松尾邦弘特捜部検事(後に検事総長) |
更新日/2023(平成31.5.1栄和元/栄和5).5.17日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「松尾邦弘特捜部検事(後に検事総長)」サイトをなぜ設けるのか。それは、ロッキード事件に見せた司法の政治的立ち回りがその後の司法の歪みを決定せしめた直接の契機となったと思うからである。その意味で、この時立ち働いた役者の振る舞いとその後の立身出世ぶりを徹底解析する必要がある。れんだいこはそう思う。 2005.3.7日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評451 | れんだいこ | 2008/08/19 |
【ロッキード事件「伊藤調書」作成人・松尾邦弘の出世考その1】 元外務官僚にして小泉元首相のイラク政策に抗議して辞表を余儀なくされた天木氏が、「天木直人のブラフ」の2008.8.18日付け「松尾邦弘という元検事総長の何気ない言葉にその正体を見る」(http://www.amakiblog.com/archives/2008/08/18/#001085)で、「松尾元検事総長」に言及されているので、れんだいこが思うところを書き付け公表しておく。 れんだいこに云わせれば、松尾某とは、ロッキード事件の際に伊藤証言の引き出し立役者となった検事として史的意味を遺している。2008年の今日から思うに ロッキード事件は戦後日本の大転換となった。既に経済的には戦後は終わっていたが、政治的に戦後が終わったのはロッキード事件を通してであろう。これにより、戦後日本の政治舞台での成り上がりが葬られた。金権政治追放と云う名の下にその儀式が執行されたが、それは同時に、戦後日本が胚胎させていた諸々の芳醇さをも、たらいの水と一緒に赤子を流す愚をしてしまった気がしてならない。 ロッキード事件は、法の番人が自ら法を破ってまで、現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義ネオシオニズムの意向を貫徹させ、そのことで戦後日本の司法秩序を上から狂わせる事になった。日本の法秩序はあれ以来整合しなくなり、今日傷口をますます広げつつとある。法の番人が法に基かず、権力者の意向に従って裁決すると云う悪しき風潮を蔓延させつつある。 これに蛮勇を振るった者は、国際金融資本帝国主義の覚えを目出度くし、論功行賞でその後の出世階段を上って行くことになる。それにより司法界の腐敗が著しく進むようになった。今日の腐敗は、ここに根源があると云えよう。かの時の最高検検事・伊藤栄樹、吉永祐介副部長、松尾邦弘検事らが該当しよう。 れんだいこは、こういうワルをのさばらせてはいけないと考えている。こういうワルがのさばるのは世の倣いではあるけれども。昔の武士役人は常に切腹と裏合わせで生きていた。それに比べて、今日びの役人の節操の無さは目に余る。のうのうと生き延び、民間へ天下り、死ぬまで蜜を吸い続ける極楽トンボ人生を全うしている。そういう感慨を覚える。これを総コメントとし、松尾に照準を当てて検証してみる。 2008.8.19日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評453 | れんだいこ | 2008/08/19 | |||
【ロッキード事件「伊藤調書」作成人・松尾邦弘の出世考その2】 松尾邦弘は、1942(昭和17).9.13日、東京都で誕生している。1950(昭和25)年、中学生の時、教師だった父が全国学校図書館協議会を結成したが、その後贈賄容疑で逮捕されると云う経験をしている。ここで、父の履歴を記すのは、松尾も叉利権に敏いと云うか甘言に弱い血を受け継いでいるように思えるからである。 東京都立戸山高等学校を経て東京大学法学部卒業。1966(昭和41)年、司法修習生。1968(昭和43)年、検事任官(東京地方検察庁検事)。連続企業爆破事件、連合赤軍事件など著名な公安事件を担当している。 1976(昭和51)年、ロッキード事件勃発。松尾はこの時、特捜部に抜擢され、贈賄側の伊藤宏・丸紅元専務から田中角栄逮捕に直結する供述を引き出した。これを「伊藤証言」と云う。事情通にしか分からないであろうが、この「伊藤証言」が決定的証拠とされ、角栄は追い詰められていった。松尾は、この「伊藤証言」の調書作成者である。れんだいこは、これにつき「大久保・伊藤・桧山・若狭被告の供述調書疑義問題」(http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/rokkidozikenco/sosataiseico/fuz inco.htm)で考察している。 今日、れんだいこが読み直すと、三文小説並みの「伊藤調書」の馬鹿らしさが際立つが、あの時代に於いてはマスコミのみならず朝野上げて決定的証拠を握ったとして囃子て行った。我が国には自称知識人ウォッチャーが何百万人と居るが、ああいう調書に相槌を打つ程度の頭脳でしかないことが判明する。その程度の頭脳の者が、よってたかって気難しい世の中を作ろうとして精出しているが、迷惑千万な話ではある。 「伊藤調書」引き出しにより覚えのめでたくなった松尾はトントン拍子に出世階段を昇っていくことになる。しかし、松尾の周辺には常に利権腐敗がつきまとう。その松尾は、権力の頂点に上り詰めるや、現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義ネオシオニズムの対日政策の忠実な敷設者として立ち現われる。今日、司法を廻る反動的諸施策の殆どが、この松尾派の立案したものである。最近世の中を騒がしている陪審員制度もそうであり、してみれば所詮碌なものではないことが透けて見えてこよう。 1978(昭和53)年、法務省刑事局付。1980(昭和55)年、在ドイツ日本国大使館一等書記官。1983(昭和56)年、 在ドイツ日本国大使館参事官。1983(昭和56)年、 法務省刑事局参事官。1984(昭和59)年、東京地方検察庁検事。1985(昭和60)年、法務省刑事局参事官。1988(昭和63)年、法務大臣官房参事官(予算担当)。1989(平成元)年、 法務省刑事局刑事課長。1991(平成3)年、法務省刑事局総務課長。1992(平成4)年、法務大臣官房人事課長。1996(平成8)年、松山地方検察庁検事正。この時、調活費を流用して酒盛りをやっていた。この時の腐敗振りが、後に三井環・氏により告発される。1996(平成8)年、東京地方検察庁次席検事。1996(平成10)年、最高検察庁検事。 1998(平成10).6.23日、法務省刑事局長 。この時、松尾は、通信傍受法案を策定している。概要は不明であるが、「TBSの筑紫哲也NEWS23の訂正要求へ反論」とある。 1999(平成11)年、法務事務次官。以降、組織の中枢に位置し、司法制度改革と云う名の法秩序改悪に取り組み始める。同7月、小渕内閣の時、司法制度改革審議会が設置される。 1999年、第145国会において「盗聴法」の成立に尽力している。法務省の刑事局長として国会答弁に立ち、同6月、「盗聴法」の説明に新聞社やテレビ局を回っている。但し、これは、「報道機関に対する圧力」と批判された。この時、裏で折衝にあたっていたのが、当時、法務省事務次官だった原田明夫と同官房長の但木敬一コンビだった(「新・悪の検事総長 松尾邦弘」の権力犯罪を弾劾する(04・10・12)」)。 この頃、大阪高検公安部長の三井氏が、検察庁内の調査活動費の裏金流用を告発した。三井氏は、そのカラクリを次のように明らかにした。
三井氏は、裏金作りの実態を知った時期を高知地検次席検事に就任してからとしている。その後大阪地検を経て高松地検検事となる。再び裏金問題に遭遇する。この時期は、松尾が松山地方検察庁検事正として赴任していた時期と重なる。加納検事もこれに関わっている。三井氏は、原田明夫検事総長、松尾邦弘元法務事務次官、加納駿亮(しゅんすけ)福岡高検検事長、東条信一郎ら8名を重大責任者として告発していた。 三井氏の告発背景は分からないが、結果的に松尾のアキレス腱を突いた形で登場してくることになった。松尾は、これに悩まされ、これまた蛮勇を振るうことになる。 2001(平成13).1.10日、雑誌「噂の真相」が、調活費と云う名の裏金が、よりによって司法の番人であるはずの検事総長、最高検次長、各高検検事長及び各地検検事正らの裏金になっていること、加納元高知地検検事正(当時大阪地検検事正)が高知地検に配付された調活費を裏金として私的流用したことなどを、その具体的状況を示して記事として掲載した。 同3.29日、川上氏が、加納検事及び佐藤元検事を被告発人とする虚偽公文書作成、同行使、詐欺、私文書偽造罪の告発状を提出した。同5.11日、加納検事は、神戸地検検事正在勤中の裏金使用について告発された。高知地検関係の告発事件については高松高検刑事部長の高橋信郎検事が、神戸地検関係の告発事件については大阪高検総務部長の平田建喜検事が主任検事として捜査することになる。 2001.6月、司法制度改革審議会が小泉首相に最終意見書を提出した。裁判員制度創設が決まる。この頃、三井氏の内部告発を機に、加納の福岡高検検事長昇任人事において、内閣から前代未聞の「再考」が求められていた。 2001.10.27日、検事総長の原田明夫と法務省事務次官の松尾の検察、法務の両トップが、揃いも揃って東京麹町の後藤田正晴の事務所に行き、「加納人事が実現しないと裏金問題が出てきて検察が崩壊する」と「加納人事」を通すよう働きかけ、小泉首相裁きとなった。こういう政治的動きをするのが松尾のらしさである。これを受けた小泉も叉稀代の国際金融資本の御用聞きであるからして、同じ穴のムジナと云うことでもあろう談合処理している。 2002(平成14)年、次長検事。同4.18日、奥の院で三井氏逮捕が決まり、4.20日、法務省、検察庁(原田検事総長)の首脳が出席した会議の場で、三井氏逮捕を最終的に決められた。翌4.21日、大阪地検特捜部の担当検事が大阪地裁に逮捕状を請求。4.22日、この日三井は、現職検察幹部として実名で裏金問題を告発しようとしていた。テレビ朝日の報道番組「ザ・スクープ」の収録と週刊朝日副編集長との対談を予定していた。その当日の朝に任意同行を求められ、そのまま詐欺罪容疑で逮捕収監された。 典型的な「検察による口封じ」であった。「ザ・スクープ」をはじめテレビ、新聞、週刊誌メディアが事件報道したが、検察の非道を告発するよりは三井氏の詐欺罪容疑をプロパガンダすると云う役割を果たし、告発の衝撃を相殺した。 同7.30日、三井環公安部長の初公判が大阪地方裁判所で行われた。三井氏は冒頭で、検察庁内の調査活動費の裏金流用を次のように告発した。
法廷は、前検事対現検事の全面対決と云う前代未聞の椿事を現出させた。三井被告は、意見陳述の最後に検察側をにらみつけ強い口調でこう言い放った。
2003(平成15)年、東京高等検察庁検事長。2004(平成16).6.25日、「元祖・悪の検事総長」の原田明夫が退任し、松尾がその後任として検事総長に就任。松尾は、「ひるむことのない検察」を標榜する。しかしながら、「原田一派」=「永田町とズブズブ派」=「政治屋検察官僚の典型」は知られたことであり、シラケムードが漂ったのも想像に難くない。 同7.7日、松尾が検事総長に就任した直後、国松元警察庁長官狙撃事件でオウム真理教関係者にして小杉元巡査長が逮捕されている。が、供述が二転三転、雲散霧消させられている。この背景は分からない。 2005.2.1日、大阪地裁(宮崎英一裁判長)は、三井氏に対して懲役1年8ヶ月、追徴金約22万円の実刑判決を下した。この時、判決前にほぼ同じ判決文が政界に流布する事件が起こっている。三井は控訴するも、判決言い渡しから4ヶ月が経過しても判決の全文が出て来ず、控訴趣意書を書けない異常事態になった。 2006(平成18).6.30日、松尾が検事総長を退任した。後任は但木敬一。2006(平成18).9月、弁護士登録。2007.1.15日、大阪高裁(若原正樹裁判長)は、三井氏の控訴を棄却、地裁の実刑判決を支持した。三井氏は上告。2007(平成19).3月、旭硝子株式会社取締役。2007(平成19).6月、トヨタ自動車株式会社社外監査役就任。2007(平成19)年、駿河台大学法科大学院専任教授。現在に至る。 以上が松尾の履歴である。彼の出世階段は、ロッキード事件の際の「伊藤調書」作成に始まる。このことが確認されれば良い。現代は、こういう手合いがはびこり過ぎていると思うのはれんだいこだけだろうか。それとも、サヨ圏の多くは今でも本気で「伊藤調書」に基き田中角栄を弾劾し続けているのだろうか。田中-大平政治を善政と断じるれんだいこは、一身の栄達を求めて国を売り、角栄葬りに大活躍した松尾のような手合いを許し難い。そういう砂をかむような人生を送ろうとも思わない。 2008.8.19日 れんだいこ拝 |
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松尾邦弘元検事総長は68年に検事任官。ロッキード事件では若手検事ながら贈賄側幹部の取り調べを担当した。東京地検次席検事や法務事務次官、東京高検検事長などを歴任。検事総長に在任中の2004年6月~06年6月には、ライブドアや村上ファンドの大型経済事件を指揮した。退任後は、07年に発覚した年金支給漏れ問題の原因究明と再発防止策を検討する「年金記録問題検証委員会」の座長を務めた。 |
「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK52」のクマのプーさん氏の2008 年 8 月 19 日付投稿「松尾邦弘という元検事総長の何気ない言葉にその正体を見る(天木直人のブログ)」。
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(私論.私見)