全日空の新機種選定への関与の問題

 

 (最新見直し2007.3.19日)

 れんだいこが下手に解析するより格好な以下の分析がある。新野哲也「角栄なら日本をどう変えるのか」には次のように書かれている。
 「全日空は、ロッキード社のトライスターL1011ら機種選定するまで3年の歳月を費やしている。その間専門家や学者が5回も渡米し、機種選定の専門者会議を35回ももっている。一方、トライスターの対抗馬だったダグラス社のDC10は、昭和47年、アメリカで三回の墜落事故を起した後、ニューデリー、ボンベイ、モスクワでも次々と墜落している。全日空がアメリカで同機種就航の便にキャンセルが相次いだDC10を買ったというなら問題だが、買ったのは安全なロッキードのトライスターだった。しかもこの時全日空は、最終段階でかってゼロ戦のパイロットだった源田実参院議員に試乗テストを依頼するという念の入れようだった。政治的圧力など入り込む余地は無かった。採用機は初めからトライスターだったからである」。

 この言は、次の「千葉大学教授・清水馨八郎教授談話」を下敷きにしている。
 「航空機産業は人の命を預かる訳ですから、機種選定は航空会社の将来の命運を左右する重大決定事項なんです。そういう重大なことを政治家に任せますか。当時アメリカで『DC10、ダグラス航空機の黒い霧』(ジョン・ゴッドソン著)という本が出ていて、大反響を呼んだりして、DC10という飛行機の危険性については航空界では誰も承知していたんです。現にその年(昭和47年)、アメリカでは3回もDC10が墜落している。それに日航が海外で初めて事故を起こした。ニューデリー、ボンベイ、モスクワと3回も連続墜落事故が起こっている。それがみんなダグラス社のDC8.10なんです。誰がこんな飛行機を買いますか。また、全日空はロッキード社のトライスターL1011に機種決定するまでに3年の歳月を費やしている。その間、専門家や学者が5回も渡米し、又機種選定に関する会議を35回もやっている。ですから、全日空がロッキード社のL1011に機種選定したのは、決まるべくして決まったものであって、『よしゃ、よしゃ』で簡単に決まったもんじゃないですよ。だから、田中さんの請託云々ということは、全く不必要なんです」(井上正治「田中角栄は無実である」146P)。
 「機種選定は航空機会社にとって社運を決する死活的大問題で、『よっしゃ』の一言で決まるような問題じゃありませんよ」。

 清水馨八郎教授は、「破約の世界史」(祥伝社、2000.7.21日初版)150Pの中で次のように述べている。
 「私は当時、成田空港のある千葉大で航空論を研究し、成田過激派批判の評論活動をしていたからよく知っているが、日本で初の500人乗りの大型機の購入が、その直前の3ヶ月前に、素人の首相の一声『よっしゃ』で決まるはずがない。この事件のカラクリを航空科学論的に分析して、決然このウソに挑戦したのであるが、マスコミがでっちあげた5億円弾圧の大合唱には、とても逆らうことができなかった(拙著「航空新幹線」光文社)。

 私は東京裁判とロッキード事件が奇妙に一致することに気づいた。いずれも巧妙な米国の罠に、日本国民のすべてがまんまと掛かった。米国人が言っているのだから、間違いない。日本は戦争犯罪人だ、田中は悪党だと、日本の最高裁まで乗せられてしまった。

 両事件とも反対尋問を許さぬ一方的な裁判で、裁判と云うに値しない茶番劇であった。それはいずれも米国から仕掛けられ、それを国の内側から積極的に増幅する。つまり外からの騙しと内からの騙しの合成によって構築されているからである。他を責めず己れだけを責めるのを美徳とする日本の国民性の矛盾が、露呈したもので、この美点を米国と日本の反日的なマスコミに利用されたものである。

 戦後の日本では、一貫して東条英機と田中角栄を最大の悪党として未だにその名誉が回復されていないのは、すべての国民がアメリカの騙しに未だに気づいていない確かな証拠なのである」。

 この言の確かさは、次の発言によって補強された。小山健一氏は、著書「私だけが知っている『田中角栄無罪論』」の中で、概要「関係者が生きているうちにどうしても言い残しておきたかった」との思いで「ロッキード社機購入前、全日空社長・若狭得治氏と約1時間半にわたる長電話をした時の会話」の内容を明らかにして、次のように記している。
 「この時、若狭氏は、ロッキード社機購入の正当性を滔々と述べた。要約すれば、全日空の丸紅経由のロッキード社からのトライスター機購入は、純然として性能問題であった。三井物産が代理店のダグラス社のDC10は事故・故障が多すぎ買える状況でなかった。日商岩井が代理店のボーイング社のジャンボは、大きすぎて使えなかった。そういうわけで、技術的見地、安全性的見地からしてロッキード社のトライスター機を選択せざるを得なかった、というものであった」。

 これに関連して、池見猛・氏編著の「国益上、田中元首相の無罪を望む」は次のように記している。
 「ダグラス社はDC10、DC8は、昭和47年に6回墜落事故を起こし、その為に米国航空局から改善命令が出されていた。ダグラス社は飛行機の売り込みは自粛し、その結果、ロッキード社は全日空に対しては独占売手市場で売込工作、請託共に不要であった。(中略)若狭氏が社長となつて雫石事件の教訓から大庭社長時代に仮契約したダグラス社機の6機をキャンセルした。その一機をトルコ航空が購入した。その飛行機がパリ郊外で墜落し346名が死亡した。346名の日本人の生命を救った若狭社長が逮捕されて、墜落機の購入を予約した大庭氏が英雄視の如くマスコミが評価したのはいかなる理由か」。

【「まだ解けないロッキード事件」】
 200.02.29日付で「Mint/札幌/中山正志」氏が「時事問題、Mintインタネ街宣活動」まだ解けないロッキード事件で、貴重な解析しているのでこれを転載しておく。
ワケワカメのロッキード事件
 飛行機ヲタクの僕はテクノロジーとしての航空と、世界で3流の航空行政の両方に興味があったりする。今の日本は完全に航空後進国で、アメリカに隷属する情けない国になっている。かつては三菱(旧)のゼロファイターで世界をリードし、雷電のようなインターセプター(局地防衛戦闘機)を作り、震電に代表される画期的設計技術を持ちながら、敗戦の一言で全てを否定された航空産業。

 日本人の航空に関する独創性は二宮忠八を持ち出すまでもなく世界のトップを走っていた。ところが、敗戦後GQHのお達しにより航空産業は禁止され、壊滅的に崩壊した。僕は別に右翼的イデオロギーに立脚している者では無い。どちらかと言うと、ノンポリ的左翼なのかもしれないが、こと、航空産業についてはなんでここまで日本がアメリカに隷属しなければならないのか理不尽を感じる。日本人の文化に「刀」の文化がある。これは人殺しの道具だとかエセ左翼が言うが、基本的にテクノロジーの美である。これが解る日本人には航空機、まさにテクノロジーの美を実現する能力があるのだ。

 機械を機能美と捉える民族が丁度日本の地球の裏側に居る。ペルー航空ってのは、ガタガタの航空機を巧く使う世界でナンバーワンの会社である。

 日本が独自で航空機を製造したのは昭和30年代に入ってから。もちろん、ターボプロップのYS-11である。これは通産省の某課長がぶちあげた航空行政の一環で生まれたプロジェクトだが、ここで赤澤課長は(名前言ってるって!)航空機の製作を産業として位置づけようと考えていた。通産省と言えば日本の産業の旗振り役(おっと、言い過ぎた)なのだから、航空機製造を日本の産業に育てようとするのは当たり前のこと。とにかくゼロを作った国なのだから。

 とまぁ、歴史の勉強になってしまったが、アメリカは日本が航空機に手を出してもらいたくない。アメリカが世界の航空機の供給源たりたい。そんな思惑があったと思う。日本はその下請けは許されても、アメリカにたてついて、50年前のようにゼロファイターを開発されては困る。そんな思惑がアメリカに潜在的にあった時代背景を考えて欲しい。それは、1960年代後半から70年代に何があったか、そこで日本の航空行政は壊滅的に叩き潰された、それがロッキード事件なのである。
アメリカから火の手が上がったのは何故か
 ロッキード社が傾いた経営を挽回すべくL1011(トライスター、業界ではエルテンイレブンが常識だが、ここではトライスターと称する)を賄賂を使って強引に海外に販売した。これじたいはアメリカの国益にかなうことで、たいして問題では無い。アメリカがこの一件を利用して航空機製造の覇権を握ろうとしたところになんとも小癪な所がある。

 日本の政治家に航空族は居ない。運輸族の一部が航空族とも言えるが、所詮利権の役所運輸省だからバスの停留所の移設から阪神タイガース(阪神電鉄は運輸省の掌にある)まで、幅広い。しかし、空を駆ける航空族は居ない。何故なら、日本の航空は東急に代表される五島一派のものなのだから。

 しかし、時の運輸省の運輸政務次官であった佐藤孝行は航空政策の大転換を図るべく、一路線複数会社、しかも東亜・国内の合併による東亜屋内航空(現JAS)の設立とある意味では「改革の人」であった。

 かねてから、アメリカを逆なでするような日本通産省主導の日本航空機製造のYS-11の登場。そして、日本の技術力をもってすれば自動車の次は航空機とは1970年代の世相を考えると規定路線とまで言える状況だった。だから、アメリカはロッキードの件を利用して日本の航空行政を根こそぎ壊滅させ、こと航空政策についてはアメリカ主導で進める路線を引くチャンスと考えたのだろう。

 そもそも、ロッキードのトライスターを全日空が購入するようにセールスしたのは時のニクソン大統領で、要請したのは1972年9月1日のニクソン・田中角栄ハワイ会談だったのだから。もはや全日空がトライスターを購入するのは日米の政治問題であり、後に中曽根康宏が政府専用機としてジャンボを2機ボーイングから買ったのと同様な日米の背景があったのだ。にもかかわらず、トライスターは「ロッキード事件」へと昇華していく。これが不思議である
真の理由はアメリカの日本航空産業叩き壊し+全日空の憂鬱
 まず、当時の全日空の社長である若狭得治は運輸省で「天皇」と呼ばれた次官であった。彼が次官を辞め全日空に入り時期大型ジェットの選定にからんでいたのである。もちろん、前任者の大庭哲夫を訳の解らない「M資金事件」でおとしめて社長になったのだが。

 しかし、大庭は日本の航空に視野を持ち、若狭は全日空だけの利益に視野を持っていたと思われる。何故なら、大庭はロッキード事件の国会証人喚問で自らのサインをすべき書類に血圧が高揚して手が震えペンが飛びさったほど、この件に関しては長年の恨みがあったのだろう。がしかし、彼は事実を記することもなく亡くなってしまった。たぶん、全日空の覇権争いについて、運輸省の官僚であった若狭得治が果たした役割はロッキード事件で有罪判決を受けてなお、全日空が守りたい何かがあるのだろう。つまり、全日空ではロッキード事件なんかは会社の経営からしたら、蜂に刺されたくらい軽微な事らしい。それは何故なのかとの疑問が浮かぶ。

 そもそも、ワイロは全日空から国会議員に流れている。これがおかしい。買ってもらったロッキードが払えば良いものをあえてリスクを侵して全日空が受取個々の議員に賄賂として配っている。総額3000万円(全日空ルート)は何故、全日空が配る必要があったのだろうか。全日空は航空機を買った側である。買った側が何故、斡旋してくれた人に謝金を払う必要があるのだろうか。それは、全日空名目で払い込まれなければならない全日空の思惑が隠れているのだろう。でも、渡したロッキードにも思惑はあるはずだ。
領収書が何故「ピーナッツ」なのだろう
 誰も触れない、推測もしない。だがロッキードからの工作資金には領収書があり、これには「ピーナッツ」と書かれている。これって、トライスターだろうか?

 先に書いたようにトライスターの別名はL1011である。ピーナッツと言えば、チャーリーブランくらいしか思い起こせないが、pで始まる、当時の貿易を考えてみる必要がある。

 ロッキード事件がなにか消化不良なのは、ニクソンにハワイで頼まれた田中角栄は日本の国益(それが、米国隷属であったとしても、国益優先)のためにトライスターを選んだ(それしか日本に許されないくらい、今も当時も日本はアメリカに隷属しているのだが)これがマスコミの報道である。しかし、同時に防衛庁の次期防衛計画に早期警戒機の話があったことを思い起こしてほしい。

 これはP3-Cオライオンである。この機器の価格はオプションを要求するから基本的に価格が有って無い状態である。特に早期警戒機としてのレーダー情報の解析プログラムはアメリカの戦略によりブラックボックスのまま提供された。これに価格なんか無い。しかもこれはロッキード社が製作した機体である。

 結局、ロッキード事件とは、民間航空に名を借りたアメリカの日本の根源に係わる防衛の機器にまでおよぶ大事件だったのではないだろうか。納得いかないのは運輸省の民間航空機導入における許認可にからむ汚職としてしか立件しなかった検察の姿勢である。

 ロッキードが小佐野賢治に切った領収書はP3-Cオライオンに対するリベートである。だから、ピーナッツなのである。方や、全日空が政治家に配った裏金は出所はロッキードかもしれないが、実態は全日空の路線拡大(ダブル、トリプルトラフィック化)、海外路線(結局、中国線も日航に取られて意味が無かったのだが。これこそ、現在で言えば、若狭得治が株主代表訴訟されてもしかたがない、会社の金の的外れな投資なのだが)獲得のための政治資金だったのだろう。

 天皇と呼ばれた運輸省の官僚であった若狭得治が、民間の会社である全日空をバックボーンに、運輸商流を行使して、たまたま青空天井の防衛施設庁の不正隠しに利用された。若狭得治も了承の茶番劇、それがロッキード事件ではなかったのか。

 好きなタイプでは無いが、当時の航空行政の改革を行った(その、腹の中に何があったか解らないが)佐藤孝行は、決してマスコミの馬鹿が書いているような私利私欲の人では無いだろう。肩を持つわけでは無いが、日本が航空に手を出さないように叩き潰された時代にたまたま運輸政務次官を務めたという因縁かもしれない。

 そのご、保身の国会議員たちは、ロッキード事件恐さに、航空行政には手を出していない。勉強もしないし、関心も無い。そして、アメリカとエアバスインダストリーによる世界制覇は完結した。唯一たてつく日本を潰したのだから。

【徳本栄一郎氏の「国務省機密電8399」読みとり漫談考】
 相も変わらず「田中角栄有罪説」に凝り固まるジャーナリストの徳本栄一郎氏が、****.8.8日、「国務省機密電8399」をワシントンの公文書保管所で発見したと喧伝し回っている。同文書は、東京の駐日大使インガソルからワシントンの国務長官宛ての機密電報で、タイトル「日米貿易交渉のフォローアップ 日本による航空機購入の可能性について」とあり、「ジョンソン次官のみ閲覧のこと」、「担当者の許可なく複製を禁ず」と附されている。日本のANA(全日空)、JAL(日本航空)の大型航空機購入についての調査が、次のように報告されているとのことである。
 「ANAは初回注文として6~9機を考えており、JALは1974年から77年にかけて国内線25機、国際線9機の段階的納入を考えている」。
 「日本政府は民間購入の為の前払いに関する問題に直面することになるが、そうした問題が8.31日(ハワイでニクソン・田中の日米首脳会談がセットされていた)までに解決されるかどうか不明確である。状況は複雑且つ困難であるものの、田中首相は、ハワイで発表できるような米国側にも受け入れ可能な航空機購入に関する声明を纏め上げることが出来るものと考えている」。

 これを受け、次のようにコメントしている。
 「アメリカ政府とその出先機関である駐日大使館が民間機購入に並々ならぬ関心を寄せていることが読み取れる。田中首相に取りまとめの期待がかけられていたことが判明する」。
(私論.私見)
 この御仁は、「国務省機密電8399」を角栄有罪の決め手となる機密資料としたいようであるが、馬鹿馬鹿しい。普通に読み取れば、当時、大型航空機購入が日米政府の直交渉に任されており、そういう意味では、司法が「高度な政治判断」として忌避するような内容のものであったことを窺い知る機密資料になり得ても、徳本式にはならない。この御仁は英語は読めるらしいが、それをどう判断するのかと云う肝心なところで元々のオツムの弱さを丸出ししている。こういう手合いが高額報酬得ているとしたら、れんだいこはその何倍も待遇して貰わねば話が合わない。

 2007.36.19日、2010.12.4日再編集 れんだいこ拝

【全日空の社歴】
 1957.12月、前身となる日本ヘリコプター輸送株式会社と極東航空株式会社が合併して全日空(全日本空輸株式会社、All Nippon Airways(ANA))」が設立される。

 1966年、羽田空港沖でのボーイング727型機の墜落事故、松山沖墜落事故と一連の連続墜落事故を起こす。遺族への慰謝料支払いによる出費など、経営面で苦境に立たされた。

 経営不振に陥った全日空は、日本政府と大株主となった日本航空(JAL)の支援の元で、経営再建を進めることとなった。当時の日本航空は、ほぼ国営の航空会社と言っても良く、羽振りが良かった。政府と日本航空の支援を受けた全日空は、1970年代になると高度経済成長のおかげもあり業績を回復する。1972年に開催される札幌冬季オリンピックに向けて、大型旅客機を発注するまでに業績も回復した。

【全日空の新機種選定過程検証】

 【ロッキード・ダグラス・ボーイング三社の航空機売り込み競争】

 1972(昭和47)年は、ロッキード・ダグラス・ボーイング三社の航空機売り込み競争が過熱していた年であった。一方は国家向け軍用機の売り込みであった。この年10.9日、国防会議が四次防大綱を決定し、次期対潜哨戒機(PXL)の国産化を白紙還元している。「自力国産か輸入調達か」は、この当時の極めて高度な政治判断になっていた。田中首相は、この決定を受け、10.11日にPXLを「国産から輸入」に重点を置く方針転換を表明している。この決定の背後にあった動きまでは分からない。ロッキード・ダグラス・ボーイング三社の売り込み競争に拍車がかかったことは容易に想像できる。他方民間航空会社に対する旅客機の売り込みも伯仲した。ロッキード社は、民間旅客機(エアバス)についてはトライスター(L1011型機)を、軍用機についてはP3Cを用意してこの商戦に参入していた。代理店は丸紅。同様にダグラス社はDC10型機で三井物産、ボーイング社はB747ジャンボで日商岩井という構図で競争していた。

 「ロッキード事件」は、この時の商戦での民間航空旅客機トライスターの売り込みにまつわる贈収賄疑獄事件である。その問題点として、トライスターに関する捜査の手は伸びたが、代わりに軍用機P3Cについてはいつの間にか捜査線上から消えてしまい闇に隠されていくという経過を見せていくことになる。「ロッキード事件」の胡散臭さがここにもある。


 【ロッキード社の秘密対外工作】

 この時期、日本の航空旅客会社全日空は機種選定の年に当たっており、22機を購入しようとしていた。ロッキード・ダグラス・ボーイング三社がこの大型商戦に色めきたち、売り込みの為に秘密代理人、商社、政府高官にも触手を伸ばした事は十分考えられる。ロッキード社は、東京事務所代表クラッター氏をしてその任にあたらせた。当時の丸紅は、社長が檜山広、航空機売り込み担当が常務取締役の大久保利春、伊藤宏が常務取締役社長室長であった。当時ロッキード社の副社長だったアーチボルド・カール・コーチャンは、売り込みに全力投入するため8.20日来日した。コーチャンの訪日は既に十数回に及んでいた。1972(昭和47)年8.21日、コーチャン・檜山会談、8.22日、コーチャン・大久保会談、同8.23日、田中-檜山・大久保会談、9.1日、ハワイで、田中・ニクソン会談が行われている。これは公表されている表の流れであり、未だ公表されていない裏面の流れもあると思われる。

 この頃のロッキード社の経営状態を知っておく必要がある。橋本登美三郎運輸大臣がエアバス導入延期を発言した時期、その直前にはトライスターのエンジンを製造していた英国ロールスロイス社が倒産、国家管理に移されている。このためロッキード社は6500人の従業員を解雇、ニクソン大統領に緊急特別融資を直訴している。ロッキード社はニクソンの選挙区に本社を持っていたこともあってか、ニクソンはこの時異常とも言える熱意でロッキード社救援に動いている。ロッキード社に対する緊急融資陳情が「前例も制度も法律もない」ままに推し進められ、ニクソン政権のコナリー財務長官、パッカード国防次官はじめ米上下両院の有力議員への働きかけが功を奏し、その結果、上院で僅か1票差で緊急融資法が成立している。こうした流れが全日空の機種選定作業の一旦中止工作と並行しつつ進んでいた。つまり、ロッキード社の商戦勝ち抜きのお膳立てが日米合作で進められていたという背景が垣間見られる。
 
 当時の全日空の社長は、日本航空から派遣されていた大庭哲夫(おおば・てつお)社長であった。大庭社長は、マクドネル・ダグラス社のDC-10を推し、1970.5月、大手商社・三井物産を通じてマクドネル・ダグラス社に3機のDC-10を仮発注した。しかし、全日空内部では、大庭社長と全日空生え抜きの幹部との確執が深まっていた。そんな中、大庭社長が「M資金」なる詐欺事件に巻き込まれたという怪文書が出回り、株主総会の直前にその座を追われることとなった。大庭社長の後釜として全日空に乗り込んできたのが元運輸次官で全日空の幹部とのかかわりも深い若狭得治(わかさ・とくじ)であった。この若狭新社長の下で全日空社内で検討が進められて行った。


 【サンクレメンテ会談】

 1972(昭和47)年1月のサンクレメンテ会談はこういう背景で行われている。表向きのメインテーマは、米中の頭越し外交の追認、日米繊維交渉の結果に対する確認、円の通貨切り上げの確認と、最後に沖縄返還の最終的合意及び詰めの作業の打ち合わせであった。

 この時のサンクレメンテ会談を、ニクソン再選の援護射撃として種々打ち合わせされたと捉える向きもある。この会談で、対日貿易不均衡の是正、「農産物を自由化してロッキードを買え」の働きかけがあり、そのパートナーとして福田より田中が選ばれた。そして、日米通商問題、繊維業界、航空機業界の内ゲバ対応策(民間導入航空機の選定、防衛庁の支援戦闘機やPXLの購入)が話し合われ、それぞれが同床異夢の契りを結んだ、と見る向きもあるが真相はわからない。

 この時のハプニングだけははっきりしている。佐藤首相の腹として元々この会談は、福田外相を次期首相候補として米政策当局者に確認せしめる「顔見せ興業」的意味合いも持っていた。その意味では田中通産相の同行は付け足しであった、とされている。ところが、この時ハプニングが起こり、福田より田中のパフォーマンスが脚光を浴びる結果となった。この時田中通産相は、スタンズ商務長官との会談で見事な捌きぶりを見せており、前年の日米繊維交渉の決着での手腕の評価とも相俟ってかと思われるが、ニクソンは福田より田中の方をチョイスし続けることになった。ゴルフの際に、ニクソンのカートに田中を乗せ(おかげで福田が歩いていく様となった)ラウンドしている、昼食会の席に隣に座らせたこと等がそうである。本来福田が座るべきところに田中が座ったことになった。日米首脳の昼食会の席次は厳格なものであるが、ニクソンの自然な行為であったのか、田中の意図的な滑り込みであったのか、今日も真偽が定まっていない。ニクソンが田中に「仕事が出来る男、話せる男」として好意を抱いていたことだけは確かである。


 【売り込み競争の結果】

 1972(昭和47)年10.31日、全日空がトライスター機の採用を発表している。他方、軍用機商戦も凄まじく続いており、翌1973(昭和48)年6.4日、コーチャンがP3Cの売り込みに来日、8.10日、国防会議にPXL専門家会議発足。更に翌1974(昭和49)年12.28日、専門家会議答申で「PXLは結論持ち越し」となり、更に翌1975(昭和50)年10.27日、通産省、経団連が「PXLの国産化」を主張。こうした経過を経て、結局は1977(昭和52)年12月、国防会議は最終的にロッキード社からP3C-45機の購入を決めている。

 このより2年後ウォーター事件が発生し、ニクソンは1974.8.9日、大統領を辞した。フォードが新大統領に択ばれるや、「ニクソン氏が大統領在職中に犯した全ての罪状容疑に対し全面的に恩赦を与える」と言明し、「罪状ファイルに封印する大統領権限を行使する」と決定した。その理由として、「ニクソンが大統領であったから、やむなくそうした罪を犯したのだ。一市民であれば犯さなかった罪である。今、一市民に返ったニクソン氏にその罪を問う理由はない」と信念を披瀝している。こうして、ニクソンとロッキード社の関係は封印され、何ら訴追を受けない身分の安全が保証された。これがアメリカ流の政治決着のさせ方である。片や、我が日本ではどのようなシナリオが進行して行く事になったか、これが以下の動きである。






(私論.私見)