城内で斬りつけて~まんが日本史ブギウギ200話参照。

 江戸時代に入って商工業やサービス業が発達し、人々の消費先は各種方面へ向かった。貨幣経済の発達。給料の基盤を【米】に頼っていた幕府や全国の大名は、それをいったんお金に換金するシステムに取り組まれている時点で不利であり、米の収穫高と物価や、税金などのコストを考えると、もはや限界に達しようとしていた。田沼意次と田沼意知の親子はそこにメスを入れ、商業での税収でもって幕府の財政を安定化させることに注力した。

 
商活動の活発化と、そこから上がる税収入――幕府や大名の財政安定化。【重商主義】と呼ばれる田沼意次の政策が、現代では評価が高まつている。田沼意次にとって不幸だったのは、この時期に【天明の大飢饉】が発生してしまったこと。日本は浅間山噴火、欧州はアイスランド噴火の影響で、全世界的に天候が悪化。幕府や諸藩の備蓄米対策は十分とは言えず、多くの死者を出した。田沼意知は愚人ではなかった。当時の在日オランダ商館長・ティチングが「父親の田沼意次は高齢だから、さすがにこれ以上の活躍は難しいけど、息子の田沼意知の時代に、改革を進められるんじゃない?」と『日本風俗図誌』に記している。その意知が非業の展開を迎える。

◆ちょっと危ない人に見える、この佐野政言(まさこと)さん。
 当時は旗本でしたが、そのご先祖様を辿ると佐野源左衛門常世に着きます。源左衛門とは、北条時頼を助けた人で、つまりは鎌倉時代から続く名門だったのですね。しかも、家系的に田沼親子は佐野政言の家来筋にあたるという、なかなか複雑な状況でした。

 佐野政言は江戸城内で田沼意知を斬りつけ、重傷を負わせた。すかさず政言は揚座敷(あがりざしき・高位の旗本や僧侶などを収容する施設)へ送られ、田沼意知が亡くなると、切腹を命じられた。世間は、佐野政言を「世直し大明神」として称え、ついに田沼の心はポッキリ折れた。そして次にやってきたのが……田沼に代わって政治を担ったのが、家斉とは性格真逆のカタブツでした。ガチガチの倹約主義者・松平定信せっかく田沼親子が進めた重商主義も、瞬時に瓦解。幕府も諸藩も財政が改善することなく幕末へと向かった。




(私論.私見)