ロッキード裁判の問題点総論

 (最新見直し2006.1.8日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 偶然古書屋で、俵孝太郎氏の「田中裁判ーもう一つの視点」を手にした。かなり貴重指摘を当初よりしていたことが判明する。残念ながら、俵氏の見解は掻き消されたことになる。しかし、今日より「ロッキード事件」を振り返ってみて、事件化された過程の不自然性と公判における数々の問題性が隠しようも無い。だがしかし、これを検証しようとする試みがまた弱すぎる。一体、学者というものは何人居ても役に立たないことが分かる。何人にも分かるようにれんだいこが以下列挙してみる。

 2005.5.12日再編集 れんだいこ拝


1、明白な政治主義裁判である。

 ロッキード社の工作資金が児玉ー丸紅に30億円流れ、そのうちの過半が児玉に渡っている以上、5億円の詮議もさることながら金額が多いほうの残余の流れこそ解明されねばならない。この方面の追跡が曖昧にされたまま5億円詮議の方にのみ向うというのは明らかに政治主義裁判であろう。今日に至るも、この不自然さが指摘されていない。


2、公訴権の乱用である。
 三木首相・稲葉法相の「逆指揮権発動」による田中角栄裁判は、公訴権の乱用である。「指揮権発動」も「逆指揮権発動」も共に問題があるという観点を持つべきであろう。

 一般に、政争は民主主義政治の常道に属する。その政争に対し、検察権力の介入を強権発動すること自体、公訴権の乱用である。同時に三権分立制を危うくさせ、司法の行政権力への追従という汚点を刻んだことになる。

3、首相職にあった者を別件逮捕するなどということが許されるのか。

 外為法違反という別件逮捕で拘束するという違法性、しかもかって首相職にあったものにそれを為すという政治主義性という問題がある。


4、嘱託尋問自体の違法性、反対尋問を許さない嘱託尋問という有りえてならない方法で立件されている。

 コーチャンらの贈賄側の証拠採用に当たり、刑事免責を前提とした嘱託尋問、しかもそれに反対尋問を許さなかったという違法性に問題がある。これでは自己保身のためにあるいは謀略的要素を以ってウソの供述をされてもそれを咎めることができない。これは近代刑法の原理ではない。そういう曰くつきの証言を証拠採用せしめていった検察ー裁判所連合の司法実態は、お白州裁判以下の暴挙であろう。


5、供述証書が検事の作文という違法性が認められる。
 各被告の供述証書が検事の作文に対する署名強要という経緯で作られた事が判明している。まさに権力犯罪、国策裁判であったことになる。

6、「外圧国策シナリオによる角栄失脚政治運動」が組織され過ぎた。
 マスコミ、共産党をも含む政党、否共産党が率先して、冤罪の可能性の強い事案に対して、被疑者段階で有罪説に凝り固まり、角栄の政界追放を組織していった。胡散臭い連中による胡散臭い追求の仕方が罷り通った。しかし、その悪行は歴史に刻印された。

7、「P3C 対潜哨戒機贈収賄事件」が有耶無耶にされたのはなぜか。

 ロッキード事件後にロッキード事件よりも底無しに大きいとみられる P3C 対潜哨戒機についての贈収賄事件が勃発したが、この事件の方が金額的にも公金の贈収賄という意味でも重みがあったと思われるが、このP3C事件が闇に消されたのは何故なのか。

 その他云々いくらでも列挙できる。


Re:れんだいこのカンテラ時評その45 れんだいこ 2005/05/12
 【最高裁判決に登場した「疑わしきは被告人の利益の方に」の法理考】

 2005.5.12日付け毎日新聞は、「連続女性殺人 『疑わしきは無罪』はルール」なる社説を掲載している。読売新聞も「[佐賀地裁判決]捜査のあり方に猛省を迫った」なる社説を掲げている。歯切れの良いのは毎日社説の方である。以下にリンク先を記すので各自確かめれば良い。

 毎日新聞社説
http://www.mainichi-msn.co.jp/column/shasetsu/news/20050512k0000m070153000c.html
 読売新聞社説
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20050511ig91.htm

 れんだいこが興味を覚えるのは、事件の概要の方ではない。第一審で死刑が求告されていた被疑者が、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の法理により無罪を言い渡されたという論法のほうである。こたびの最高裁判決は、被告の犯罪者としての可能性を認めつつも、「犯人と積極的に推認する証拠や事実はない」と断じ、無罪を言い渡した。

 毎日社説は次のように云う。「『疑わしきは罰せず』との原理は、犯罪という人権侵害を裁く際に重ねて人権を侵す愚を避けるため必要不可欠な考え方だ。たとえ刑事責任の追及が不可能になろうと優先されねばならない。一般論としては、巧妙な犯罪が増えれば、迷宮入りや無罪となる事件も増加するだろうが、それでも誤判を防ぐのが法治主義のルールだ。その意味で刑罰に報復を求めるかのような風潮には、危うさを感じざるを得ない。

 民主社会の市民は順法精神にのっとり、不正を許さぬ正義感と共に、無罪判決をも冷静に受け入れる理性と寛容さを求められている。厳正な裁判では「疑わしき」を無罪として当然だ。死刑求刑事件では41年ぶりというのは、考えてみれば不思議である。捜査当局の一部にある無罪判決を恥とする考え方も間違いだ云々」。

 そして、お定まりと云うべきか立証主義の必要、自白強要、自白偏重主義批判、公正捜査の実現について言及している。これに比して、読売社説は、「警察、検察の捜査のあり方に猛省を迫る無罪判決だ」と指摘しつつも、毎日の如くに「疑わしきは罰せずの法理」について言及していない。

 さぁ、れんだいこが云いたいことが既に分かっていただける方もおられると思う。この社説を書いた評論員よ、ならばロッキード事件はどうなんだ。首相職まで務めた者を前例の無い外為法違反という微罪の別件で逮捕し、被疑者の段階で既に犯人扱いし、プライバシーもあるものかは轟々たる批判報道に終始してきた新聞人よ、

 これまた前例の無い「逆指揮権発動」を喝采し、違法性の強い嘱託尋問を擁護し、その際に反対尋問を許さずという証拠採用の非を批判せず、検事による作文調書に従ってクロ説を報道し抜き、サンケイ新聞が「田中5億円受領を認める」の一面トップ記事の虚報で捜査に協力した非を咎めず、判決前から頻りに重罪を科せと合唱し、選挙の洗礼受ければ新潟県民の見識を嘲笑し、終始「諸悪の現況」として極悪非道人扱いしてきた新聞人よ。

 今頃になって、「疑わしきは罰せず」を説くとは恥ずかしくないのか。もっとも、それを恥ずかしいと思ってか、このことに触れなかった読売社説の姑息さよ、あるいは社説にさえしなかった他の新聞社評論氏の方がもっと悪質ではあろう。だから、毎日社説をこれ以上批判しようとは思わない。否、今からでも良い、ペンの責任に於いて自己批判せよ。

 お陰で、我が日本では戦後政治の屋台骨を牽引してきた戦後与党主流派のハト派が一掃され、剥き出しのタカ派が反法治主義政治を何臆することなく満展開させている時代になった。何でも世界一が良いというわけでは無かろうに、国債発行残高累積一位の座を突っ走り続け、こうなったら行くところまで行け、ぶりがついたとばかりにはしゃいでいる。

 とりわけ小泉はんは民営化がお気に入りらしく、そのうち自衛隊の民営化、学校法人の民営化、最後に国会民営化まで云い出すだろう。云っている訳ではないが、彼らの論法からいけばそうなるべきだ。

 一足早い国鉄の民営化は大惨事を起こした。これは郵政民営化の先に待ち受ける明日を予見しているだろう。もうこうなったら原子力発電の民営化、警察の民営化、行政全体の民営化で全てを完遂すれば良かろう。あらゆる部門を突いて突いて突きまくればよかろう。

 さて、締め括りはこうなる。れんだいこ党は、世の風潮に棹差す。この棹のしなり具合が政治の醍醐味と考え、棹士を目指している。政治は大切事という考えの持ち主よ、我が党に結集され同じ舟に乗られんことを。

 2005.5.12日 れんだいこ拝

【推定無罪の法理がなぜ適用されなかったのか考】
 「夢幻と湧源」の2009年3月22日付けブログ「ロッキード事件M…推定無罪という法理」。
 「平野貞夫『ロッキード事件「葬られた真実」』講談社(0607)は、30年という歳月は、ロッキード事件の真実を闇の中から引っ張り出してきた、とする。つまり、葬られた真実が、白日のもとにさらされた、という趣旨である。その葬られた真実の第一は、児玉誉士夫の証人喚問に関する陰謀である。その陰謀に加担した黒幕は、中曽根幹事長である、と平野氏は指摘する。また、三木首相に「刑事訴訟法47条但書」の知恵を授けたのは、衆院法制局の局長だった。前尾繁三郎衆院議長は、三木首相による解散・総選挙を阻止し、一方で角栄による「三木おろし」=総辞職を許さず、衆参両院議長裁定で国会を正常化した。

 解散もなく総辞職もなかったからこそ、検察は刑事免責を条件とした嘱託尋問を行って、角栄逮捕に執着した。田中角栄は、政権のトップ=三木首相、国会のトップ=前尾繁三郎衆院議長、自民党のトップ中曽根幹事長、司法のトップ=東京地検特捜部によって包囲された、四面楚歌の状態だった。角栄は、自分の包囲網に無頓着だった。結果として、包囲網は、角栄を潰すまで狭められていった。平野氏によれば、田中角栄は「無罪」とは断定できないが、法理的には、「推定無罪」であって、せいぜい疑惑の政治家としてマスコミい叩かれる程度で済んだのではないか、という。

 平野氏は、上掲書の「あとがき」で、次のように書いている。田中角栄は、2つの意味で無罪ではなかったか? 1つめは、ロッキード裁判で、日本の法制度にない「司法取引」と同等のものが導入されたことである。アメリカ側への嘱託尋問を行い、証人が罪に問われることがないことを保証したうえで、彼らの証言から得た内容を証拠として採用し、角栄は有罪になった。罪を問われることがないとしたら、証人は司直の言うとおりの話をしたとしてもおかしくないだろう。この辺りの実相は不明である。しかし、このような刑事免責を前提とした嘱託尋問が、法理論的には間違っているということを、後に最高裁自らが認めている。

 平野氏は、民主党代表の小沢一郎が、『90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論 (90年代の証言)』朝日新聞社(0606)において、角栄の裁判をすべて傍聴したあとに感想として、「ロッキード裁判は、司法の自殺行為」として、次のように語っていることを紹介している。第一に、角栄が受け取った5億円を見た人がいないこと。ロッキード社のコーチャン副社長、クラッター元東京支社長、丸紅の大久保利春専務らの誰もお金を見た人はいない。最高裁判所は、裁判官会議によってコーチャンに免責特権を与えて嘱託尋問を行ったが、日本の司法には、司法取引による刑事免責などの仕組みはない。田中角栄は、自分(小沢一郎)にとって、反面教師だった。しかし、彼だけが責められてほかのことはねじ曲げられてもいい、という非論理性が、日本人のいけないことではないのか?

 いま、小沢一郎氏は、西松建設による違法献金問題の渦中の人となっている。平野氏は、次のように言う。世界の司法の基本は、「推定無罪」であり、「疑わしきは罰せず」にある。しかし、角栄の場合、「恣意的有罪」を与えられたのではないか? 角栄の愛弟子ともいうべき小沢一郎民主党代表が、いままた恣意的有罪を与えられようとしているのでないだろうか、という疑問が、少なからぬ人から問いかけられている。

 平野氏の角栄無罪論の2つめは、「人道的無罪」論である。平野氏は、角栄は「裏日本」と呼ばれた日本海側を豊かにしようと立ち上がり、傾斜配分型の予算執行をした。田中角栄は、「裏日本」が貧しさから脱するまでは、大きな役割を果たしたが、ある程度の発展を遂げてからは、その役割を終えてしまった。ニクソン大統領に対して、佐藤栄作首相は、「次の首相は、東大法学部を出た福田赳夫で、学歴のない田中角栄ではない」と発言していた。つまり、平野氏は、エスタブリッシュメントによる「国策捜査」の危険性を指摘しているのである。私大出身で地盤もない鈴木宗男。ノンキャリ外交官であるが、プーチン大統領誕生を世界に先駆けてつかんだ佐藤優。彼らは、エスタブリッシュメントにとっての格好のスケープゴートになった。小泉純一郎の「構造改革」の抵抗勢力という敵役のシナリオを押し付けられることになったのだ。検察の捜査が国策の一環であることは否定できないにしても、それが恣意的に行われることが繰り返されないことを願う」。

  「夢幻と湧源」の2009年3月23日付けブログ「ロッキード事件N…田中角栄無罪論」。
 「私たちの世代にとっては、「ロッキード事件といえば田中角栄、田中角栄といえばロッキード事件」である。田中角栄は、立花隆氏の追究によって、金権政治家のイメージが定着し、ロッキード事件がそのイメージを増幅した。しかし、既に30年余を過ぎた現時点で振り返ると、果たして田中角栄を、金権の一語で片づけてしまっていいものだろうか、という思いが湧いてくる。特に、西松建設献金問題等に関する検察の捜査を見ていると、ロッキード事件における検察捜査はどうだったのか、ということが気になるところである。

 木村喜助という元田中角栄弁護人が著した『田中角栄消された真実』弘文堂(0202)という著書がある。もともと自費出版として構想されていた著作が、弘文堂から『田中角栄の真実―弁護人から見たロッキード事件』(0009)として出版され、その読者からの「もっと知りたい」という要望に応えた増補版である。
著者の木村氏は、「はじめに」で次のように書いている。

 ロッキード事件は田中元総理大臣の金権イメージを定着させるものになってしまった。しかし、本書をお読みいただき、この事件が極めてあいまいであり、有罪判決が下されるような証拠はないということ、そして、田中元総理は知・情・意を兼ね備え、日本が決して失うべきではなかった大政治家であったということをおわかりいただけると幸甚である。

 もちろん、田中元総理弁護人であるから、立場はアンチ検察で田中びいきにバイアスがかかっているはずである。しかし、裁判の経過も歴史的事象として捉えられるだけの時間的距離感を得たとも言えよう。木村氏は、本文の冒頭で、次のように書く。

 田中元総理は無罪であった。田中元総理が有罪となるような公正かつ厳然たる証拠はなかった。検察官が冒頭陳述や論告において主張した「総理の犯罪」の筋書きは、密室で無理に作られた検事調書を中心とした不自然極まりないものであった。どのような不自然な筋書きでも、それが真実であれば、なるほどと腑に落ちるものがある。しかし、ロッキード事件は、不自然な部分は不自然なまま腑に落ちず、さまざまなこじつけで辻つまを合わせたものに過ぎない。裁判所はそのような検察の主張を鵜呑みにしたのである。証拠の取捨選択やその価値判断、事実認定の論理の進め方、被告人に有利な証拠の排斥の仕方、さらには嘱託尋問や内閣総理大臣の職務権限についての法律問題のとらえ方、ほとんどすべてがマスコミや検察の論理そのもの、あるいはそれ以上のものであった。すなわち刑事裁判の基本となるべき、主尋問・反対尋問を十分に行った公判証言が軽んじられ、後記のように検事調書が不当に重視された。特に重要な証拠である嘱託尋問調書に関しては、法定手続の保障(憲法三一条)、被告人の反対尋問権の保障(憲法三七条)等において裁判所は慎重な配慮をしたとは到底いえないのである。

 ここでは、嘱託尋問調書に絞って上掲書の主張を見てみよう。嘱託尋問調書の問題性については、既に09年3月15日の項で触れた。角栄の死後に最終結論が出た「丸紅ルート」の最高裁判決で、ロッキード社のコーチャンおよびクラッターへの嘱託尋問調書には「証拠能力がない」と判断されたのだった。

 ロッキード事件は、その端緒がアメリカ上院の院外交委員会の多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)によるロッキード社の不正献金の発覚であった。すなわち、捜査のはじめには、米国からの資料(チャーチ委員会でのコーチャンらの証言等)が存在するだけだった。これらの資料の吟味のために、コーチャンらの取り調べが必要であったが、アメリカに出張した東京地検検事らは、コーチャンらに拒否されて、全く取り調べができなかった。

 コーチャンらの証言の真偽の吟味ができない東京地検は、刑訴法上の起訴前の裁判官による証人尋問制度に名を借り、さらには検察官の持つ起訴猶予権を濫用し、アメリカの裁判所に証人尋問を嘱託して、コーチャンらに刑事免責を与えてその黙秘権を剥奪し(刑事免責を与えても証言しないと、そのことがアメリカの法律では罪となる)、証言させたのだった。それが、昭和51年5月22日付で東京地検検事から東京地裁裁判官宛に出された証人尋問請求書であり、刑訴法226条に基づき、コーチャン、クラッター及び他1名の証人尋問を請求するから、アメリカの裁判所に送って尋問を嘱託してもらいたい、というものであった」。





(私論.私見)