角栄のカネの管理の仕方、使い方考

 更新日/2020(平成31→5.1栄和元/栄和2).10.19日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「角栄のカネの管理の仕方、使い方」について確認しておく。

 2011.8.5日再編集 れんだいこ拝


 角栄に2時間インタビューしたジャーナリストの児玉隆也が、忘れられない言葉として、「淋しき越山会の女王」の中で紹介している。
 「財布は、身内の人間に握らせるに限る」。

 「田中派の一回生議員が美人局に遭い、解決のためには多額の金銭が必要となり、様々なツテに頼ったがどうしても100万円(現在の価値では三倍以上)とちょっと足りない状況となった。選挙を終えたばかりで借金のあった議員は万策が尽き田中に借金の申し込みをし、田中は快諾。議員は田中の事務所に急いで向かったが田中は急用で留守にしており、伝言を預かっていた秘書から大きな書類袋を受け取った。中を確認するとなんと300万入っており、同封されたメモには以下の様に書いてあった。『トラブルは必ず解決しろ。以下のように行動しなさい。1、 100万円使ってトラブルを解決すること(まず100万で借金を返せ)。2、100万円を使って世話になった人に飯を奢る乃至必ず御礼をすること(暫くの間、家族や従業員にうまいものを食わせていないだろうから、次の100万で美味いものを食え)。3、残りの100万円は万一のトラブルの為に取って置くように。4、 これらの金は全て返却は無用である』。その議員は感涙した」。

 
 「派閥が違う上に田中とほとんど面識のない議員が資金繰りに窮し、借金を300万申し込んだ。面識のない自分に申し込むほどの窮状を察した田中はその日のうちに金を用意し、「困ったときはお互い様だ。これは返さなくていい。俺が困ったとき頼む」といって紙袋を渡した。紙袋を確認すると500万入っていたが、実はその議員は500万を用意しないと絶体絶命の状況であった。議員はその夜、ベッドで枕に顔をうずめて泣き、田中に忠誠を誓った。このように、金を最大限生かすため相手の予想(期待)より多くのお金を与えることも多々あった」。

 
 「福田派の福家俊一が入院した時、いち早く見舞いに訪れ、分厚い袋に五百万もの金を入れて足元に忍ばせた。その後四回ほど田中は見舞いに訪れその度に五百万ほど忍ばせていた。福家は以後、田中の批判をしなくなった」。

 
 「お金を渡すときは細心の注意を払い、相手によってプライドをくすぐり、あるいはプライドを逆なでしない枕詞を使用し、賄賂と取られないように細心の注意を払って渡していた。政治家に対しては「お金はいくらあっても邪魔になりませんから」、「資金はあると思いますが、まげて収めてください」、「党のため、国のため、あなたには当選してもらわなくてはなりません」等。官僚に対しては「このくらいの金で君は動く男じゃないだろう? 俺の気持ちだ!」、「俺だって見返りを要求するほど愚かな男じゃない」等。また料亭で働く人々に対しては女将に「これを皆さんにお願いいたします」など徹底的に腐心してプライドを傷つけず渡していた」。

 「大臣には大臣機密費という自分の裁量で自在に使える機密費があるが、田中は郵政、大蔵、通産大臣時代一度も手を付けず「部下の面倒も見なければならんだろう、自由に使ってくれ」と全て事務次官に渡していた。官僚が驚いたのはいうまでもなく、特に課長クラスには目をかけ、飲み食いできる金額を人知れず渡していた」。

 
 「田中派ではない村岡兼造が1976年に落選した際、即座に連絡を入れ「次の選挙まで俺の部屋を使え」と提案。考えた末断られると「砂防会館の事務所を使え、すでに話は通してある」と再度提案。そこまでされた村岡は話を受け入れた。間もなくして田中派の行政管理庁長官を務めた議員から秘書官の誘いがきた。仕事できなくても肩書きだけでもいいということで、さらに30万の給料が支給されていたが、すべて田中が手を回しており、落選しても事務所を二つ持つことが噂になり、見事再選を果たした。彼も田中の虜になった」。

 「“隠れ田中派”の代議士が匿名証言する。『カネを貰いに角さんの部屋に入る。すると角さんは、私の顔を見るなり、茶封筒や新聞紙にくるんだカネの包みをだし、“おお、よくきた、よくきた、どうだうまくいっているか”というようなことを云いながら、そのカネを渡す』。部屋を出ようとすると、背中へこのセリフが投げかけられる。この間、金や金額に関する話はまったく出てこない。『いくら選挙中で非常時だといえ、カネをもらいに行くことは、まぁ屈辱的なもんだ。それを角さんは分かっていて、そういう思いをさせないようにしてくれる。この気配り、人間としての思いやりが、我々を惹きつけるんです』」(週刊文春、1983.10.20日号)。






(私論.私見)