伊藤栄樹最高検検事(後に検事総長) |
更新日/2023(平成31.5.1栄和元/栄和5).5.17日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「伊藤栄樹最高検検事(後に検事総長)」サイトをなぜ設けるのか。それは、ロッキード事件に見せた司法の政治的立ち回りがその後の司法の歪みを決定せしめた直接の契機となったと思うからである。その意味で、この時立ち働いた役者の振る舞いとその後の立身出世ぶりを徹底解析する必要がある。れんだいこはそう思う。 2005.3.7日 れんだいこ拝 |
【伊藤栄樹検事総長考その1、「新版検察庁法逐条解説」の香具師的法解釈考】 | ||||
ロッキード事件時の最高検検事・伊藤栄樹はその後大出世し、東京高検検事長となり更に検事総長になった。この間、「新版検察庁法逐条解説」を出版している。伊藤は、ロッキード事件の際の政治的立ち回りを是認せしめようとしてか、その中で、検事総長の権限について次のように述べている。
秦野章・氏は、伊藤栄樹の見解に対して、公務員法違反の恐れの強い香具師的法解釈との強い批判を浴びせている。 伊藤氏は更に、検察官の任務について次のように記している。
もっともらしいことを述べているようだが、続けて次のように云う。
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伊藤は、前段で、検察官の独任制を称揚し、後段で「検察官一体の原則」を云う。この間の理論的絡みの分析のないままに接木している。こうなると二刀流見解であり、ご都合主義的に使い分けできることになる。ロッキード事件のようにネオシオニズムの意向により引き起こされる政治的事件の場合、検察は独任制で政敵と対決しつつ「検察官一体の原則」で検察官を総動員できるということになる。つまり、売国奴法学を唱えていることになる。このような輩だからしてその後出世階段を登っていたのだろう推測がつく。 2006.3.19日 れんだいこ拝 |
【伊藤栄樹検事総長考その2、伊藤流れ「歪んだ正義 |
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「日々坦々」の2010.2.21日付けブログ「繰り返されてきた「特捜部の暴走」と「検察の不正義」(「歪んだ正義」より)」の伊藤栄樹絡みの言及箇所を転載しておく。
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Re::れんだいこのカンテラ時評826 | れんだいこ | 2010/10/15 |
【伊藤栄樹検事総長考その3、著書「秋霜烈日」のお粗末考】 検事総長・伊藤栄樹は晩年に「秋霜烈日」(朝日新聞社、1988.7.10日初版)を著した。れんだいこは、鳴り物入りで喧伝される「ミスター検察評」に食傷し敢えて読まずに過ごしてきた。とある日、古書店で100円の値が付いた「秋霜烈日」を見つけ、ツンドクしておいた。こたび前田、佐賀、大坪検事がイモヅル式に逮捕される事件が発生したことにより、気になっていた「秋霜烈日」を読むことにした。それにしても100円の値を付けた書店主の感覚は鋭い。 伊藤氏の後半生履歴は次の通り。1976年のロッキード事件当時、最高検検事として「初めに五億円ありき」で矢面に立ち、東京地検特捜部を指揮した。その後トントン拍子に出世し法務省刑事局長、法務事務次官、次長検事、東京高等検察庁検事長、1985年に検察最高位の検事総長に就任した。ところが、権勢絶頂期の最中、体調不良を訴え診察の結果、盲腸ガンに侵されていることが判明。大手術の後、定年を1年10ケ月残して退官。1988.5.4より朝日新聞紙上で検事人生回顧録「秋霜烈日」の連載開始。1988.5.25日、盲腸癌により死去(享年63歳)。 「秋霜烈日」の帯評は次のように記している。「巨悪と闘い、がんと闘った『ミスター検察』。戦後の政財界の重大事件のすべてを見てきた硬骨漢が、迫り来る死をみつめながら綴り続けた戦後史の『真実』」。こういう触れ込みにアレルギーを示すれんだいこであるが、伊藤氏のロッキード事件に対する正義の弁明に耳を傾けようと付き合った。伊藤氏がどのように事件を捉え、揺るぎない確信を伝えているのかを知るところに興味があった。 ところが、余りにも不自然なほどに過少扱いし過ぎている。しかも、戦前史事件を造船疑獄事件から順に綴っているにも拘わらず、ロッキード事件はダグラス・グラマン事件後に綴られており、見出しを「ロッキード事件 アリバイ崩し」として僅か50行ばかりで済ませている。広告に偽り有りとまでは云えぬにせよ明らかにオカシイ。この不自然さは何なんだろうか。 その内容も、角栄の秘書榎本氏のお抱え運転手笠原氏のアリバイを廻る角栄弁護団の反証を如何に突き崩したのかを得々と語るだけの話でしかない。笠原氏の取り調べ直後の山中での変死に対しても、あっさりと自殺と記している。れんだいこの検証によれば、今や東京都副知事の猪瀬の角栄が我が消したとする逆推理論考こそ胡散臭い。真実は、ロッキード事件仕掛け人側が殺めたとしか考えられない。 それはさておき、一国の前首相たるものを死文法的な外為法と云う、しかも別件容疑で逮捕し、産経新聞の協力を得ての「角栄自供する」とのウソ刷りで榎本秘書を自供させ、その榎本調書の証拠固めにありとあらゆる脅しスカシで関連被告の調書を創作し、コーチャンの免責特権付き云いたい放題証言等々で脇を固め、無理矢理に公判に持ち込み、こうして戦後最大の有能政治家たる角栄を裁判にハガイジメし、本人死亡を待って「被疑者死亡による控訴棄却」を決定し、裁判終結とした一大疑獄事件に対して僅か50行で済ますとは。これがロッキード事件訴追の音頭取り、旗振り役として活躍した伊藤流の挨拶だと思うと許し難い。 しかし、今気づいたのだが伊藤氏の死去は1988年である。田中角榮の死去は1993年であるから、伊藤氏が5年も早く逝去していることになる。享年も63歳であり、かの当時においてもかなり若い。と云うことは、伊藤氏はロッキード事件に蛮勇を振るうことにより出世階段を上り検事総長の座まで上り詰めたものの、そのストレスでガンに侵され寿命を縮めたと思えなくもない。せっかくの著書「秋霜烈日」に於けるロッキード事件に対する記述の少なさは、裏からの詫びかも知れない。伊藤氏自身がロッキード事件に対する得心できないわだかまりを持ち続け、それをシャイな形で表現したのが順序の違うダグラス・グラマン事件の後綴りかも知れない。そう思うと、伊藤氏の胸中の苦しさを知るべきだろうか。 しかし、歴史的評価は厳然としておかねばなるまい。「検察の正義」を政治主義的に振るう契機を作ったのが伊藤栄樹検事であり、今日の「現役特捜検事・前田、佐賀、大坪検事イモヅル式逮捕事件」に繋がる検察腐敗の端緒はこの時より始まっている。正確には、それ以前の検察正義に既に胚胎していようが、伊藤栄樹検事が「初めに五億円ありき」のストーリー補強の為なら証拠捏造まで辞さぬ不退転の決意で、それまでの検察正義を大きく歪めたことは疑いない。 伊藤栄樹以降、ロッキード事件で張り切った検事の出世ぶりがやけに目立つ。検察正義を捨ててまで協力した角栄パッシングの功労でポストを手に入れたものと思われる。もう一つ、伊藤氏自身は唯一例外で天下りするまでもなく病死したが、ロッキード事件後の歴代検察総長の退任後の地位利用による民間大手企業への天下りが顕著になっている。検察上層部にこういう劣勢人士がたむろし始めたと云うことになる。これもロッキード事件後遺症の一つであろう。 「現役特捜検事・前田、佐賀、大坪検事イモヅル式逮捕事件」は、こういうロッキード事件以来の劣勢人士登用と云う検察腐敗の構図にメスを入れることができるだろうか。ここに関心がある。 2010.10.14日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)