30年間の沈黙“苦しかった” 柏崎刈羽原発用地転売 元越山会幹部の証言 〈詳報〉 2001年1月 15日(月)「しんぶん赤旗」
「三十年沈黙してきたが、二十世紀は終わった。歴史として語っておきたい」――。一面所報、田中角栄元首相の後援会「越山会」の元幹部、木村博保氏(73)は、そういって本紙の電話インタビューに口を開きました。東京電力柏崎刈羽原子力発電所の土地転売をめぐる木村氏の証言要旨は次のとおりです。
私が刈羽村村長(一九六三年から六八年)のとき、北越製紙の所有する砂丘地を買い取ろうとした。農地として、農業構造改善に使いたかったからだ。
「おれが買っとく」
しかし、村も私も資金がない。そこで田中先生(田中角栄元首相)に頼んで、無利子で金を借りようとした。田中先生は、金を貸すのはだめといい、「おれが買っとくわ」といった。村議会とも協議し、将来、買い戻す条件をつけて買ってもらうことにした。(六六年九月)土地登記簿に所有者として室町産業の名前が出てくるが、それは田中先生のことだ。この室町産業がのちに土地転がしだ、金脈だ、などと騒がれた。それで、私の方から「先生、もうだめだから、登記を間違ったことにして私に戻してください」と申し出た。先生は「できるか」と喜んだ。登記所に行って錯誤訂正(六七年一月)し、登記簿上は自分の名前にもどした。その後、私自身が矢面に立って新聞でも「土地ころがし」とたたかれた。だけど弁解ひとつせずに今まで三十年間ずっと苦しかったが、黙ってきたんだ。
私が村長をやめ、県議になったあと農業構造改善の話は進まず、東京電力が砂丘に原子力発電所をつくる計画が出てきた。私のあとの村長が原発誘致に傾いたこともあって、私も認めざるをえなかった。原発計画と田中先生との関係は私にはわからない。
先生が値段決めた
ただ、よく覚えているが、(一九七一年十月に)東京電力に土地を売るとき、値段を決めたのは田中先生だった。当時、地元で売却価格がなかなかまとまらず、私と柏崎市長が東京の田中邸に呼ばれた。私と市長を前に先生は、「坪三千五百円ということでどうだ」と言った。それで値段は決まった。私の名義になった土地が五十町歩(五十万平方メートル)を超えていたと思う。坪平均三千五百円とすると、五十町歩で五億三千万円ぐらい。最初(一九六六年七月)に北越製紙から買った値段はよく覚えていないが、当時の相場は坪百五十円ぐらいだった。それが五年後に三千五百円だ。大きなもうけだった。当時、この所得を届け出たらいきなり県内所得番付トップになったぐらいのもうけだった。
5億円持って上京
私も正直言って、あとで少しはもらいましたが、もうけのほとんどは田中先生のところにいった。金が入るとまもなく、田中先生が自民党総裁選(一九七二年七月)に打って出ることになり、「金がいるからすぐ持ってこい」と連絡を受けた。 私は新潟の銀行から約五億円の現金をおろし、ボストンバックや大きな手提げ袋につめこんで上京し、田中邸へ運んだ。重いので二人がかりだった。先生は「ありがと、ありがと」といって喜んでいたのをよく覚えている。
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