堀田力特捜部検事(後に法務省官房長)

 更新日/2023(平成31.5.1栄和元/栄和5).5.17日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「堀田力特捜部検事(後に法務省官房長)」サイトをなぜ設けるのか。それは、ロッキード事件に見せた司法の政治的立ち回りがその後の司法の歪みを決定せしめた直接の契機となったと思うからである。その意味で、この時立ち働いた役者の振る舞いとその後の立身出世ぶりを徹底解析する必要がある。れんだいこはそう思う。

 2005.3.7日 れんだいこ拝 


良い子ぶりを通し、それが通用するす堀田力検事考
 「堀田力検事のこの道」のロッキード事件絡みの項を転載する。
 「112 ロッキード

1976年2月、ロッキード事件勃発(ぼっぱつ)。 アメリカ議会で6日、ロッキード社のコーチャン社長は、航空機売り込みのため日本の政府高官らに億単位の金を渡したと証言したのである。それをやるために検事になったような事件が、天から降ってきた!時に、41歳。最初の壁は、東京地検特捜部。「いくら世間が騒いでも、情報がないのにどうして捜査ができるのだ。アメリカが極秘資料をくれるわけがないだろ」。苦々しい顔の幹部たちを、法務省の担当参事官として説得した。 次の壁が三木武夫総理。「資料は私がもらいたい」という。安原美穂刑事局長と2人で、「資料は日本の捜査のため秘密に渡すと司法省が言っています」と言って説得。2月、特捜部検事の発令を得て隠密裡(り)に渡米、司法省との間に捜査協力の約束ができた。 4月、河上和雄検事が渡米して資料を受領。カクエイタナカの名があったが、金の動きの資料はない。5月2日から13日まで渡米。コーチャン社長らの尋問について司法省、最高裁、ロス地裁と打ち合せ。アメリカでは、国外での犯罪は、たとえ自国民がやったとしても、処罰できない。しかし、その不正義がまかり通ることは、がまんできないというのが、彼らの感覚である。だから、日本では考えられない異例の協力体制をとってくれた。5月26日渡米。東条伸一郎検事と2人で嘱託尋問を進めた。クラーク、レイノルズ検事が前面に出てロス地裁で尋問手続きに入ったが、ロッキード社側のとびきり有能な弁護士3人がすさまじく抵抗、尋問は違法だという申し立てを連発する。大きく高い壁をいくつも破って、コーチャン社長の尋問にやっと入れたのが、7月6日。時効が8月10日に迫ってくる中、日本では贈賄側の供述を待ちきれず、見切り発車で6月から強制捜査に着手している。これにやっと追いつき、7月27日、ついに田中角栄元首相逮捕。「よくやった」とクラーク検事も涙声であった。裁判は翌77年1月に始まった。私は83年1月、田中元首相らに対する論告求刑を行うまでの6年間、裁判に専従した。優秀な弁護士たちから、終盤に隠し玉をぶつけられたが反撃し、田中氏は、一、二審とも有罪、実刑であったが、上告中に亡くなった。 汚職の摘発は私の人生の夢であったが、摘発した人たちは、人間的魅力に満ちていた。だから、摘発するたび、ほろ苦い思いをした。(東京新聞2008年 3月11日夕刊『この道』掲載)  
 「113 司法改革」  

 ロッキード事件の裁判に専従していた1980年、特捜部副部長に昇格。83年論告求刑を終えると、法務省刑事局総務課長に発令、翌84年法務大臣官房人事課長。私と同期で、同じ時に特捜部副部長となった山口悠介検事は、官房人事課長志望だったのに特捜部長となり、特捜部長になるのが夢であった私は、官房人事課長となった。頂上の一歩手前で夢ははかなく消え去ったのである。 「それでも、ここまでやらせてくれた検察には、ご恩返ししなければならない」。私の中の理性人間ホッタ君の主張に従って、人事の仕事に励むことにした。当時は検事の数が足りない時代であったが、私は特捜部の検事だけは増員して戦力アップを図った。次に、腹を決めて取り組んだのが、この連載の書き出しで触れた司法改革である。当時、司法試験の合格者は5百名以下で、日本の法律家は圧倒的に数が少なく、多くの国民が法の保護を受けられずに泣き寝入りしていた。国際社会でも、日本企業の法的利益が守られず、欧米諸国に甚だしく立ち遅れていた。合格者の平均年齢は29歳。いつ受かるか見込みが立たない状況をみて、試験への挑戦をあきらめる前途有為な若者が増えていた。私が改革を言い出した時、誰もが無謀だと止めた。「よし、やろう」と言ってくださったのが事務次官の筧栄一さんである。伊藤栄樹検事総長も最高裁事務総局も、最終的には了承をしてくれたので、私は日本弁護士連合会に諮ろうとしたが、当初は会ってもくれない。「検事が足りないから増やしたいんだろう」の大合唱で、加えて人権派の弁護士たちは、「増員すれば一般事件からの収入が減り、するとそれを原資として救うべき人が救えなくなる」と主張した。恥ずかしげもなくそんな主張ができるものだとあきれたが、今でも似たような主張をしている。当時としては画期的だったが、私は各界各層の有識者による懇談会を公開で催し、ここで私学や司法書士会、塾などにも意見を述べてもらって、議論の幅を大きく広げ、国民の前に提示した。狭い法曹ギルド内の議論を、司法の利用者である国民各層に開放したのがよかった。弁護士会も、やむをえず参加するようになり、何とか対話ができるようになった。その段階で、私は甲府地検検事正の発令を受けた。88年、私はすでに54歳になっていた。(東京新聞2008年 3月12日夕刊『この道』掲載)

年間逮捕者(72人)ナンバーワンを誇る山口悠介検事考
 「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK166」の氏赤かぶの2014 年 6 月 08日付投稿「特捜幹部の独善と日航機御巣鷹山事故(郷原信郎が斬る)」。ロッキード事件で活躍、暗躍した当時の特捜部長の山口悠介、当時の吉永祐介検事正の人品骨柄のお粗末さが伝えられているので掲載しておく。

 特捜幹部の独善と日航機御巣鷹山事故
 2014年6月7日 郷原信郎が斬る

 特捜検察の「政界捜査での暴走」と「司法メディアとの歪んだ関係http://amzn.to/1k0dd20」を描いたWOWOW連続ドラマW「トクソウ」が、明日6月8日日曜日午後10時からの放送で最終回を迎える。 このドラマの放映を記念して、原作者(【「司法記者」講談社文庫】)でドラマ脚本監修者でもある私と田原総一朗氏とで対談【田原総一朗×郷原信郎【第1回】「特捜部は正義の味方」の原点となった「造船疑獄事件の指揮権発動」は検察側の策略だった!http://gendai.ismedia.jp/articles/-/39104】を行い、現代ビジネスのサイトに掲載されている。 ちょうど同じ時期、同じ現代ビジネスのサイトに、【三匹のおっさん記者、東京地検特捜部を語るhttp://gendai.ismedia.jp/articles/-/38868】という対談記事が掲載されている。東京新聞の村串栄一氏、朝日新聞の村山治氏、NHKの小俣一平氏、いずれも、この小説、ドラマに描かれている世界を代表する司法記者だ。 大阪地検の郵便不正事件や陸山会事件をめぐる不祥事で、既に「日本最強の捜査機関」の看板も地に堕ちてしまった感のある「特捜検察」の昔を懐かしむ話の中で、特捜部長と司法記者との歪んだ関係を象徴する興味深いエピソードが出てくる。

小俣  私が印象深く覚えているのが、’85年の8月13日だったと思いますが、当時の特捜部長だった山口悠介さんに誘われた山登りです。
村串   ああ、行ったなあ。谷川岳だっけ。
小俣  そうです。山登りが好きだった山口さんは、記者を誘って時々山登りツアーをやっていた。司法記者クラブに加盟している全社が参加したと思います。
村山  前日の8月12日は、御巣鷹山に日航ジャンボ機が墜落した日です。(中略)
村串  ああいう大きな事故が起こると、社会部の記者は総出で取材に当たるわけだけど、原則、司法記者クラブは温存されるんだよね。裁判所や検察の動きを見ておくことが何にもまして大事だということで。
小俣  私は「こんなときに山登りなんかしていていいのかな」と思って、上司に相談したんです。そうしたら「司法クラブは事故取材に回らなくていい。お前たちにとって重要なのは特捜部の動きをウォッチすること。特捜部長が行くところにはどこにでもついていけ。」と言われました。もちろん、山登りのすぐ後に現地入りしましたけど。
村串  ただ、山登りについていったからといって、特捜部長が水面下で捜査を進めている事件について話すわけでもないんだよな。
小俣  あの頃はたしかリッカー事件がいつ弾けるか、という時期でした。それに関する情報を山口さんがポロッとこぼすのではないかと期待していたわけです。

 御巣鷹山の日航機墜落事故という、犠牲者500人を超える航空機事故史上最悪の事故が発生した翌日、新聞、テレビ局各社は、社会部のみならずあらゆる部署から記者を動員し、総力を挙げて事故取材に取り組んでいた。そんな時に、司法記者クラブの記者達だけは、特捜部長との「お付き合い」で山登りに出かけていたのだ。

 ここに登場する当時の特捜部長の山口悠介氏は、私が検事任官6年目の1989年、東京地検で司法修習生の指導係検事を務めていた頃の東京地検次席検事であった。次席検事室に修習生を集めて開かれていた酒盛りで、「山登り」の話もしばしば出ていた。検察が「正義の頂点」であることに些かの疑問も持っていないタイプの人物であった。 山口氏は、その後、東京地検次席検事から、御巣鷹山日航機事故の業務上過失致死事件を担当する前橋地検の検事正に異動し、事故から約6年後の91年7月、不起訴処分を行い、検事正として「不起訴理由説明会」を行った。そこで、彼は、事故の遺族と自ら向き合うことになった。 被災者家族の会「8・12連絡会」の「90・7・17前橋地検――8・12連絡会『日航機事故不起訴理由説明会概要』」によると、山口検事正は、この説明会の冒頭で、次のような発言をした(大野達三「日本の検察」(新日本出版社:1992))。

 「私は検察庁での大ベテランと言われている。ロッキード事件の時、日本では刑事免責制度はないが、免責をし、嘱託尋問をして、田中角栄を逮捕した。大企業の脱税事件、リクルート、三越事件、リッカ―ミシン、平和相互銀行その他大きな事件には全て関与し、年間逮捕者(72人)ナンバーワンの実力がある。今回この実力がかわれて、昨年9月、日航機事件の捜査をすることになった。…」、「飛行機に乗る人が多すぎるという現状。検察審査会の人が言っていたが、一人交通事故でなくなっても起訴されるのに、なぜ520人もなくなっているのに起訴しないのはおかしいと言いだした。皆そうおもっていた。しかし飛行機は墜落すればだいだい死ぬ。520人も乗っていたから死んだんで、一人しか乗っていなかったら、一人しかしななかった。なんで520人ものたくさんの人が乗っていたのか」 。

 この無神経極まりない発言で、山口検事正は、遺族からの怒りと激しい反撃にさらされ、説明会は5時間に及んだという。その後、山口氏は、札幌高検検事長に昇進したが、覚せい剤常用者の女性と、検察庁の忘年旅行会の際に知り合い、同女性が覚せい剤事件で逮捕・起訴された後も密会を続けたとの女性スキャンダルが週刊誌で報じられ、国会でも、「最高検の綱紀粛正に関する質問主意書」が出されて追及されたことで96年に検事長を辞職し、99年に世を去った。

 山口氏のスキャンダルのきっかけとなった東京地検各部の忘年旅行会には、当時、私も何回か参加したことがある。この旅行会は、特捜部、公安部、刑事部、公判部などの各部が、毎月各部所属の検事の給与から天引きして積み立てている会費で開催していた。検事正、次席検事を招待し、いずれかが参加するのが恒例になっていた。旅行会は、部内の懇親の場というより、部長等の幹部にとっては、検事正・次席検事を接待する場、ヒラ検事にとっては、検事正・次席検事に顔を覚えてもらう場であり、各部にとっての一大行事であった。忘年会にはコンパニオンが呼ばれ、翌日は、必ずゴルフコンペが開催されていた。

 「ロッキード事件の鬼」で有名な、当時の吉永祐介検事正が参加するゴルフコンペでは、優勝者は、決まって検事正だった。吉永氏がゴルフの達人だったわけではない。参加者が気を遣い、必ず検事正が優勝し、優勝賞品を持って帰ってもらうように「調整」するのだ。午後のラウンドに入ると、第一組でプレーする検事正のスコアの情報が他の組に伝えられる。ゴルフの上手い副検事など、バンカーの中で「あっ」などと言いながら、何回か空振りをしていた。

 検察、特に特捜という組織の中にいると、常に司法記者達に囲まれて情報をねだられ、部下からも崇め奉られているうちに、それが当然のような意識になっていく。 史上最悪の航空機事故の翌日であっても、司法記者達は、特捜部長の山登りに金魚の糞のように着き従っていた。事故の遺族の前で、「なんで520人ものたくさんの人が乗っていたのか」というようなことを平然と言ってのけられる神経は、そうした特捜幹部と司法記者の異常な関係の中で作られていくのである。WOWOWドラマ「トクソウ」では、見込み違いがわかっても引き返そうとしない「政界捜査の暴走」を主導する特捜部副部長鬼塚剛を三浦友和氏が演じている。こうした「正義の怪物」は、特捜幹部と司法記者との異常な関係の中から生み出されていくのである。







(私論.私見)