ロ事件に纏わる関係者の変死考 |
更新日/2021(平成31.5.1栄和元/栄和3).6.16日
【事件関係者の変死史】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ロッキード事件関係者への変事が目立つ。以下、発生日順に列挙していくことにする。但し、当初は殴り書きから始める。
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【過労で倒れたと見られる司法関係者】 | |||||||||||||||
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【松井直】 |
松井直・氏は丸紅輸送機械副部長として、部下の坂航空機課長と連日、敵方DC10の売込情報などを収集し、コーチャンに逐一報告していた。48.4月に丸紅を途中退社している。 1972(昭和49).4.2日午後3時頃、渋谷区役所千駄ヶ谷出張所の記載台で住民票の交付申請書を書いていた時突然倒れ、口から泡を吹き、けいれんを起こし始めた。行政解剖結果は、「死因―心筋梗塞、原因―冠状脈口狭窄及び硬化」であった。葬式は自宅で行われたが、丸紅社長・檜山夫妻始め、伊藤宏専務や幹部社員が駆けつけている。 |
【高松康雄】 | |||
高松康雄氏は日本経済新聞の記者として、ロッキード疑獄を早くより追求していた。ロッキード事件が表面化した10日後の1976(昭和51).2.14日深夜、自宅で急死。NHKニュースでコーチャンの顔が大写しにされていたのを見て暫くして「頭が痛い」と顔を押さえ、吐いたりし始めた。救急車が来たときは手遅れだった。心不全とされたがクモ膜下出血死も考えられる。 これにつき、「太田龍の時事寸評、2006.10.1日付けbP820」の「9.11陰謀説に嘲笑と罵倒の限りを尽して葬り去ろうとするある若手超売れっ子評論家のコラム」に次のような記述があるので引用しておく。
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【前野光保】 |
俳優業の前野光保氏は、1976(昭和51).3.23日午前9時頃、特攻機で児玉邸宅に突っ込み自爆死。 「事件の半年後、前野の未亡人デボラ・ジインは山形県新庄市の旅館に全裸姿で駆け込み、保護された。錯乱状態の彼女は精神病院に収容されたが、その後の行方は杳として知れない」(猪瀬直樹「死者たちのロッキード事件」)。 |
【福田太郎】 |
福田太郎氏は、児玉の巣鴨時代に知り合い、以降その通訳として寄り添ってきた。ジャパン・パブリック・リレイション社長という肩書きを持つようになるが、、児玉秘書の太刀川恒夫と並んで黒子役としてロッキード社と児玉との秘密代理人契約に立会い、その後の活動の一部始終に暗躍していた貴重な人物であった。 コーチャンの著書「ロッキード売込み作戦」によれば、頼りがいのある相談相手であると高く評価されている。児玉との会談をセットしたのも福田氏であり、契約料の値上げを要求してきたのも福田氏を通じてであったことを明らかにしている。 ロッキード事件発覚3日後の51.2.8日より児玉と同じく東京女子医大に入院した。2月末より5月末まで東京地検の取調べが続けられ、3.9日第三回目の取調べで、「児玉名義の領収書は全部本物だ。17億円は児玉に渡った。私がその授受に立ち会った」なる証言を供述している。 福田氏はロッキード事件が明るみにされてから4ヵ月後の、1976(昭和51).6.9日、60歳目前に東京女子医大で急死している。死因は肝硬変。56.6.10日付け朝日新聞は、「捜査に大きな影響 福田氏の死 動揺隠せぬ東京地検」という見出しで報じている。 |
【笠原正則その1】 | ||||
笠原正則氏は、田中角栄邸の運転手兼私設秘書だった。1976(昭和51).7.27日、田中逮捕の5日後、東京地検により7.31、8.1日、参考人としての事情聴取を受けていた。8.1日昼頃、わら半紙に4枚の供述書を書き署名捺印している。それによると、丸紅から田中への5億円の4回にわたる受け渡しの様子を記しており、この供述書が有罪確定に重要な役割を果たすことになった。 笠原を取調べた坪内利彦検事は、52.11.16日の第28回公判に検察側証人として出廷し、この時の様子を次のように証言している。笠原を取調べるよう指示されたのは7.30日の夕方であった。翌日午前中に田中事務所に電話連絡し、笠原は午後1時前に出廷してきた。まず伊藤宅での受け渡しを供述した。これは第4回目の49.3.1日のことになるが、なぜかこの第4回目から話し始めている。取調べは続き7時40分頃打ち切られた。 地検を出た笠原は、田中事務所に顔を出してから妹の嫁ぎ先であり母親が同居している武井宅に向かった。この時早坂秘書から電話が入り、武井宅からの帰路の公衆電話ボックスの中で長時間の電話を掛けている。後日判明するところ、早坂秘書と会話していた。第34回公判(53.1.18日)で早坂秘書が内容を明らかにするところによると、笠原氏は「田中事務所の誰にも話をしてはいけない。何日でも呼んで徹底的に究明してやるし、電話も盗聴するぞ、泊めて調べてやる」と云われていることを明らかにした。続いて「早坂さん、車が一台止まっていて人が乗ってこちらを見ている、尾行されています」と語っている。 8.1日の取調べは午前10時10分から始まった。笠原はこの日早く現地を見て廻ってきており、定規を使って図面を書くところから始まった。4回目、次に1回目という順番で思い出して行き、続いて3回目(49.1.21日)を供述し、第2回目の授受についてはなかなか思い出せず手間がかかった。こういう順序で供述書が作成され、それぞれわら半紙に記され署名捺印された。 特徴的なことは、肝心の受け渡しの日時が欠落している。該当個所での他の関係者の供述ともいたるところで齟齬している。こういう調書であり且つ当事者が死亡した場合にはその証拠能力は低くなるところであるが、法廷では不備を坪内検事が補うことにより、重要証拠物件として採用さされることになった。 8.1日の取調べは午後4時半にいったん終わる。坪内検事が吉永祐介特捜副部長の元に報告に行った。その間笠原は夕食している。午後6時半頃再開され、5億円授受の日時の特定に向かった。しかし、どうしても特定できず、49年春頃までであったということしか確認できなかった。7時18分過ぎ取調べが終わっている。坪内検事は、概要「田中辞書に帰ると調べの内容を訊かれる。ペラペラしゃべらない方が良いですよ」と釘をさしたことを証言している。 地検を出た笠原氏は、公衆電話から高崎市の本家筋に当たる笠原市五郎(中曽根康弘の地区後援会長)に長距離電話を掛けている。笠原市五郎なる者が突如出てくるが、何者か訝しい。前後不明であるが、「あと2、30分で帰る」と自宅に電話している。その後田中事務所に向かっている。私設秘書の遠藤昭司と短い遣り取りしている。疲れている様子なので早く帰ることになり2、3分で事務所を出た。 ところが笠原氏は時刻を過ぎても帰宅せず、妻が虫の知らせか気になり、8時25分頃田中事務所に電話を入れている。遠藤秘書が「2、30分前に帰りましたよ」と返答している。8時30分頃、妹の嫁ぎ先武井宅にも電話を入れている。母親はひょっとしてこちらに来ようとしているのではないかと直感し、外に出かけて笠原氏の立ち寄りを待った。 この時母親は次のような目撃をしている。
8.1日、東京地検を出てからの足取りが分かるのはここまでである。 中沢雄大の「カクエイのお庭番 朝賀昭」P263が次のように記している。
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【笠原正則その2】 | |||
翌1976(昭和51).8.2日午前10時頃、埼玉県比企郡都幾川村の林道で排気ガスを吸っての車中死体となって発見された。グリーンのカローラ・ハードトップの後部座席に体を持たせかけ、白いワイシャツに赤と黒の縞模様のネクタイをきちんと締めて息絶えていた。享年42歳。 地元の埼玉地検は死体解剖を要求したが、遺族の反対があったことと、解剖令状を取るまでの要件が無いことを理由に、却下した。警察は、「外傷は無く、死因は一酸化中毒死。死亡推定時刻は1日午後10時ごろ」と発表した。これにつき、笠原の自殺は考えにくい。朝日新聞東京本社社会部の「ロッキード事件 疑惑と人間P215」は、「わかっているのは、笠原が夏休みにはいった小学生の子供3人を、どこかへ連れて行く約束をしていたこと」と記している。 「笠原事件」は次の諸点で訝しい。1・ビニールホースは新品でありその入手先。2・ビニールホースは助手席の窓から30センチほど内側に垂れ下がっていた。3・後部座席の左側に座ったままやや右側に傾いた姿勢で、倒れていなかった。なぜわざわざ後部座席に座ったのか。4・ツードア車の助手席はロックされていたが運転席はロックされていなかった、5・助手席に埼玉県の地図が広げられたままになっていた。等々死因に疑問が有ったが、埼玉県警より自殺と認定された処理されている。 妹の武井昭子が現地の小川警察署に駆けつけたのは発見から5時間後の午後3時、笠原の妻と田中邸の古藤昇司秘書が来ていた。浦和地検の検事も来ていた。遺体は警察署の裏庭の自転車置き場に荷物のように置かれていた。被せ布をめくると、裸体にされており一酸化炭素中毒の特徴か肌はピンク色していた。紫色の斑点がたくさんあり、左足の向こうすねには血痕がこびりついていた。くるぶしから10数センチ上に掛けて引っかいたような跡があった。係官に訊ねると、死体を降ろす時にこすったためだと説明された。しかし、死んでから血が出ることは無いであろうから、誰かに押さえられそれに抵抗して暴れたために出来た傷と思うのが自然だろう。 第32回公判で、田中側の主任弁護人原長英と笠原を取調べた坪内利彦検事との間で、笠原の死の責任を廻っての激しい応酬が為されているが、自殺を前提にして検事の取調べの過酷さの追及であり、他殺疑惑に向けての詮議ではない。 |
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以下、れんだいこの独白である。「死者達のロッキード事件」の著者猪瀬直樹氏は、田中側からの謀殺疑惑を微に入り細に入り実証せんとしている。れんだいこは逆である。笠原謀殺は、角栄を窮地に落とし入れようとする側が仕組んだものではないのか。わら半紙4枚の供述書を無理やり書き上げされた笠原氏は、決定的証拠物を提供したことにより既に用済みとなったのであり、かくて葬られたというのが闇の実際ではなかろうか。それが証拠に、笠原氏の死亡で困ったのはむしろ田中側の方である。反証しようもなく、決定的な供述書のみが一人歩きさせられていったのだから。こう推理しない猪瀬直樹氏とはどういう人物だろう。世に一事万事という言葉がある。猪瀬なるものは一事万事逆さ見解者の可能性がある。 2,006.10.2日再編集 れんだいこ拝 |
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朝日新聞東京本社社会部の「ロッキード事件 疑惑と人間」は、P216で次のような貴重な逸話を記している。
辻和子の「熱情」は、この時の角栄の肉声を次のように伝えている。
関連サイトは「猪瀬直樹の「死者達のロッキード事件」批判」 |
【大庭哲夫】 |
大庭哲夫氏は元日本航空常務取締役であり、森村社長とともに日本航空からやってきていた。昭和44.5.30日に社長に就任。翌昭和45.5.31日に元運輸省事務次官の若狭得治に譲る。突然の解任劇であった。 その大庭氏がロッキード事件で国会喚問に三度呼ばれ証言することになった。この時、ダグラス社のDC10導入の白紙撤回に関する重大証言として、「児玉誉士夫と政府筋の圧力があった」ことを明らかにした。ロッキード社の副社長・コーチャンは、「それから間もなく、児玉氏の方からロッキード社向けの私の奉仕に対して、契約料を値上げして欲しいとの要請があった」ことを明らかにしておりことからして、大庭氏解任劇にロッキード社の秘密代理人児玉が暗躍したことは間違いない。 この解任の伏線にM資金騒動がある。第二回目の証言の場で、社会党の横路孝弘代議士の質問に答えそのいきさつを次のように明らかにしている。44.7月頃、鈴木明良元自民党代議士が、『大蔵省特別資金運営委員会』の名刺と時の運輸大臣・原田憲代議士、石武一代議士の紹介状を持って現われ、「三千億円を返済期限30年、年利4.5%の超低利で貸し付ける」という、いわゆるM資金の融資話しを仕向けた。 大庭社長は、橋本登美三郎元運輸省の電話による確認を取れたことにより、この話に乗った。44.6.17日、当時の大蔵次官・澄田智(後の輸出入銀行総裁)、理財局長次長・青鹿明次(後の常陽銀行頭取)が、大庭氏の書く融資依頼書、念書の署名捺印に立ち会っている。これを世に「大庭念書」と云う。後日、架空話であったことが判明し、念書の回収を急いだが、何とか回収し終わったのは44.11月だった。大庭社長は、これで失脚する。 このM資金騒動の背景には、日航と全日空をまたぐダグラス社のDC10導入を廻っての複雑怪奇があった。DC10は当初日航が購入予定にしていたが、児玉の圧力でご破算にされた。当時の日航の社長は松尾氏であり、大庭氏は深かりし間柄の後輩であった。その縁でツケが全日空に廻され、大庭氏が引き受けようとしていた。ところが、これをまた壊しに乗り出してきたのが児玉勢力であった、というような事情が介在している。こうして全日空のDC10購入も流産させられた。大庭氏の「児玉誉士夫と政府筋の圧力があった」証言は、このあたりのことを証言している。 大庭氏退陣から2年後の昭和47.7.7日、田中角栄が首相就任する。8.23日に丸紅の檜山広氏が目白の田中邸を訪問し、検察の冒頭陳述に出てくる「よしゃ、よしゃ」の5億円授受約束の請託シーンがあったとされている。その2ヵ月後の10.30日全日空はロッキードL1011(トライスター)の採用を決定している。 昭和49.4.29日、大庭氏は勲二等旭日重光章の叙勲を受け、皇居に参内している。この時、首相角栄は目ざとく大庭氏を見つけ、「やぁ大庭くん、勲一等じゃないけど我慢してくれよな」、「うん、今度は一等だよ。松尾(静麿元日航社長)君だって一等貰ったのは、死んでからだぞ」(猪瀬直樹「死者たちのロッキード事件」)と声を掛けている。角栄の性格から見て、この遣り取り証言は貴重である。つまり、角栄は大庭氏との間には何らの含むところが無いという関係にあることが判明する。もっとも、この遣り取りを紹介している猪瀬氏は、そうは見ていない。これは同じ情報を得てどう見るのか、れんだいことの観点の差であるので致し方ない。 ところで、角栄が検察の言うような請託があったことを頑強に否認していること等々を考え合わすと、大庭氏の「児玉誉士夫と政府筋の圧力があった」と云う爆弾証言、「よしゃ、よしゃ」問答は、必ずしも角栄との遣り取りではなく児玉氏とのそれではなかったか、との疑惑すら禁じえない。それを無理やり角栄に結び付けていったのではなかろうかとの推測さえ可能であるように思われる。 大庭氏は、1976.3.1日の衆議員予算委員会で第二次証人喚問で、「全日空現社長・若狭と前社長・大庭との対決証言」を演ずる。大庭が「ダグラス社のDC10を購入しようとしていた」と証言したのに対し、若狭が概要「そういう引継ぎの事実はない。ロッキード社のトライスター導入は純粋に技術的な見地から決められたもので、正規の手続きを踏んでいる。政治的圧力や金銭で決められるものではない」と否定したところがハイライトであった。 当時の識者の論調は大庭証言を真実としたが、今日改めてこれを思うのに、大庭氏はМ資金融資話しの失態と後始末に於いて何らかの弱みを握られており、筋書き通りに「ロッキード社のトライスター導入にまつわり不正があった証言」をデッチアゲまさしく不正証言した可能性がある。この線から読み直す必要があるように思われる。 その大庭氏は、1979(昭和54).3.17日、姉の一周忌に京都の知恩院に詣で、石段を登る途中で発作に見舞われ帰らぬ人となった(享年75歳)。17日後の4.3日、青山斎場で葬儀が盛大に執り行われた。奇妙なことは、葬儀を仕切ったのは全日空ではなく日航であった。 |
【金隆史裁判長】 |
金隆史裁判長は、ロッキード事件の全日空ルートを担当していた。結審をまじかに控えた1981(56).2.5日午後6時55分頃、東京地裁4階のトイレで倒れているところを発見される。人工呼吸が施されたが蘇生しなかった。行政解剖され検死の結果は、クモ膜下出血と判定された。 後任として新谷一信裁判長が受け継ぎ、判決は全日空組が57.1.16日に若狭氏に懲役3年(執行猶予5年)を言い渡した。橋本・佐藤に対しては、そりより半年後の6.8日橋本に懲役2年6月(執行猶予3年)・追徴金500万円、佐藤に同2年(同3年)・同200万円が言い渡された。 |
【戸川猪佐武(とがわ いさむ)】 | |||
父は小説家で元平塚市長の戸川貞雄。弟は小説家の菊村到。読売新聞の政治部記者から衆議院議員選挙に出馬するも落選。政治評論家として活動する傍ら1962.10月からスタートされたTBSのニュースワイド『JNNニュースコープ』でメインキャスターを務める。
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【児玉誉士夫】 |
ロッキード事件が外電で伝えられてより当初の主役は児玉であった。世田谷等々力の児玉邸にマスコミが張り付いた。 2.24日早朝、東京国税局が300人規模の査察官を動員して児玉邸を急襲。3.13日、東京地検が脱税で告発。3.14日、査察官平野剛之が脳溢血で急死。 児玉の主治医が「脳血栓で国会喚問どころか、臨床尋問すら不可能」と答えている。 1983(昭和58).10月、有罪判決。1984.1.17日、発作を再発して逝去。 |
【鹿内】 |
(私論.私見)