「嘱託尋問採用」問題考

 (最新見直し2008.8.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 今日法秩序は根本のところで乱れに乱れている。その決定的嚆矢が、ロッキード事件の際に検察庁と最高裁判所が採用した「最高裁の不起訴宣明」と「反対尋問なき嘱託尋問による調書採用」ではなかったか。ここでは、「反対尋問なき嘱託尋問による調書採用問題」を採り上げる。

 かの時、「嘱託尋問」の正当性を検察に代わって弁論しまくったのが立花隆であった。彼の言説を収拾し、俎上に乗せる必要がある。しかし、れんだいこは、ある種馬鹿馬鹿しくてその労を取らない。時間の無駄と思わぬどなたかがやってくれれば良いと思う。その必要は有る。誰もしなければ、追ってれんだいこがやる。

 俵孝太郎氏の「田中裁判ーもう一つの視点」、秦野章・氏の「角を矯めて牛を殺すなかれ」その他を参照する。

 2004.10.7日、2007.1.20日再編集 れんだいこ拝


【嘱託尋問採用の問題性】

 「ロッキード事件」を廻って、これほど司法当局の不法行為が露骨且つ満開された例はない。アンドリュー・ホルバート氏は、「田中角栄と日本人」の座談「田中角栄における日本的体質」の中で次のように述べている。

 「田中角栄を贖罪のヤギに利用していることを窺わせる、もう一つの大変嫌なことがあります。それは嘱託尋問の裁判における採用の判断です。つまり、ロサンゼルスでのクラッターとコーチャンの発言をそのまま受け取って、それを法廷で採用したというところなんです。私の外国の友人で、日本の法律によく通じてる弁護士によると、これは大変な前例になってしまうという、これは日本の法律そのものに対する大変な挑戦だというのです。なぜかといいますと、日本の法律はまずちょっとおいて、検察側が尋問してきた人を、今度は被告弁護人側が尋問できないという、被告弁護人側にとっては恐ろしいほど不利な前例ができたというのです」、概要「これはどう見ても正当なやり方ではない訳です。フェアでありません」。
(私論.私見) 「アンドリュー・ホルバート氏のロッキード裁判批判」について
 これが至極当然な見解であろう。立花隆の言説を比較して論じたいが、手間隙が間に合わないので割愛する。

 2006.3.7日再編集 れんだいこ拝

 池見猛・氏編著「国益上、田中元首相の無罪を望む」は次のように批判している。
 「第二、刑訴法321条1項3号の証拠能力と刑事免責

 コーチャン氏に対する刑事訴追について、アメリカの裁判所が嘱託尋問を行うことについて、我が国の検察官及び最高裁判所が不起訴の宣明しているが、外国の裁判所に訊問の嘱託をすることは、刑事訴訟法の根拠がなく、また刑事免責を受けた者の証言は刑訴法321条1項3号に於ける信用性がないから、その証言は信用性が欠けて刑事訴訟法の証拠能力がなく、その証言は適正手続きの保障を定めた憲法31条、反対尋問権を保障した憲法37条に違反すると考えられる」。

【嘱託尋問採用にまつわる問題点】
 「嘱託尋問問題」にまつわるいかがわしさは次の点にある。早くより俵孝太郎氏、石島弁護士が指摘し、渡部昇一も「角をしばるものは丸も三角も縛る」(「萬犬虚に吠える」、文春文庫p.160)と警句している。問題点を列挙しておく。

その1  「明文規定の無い法行為を率先履行」
その2  「嘱託尋問の違法性その1、嘱託尋問の形式的是非問題」
その3  「嘱託尋問の違法性その2、嘱託尋問の内容的是非問題その1、「起訴免責」採用の是非」
その4  「嘱託尋問の違法性その3、嘱託尋問の内容的是非問題その2、反対尋問無き起訴免責誓約の違法性」
その5  「不起訴宣明書の違法性その1、検事総長による免責不起訴宣明書問題」
その6  「不起訴宣明書の違法性その2、最高裁による免責不起訴宣明書問題」
その7  「コーチャン証言の真偽性問題」
その8  コーチャン証言の重大疑義
その9  公判外の供述書面を証拠採用するという違法性
その10  元最高裁長官の発言の越権発言の違法性

 以上の疑問を持ちながら、以下、個別に考察する。

その1、明文規定の無い法行為を率先履行

 東京地検と最高裁の連携プレーで「嘱託尋問」を米国裁判所に委託したが、嘱託尋問制は我が国の刑訴法に明文規定がない。こういう場合、「デューフロセスを守らなければ法治主義とはいえない」が、時の東京地検と最高裁が独断で「嘱託尋問」を推進した。こともあろうに法の番人ともあろう機関が明文規定のない法行為を平然とこれを犯したことになる。

 これは法秩序の番人の側からの法蹂躙ではなかったか。
そのことの是非。しかし、このことに関しての純然たる法論争は為されていないようである。実際に適用された「刑事免責による証人尋問の是非論争」にかき消されている観がある。

 次のように疑問が提起されている。

 「法に明文規定のないものでも、また判例のないものでも検察官や裁判官が正式裁判でない処で解釈しただけのものを根拠にして、捜査することは許されるのか」。
 「事案や事件が大事件だとみなされれば、法律の規定なくても いわば目的達成のためには手段は問わずのやり方が是認される発想や行為につながる怖れが内在されているのではないのか」。
(私論.私見) 法治主義の根幹問題としての明文規定の無いことに関する対応考
 私論は、かような場合(明文規定の無いことを導入する場合)、法治国家としては、これを議論する諮問機関とその機関での所要の検討期日が必要であったと思う。法律のベテランであり専門家中の専門家と信じられている法務当局の最高レベル及びエリート達が、率先してなし崩し的に法秩序を蹂躙していくことの違法性と法理論的考察が解明されねばならないと思う。立法のあり方として、ひいては三権分立の根幹が問われざるを得ないのではないのか、とも思う。これに対しては、裁判所は明確な判断を示していない。

その2、「嘱託尋問の違法性その1、形式的是非問題

 「嘱託尋問の形式的是非問題」について考察する。「嘱託尋問」の形式的是非とは、わが国の刑訴法に明文規定の無い「嘱託尋問」制度を導入することの違法性と合法性の問題である。つまり、「嘱託尋問の違法性問題」であり、我が国の裁判制度上、刑事訴訟法上、明文規定の無い「嘱託尋問」が認められるのかという問題である。「226条で証人尋問を請求された裁判官ないしは裁判所が、外国の裁判所に対し証人調べを依頼し証拠採集嘱託を出来るのか」、「公判裁判所が、外国の裁判所に証拠調べを嘱託する権限があるか」という議論になる。

 通常には、刑訴法226条は外国には適用されないとするのが原則で、そのような嘱託尋問は許されない、と解するべきである。次のように疑問が提起されている。

 「日本の法律には刑事免責の規定はない。起訴便宜主義といわれる刑訴法248条は、その適用決定は、起訴を前提として徹底的に調べた上で、情状によって起訴相当でも起訴猶予をする権限が検察側に与えられているという法理論である。そういう意味で、事案、事件の捜査後において検討されるべきものであるにもかかわらず、捜査も行われない前から仮に起訴相当であっても起訴猶予するという形で免責保証し、その適用を、しかも国際的な形で約束することは如何なる法律上の根拠があり、また拘束可能な判例があるのか。有効と主張する根拠如何?」。

 このことに関しての法論争はかなり為されたようである。記録によれば、嘱託証人尋問調書が適法なのか、それとも違法なのか、の最も根源的な法律論争は、第一審の東京地裁においては3回に亘り、また 第二審の東京地裁においても3回行われている。つまり、この下級審においては6回に亘って、「日本の法に明文規定がない刑事免責を条件とする 嘱託尋問調書の法的正否」として複合的に争われることになった。

 しかし、第一審判決は、刑訴法の明文規定にない手法で為されている嘱託尋問調書の有効性に対する法理判断を示していない。検察当局がロサンゼルス地裁に依頼したコーチャンらのいわゆる嘱託証人尋問に際し、たとえ日本の法律に触れても逮捕は勿論起訴もしないという日本の司法権の誓約を、これら被疑者に与えてよいとの日本法の根拠は何か、また、それはどこにあるのか、という原理的問題に対する判断は留保された。第一審判決はいきなり経過を問わず嘱託尋問調書が刑事訴訟法321条1項2号の書面 (つまり特に信用性ある供述書)に当ると適法認定して、証拠採用している。結論的に不公正もなく合理的であったとしている。この不正が追求されていない。

 
この法律論争は、ロ事件発生より20年たって、劇的といってよい判決が最高裁から下された。最高裁大法廷( 長官・草場良八裁判長以下全裁判官12名)は、12名全員の裁判官一致で、 次のように判断した。

 「わが国の刑事訴訟法はいわゆる刑事免責を付与して得られた供述を事実認定の証拠とすることを許容しておらず、本件嘱託尋問調書の証拠能力を肯定した原判決を是認できない」。

 つまり、最高裁判決は、当時の検察の採用した手法を否定し、「嘱託証人尋問調書は違法」 と断じた。この間の法律論争となっていた 「刑事免責」 を完全に否定したものであり、検察側の非道・無法ぶりが暴かれた。こうして、後日になって、当時の手法の目的のために手段を選ばない手法に対して司法が決着させた。

(私論.私見) 最高裁の、角栄没後の「嘱託尋問調書の証拠能力否定見解」考
 しかし、20年後のこの判決は、被告側にとって何の甲斐があろう。してみれば、角栄追討の為にのみ政治主義的に悪利用されたということになろう。これは法治精神ではない。しかも悪事例を作ったことになる。その後の司法は、この咎を負っていくことになろう。

その3、嘱託尋問の違法性その2、内容的是非問題その1、「起訴免責」採用の是非
 「嘱託尋問」そのものの形式的違法性に加えて、この時導入された「嘱託尋問」の内容的違法性問題もある。「嘱託尋問」手法を採用している米国では「刑事免責」(イミュニティ)と呼ばれて法律に規定もある。但し、特殊な規定であることによって厳重な制約が課せられている。「嘱託尋問」には、「起訴免責」(取引免責)と「証拠免責」(使用免責)の二通りがある。「起訴免責」(取引免責)の方が「証拠免責」(使用免責)に比べて包括的に免責される制度であり、証言者側優位であることになる。この時、検察が米国裁判所に依頼したのは「起訴免責」の方であった。よりによって「起訴免責」の方を採用した事にも大いに疑問が為されるべきである。

その4、嘱託尋問の違法性その3、内容的是非問題その2、反対尋問無き起訴免責誓約の違法性
 驚くことにこの時、米国裁判所に委託された「嘱託尋問」は、「反対尋問権無き起訴免責による嘱託尋問」であった。こういうやり方は植民地法なら有り得るかもしれないとでも云うべき手法であり許されない。当然、アメリカの国内法にはこのような「反対尋問無き起訴免責誓約付き嘱託尋問」はない。「コーチャン証言」は、このような手法で引き出されたが果たして有効足りえるのかという問題がある。「反対尋問無き起訴免責誓約の違法性」という問題となる。

 「起訴免責」の場合には、証言者側が包括的に免責されることが約束された上での証言引出し手法であるからして証言者側優位になり、被疑者側の不当な不利益発生を避けるための法の公平性の必要から、被疑者やその弁護人による反対尋問権を行使させるというのが要件とされている。ロッキード事件で採用された「反対尋問権無き起訴免責による嘱託尋問」という手法は凡そ法治国家に相応しくないものであり、なり振り構わぬやり方であった。後々のお笑いものである。

 渡部昇一氏は次のように断言している。

 「我々の中で、外国の報道機関、外国人の物書き、外国人の法律学者などなど、法律に接触する人々に、次のことを漏らしてはならない。『(直前まで首相であった−れんだいこ註)田中角栄被告は、ただの一度も最重要証人に対する反対尋問する機会を与えられることなく、有罪を宣せられたのである』 それを聞いた文明国の人々は、百人が百人、千人が千人、万人が万人、一人残らず日本はそんな野蛮国であったのか、と仰天することであろう。我々はそんな国の恥を、世界の目にさらすことはないのである」(「諸君」昭和59年1月号)。

 この「刑事免責」に関して、元九州大学法学部教授の井上正治氏は、「田中角栄は無罪である」80Pで次のように解説している。ちなみに井上氏は、「不適法だが有効」説という立場に立っている。それにしてもとして次のように述べている。

 「アメリカの刑事裁判では、被告人自身が法廷で何かをしゃべりたいという場合には、証人としてしゃべらなくては役に立たないことになっている。そうでなければ、しっべったことについて、裁判所も重きをおかない。なぜなら、証人としてしやべれば、検察官の反対尋問があるが、被告人としてしゃべったに過ぎない場合には、反対尋問は許されない。反対尋問が無かった供述は信用できないという原則があるから、証人としてしやべった場合以外、被告人の云うことには何の証拠にもならないのである。この事例を見ても、いかに反対尋問が重要であるかということが分かる。田中裁判でまず問題になるのは、この反対尋問がなかったということから、この裁判の重要な証人であるコーチャンらの嘱託尋問調書が果たして法廷に出せるかどうかという点である。コーチャンらの嘱託尋問調書には反対尋問が無かったからである」
 「この伝聞証拠禁止の法則は、現在の刑事裁判における最も重要な柱となっている。伝聞証言は証拠能力が無い、と云われるのはこのことを指している」
 「証拠能力について厳しい手続きを置いているのが、現在の刑事裁判手続きの特徴であり、古い刑事裁判の手続きには見ることができなかったところである」。

 石島泰弁護士は次のように断言している。
 「この場合、最も重要な問題はどこにあるかというと、憲法は37条で、被告人はすべての証人に対して充分にこれを審問する権利がある、ということを保障しています。これは、刑事被告人の不可侵の基本的人権の一つです。そして、これは誤った裁判を防止するために近代国家が採用している刑事裁判の民主主義制度の根幹の一つでもあります。後で詳しく述べるように、このコーチャン調書の採用については、関係の刑事訴訟法の各条項の内容の細かい解釈の問題が沢山ありますが、結局のところは、この証拠採用が、この憲法37条に明記された被告人の基本的権利、刑事裁判の民主主義原理に適合しているかどうかということが、根本の問題であり、問題の重要な鍵であるわけです。これが問題の大筋です」(「諸君」)。





(私論.私見)