キッシンジャー考

 (最新見直し2007.4.2日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 2007.3.末、キッシンジャーが来日した。その政治的狙いが奈辺にあるのかは不明である。4.1日の六本木ミッドヒルズのオープンに絡んでいるのかも知れない。メディア、政党は、こたびのキッシンジャーが来日目的を訝らず、ひたすら提灯報道し続けている。膨大になりつつあるれんだいこサイトの中にキッシンジャー論が含まれていなかったので、ここに追加する。ネット検索で出てきた「ウィキペディアのヘンリー・キッシンジャー」、田中宇・氏の2002.12.2日付け「激化するアメリカ権力中枢の戦い」その他を資料的価値としてのみ参照し、れんだいこ的キッシンジャー論を書き上げることにする。それにしても、ろくなキッシンジャー論がない。改めて、日本左派運動の理論的貧困を痛苦せざるを得ない。れんだいこの以下の検証が役立てば幸いである。

 好き嫌いは別にして、キッシンジャーが、ニクソン、フォード両大統領の右腕として、冷戦時代の外交史を築き上げ、1960年代末から80年代頃までの国際政治の舞台で最も活躍したとされる人物であることは確かだ。

 2007.4.2日 れんだいこ拝


Re:れんだいこのカンテラ時評277 れんだいこ 2007/03/31
 【キッシンジャー考】

 キッシンジャー元米国務長官が来日していると云う。2007.3.30日、東京都港区のホテルオークラで講演会が開かれた。数多くのホテルの中でホテルオークラで開かれた意味は大きい。講演会は、フジサンケイグループとFCG懇話会主催で開かれた。フジサンケイグループとFCG懇話会がキッシンジャーとよほど親しい関係にあることが分かる。

 そのキッシンジャーは、「国際政治の激流と新時代の予兆」と題した講演を行った。4.1日、早稲田大学の名誉博士号を授与される予定で、記念講演も企画されている。フジテレビ系列は、4.1日午後7時半から春の報道特番「目覚めよ!日本人」を放送する、と云う。

 3.30日のキッシンジャー講演で、れんだいこが注目するのは、キッシンジャーが1951年に初来日しているこどてある。この時の政治目的は分からない。次に、1953年、中曽根がハーバード大学のセミナーに参加し、この時キッシンジャーと面識を得ていることである。キッシンジャーは、概要「それ以来の親友で、手紙のやり取りが始まり、私は手紙の中で、いつか彼が首相になると記している」と述べたようである。

 これは、かなり重要なことを明らかにしている。キッシンジャーが重要な秘密を隠しきれないほど耄碌(もうろく)したのか、重要な機密を明らかにしても良いほど日本支配が完遂した自信の表れか定かでないが、れんだいこが政治学的に読み取れば、キッシンジャーは、1953年にハーバード大学のセミナーで中曽根と知り合って以来親交を深め続け、中曽根を将来の日本国首相にすることを請合い、以来種々工作したということになる。

 思うに、そもそもキッシンジャーと中曽根がまみえた「ハーバード大学のセミナー」とは何のセミナーだったのだろうか。恐らく中曽根のネオ・シオニズムに対するエージェント契約に纏わる何かであろう。とすると、中曽根は、1953年来良からぬ使い走りをしてきたことになる。主として、原子力発電の日本導入と再軍備に奔走してきたことは知られている通りである。その他諸々の黒い利権に群がってきたことも知られている通りである。

 世は、角栄をもって「諸悪の元凶」とする論が流行っているが、れんだいこは、中曽根、その二世である小泉こそ「諸悪の元凶」とみなしている。世評とれんだいこと観点が大きく違っていることになる。もとへ。その中曽根は、ロッキード事件を奇禍として、角栄-大平同盟を駆逐して首相の座に上り詰めた。

 こたびのキッシンジャー発言によれば、キッシンジャーの目論見通りに推移したことになる。その中曽根が首相時代に手がけたのは、国鉄、電信電話公社の民営化であった。その他国債再発行による財政悪化であった。バブル経済導入による日本経済大混乱の先鞭であった。不沈空母論による防衛費の突出化等々であった。これらの諸政策は、日本の内治上必要であったものは一つもない。すべて現代世界を牛耳るネオ・シオニズムの要請によるものであったことが判明している。

 れんだいこの記憶するキッシンジャーは、米中国交回復時にニクソンと毛沢東会談の橋渡しをしたことである。クエーカー教徒のニクソンを陰に陽にいたぶり最終的に追放したことである。ソ連邦崩壊時に、中曽根をモスクワまで出向かせ、見届けさせたことである。これらの裏舞台に常にキッシンジャー戦略が発動していたことになる。

 キッシンジャーは確かに一時代を築いたが、常に黒子的役割であり、それは例のシオン長老の議定書に記されている通りの幼少時より特別の英才教育により育てられる権謀術数家の典型のように見える。日本サヨ派はシオン長老の議定書を偽書である云う。れんだいこは、これこそネオ・シオニズムの陰謀的世界支配マニュフェストであり、命がけで入手されたものであるとみなす。どちらが本当なのだろうか。以上、思いつくまま発信しておく。

 2007.3.31日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評278 れんだいこ 2007/04/03
 【キッシンジャーはシオン長老の議定書派の政治黒子ではないのか】

 以上のような経歴を示すキッシンジャー対して、「国際政治学者にしてパワー・ポリティクスの権化」と評するのはまだしも、「ニクソン/フォード政権の外交を支え、ベトナム戦争を終わらせ、米中国交回復を実現させた」と表層的になぞるのは、例え事実だとしても何と味気ない評し方だろう。「ロックフェラー家などアメリカのユダヤ系金融資本の番頭」との評も為されているが、これまた同様で、ロックフェラー奥の院のロスチャイルドまで見据えて、シオン長老の議定書派の走狗であり、議定書マニュフェストの忠実な請負人とみなさねば不十分だろう。

 2007.3月末日、キッシンジャーが来日したが何の目的で来たのか分からない。4.1日の六本木ニュービルのオープンセレモニーと関係あるのかどうか。いずれにせよ、六本木はますます植民地化されつつあり租界化しつつあるようだ。石原都知事辺りは、この方面にはまるで危機感がないと云うか嬉嬉として招致しているのだろう。おめでたい防衛論者ではある。

 もとへ。キッシンジャーは活躍した七十年代から30年も経過しており、さすがに老いを見せた。それは自然のことであろうが、れんだいこが変に納得したのは全く非教養な老人ぶりを晒していたことである。背丈も小柄であることが分かった。いかり肩であることをも判明させた。

 そういう外形的なことはさておいて、れんだいこは、キッシンジャーとはそも何者であったのかに関心がある。思うに、「シオン長老の議定書」文中にしばしば出てくる「賢者」であったのではなかろうか。シオン長老の議定書派は、キッシンジャーをして彼らの政治目的に沿う指南役を務めさせたのではなかろうか。キッシンジャーは黒幕として充分に職責を果たした。れんだいこは、そのように受け取る。キッシンジャーとは実にそういう役割を担ったのではなかろうか。

 シオン長老の議定書文中に次のような記述がある。
 次に、ダヴィデ王朝の土台を世界最後の段階まで一層強固にする方法に進もう。この方法は、何よりも第一に、今日まで世界の全問題をあらゆる困難に打ち勝って成功裏に遂行し、思うままに人類の思想を導いてきた我らの賢人長老たちが積み重ねてきた伝統的な方法を適用することになる。我々は、シオン賢者たちが、いままであらゆる障害を乗りこえて、世界の問題を処理し、人類の思想を導いてきた故智に学ぶだろう。それは、我々が望む方向に人間を教育するということである。
 ダヴィデ王の子孫のうちの数人の賢者が、王と後継者の教育に当たる。後継者は相続権によるのではなく王となるのに相応しい優れた資質を基準にして選ぶ。選ばれた王予定者達には、政治の最高機密と我々の律法の仕組が伝授されるが、何人にもこの極秘の知恵が漏れないように留意せねばならない。
 平時においては、王の行動計画と将来に関することはすべて、最も親しい助言者たちにも知らされない。王と三人の顧問のみが、将来の計画を知っている。
 王の頭の中には実行すべき政府計画を理解するに足りる知恵が貯えられていなければならない。王位に就く前に、前に述べた賢人長老たちが試験を行うのは、そのためである。 (以上)

 文中に、「我らの賢人長老」、「数人の賢者」、「三人の顧問」という記述がある。ユダヤ人の伝統的な政治手法として、神権政治を理想とするが、その王は卓越した「賢者顧問」に指導される。彼らの理想的政体はこのようなものであるらしい。れんだいこは、キッシンジャーをそのような賢者の一人として窺う。してみれば、キッシンジャーとは、単に政治学者であったのではなく、明らかにシオンの議定書派の政治目的を持って政治に臨んだのであり、そういう黒子として立ち働いていたことを知るべきではなかろうか。

 かく想定した上で、彼がいかような政治を行ったのか、これを検証することが求められているのであり、他の観点からのキッシンジャー論は本質から外れていよう。俗におざなり評論と云う。おざなりならまだしも、聞こえてくるのは賛辞論ばかりである。石破元防衛長官がキッシンジャーと対談していたが、あの相好崩しぶりは何なんだ。強硬防衛論者の卑屈な姿を見たのは、れんだいこだけだっただろうか。

 まっいずれにせよ、れんだいこは、賢者と想定されているキッシンジャーが老いてみせる非教養な容姿から、彼が本質的にはそのような人物であることを判じる。これがネオ・シオニスト賢人の本質かもしれない。ユダヤ政体の本質かも知れない。それも分からず、運命共同体路線で突っ走ろうとする一群のシオニスタンが、戦前の軍部の姿とダブって見える。歴史は繰り返すということか。

 2007.4.3日 れんだいこ拝

 「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK103」の五月晴郎氏の2010.12.26日付け投稿「米国戦争屋ボスの研究(その7):水面下の壮絶な跡目争いの歴史 (新ベンチャー革命)」を転載しておく。
 http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/21576370.html
 新ベンチャー革命2010年12月26日 No.255 タイトル:米国戦争屋ボスの研究(その7):水面下の壮絶な跡目争いの歴史から下記を転載投稿します。

 =転載開始=

1.RF兄弟の確執

 本ブログのメインテーマは米国戦争屋および悪徳ペンタゴン日本人です。米戦争屋の現在のボスはデビッドRFだとみなしています。なお、上記、米国戦争屋およびそのロボット・悪徳ペンタゴン日本人の定義は、本ブログのNo.225の注記をご覧ください。

 さて、デビッドRFは、RF二世の五男坊であるにもかかわらず、兄4人を差し置いて、80年代初頭、晴れて、RF家の頭目の座を射止めています。世襲制の徹底している世界的寡頭勢力の大財閥では、現在のRF家のように、五男が跡目を継いだ例は前代未聞なのではないでしょうか、まさに、神様のお導きか、奇跡?さもなければ、陰謀です。そこで、またもデビッド回顧録(注1)に目を通すと、案の定、兄弟間にて深刻な確執があったことがわかります。デビッドにとってもっとも、やりにくい兄は二男のネルソンRFだったことがわかります。

 2.RF家の戦略に合わなかった二男・ネルソン

 戦前のRF家は、石油ビジネスで大成功した成金だったわけで、デビッド回顧録によれば、当時の既得権益者や利権者から、RF家はさんざん非難・攻撃されているようです。そこで、RF家のとった戦略は、(1)慈善事業を展開して、利益の社会還元のポーズを取り、世間の悪評を払しょくすること、そして、(2)世間の表舞台に決して、登場せず、黒子(闇の権力)に徹する、すなわち、名誉を棄て、実を獲ること、でした。

 ところが、二男・ネルソンは、世間の表舞台に出ようとしたのです。名誉欲、権力欲が強かったのでしょう。そして、彼は、大統領を目指して政治家の道に進んだのです。そして、60年、64年、68年、三度に渡って、共和党の大統領候補選挙に出馬しています。

 一方、ネルソンより戦略的なデビッドは、60年代に早くも、CIAとのコネつくり、CFR(外交問題評議会)を通じた政界人脈つくりに成功していたと推測されます。つまり、闇の権力者の地盤つくりに全力を挙げていたのです。その背景から、ネルソンの大統領職への挑戦を秘かに妨害していたのは、実はデビッドだったのではないかと推測されます。ネルソンにとっては灯台下暗しだったのです。

 3.謀略家・ヘンリー・キッシンジャーの活用

 ロッキード事件で、小沢氏の師・田中角栄を嵌めたのがヘンリー・キッシンジャーであったことは、すでにほぼ判明しています(注2、注3)。ハーバード大教授だったキッシンジャーがなぜ、大統領補佐官になれたのか、それは、ネルソンの顧問になってRF家とのコネをつくったからです。そのきっかけはキッシンジャーの再婚相手が、ネルソンの秘書(ハーバード大の教え子)だったことでしょう。キッシンジャーがRF家の忠実なエージェントを務めたのは、ニクソン時代でした。そのニクソンは、下記のように50年代、アイゼンハワー時代に登用されています。

 戦後、凱旋したペンタゴン制服組・ダグラス・マッカーサーが大統領最有力候補だったのですが、RF家の戦略と合わず、更迭されています(注4)。その代替として、同じく制服組・ドワイト・アイゼンハワーが53年に大統領に就任しています。そのとき、わずか39歳の若さで副大統領に抜擢されたのが、リチャード・ニクソンだったのです。その後の、アイゼンハワーの非公式なニクソン評(ニクソンは大統領から嫌われていた)から、ニクソンはアイゼンハワーの意思ではなく、別の意思で強制的に、アイゼンハワー政権に送り込まれていたことがわかります。ウラで暗躍したのは、RF家のエージェント・ジョン・ダレス国務長官だと推測されます。ちなみに、ワシントンDCの国際空港はダレス空港と呼ばれていますから、彼がいかにRF家に貢献したかがうかがわれます。このとき、デビッドRFは、大統領ポストを狙っていたネルソンの野望を妨害する盾のひとりとして、ニクソンを利用するハラをもっていたのではないでしょうか。アイゼンハワーは元々、軍人であり、純粋なところもあって、RF家の干渉を快く思っていなかったはずです。それが、61年の退任時の有名な、軍産複合体(=米国戦争屋)批判演説につながるのです。

 デビッドは、ポスト・アイゼンハワーにニクソンを大統領にしようと画策したのですが、アンチ戦争屋のJFK(ケネディ)に僅差で負けるのです。ちなみに、63年に暗殺されたJFKも、米国を闇支配していた世界的寡頭勢力(戦争屋および銀行屋の呉越同舟勢力)をSecret Societiesと呼んで、公然と批判しています。

 しかしながら、紆余曲折の後、69年、ニクソンは晴れて大統領に就任しますが、お目付け役として、キッシンジャーがニクソンの補佐官として、入閣しています。そして、RF家のエージェントとして、キッシンジャーが外交を仕切ったのです。ニクソン二期目では、彼は国務長官に出世、ロッキード事件はキッシンジャーが企んだものであり、ニクソン中途失脚の陰謀・ウォーターゲート事件も彼が関与したと思われます。要するに、二期目になってニクソンは、RF家のいうことを聞かなくなったから失脚させられたと、一般には言われています。

 4.ネルソンの野望は断ち切られた

 74年、ニクソン中途失脚工作に、ネルソンがからんでいたかどうかは不明ですが、この頃、ネルソンの顧問であったキッシンジャーはデビッドとネルソンを天秤にかけていたはずです。ポスト・ニクソンに副大統領・ジェラルド・フォードが臨時大統領に就任、その空いた副大統領ポストにネルソンが収まっています。

 このまま行くと、ポスト・フォードの次期大統領にネルソンがなる可能性が出てきました。ネルソンが大統領になって、もっとも困るのがデビッドでした。そこで、デビッド子飼いの若きドナルド・ラムズフェルド(43歳)を国防長官に推薦、フォード政権に潜り込ませます。デビッドはここで、ラムズフェルドに恩を売っておいたのでしょう。同時に、ポスト・フォードでの大統領選共和党候補にネルソンが選ばれないよう、何らかの工作したはずです。そして、ポスト・フォードには、民主党のジミー・カーターが77年に大統領に選ばれています。

 こうしてデビッドの思惑通り、ネルソンの大統領就任の夢は断ち切られました。

 その後、78年、デビッドの兄・ジョンが交通事故死、翌79年、ネルソンが愛人宅にて突然死しています。その結果、80年代初頭、デビッドは晴れてRF家を継承するのです。ちなみに、三男・ウィンスロップはRF家から離れており、四男ローランスには野望がなく、両者はデビッドのライバルではなかったのです。

 なお、93年に、パパ・ブッシュを破って大統領に就任するビル・クリントンは、ウィンスロップの隠し子と言われています。確かに、ウィンスロップとビルの写真を比較すると、表情がそっくりです。

 筆者の憶測では、ビル・クリントンは、デビッドにとってRF家直系のジョンRF四世(民主党上院議員)の大統領出馬を妨害する盾だったのではないでしょうか。

 5.RF家の直系ジョンRF四世(ジェイRF)が大統領選に出馬しないワケ

 上記のように、90年代は、すでにデビッドがRF家を継承しており、米国政界への影響力も絶大となっていました。そして、デビッドは、大統領選のたびに、共和党候補と民主党候補の両方に、同時支援して、どっちが大統領になっても、傀儡化できる体制を確立していました。そのため、RF家の血を引くビル・クリントン自身は戦争屋所属ではありませんでしたが、決して、アンチ戦争屋大統領ではありませんでした。だからこそ、戦争屋からの妨害も少なく、二期、続けられたのです。二期目末期に起きたモニカ・ルインスキー不倫暴露事件は、クリントンを、ニクソン同様に、中途辞任に追い込み、二期を超える民主党政権持続を断固、断ち切るためだったと考えられます。まさに、戦争屋の長期戦略の犠牲にされそうになったのですが、財政再建の功績もあって、なんとか任期満了まで持ちこたえました。ポスト・クリントンを狙ったブッシュ陣営が2000年の選挙で大掛かりな選挙違反をしたのは有名ですが、強力な対抗馬であったアル・ゴアは、潔く引き下がっています、なぜなら、もし、無理に大統領になったら、どうなるかわかっていたからです。

 ちなみに、ポスト・クリントンのブッシュ・ジュニア政権にて再登場したデビッドの子飼い・ドナルド・ラムズフェルド国防長官は謀略の天才です(注5)。

 ところで、2009年1月、オバマ大統領就任式の全世界向けTV中継にて、オバマの真うしろに背後霊のように映っていたのが、RF家本来の直系であるジョンRF四世(=ジェイRF民主党上院議員)でした。同氏は84年から、30年近く民主党上院議員ですが、これまで、叔父・ネルソンのような野望を見せず、控えめに過ごしてきました。上院議員をやっている以上、大統領ポストに野心がないはずがありません。一方、RF家に戻ろうにも、RF家は叔父デビッドに乗っ取られています。この30年間、その心は、一時たりとも晴れることがなかったと推察できます。

 ジェイはRF家の正統なる継承有資格者でありながら、なぜ、30年間も不完全燃焼の状態に甘んじているのか、大きな謎です。もし、ジェイがネルソンのような野望をみせたら、どうされるか、すべて知っているのではないでしょうか。デビッドのウラも秘密もすべて知っているのでしょう。

 以下、次号に続く

 注1:デビッドRF[2007]『RF回顧録』新潮社

 注2:ベンチャー革命No.89『裏切り者ジャップ:キッシンジャー語録』2006年5月28日
 http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-Oakland/1386/mvr195.htm

 注3:本ブログNo.78『ロッキード事件中曽根の秘密リーク:東京地検特捜部真っ青』2010年2月13日
 http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/8679646.html

 注4:本ブログNo.78『米国戦争屋ボスの研究(その3):マッカーサー更迭が日本運命の分かれ目だった』2010年12月19日
 http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/21372898.html

 注5:グローバルMOT(技術経営)に求められる戦略家とは
 http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/31132/1/
WasedaKokusaiKeieiKenkyu
_41_Yamamoto1.pdf


 ベンチャー革命投稿の過去ログ
 http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-Oakland/1386/melma.htm

 テックベンチャー投稿の過去ログ
 http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-PaloAlto/8285/column-top.html

 =転載終了=

 (参照)
 「米国戦争屋ボスの研究(その1):米国覇権主義者人脈形成 (新ベンチャー革命)」
 http://www.asyura2.com/10/senkyo102/msg/236.html

 「米国戦争屋ボスの研究(その2):CIAの私的活用(新ベンチャー革命)」
 http://www.asyura2.com/10/senkyo102/msg/463.html

 「米国戦争屋ボスの研究(その3):マッカーサー更迭が日本運命の分かれ目だった(新ベンチャー革命)」
 http://www.asyura2.com/10/senkyo102/msg/545.html

 「米国戦争屋ボスの研究(その4):日本はしつけされたポチだった(新ベンチャー革命)」
 http://www.asyura2.com/10/senkyo102/msg/636.html

 「米国戦争屋ボスの研究(その5):日本も米国も共産主義仕様国家(新ベンチャー革命)」
 http://www.asyura2.com/10/senkyo102/msg/801.html

 「米国戦争屋ボスの研究(その6):もてる資産を人心掌握に活用する(新ベンチャー革命)」
 http://www.asyura2.com/10/senkyo102/msg/850.html  

 01. 五月晴郎 2010年12月26日 22:41:32: ulZUCBWYQe7Lk : ZMbmXo037I
 「極東、日本に対するアメリカの2つの流れ (雑談版から部分転載)」
 http://www.asyura2.com/10/senkyo102/msg/778.html 再掲

 NHKスペシャル「"核"を求めた日本」要約』をhttp://hiroya.web.infoseek.co.jp/「文筆劇場 ジョン・スミスへの手紙  サイバー・ラボ・ノート」から下記のように転載投稿します。

 ジョン・スミスへの手紙 サイバー・ラボ・ノート (2710)

 NHKスペシャル「"核"を求めた日本」要約

 NHKスペシャル「スクープドキュメント "核"を求めた日本 〜被爆国の知られざる真実〜」(10/3放送)の要約を以下にまとめます。

 2010年3月、ひとりの外交官が亡くなった。元外務事務次官の村田良平氏。かつて政府内で核兵器の保有を模索していた事実を初めて明かした人物だ。村田氏は、佐藤栄作政権下で外務省の調査課長だった。1964年、中国が核実験を行った。そして、アジアで初めての核保有国となった。これに焦ったのが日本だった。 中国の核実験から3ヶ月後、佐藤首相はジョンソン大統領と会談する。この日米首脳会議のアメリカ側の議事録で、佐藤首相の以下の発言が記録されている。「個人的には中国が核兵器を持つならば日本も核兵器を持つべきだと考える」。アメリカ側は日本に核保有を思いとどまるように伝えた。当時の核保有国は、米、英、仏、ソ連、中国の五ヶ国。NTP核拡散防止条約により、アメリカは経済発展が著しい日本や西ドイツが核兵器を持たないように求めた。

 村田良平氏の言葉を借りるならば「なんとか核兵器を持てるきっかけをつくるように努力すべきだと思いました。(こういう話は)全部、裏取引。(西ドイツと)意見交換をやって、なんとかこれ(5大国による核兵器の独占的支配)を覆す方法がないだろうか、と」。そこで日本が秘密裏に接近したのが西ドイツだった。協議の申し入れは日本側から行った。村田氏の秘密協議の相手は、西ドイツ外務省の政策企画部長(当時)のエゴン・バール氏だった。外交政策を一手に担っており、後に東西ドイツの統合でも重要な役割を果たした人物だ。番組ではエゴン・バール氏はNHKの取材に対して「日本の外務省から極秘の会合を行いたいと申し入れがありました。第二次世界大戦の同盟国だった日本とドイツの初めての協議は国際的にも関心を集めかねないため極秘に行われたのです」と証言している。

 日本と西ドイツの秘密協議は人目を避けて、箱根の旅館で行われた。日本側の出席者は、鈴木孝(国際資料部長)、岡崎久彦(分析課長)、村田良平(調査課長)。西ドイツ側は、エゴン・バール(政策企画部長)、ペア・フィッシャー(参事官)、クラウス・ブレヒ(参事官)。そして、以下のような発言がなされた。

 日本側発言「日本と西ドイツはアメリカからもっと自立する道を探るべきだ。両国が連携することが超大国になるために重要だ」。西ドイツ側発言「日本と西ドイツの置かれている状況は違いすぎる。冷戦で東と西に分けられているドイツでは、こうした問題について自分たちで決定はできない」。日本側発言「10年から15年のうちに核保有を検討せざるを得ない『非常事態』が起こると考えている。中国が核を持つことをアメリカが認めたり、インドが核保有国となるような事態だ」。日本側発言「日本は憲法9条があることで、平和利用の名の下に、誰にも止められることなく原子力の技術を手にした。日本は核弾頭を作るための核物資を抽出することができる」。エゴン・バール氏はその夜「大変なことだ」と激しく動揺したという。当時のブラウン首相への報告書には「日本が超大国を目指し、核弾頭を持つこともあり得る」と記した。

 では、日本に核兵器を作る能力はあったのか。日本政府は核兵器を作る技術を調査していた。その責任者だったのが、元内閣調査室主幹の志垣民郎氏。濃縮ウランを確保する方法や弾頭を作る技術などを調査研究し、その成果は「日本の核政策に関する基礎的研究」という報告書にまとめられた。その結論は「有効な核戦力を持つには多くの困難がある」というものだった。周辺国との関係悪化や国内の反核感情の強さが障害となった。「できなくはないけど、やるのは大変」だったようだ。

 佐藤栄作氏の側近中の側近だった楠田實氏の資料によると、1967年、佐藤栄作首相がジョンソン大統領と会談した際、佐藤首相はジョンソン大統領に「わが国に対するあらゆる攻撃、核攻撃に対しても日本を守るという約束を期待したい」と迫った。ジョンソン大統領はこれに対して「私が大統領である限り、われわれの間の約束は守る」と答えた。

 ジョンソン大統領との約束を踏まえて、佐藤首相は当時の米国国務長官に対して「日本の安全保障のために核を持たないことはハッキリ決心しているのだから、米国の傘の下で安全を確保する」と伝達した。この2ヶ月後、佐藤首相は有名な「非核三原則」を宣言し、それは1974年のノーベル平和賞の受賞理由にもなった。日本は決して"無垢な被爆国"ではない。むしろ、核武装を望んでいたのだ。おそらくこれは、平和国家・日本の正統性とアイデンティティを根本から揺さぶる事実だろう。


【キッシンジャーの悪事考】
 名実ともに「諸悪の根源」の名が相応しいのはキッシンジャーだろう。ところが、よりによって、そのキッシンジャーが指し示す者が「諸悪の根源」の名を冠せられてバッシングされる。それをマスコミが追従して太鼓を叩くものだから、素人には何が何だか分からなくなるだろう。悪の権化はキッシンジャーなのか、キッシンジャーが指さすところの者なのか、これを愚考する。

 「2004.5.17日付け太田龍の時事寸評bX47、ソロスとブッシュの見えすいた八百長に乗せられる愚かな人々」は次のように述べている。
 「(ダニエル・プーズナーは、次のように述べている)ロスチャイルド(ユダヤ人)の主任エージェントがジョージ・ソロス(ユダヤ人)であり、ロックフェラーの主任エージェントがキッシンジャー(ユダヤ人)である」。

【キッシンジャーと中曽根の悪事考】
 「世界は変わる―キッシンジャー・中曽根対談」(読売新聞社、1990/3/1)
 中曽根は若い頃からニクソンの補佐官、ヘンリー・キッシンジャーに師事していた。

【キッシンジャー逸話考】
 歴代国務長官の肖像画を省内に飾る予定でキッシンジャーの肖像画をガードナー・コックスに依頼したが、背を低めに寸詰まりに描写されたと本人はいたく気に病み、描き直しの要請までしたが、コックスはそのままでいいと相手にしなかった。ただしコックスにも製作料が払われず、喧嘩両成敗となった模様。
 強いドイツ訛りの英語について聞かれた時「私は外国語を流暢に話す人間を信用しない」と切り返したことがある。
 国連難民高等弁務官事務所のテレビCMでは、ソ連から亡命したルドルフ・ヌレエフや、同じドイツからの亡命者のマレーネ・ディートリヒとともに、身近にいる難民(亡命者)の例として紹介されている。
 テレビ東京の番組「日高義樹のワシントン・リポート 」に年1回出演し、1月に放送されるのが恒例であった。
 愛人としてハリウッド女優のジル・セント・ジョン(IQ162、14歳で飛び級でUCLAに入学)の名前が挙がったこともある。
 1972年の田中角栄首相の日中国交正常化交渉について"Jap"の語を用いて批難した。
 1972年にチェスプレイヤーのボビー・フィッシャーが当時の世界チャンピオンのボリス・スパスキーに挑戦するにあたり、フィッシャーに激励の電話をかけている。
 スティーブ・ウォズニアックは自ら開発したブルーボックスを使いキッシンジャーを騙ってバチカンに電話をかけ、当時のローマ教皇パウロ6世を呼び出したところ、担当者から「就寝中なので今から起こす」と言われ慌てて電話を切ったという。




(私論.私見)