日共の土地転がし批判考

 (最新見直し2005.8.13日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 日共は、「信濃川河川敷問題」以外にも角栄の土地転がし批判に執心している。これを確認しておく。

 2005.8.13日再検証 れんだいこ拝


 「2001.1.15日付け赤旗」の角栄批判記事を確認しておく。
 新潟・柏崎刈羽 田中元首相に渡した 原発用地転売で5億円 元越山会幹部が証言 72年の自民党総裁選時 2001年1月 15日(月)「しんぶん赤旗」

 東京電力柏崎刈羽原子力発電所(新潟県柏崎市、刈羽村)の用地買収をめぐって、田中角栄元首相(故人)が自分のファミリー会社で買った土地を一九七一年に東京電力に転売、五億円をこす利益を得て、自民党総裁選(一九七二年)に投入していた事実がわかりました。五億円を田中邸に運んだ田中氏の元後援会幹部が本紙に証言したもの。原子炉でプルトニウムを燃やそうという危険なプルサーマル計画に住民の不安が高まっている同原発建設の裏側を示す証言として注目されます。(3面に関連記事)

 証言したのは、元首相後援会「越山会」の幹部だった木村博保元自民党県議(73)。木村氏は、一九六三年から約五年間、刈羽村の村長をつとめました。

 登記簿などによると、木村氏は、村長在任中の一九六六年七月、のちに柏崎刈羽原発用地となる砂丘地約五十一万五千平方メートルを製紙会社から買い、七一年十月に東京電力に売ったことになっています。しかし、同氏の証言によると、この土地の実際の所有者は田中角栄氏でした。木村氏は、当初、この土地を農業構造改善用地として買収しますが、資金がなく、田中氏に相談。田中氏は「おれが買っとく」といい、田中氏のファミリー企業である室町産業の名義で買い、六六年九月に登記しました。しかし、室町産業が、信濃川河川敷買い占めなど田中金脈事件に登場する幽霊企業として批判されたため、木村氏は田中氏と相談のうえ登記の「錯誤」として室町産業の名前を抹消。木村氏所有地にして田中氏との関係をひた隠しにしてきました。その後、東京電力が原子力発電所を建設する計画が浮上。用地買収のさいには、田中氏が木村氏らを東京・文京区の田中邸に呼び、「坪三千五百円でどうだ」とみずから売値を決めた、といいます。

 買収から転売まで約五年。田中氏側の取得価格について、木村氏は「正確な記憶がないが、当時の砂丘地の相場は坪百五十円ぐらい。三千五百円となるとすごい利益だった」と語ります。約二十三倍の高値で転売して得た利益は五億円を超え、表面上の所有者だった木村氏は一気に七一年度の県所得番付のトップに。転売後、木村氏は自民党総裁選挙に出ることになった田中氏から「金がいるからすぐ持ってきてくれ」といわれ、約五億円の現金を銀行からおろし、ボストンバッグや大きな手提げ袋に入れて二人がかりで東京の田中邸に運びました。「すごく重かった。田中先生は『ありがと、ありがと』といって喜んだ」と木村氏は証言しました。

 30年間の沈黙“苦しかった” 柏崎刈羽原発用地転売 元越山会幹部の証言 〈詳報〉 2001年1月 15日(月)「しんぶん赤旗」

 「三十年沈黙してきたが、二十世紀は終わった。歴史として語っておきたい」――。一面所報、田中角栄元首相の後援会「越山会」の元幹部、木村博保氏(73)は、そういって本紙の電話インタビューに口を開きました。東京電力柏崎刈羽原子力発電所の土地転売をめぐる木村氏の証言要旨は次のとおりです。

 私が刈羽村村長(一九六三年から六八年)のとき、北越製紙の所有する砂丘地を買い取ろうとした。農地として、農業構造改善に使いたかったからだ。

 「おれが買っとく」

 しかし、村も私も資金がない。そこで田中先生(田中角栄元首相)に頼んで、無利子で金を借りようとした。田中先生は、金を貸すのはだめといい、「おれが買っとくわ」といった。村議会とも協議し、将来、買い戻す条件をつけて買ってもらうことにした。(六六年九月)土地登記簿に所有者として室町産業の名前が出てくるが、それは田中先生のことだ。この室町産業がのちに土地転がしだ、金脈だ、などと騒がれた。それで、私の方から「先生、もうだめだから、登記を間違ったことにして私に戻してください」と申し出た。先生は「できるか」と喜んだ。登記所に行って錯誤訂正(六七年一月)し、登記簿上は自分の名前にもどした。その後、私自身が矢面に立って新聞でも「土地ころがし」とたたかれた。だけど弁解ひとつせずに今まで三十年間ずっと苦しかったが、黙ってきたんだ。

 私が村長をやめ、県議になったあと農業構造改善の話は進まず、東京電力が砂丘に原子力発電所をつくる計画が出てきた。私のあとの村長が原発誘致に傾いたこともあって、私も認めざるをえなかった。原発計画と田中先生との関係は私にはわからない。

 先生が値段決めた

 ただ、よく覚えているが、(一九七一年十月に)東京電力に土地を売るとき、値段を決めたのは田中先生だった。当時、地元で売却価格がなかなかまとまらず、私と柏崎市長が東京の田中邸に呼ばれた。私と市長を前に先生は、「坪三千五百円ということでどうだ」と言った。それで値段は決まった。私の名義になった土地が五十町歩(五十万平方メートル)を超えていたと思う。坪平均三千五百円とすると、五十町歩で五億三千万円ぐらい。最初(一九六六年七月)に北越製紙から買った値段はよく覚えていないが、当時の相場は坪百五十円ぐらいだった。それが五年後に三千五百円だ。大きなもうけだった。当時、この所得を届け出たらいきなり県内所得番付トップになったぐらいのもうけだった。

 5億円持って上京

 私も正直言って、あとで少しはもらいましたが、もうけのほとんどは田中先生のところにいった。金が入るとまもなく、田中先生が自民党総裁選(一九七二年七月)に打って出ることになり、「金がいるからすぐ持ってこい」と連絡を受けた。 私は新潟の銀行から約五億円の現金をおろし、ボストンバックや大きな手提げ袋につめこんで上京し、田中邸へ運んだ。重いので二人がかりだった。先生は「ありがと、ありがと」といって喜んでいたのをよく覚えている。

(私論.私見)

 この話が事実だとすれば角栄の資金調達の一端が明かされたことになる。本件で云えば、土地転がしで利益を生み、それが1972年の総裁選費用として使われたことになる。それはそれとして、この話のどこに問題があるのだろうか。日共は何をメッセージしているのだろうか。単なる印象付け批判ではなかろう。

 2011.1.23日再編集 れんだいこ拝





(私論.私見)