時の法務省、検察庁の捜査布陣考

 更新日/2023(平成31.5.1栄和元/栄和5).5.17日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「時の法務省、検察庁、裁判所の捜査布陣考」サイトをなぜ設けるのか。それは、ロッキード事件に見せた司法の政治的立ち回りがその後の司法の歪みを決定せしめた直接の契機となったと思うからである。その意味で、この時立ち働いた役者の振る舞いとその後の立身出世ぶりを徹底解析する必要がある。れんだいこはそう思う。

 2005.3.7日 れんだいこ拝 


【時の検察庁人脈】
 「東京地検特捜部:東京地検特捜部の歴代トップ」について、次のように解析されている。

 東京地検特捜部:東京地検特捜部の歴代トップは全員CIAに留学し、CIAの対日工作員としての徹底的教育を受け日本に帰国する。この教育を受けた者でなければ東京地検特捜部、そして日本の警察機構の中で上層部に出世することはできない。時には、防衛省の守屋事務次官の事件のように、米国CIAから東京地検への直通ファックスによる「摘発指令」が来ることもある。

 ロッキード事件発動時のロッキード事件を捜査指揮した検察庁上層部の人脈構成は次の通りであった。
法務大臣 稲葉修
最高検察庁の検事総長 布施健
同次長 高橋正八
同刑事部長
同担当検事 伊藤栄樹(後に検事総長)、江幡修三(後に検事総長)
東京高検検事長 神谷尚男(後に検事総長)
同次席検事 滝川幹雄(後に大阪高検検事長)
東京地方検察庁検事正 高瀬礼二(後に東京高検検事長)
同次席検事 豊島英次郎(後に名古屋高検検事長)

 検事総長・布施健-神谷尚男・東京高検検事長-高瀬礼二・検事正ラインがロッキード事件捜査指揮した。。


 2.24日、ロッキード事件捜査本部が設置され、次の布陣となった。
最高指揮者 最高検検事・伊藤栄樹
本部長 高瀬禮二東京地検検事正
副本部長 豊島英次郎次席検事
捜査統括 川島興特捜部長
特捜副部長 吉永祐介主任検事

 東京地検特捜部副本部長・吉永祐介が玄葉責任者となり、東京高検の検事長・神谷尚男(後に検事総長)、同次席・滝川幹雄(後に大阪高検検事長)、同検事・片倉、野村幸雄の各氏が、また直属の東京地検では、検事正・高瀬礼二(後に東京高検検事長)、同次席・豊島英次郎(後に名古屋高検検事長)の各氏が任務に就いた。ちなみに、布施の後、伊藤、吉永が検事総長を歴任する。
(私論.私見) 伊藤、吉永の検事総長歴任考
 「なりふり構わぬロッキード事件摘発」が、その任務を積極的に推進した者をして論功行賞的意味を持って出世階段を昇らせたたことが判明する。即ち、伊藤、吉永は立身出世の為に「検察の正義」を売った輩であり、美談で評すること勿れということになる。

 2006.6.18日 れんだいこ拝

【時の東京地検特捜部の検事メンバー】
 1976 (昭和51). 2.5日時点の東京地検特捜部の検事は、以下のメンバーであった。
捜査統括  川島興/特捜部長(後に大阪高検検事長)
主任検事  吉永祐介/副部長(後に検事総長)
 永野義一/副部長(後に最高検検事)
 藤本一孝/ (後に新潟地検検事正)
 → 石黒久晫(あき)/副部長(後に名古屋地検検事正)
特捜部検事 
河上和雄 (後に最高検公判部長)
村田恒 (後に名古屋高検検事長)
松尾邦弘 (後に検事総長)
松田昇 (後に最高検刑事部長、預金保険機構理事長)
東条伸一郎 (後に大阪高検検事長)
小木曽国隆 (後に埼玉地検検事正)
山部力 ()
安保憲次 ()
東条伸一郎 (後に大阪高検検事長)
小林幹男 (後に仙台地検検事正)
佐藤勲平 (後に福岡地検検事正、公正取引委員)
浜邦久 (後に東京高検検事長)
友野弘 (後に宇都宮地検検事正)
神宮寿雄 (後に昭和58年、東京地検検事辞職)
宮崎礼壹 (後に内閣法制局長官)
太田幸夫 (後に東京高裁部総括判事)
廣畠速登 (後に長崎地検検事正)
村田紀元
近藤太郎
寺田輝泰
水流正彦
清水正男
荒木久雄
事務官  田山太一郎、水野光昭
特捜部資料課長   田山市太郎
副検事   前田勇、宇都宮正忠、岡崎芳高、寺島留八

 このうち荒木久雄、太田幸夫の2氏は裁判所からの出向となっている。後に花形検事として脚光を浴びた堀田力はこの中にいない。堀田力(後に法務省官房長)が特捜部検事として参加するのは同年4月1日付時点からである。自ら志願した。

(私論.私見) 堀田の投入考
 堀田は、明らかに特命任務を帯びて投入されたことが判明する。彼もまた立身出世の為に検察の「検察の正義」を売った輩であり、美談で評すること勿れということになる。

 2006.6.18日 れんだいこ拝

【特別公判部の検事メンバー】
 ロッキード公判に当って特別公判部が組まれた。次の面々が指揮した。主任検事・吉永祐介、松田昇、宗像紀夫、高尾利雄、大泉隆史。

【「ロッキード検事一覧」】
 「ロッキード秘録」(坂上遼、講談社、2007.8.27日初版)参照。 
被疑者 役職 取調べ検事
児玉誉士夫 松田昇、板山隆重、
秋田清夫、山辺力
太刀川恒夫 近藤太朗
桧山広会長 丸紅会長 安保賢治
大久保利春 丸紅専務 村田恒-
伊藤宏 丸紅秘書課長 松尾邦弘
丸紅秘書 河上和雄、佐藤勲平
小佐野賢治社長 国際興行社長 安保賢治
若狭得治 山辺力
渡辺尚次 全日空 石川達紘
沢雄次 広畑速登
榎本敏夫 首相秘書官 村田恒-
田中角栄 前首相 石黒久あき
佐藤孝行 板山隆重
橋本登美三郎 友野弘
青木久頼 水上寛治
ジャパンライン株買占め事件関連会社社長 河内悠紀
藤原亨一 馬場俊行
植木忠夫 宮崎礼一

 浜邦久、小林幹雄、松田紀元、堀田力、寺西輝泰、伊藤実、西村好順、黒崎兼作、吉川寿純、清水勇男、荒木友雄、東條伸一郎、増井戸一郎、坪内利彦、小木曾国隆、池田茂穂

【時の法務省の人事体系】

 この時の法務省の人事体系を考察して見る。当時の法務省の首脳とは、事務次官の塩野宣慶、刑事局長の安原美穂がトップに位置している。この安原のもとに、刑事課長 吉田淳一がいる。法務省本省における組織体と職、部門を略記すると、法務省大臣官房はトップの官房長以下、審議官、参事官、調査官と、秘書課、人事課、会計課、営繕課、厚生管理官となっており、これらが法務省行政の核心となっている。

 一方、刑事局は、組織体及び職の構成としては、局長、参事官と管掌として総務課、刑事課、青少年課、公安課とされていた。他に検察庁があり、ちなみに、検察の序列は、1・ 検事総長、2・ 東京高検検事長、3・ 大阪高検検事長、4・最高検次長、5・ 法務事務次官である。

 これらの機構を動かしているのが法務省刑事局であり、行政機関たる機関が検察庁を動かし得る法的あり方と関係がここに明定されている。してみれば、法務省刑事局長が事実上のトップであることになる。ロッキード事件当時の刑事局長は安原美穂であった。ロッキード事件は多分にこの安原のキャラクターに左右された面もあると思われる。

 となれば安原とはどういう人物なのかということが関心を引くことになる。安原は、ロッキード事件の頃より、この検察主流派に属する現役法務官僚、検察官僚の親睦会といわれる大阪ミナミの小料理屋 「花月」 を拠点にした 「花月会」 を組織している。その最大のタニマチが住友グループであるからして、ここに繋がりを見て取ることができる。こうした安原の人となりが注視されるべきところである。法務、検察には、戦前から戦後、及び現在に続いても、権力闘争、人事抗争等が存在し、かかる抗争における謀略というほかない事件が世間にまで大きく話題とされた事例も少なからずある。

 その後、雑誌「噂の真相」の「則定スキャンダルは氷山の一角だ!」記事が、「安原グループの腐敗」を暴いている。同記事は、前東京高検検事長の則定衛のスキャンダルを露呈させ、いわゆる「則定事件」の最初のスクープとなったが、次のことを明らかにさせた。

 則定が 「最後の主流派」 と呼ばれてきた人物である。
 則定の元締めが安原美穂であり、安原こそが連綿と続く京大、東大出身でかつ法務官僚経験者を中心に構成される「検察主流派」であり、まさしくこの当時ドンであった。
 法務・検察当局を支配してきた「検察主流派」は常に政界と癒着しており、そうすることで勢力を維持している。その流れは今日まで脈々と受け継がれている。

 ロッキード事件のときの最高裁の検事総長宣明書への異議を唱えた正当派の 岡原昌男元最高裁長官など、実力と人柄は抜群なのに検察トップから外されている。こうした安原批判派の法務・検察OB らがいたことも知られている。 







(私論.私見)