大庭証言、供述調書疑義問題

 (最新見直し2013.03.04日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「嘱託尋問採用問題」の胡散臭さを見てきたが、「大久保、伊藤、桧山、若狭、大庭被告の供述調書疑義問題」も避けて通れない。これを検証する。果たして、マスコミの終始一貫無批判の「検察寄り報道」は適切だったのだろうか。れんだいこには大いに疑問がある。

 2007.5.26日号週間現代のヤメ検・田中森一の独占手記「人は私を悪徳弁護士と呼ぶ」は次のように述べている。一部引用する。
 「東京地検の捜査は、最初にストーリーがありきだ。大きな事件ほどそうで、最初に検察が作り上げたストーリーに合った供述を引っ張りだすのが、現場の検事の仕事だといってもいい。もちろん、実際に調べたら事前の筋書きと違うことがよくある。しかし大物の被疑者を引っ張りながら、『事前の報告とは違った』という失態は、検察内部では許されない。へたをすれば、部長、副部長のクビがとびかねないのだ。そこで、事前の筋書きに合致した供述調書を作ることに検事は躍起になるのである。だが、『調べ』というものは、真剣にやればやるほど、その作業は酷くなる」。

 2007.6.2日号週間現代のヤメ検・田中森一の独占手記「東京地検の罠と我が潔白」は次のように述べている。一部引用する。
 「今年3月に証券取引法違反で、懲役2年6ヶ月の実刑判決を受けた堀江貴文(ライブドア元社長、34歳)が『捜査は茶番だ』として『最初に筋書きありき』の検察姿勢を批判した。前回記したように、重大事件ほど、最初に筋書きを作りあげ、取調べでそれに合った供述を集めて行くのが検察の常套手段である。もちろん被疑者は検察の重い通りに供述はしない。そこで、いろいろなテクニックが駆使される。

 これは私自身、検事としてやってきたことだが、まず、その筋書きを被疑者に教え込む。密室の取調室で一週間も繰り返し教え込んでいくと、やがて相手は実際にそうしたかのような錯覚に陥り、『あの時はこうでした』と、こちらが教えたようになる。それが調書になり、後で冷静になった被疑者が検察の手口に乗せられたことに気づき、公判で『あれは検事から教えられた話だ』と言う。そんな被告の主張を通さない為のテクニックがある。(以下略)」。

 田中森一の内部証言は、ロッキード事件期のものではない。しかし、ロッキード事件期にも同じような取調べ体質があったと推定でき、その意味で貴重な証言となっている。それはそれとして、「最初に検察が作り上げたストーリー」がミソである。一体、誰がシナリオを拵えるのだろうか。田中森一は一兵卒検事なので、そこが説き明かせていないのも止むを得ない。実際には、シナリオ作成者を見定めるのが肝要であり、その黒幕、その奥の院こそが詮索されねばならない。

 2005.3.7日 2007.5.23日再編集 れんだいこ拝


【大久保被告の供述書疑義問題】

 6.22日、丸紅前専務の大久保利春が偽証容疑で逮捕された。これが突破口となる。吉永主任検事の指揮の下、村田恒検事が取り調べに当たった。逮捕から12日目の7.4日、「検事さん、立会い事務官を外して二人きりにしてもらえませんか」とポツリと語り、そこから一気に事件の真相を語り始めたと伝えられている。その内容は次のようなものである。

 概要「1972.8.23日、桧山社長と大久保専務が目白邸を詣で、田中首相に対し、全日空が大型機を輸入するにあたっては、ダグラス社のDC10ではなく、ロッキード社のL1011という機種を選定するように働きかけて欲しいと縷縷尽力を要請し、見返りとして5億円を贈ることを約束した。田中首相は、桧山に対し、『よしゃ、よしゃ』と快諾した。表敬訪問時間は2-3分、長くても4-5分であった」

 これを仮に「大久保供述」とする。この大久保証言により、「航空機導入の話しをまとめるために、金を使って、田中前総理に5億円渡した」という事件構図ができあがった。この供述から、「最終ターゲットは田中角栄」という方針が決まったとされている。

(私論.私見) 「大久保供述」考
 そういう重要な役割を担ったのが「大久保供述」であるが、大久保専務の供述を突破口として立件されていったのか、検事の作文に大久保専務が同調したのか、角栄追い落としのための検事-大久保専務共同の共謀供述工作であったのか、未だ解明されていない。

 大久保証言に基づき5億円授受の実態が問われることになり、伊藤証言へと繋がって行く。そういう意味で、大久保証言の占める地位は大きい。「大久保供述」の信憑性を廻るやり取りについては「ロッキード裁判の経過」で検証するが、当事者の桧山との現場証言が大きく食い違っており、本来は、大久保証言と桧山証言のどちらが真実なのか徹底的に問うべきであった。にも拘らず、マスコミは朝野挙げて「大久保証言」を誉めそやし、桧山証言は掻き消された。結果的に、大久保証言は、ロッキード事件立証の幕開け的「お役目ご苦労」的立場で済まされてしまった。悪意ある事件捏造の際の典型的事例であろう。

 2007.2.28日 れんだいこ拝

【伊藤被告の供述書疑義問題】

 7.2日、丸紅常務の伊藤宏が逮捕された。松尾邦弘検事が取り調べに当たった。伊藤宏は、「大久保供述」を請けて5億円授受の具体的な様子を供述していった。これを仮に「伊藤調書」とする。

 伊藤は、調書作成過程での取り調べの様子につき次のように明らかにしている。

 「全く、生まれてこのかたあんな侮辱をうけたことはありません。申し上げるのもいやなことであります。私の座っている椅子を蹴飛ばされまして、私がひっくり返ったようなことがありました」(第93回公判)
 「立って壁の方を向いて、(中略)とにかく『ああいう偽証をするのはけしからん。国民の皆さんに謝れ』と言って『壁のほうを向いて頭を下げろ』(中略)『そんな仕方ではだめだ』と言って、何回もやり直させられたりしていました(中略)『国賊』だとか、ときには『人非人(にんぴにん)』『ゴキブリ』とか言われたり、『売国奴(ばいこくど)』『冷血漢』とも言われました」(第99回公判)
 「『われわれの背後には国民がいるんだ』と、国民にかわって君を、君をなんて言葉じゃなく、そのときは『おまえ』と言っておられましたけれども、『おまえをやっつけるんだ』というような言い方はずっとしておられました」(元日本経済新聞社記者の片岡憲男が、田中邸での書生時代をつづった自著「田中角栄邸書生日記」(日経BP企画)所収、「ロッキード事件から始まった「ダメ」な検察の闇」)。

 伊藤調書を廻って、検察と弁護側が厳しく応酬していくことになった。1・5億円授受場面陳述の不整合、2・5億円報酬の支払い時期の遅延、3・5億円授受の伊藤・榎本間の打ち合わせの不整合について質疑されている。

 1、5億円授受場面陳述の不整合について

 伊藤調書は、まことしやかに「榎本と伊藤間の五億円のワイロの受け渡し場面」を供述している。具体的な授受の様子は後述するが、ここにきて様々な角度から伊藤調書に対する疑義が噴出し始めている。既述した木村喜助弁護人の「田中角栄の真実――弁護人から見たロッキード事件」は、明確に次のように断定している。

 「(ダンボール箱ストーリーについて)いやしくも時の総理大臣に対する献金を路上などで本当に行なうものだろうか。人目につきにくい路上などあるのだろうかと強い疑問を抱き、あらゆる調書などを点検した結論として、田中側の運転手がつけていた運転日報とロ社側の領収証の日付を付き合わせ、金を渡した日は領収証の日付に近接した日として、それに適当な場所を、取調べ検事が頭で考えて作り出したものであったのだ」。

 2001年2月号「諸君」での田原総一朗氏の「田中角栄は『無罪』だった!」でも、論文の冒頭で次のように記している。

 「思いもかけない新事実や定説を覆す証言が、少なからず出てきた。特に、事件の捜査を担当した東京地検特捜検事の一人は、田中角栄の有罪判決をひっくり返す驚くべき話をしたのである。『丸紅の伊藤宏が、榎本敏夫にダンボール箱に入った金を渡した4回の日時と場所については、どうも辻褄が合わない。被疑者の一人がウソをしゃべり、担当検事がそれに乗ってしまった。今まで誰にも言ってないけど、そうとしか考えられない』。5億円の授受があった4回の日時と場所は、実は検察の書いた筋書きとは違う-検事が、自らの告発で最も重要となった事実を否定したのである。その特捜検事は、それを『被疑者のワナ』だと言った。興味深い言葉だが、とすると、一審、二審、そして最高裁の裁判官たちも『被疑者のワナ』に引っかかり、誤った判決を下してしまったということになるのか」。
(私論.私見) 伊藤調書に対する数々の疑義考
 これは、読み取る力さえあれば通常は爆弾発言である。問題は、この爆弾発言が、政界と司法界に何ら衝撃を与えないという知的貧困ぶりにある!「カエルのツラにションベン」とはこのことか。「馬の耳に念仏」とはこのことか。

【5億円授受疑問その1、伊藤の受渡し証言の杜撰さ】

 伊藤調書では、田中の受託収賄罪の核心部分の一つになる榎本と伊藤間の五億円のワイロの受け渡し場面がまことしやかに記述されていた。以下略述する。ロッキード社は、大久保に「5億円を一度に支払うのは無理なので、4回に分けたい」と提案し、丸紅側はこれを呑んだ。そして現金を受け取るたびに、〝ピーナッ〟、〝ピーシズ〟などの領収書を書くことになった。一ピーナッ、一ピーシズが100万円を意味していた。

1回目  英国大使館裏の路上で。
 73.8.9日、ロッキード社東京支社長のクラッターから大久保に「1億円の現金が用意できた」との電話があり、秘書課員の野見山国光が〝ピーナッ100個〟という領収書をクラッターに届けた。領収書を書いたのは、なぜかトライスター売り込みの責任者である大久保ではなくて伊藤であった。
 翌10日、午前8時頃野見山が、松岡克浩の運転する車でロッキード社東京事務所に行き、クラッターからダンボール箱に入った現金1億円を受け取った。
 野見山が丸紅に戻ると、伊藤は榎本に電話をかけ、両者が相談して、午後2時20分頃、英国大使館(東京都千代田区一番町一番地の)裏の道路上で授受することにした。榎本は、田中邸に勤務している笠原政則の運転する車で約束の場所に行き、ダンボール箱を受け取り、現金の入ったダンボール箱を丸紅の車のトランクから、田中家の車のトランクに移し替えた。
 目白の田中邸の奥座敷に運び込んだ。そのことを田中角栄に告げた。
2回目  伊藤の自宅に近い公衆電話ボックスの近くで。
 73.10.12日、クラッターから大久保に1億5千万円を引き渡すとの連絡があり、1回目と同様に伊藤が〝150ピーシズ〟との領収書を書いて、野見山がロッキード社東京事務所に受け取りに行った。
 1億5千万円の入ったダンボール箱を後部トランクに詰めた車が帰ってくると、伊藤は榎本に電話をかけて、午後2時30分頃、伊藤の自宅(千代田区富士見町の秀和レジデンス601号)に近い公衆電話ボックスの近くで授受することを約束した。
 この日、伊藤はホテルニューオータニで行われる結婚式に出席することになっていて、自宅で着替えをするために松岡の運転するダンボール箱を積んだ車で帰宅し、伊藤が着替えている間に、松岡から榎本へと、ダンボール箱が引き渡された。
 榎本の車の運転手は笠原で、1回目と同様に田中邸の奥座敷に運び込まれた。榎本は、そのことを田中角栄に報告した。
3回目  ホテルオークラの駐車場のホテルサイド玄関先で。
 74.1.21日この時は、クラッターが、1億25百万円の入ったダンボール箱を丸紅東京支店に運んできて、地下二階の駐車場で受け渡しが行われた。やはり伊藤が〝ピーシズ125個〟との領収書を書いた。
 午後2時30分ごろ、ホテルオークラの駐車場のホテルサイド玄関先で伊藤と榎本の間で授受が行われた。運転手は、松岡と笠原。
 ダンボール箱はやはり田中邸の奥座敷に運び込まれた。榎本は、そのことを田中角栄に報告した。
4回  伊藤の自宅
 74.3.1日、その前日の2.28日に、クラッターから受け取った1億25百万円の入ったダンボール箱を、伊藤は一旦自宅に持ち帰って、一晩玄関内に留め置いていた。
 3.1日、自宅で榎本に引き渡した。
 榎本は、笠原の運転する車で、やはり田中邸の奥座敷に運んだ。


 これが調書に記されていた現金授受の経過と様子である。いずれも人目を気にしながら、不自然なくらいにわざわざ人目につきやすい場所での受け渡しとなっている。諸君2001.8月号、田原氏の「『毒樹の果実』という法理」で、次のような遣り取りが明らかにされている。田原が、堀田力担当検事に、「この4回の場所は変ですね」と問うたところ、堀田は、「よほど慣れていない人がやったんでしょう」と素っ気なく返答しいる。しかし、受け渡しの当事者とされる榎本秘書は、政治資金を含め調達、采配のベテランであり、素人である訳がない。これを、1・伊藤の事実の供述と見るか、2・検事の誘導作文と見るか、3・その場合授受の相手先のすり替えと見るか、4・そもそも捏造と見るか、によって調書の評価が大いに変わってくる。

 問題は、こうして生々しいダンボール箱の受け渡しが明るみにされてはいるものの、これを精査していくと不自然な個所が多く、渡した側の伊藤の供述も肝心なところが曖昧で、本人自身「細かい日時なども含めて詳細な点を思い出すことができず」、「私は細かい点を思い出せないから、君の記憶に頼るしかない。できる限り検察に協力するように」なる上申書を書いて、検事誘導で運転手の松岡克浩(通常は参考人として呼ばれるところ、この時は逮捕されている)に証言させている。

 ところが、松岡も、「知らないことは知らない」で何のことやら要領を得ず、困った挙句、「場所を知っているんだったら教えてください。いくらでも描きますから」と述べ、検察の誘導に従って書き上げたという経過を見せている。この時松岡は、概要「早く釈放されて帰りたい一心であった」と後日明らかにしている。

 伊藤にせよ、松岡にせよ、特異な遣り取りは記憶に鮮明に焼きつくことがありこそすれ、その記憶が曖昧になるということは通常あり得ないことではなかろうか。こういう調子であることからして書き上げられた調書でしかないことが判明している。

 今日冷静になって考えれば、角栄側には5億円の金額をわざわざ「白昼に、天下の公道で、スリラーじみた振る舞いで受け渡しする」必然性がない。むしろ、この証言には裏付け証拠が少な過ぎ、「実際に伊藤と榎本の現金授受を直接裏付ける客観的証拠は何もない」変な具合の調書になっており、いずれにせよ検事の作成した文案に誘導され署名押印した臭いが強い。
 

 ロ事件で第一審から最高裁まで田中の弁護を担当し、今も田中の無罪を信じて疑わないた木村喜助弁護人は、最近出版した「田中角栄の真実――弁護人から見たロッキード事件」の中で、「私も高齢者といわれる年齢になった。いまのうちに、この事件はマスコミが喧伝したような明々白々とした事件ではなく、一、二審で有罪判決は出たものの、田中先生は無罪であると確信しており、百歩譲っても限りなく不透明な事件で有罪にはできないことをどうしても明らかにしておく必要があると考えた」との前置きした後次のように断定している。

 「(ダンボール箱ストーリーについて)いやしくも時の総理大臣に対する献金を路上などで本当に行なうものだろうか。人目につきにくい路上などあるのだろうかと強い疑問を抱き、あらゆる調書などを点検した結論として、田中側の運転手がつけていた運転日報とロ社側の領収証の日付を付き合わせ、金を渡した日は領収証の日付に近接した日として、それに適当な場所を、取調べ検事が頭で考えて作り出したものであったのだ」。

 宮崎学・氏は、「民主主義の原価」で次のように疑問を投げかけている。

 「木村喜助弁護士によれば、3回目の金銭授受の日とされた74.1.21日は午後から暴風雨で、都内でも高速道路が閉鎖されていた。このような日の午後4時40分にホテルオークラの玄関前で金銭授受が行われたと調書にあるというのだ」。

 ほかにも検事の作文調書と言い切っている個所が、この本にはいくつもあり、木村氏の主張どおりなら、事件全体が作文で固められたフィクションということになってしまう。木村喜助氏は検事から弁護士に転じたヤメ検上がりの弁護士で、今になってわざわざこのことを主張する法益は無いことも考え合わせると、我々はこの木村氏の指摘にもっと関心を寄せても良いだろう。

 仮にこの通りだとして、金銭授受に関わったのは伊藤宏とその運転手松岡、榎本とその運転手笠原の4名である。笠原運転手は取調べ直後に自殺とされる変死を遂げている。そのうち榎本と松岡は、テレビ朝日昭和58.2.11日放映の田原総一朗、高野孟(はじめ)らのインタビューで、次のように語っている。

榎本  概要「検察側の主張は全く違う」。
松岡運転手  概要「検事がしつこく誘導するので、云われるままに地図を書いた。要するに何でもいいから早く終わらせて、そこから解放されたかった」。

 つまり、当事者とされている二人ともが金銭の授受行為を否定するという爆弾発言をしたことになる。松岡運転手は、その後あるゴルフ場で、原因不明のまま急死している。ちなみに、伊藤も公判では、「4回の時と場所について、はっきり覚えがない」と調書陳述を翻している。桧山被告の弁護人は、最終弁論の際、「個人的な意見で申し上げるが、問題の金銭の授受は、検察の言う時と場所では行われなかったものと確信する」と述べている。当然桧山本人の言が代弁されたものである。

 こうなると、検察側の訴状は、ロッキード事件の最も重要な金銭授受の有りやなしやにおいて破綻しており、この一点だけでもこの裁判は空中分解しているとさえ言えるであろう。

(私論.私見) 「ホテルオークラ絡みの事件」考
 伊藤供述書の「ホテルオークラの駐車場のホテルサイド玄関先での金銭授受」は何やら暗示的ではなかろうか。従来、これを「荒唐無稽にも」と云う線で読んできた。しかし今気づいた。ホテルオークラはアメリカ大使館は隣接しており、秘密の地下通路があると云う。そういう曰くつきのホテルでの金銭授受ストーリーを拵えていることになる。その意味するところは、「これはアメリカ大使館絡みの国際シナリオである」と云う裏メッセージなのではなかろうか。日頃、国際金融資本に飼われて立身出世したシオ二スタン組合員一同は、「ホテルオークラ絡みの事件」と聞いただけで直立不動となり、後は云いつけに唯々諾々となるのではなかろうか。そういうことだったのかと今にして思う。

 この発想を得たのは、「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ61」の愛国日本氏の2013.3.4日付け投稿「日本の将来、世界の将来はどうなるのか (小石泉の礼拝説教集)」の次の文章からである。感謝申し上げておく。

 悪夢から悪夢へ
 民主党の3年半は何だったのだろう。悪夢? あだ花? 迷走? 期待したほうが馬鹿だったのだ。結局、日本は自民党の国なのだなあと思う。驚くべきことに、安倍氏の登場を今年の3月に予言していた人物がいる。まだ誰も安倍氏のことなど夢に思わなかった時である。“ゆう”という、その人によると選挙前に、「橋下氏と前原政調会長は、この前ホテルオークラで秘密裏に会い、そして地下通路を使って駐日米国大使館に入っていったらジョセフナイ、リチャードアーミテージ、マイケルジョナサングリーンさらにはカートキャンベルという事実上『日本のトップ』たちが待っていたようです」ということになる。

 (ホテルオークラとアメリカ大使館は隣接している) これは非常に信憑性が高い。私は人づてに聞いたのでその人物へのアクセス方法は知らない。今回の選挙は完全に操作されていたという。得票数は減っていると言うのに自民党がこれほど大勝するのもおかしい。それにしても民主党はひどかった。マニフェストなどという約束を全て反古にした。これでは勝てっこない。今回ほどしらけた選挙も珍しい。結局日本はアメリカの植民地なのだと言う実感を持った。しかし、間もなくこの束縛も消える日が来るだろう。


 小泉牧師紹介のこの証言の真相はさておき、「ホテルオークラとアメリカ大使館は隣接している」は動くまい。そういう意味で、「ホテルオークラ絡みの事件」にはアンテナを働かせておきたい。その芸能版が「六本木ヒルズ絡みの事件」なのではなかろうか。

 2013.3.4日 れんだいこ拝

 れんだいこのカンテラ時評№1118  投稿者:れんだいこ投稿日:2013年 3月 4日
 「ホテルオークラ絡みの事件」考

「★阿修羅♪Ψ空耳の丘Ψ61」の愛国日本氏の2013.3.4日付け投稿「日本の将来、世界の将来はどうなるのか (小石泉の礼拝説教集)」が次のように伝えている。

 「『橋下氏と前原政調会長は、この前ホテルオークラで秘密裏に会い、そして地下通路を使って駐日米国大使館に入っていったらジョセフナイ、リチャードアーミテージ、マイケルジョナサングリーンさらにはカートキャンベルという事実上『日本のトップ』たちが待っていたようです』ということになる。(ホテルオークラとアメリカ大使館は隣接している) これは非常に信憑性が高い。私は人づてに聞いたのでその人物へのアクセス方法は知らない」。

 小泉牧師紹介のこの証言の真相はさておき、「ホテルオークラとアメリカ大使館は隣接している」は動くまい。今、地図で確認すると確かに隣接している。ホテルオークラとアメリカ大使館が地下通路で繫がっているのかどうか。これは確かめようがないとすべきだろうが、確かめられないものでも確かなことがある。そういう例としよう。

 「ホテルオークラ」で、れんだいこが思い出すのは、ロッキード事件の贈収賄容疑の決め手となった伊藤供述書の「ホテルオークラの駐車場のホテルサイド玄関先での金銭授受」の下りである。これにつき、れんだいこは従来「荒唐無稽にも」と云う線で読んできた。しかし今気づいた。そう単純ではない、裏意味があるのではなかろうかと。

 ホテルオークラはアメリカ大使館は隣接しており秘密の地下通路があるとして、そういう曰くつきのホテルの玄関先での金銭授受と云うことになれば、それが拵えられたストーリーであろうとも、その意味するところは「これはアメリカ様の絶対命令的シナリオである」と云う裏メッセージとなっているのではなかろうか。

 そうならば、日頃、国際金融資本に飼われて立身出世したシオ二スタン一同は、「ホテルオークラ絡みの事件」と聞いただけで直立不動となり、後は角栄訴追の云いつけに唯々諾々となるしかなく、お調子者はアメリカ様のお墨付きをバックにはしゃぎ廻るのではなかろうか。そういうことだったのかと今にして思う。そういう意味で今後は、「ホテルオークラ絡みの事件」とならばアンテナを働かせておきたい。その芸能版が「六本木ヒルズ絡みの事件」なのではなかろうかとも思う。


 jinsei/

【5億円授受疑問その2、5億円報酬の支払い時期の遅延について】
 ところで何と不自然なことに、検事誘導調書の言うように仮に5億円授受が為されていたとしても、支払い時期が大幅に遅延している。その理由を述べた伊藤の陳述は人を食ったような論旨で次のように述べている。
 「遅れたことについては、検事から、『わけがあるんだろう』、『その時お金が渡ることになった理由を考えろ』と迫られて、72年8月頃に桧山社長と『事前謀議』した云々と供述した」

 ところが、公判では、桧山氏、伊藤氏とも「事前謀議」を為したことを否定している。ということは、これも又検事の作文であるということになるが、マスコミも含めてこの問題を不問にしている。

 実際に5億円の支払いが遅れた理由を木村弁護人から質されると、「私には今もって分かりません」と答えている。他方で、児玉誉士夫については日を置かず13億円支払われたことになっているが、児玉に支払った時期に総理に支払っていない不自然さを突かれて、木村弁護人の「あり得べきことと思いますか」の質疑に、「常識的にはあり得べからざることと思います」と答えている。ちなみに二審判決では、「ほとぼりが冷めるまで受け渡しを延ばす配慮」として遅延理由を推測するという迷文を書き残している。田原氏は、概要「そういう証拠も気配もない。裁判官の憶測に過ぎない。まるで説得力がない」と指摘している。 

 5億円の支払いを8ヶ月間も放置して後、「榎本敏夫が73年6月末に催促してきたため支払うことになった」と検事調書は記しているが、木村弁護人の質疑に答えた榎本氏は、催促を為したことを否定し、検事の取調べでも一貫して否定していることを明らかにした。つまり、「検事の取調べでも、公判でも一貫して催促を否定」したことになった。

 田原氏は、「誰かが嘘をついている」論文で次のように述べている。
 「榎本の『催促』が、もし木村の指摘する通り無かったとなると、ロッキード事件の構造は根底から崩れてしまうことになる」。

 その他重要な点での不整合が際立つ答弁が為されているが、マスコミも含めてこの問題を不問にした。 

【5億円授受疑問その3、5億円授受に於ける伊藤・榎本間の打ち合わせの不整合について
 検事調書によると、72.8.25日と11.16日伊藤と榎本は赤坂の料亭「木の下」で、伊藤から「おかげさまで全日空はロッキードに決まりました。これは些少ですが、丸紅からのお礼として総理に渡してください」と云って、現金1000万円を渡したこと、その席で、5億円の授受方法等について話し合いが為されたとある。

 ところが、公判では、伊藤が丸紅の秘書課長から受け取ったところまでは認めたものの、「総理に渡してくださいといって1000万円を榎本に渡した」発言を「そんなことは申し上げていない」と全否定した。6人の政治家への3000万円の中から1000万円を捻出したとの調書内容についても、「全て検事さんのストーリーに合わせた」と検事作文であることを明らかにした。何と第103回公判では、伊藤を取り調べた松尾検事自身がそのことを認めざるを得なかった。

 榎本は、会食の事実を認めたものの、世事全般の四方山話をしたきりで「ロッキード社とかトライスターなどという話は全くでなかった」、「当然1000万円は貰っておらず」、「(伊藤氏が渡したと言い張るのであれば)伊藤さんと(法廷で)対決させてくれれば全て明らかになる」と主張した。この1000万円については、田中・榎本弁護団のみならず丸紅側弁護団も、伊藤の供述を疑惑して、伊藤が着服したのではないかと推定されている。 

【5億円授受疑問その4、5億円の運び先について
 5億円は、判決では田中の私邸に運び込まれたとされている。しかし、越山会の佐藤昭子の伝では佐藤を素通りして私邸に直接運び込まれるなぞ例が無いということと、必然性が無いと主張している。 

(私論.私見) それでもあなたは5億円授受を信じるのか
 以上、1・伊藤の受渡し証言の杜撰さ、2・5億円報酬の支払い時期の遅延、3・5億円授受に於ける伊藤・榎本間の打ち合わせの不整合、4・5億円の運び先についての4点から「5億円授受問題」の不自然さを検討した。「それでもあなたは5億円授受を信じるのか」、れんだいこならずともそういう疑問を覚えるべきだろう。

 2005.5.22日 れんだいこ拝

【田原総一朗と田中森一の対談「検察を支配する悪魔」の暴露する5億円授受ストーリーの内情】
 田原総一朗と田中森一の対談「検察を支配する悪魔」(講談社、2007.12.6日初版)が次のように記している。

 第三章 絶対有罪が作られる場所

 p80~ ロッキード事件の金銭授受は不自然---田原

 ここからは、ロッキード事件の話をしたい。ロッキード事件で田中角栄は、トライスター機を日本が購入するにあたって、ロッキード社から4回にわたって、丸紅を通じて計5億円の賄賂を受けと取ったとして、1983年10月に受託収賄罪で懲役四年、追徴金5億円の判決を受けましたね。

 この4回あったとされる現金の受け渡し場所からしても、常識から考えておかしい。1回目は1973年8月10日午後2時20分頃で、丸紅の伊藤宏専務が松岡克浩の運転する車に乗り、英国大使館裏の道路で、田中の秘書、榎本敏夫に1億円入りの段ボール箱を渡した。2回目は同年10月12日午後2時30分頃、自宅に近い公衆電話ボックス前で、榎本に1億5000万円入りの段ボール箱を。

 3回目は翌年の1月21日午後4時30分頃、1億2500万円入りの段ボール箱がホテルオークラの駐車場で、伊藤から榎本に渡された。そして、同年3月1日午前8時頃、伊藤の自宅を訪れた榎本が、1億2500万円が入った段ボール箱を受け取ったとされている。最後の伊藤の自宅での受け渡しはともかく、他の3回は、誰が見ても大金の受け渡し場所としては不自然です。とくに3回目のホテルオークラは、検察のでっちあげ虚構としか思えない。

 伊藤の運転手だった松岡にインタビューしたところ、検察によって3回も受け渡し場所を変更させられたと言う。もともと松岡は、受け渡しに対して記憶はまったくなかったのですが、検事から伊藤の調書を見せられ、そんなこともあったかもしれないと、曖昧なまま検察の指示に従った。検事が、最初、3回目の授受の場所として指定してきたのは、ホテルオークラの正面玄関です。松岡は検事の命令に添って、正面玄関前に止まっている2台の車の図を描いた。

 でも考えてみれば、こんなところで1億2500万円入りの段ボール箱の積み下ろしなどするわけがない。正面玄関には、制服を着たボーイもいれば、客の出入りも激しい。おまけに、車寄せに2台車を止めて段ボール箱を運び込んだら、嫌でも人の目につく。検察も実際にホテルオークラに行ってみて、それに気が付いたんでしょう。体調を崩して大蔵病院に入院していた松岡の元に検察事務官が訪ねてきて、「ホテルオークラの玄関前には、右側と左側に駐車場がある。あなたが言っていた場所は左側だ」と訂正を求めた。それでも、まだ不自然だと考えたのでしょう。しばらくしたら、また検察事務官がやってきて、今度は5階の正面玄関ではなく、1階の入り口の駐車場に変えさせられたと言います。

 それだけならまだしも、おかしなことに、伊藤が描いた受け渡し場所も変更されていた。最初の検事調書では、伊藤も松岡とほぼ同じ絵を描いている。松岡の調書が5階の正面玄関から1階の宴会場前の駐車場に変更後、伊藤の検事調書も同様に変わっていた。

 打ち合わせもまったくなく、両者が授受の場所を間違え、後で揃って同じ場所に訂正するなんてことが、あり得るわけがない。検事が強引に変えさせたと判断するしかありません。百歩譲って、そのような偶然が起りえたとしても、この日の受け渡し場所の状況を考えると、検事のでっち上げとしか考えられない。

 この日、ホテルオークラの宴会場では、法務大臣や衆議院議長などを歴任した前尾繁三郎を激励する会が開かれていて、調書の授受の時刻には、数多くの政財界人、マスコミの人間がいたと思われる。顔見知りに会いかねない場所に、伊藤や田中の秘書、榎本が出かけていってカネをやり取りするのは、あまりにも不自然です。しかも、この日の東京は記録的な大雪。調書が事実だとすれば、伊藤と田中の秘書が雪の降りしきる屋外駐車場で、30分以上立ち話をしていたことになる。しかし、誰の口からも、雪という言葉が一切出ていません。万事がこんな調子で、榎本にインタビューしても、4回目の授受は検察がつくりあげたストーリーだと明言していました。

 もっとも、丸紅から5億円受け取ったことに関して彼は否定しなかった。伊藤の自宅で、5億円を受け取ったと。それは、あくまでも丸紅からの政治献金、田中角栄が総理に就任した祝い金だと。だから、伊藤は、せいぜい罪に問われても、政治資金規正法だと踏んだ。そして、検察から責め立てられ、受けとったのは事実だから、場所はどこでも五十歩百歩と考えるようになり、検察のでたらめにも応じたのだと答えた。つまり、検察は政治資金規正法ではなく、何があっても罪の重い受託収賄罪で田中角栄を起訴したかった。そのためにも、無理やりにでも授受の場所を仕立てる必要があったというわけでしょう。

 p83~ 法務省に事前に送られる筋書き---田中

 ロッキード事件のカネの受け渡し場所は、普通に考えておかしい。またそれを認めた裁判所も裁判所ですよ。ロッキード事件以来、ある意味、検察の正義はいびつになってしまった。政界をバックにした大きな事件に発展しそうな場合、最初に、検察によってストーリーがつくられる。被疑者を調べずに周りだけ調べて、後は推測で筋を立てる。この時点では、ほとんど真実は把握できていないので、単なる推測に過ぎない。

 でも、初めに組み立てた推測による筋書きが、検察の正義になってしまうのです。なぜ、そんなおかしなことになるかと言えば、政界や官界に波及する可能性がある事件の捜査については、法務省の刑事課長から刑事局長に、場合によっては、内閣の法務大臣にまであげて了解をもらわなければ着手できない決まりになっているからです。とくに特捜で扱う事件は、そのほとんどが国会の質問事項になるため、事前に法務省にその筋書きを送る。

 いったん上にあげて、了承してもらったストーリー展開が狂ったら、どうなりますか?検察の組織自体が否定されますよ。事件を内偵していた特捜の検事がクビになるだけでなく、検察に対する国民の信頼もなくなる。

 本当は長い目で見たら、途中で間違っていましたと認めるほうが国民の信頼につながる。それは理屈として特捜もわかっているけれど、検察という組織の保身のためには、ごり押しせざるを得ないのが現実です。

 特捜の部長や上層部がなんぼ偉いといっても、一番事件の真相を知っているのは被疑者ですよ。その言い分をぜんぜん聞かず、ストーリーをどんどん組み立てる。確かに外部に秘密がまれたり、いろいろあるから、その方法が一番いいのかもしれないが、だったら途中で修正しなければいけない。

 ところが、大きい事件はまず軌道修正しない。いや大きい事件になるほど修正できない。だから、特捜に捕まった人はみんな、後で検察のストーリー通りになり、冤罪をきせられたと不服を洩らす。僕を筆頭として、リクルート事件の江副浩正、KSD事件の村上正邦、鈴木宗男議員と連座した外務省の佐藤優、村上ファンドの村上世彰(よしあき)、ライブドア事件の堀江貴文・・・全員、不満たらたらで検察のやり方を非難している。

 これを特捜が謙虚に反省すればいいのですが、特捜はそんなことはまったく頭にない。「あのバカども、何を言っていやがるんだ」という驕りがあり、最初にストーリーありきの捜査法は一向に改善されません。

 p85~ 尋問せずに事実関係に勝手に手を入れる---田中
 
 とくに東京の特捜では、まずストーリーありきの捜査しかしない。被害者を加害者に仕立て上げてしまった平和相銀事件がいい例ですよ。東京に来て驚いたのは、調書ひとつをとっても、上が介入する。調書作成段階で、副部長や主任の手が入ることも多く、筋書きと大幅に異なったり、筋書きを否定するような供述があると、ボツにされる。だから、検事たちも、尋問をするときから、検察の上層部が描いた筋書きに添う供述を、テクニックを弄して取っていく。

 僕も手練手管を弄して自分の描いた筋書きに被疑者を誘導することはありましたよ。しかし、それは、あくまでも現場で捜査に携わっている人間だから許されることだと思う。捜査をしている現場の検事は、こりゃあ違うなと感じれば、軌道修正する。被疑者のナマの声を聞いて判断するので、自分の想定したストーリーが明らかに事実と違えば、それ以上はごり押しできない。人間、誰しも良心がありますから。

 しかし東京では、尋問もしていない上役が事実関係に手を入れる。彼らは被疑者と接していないので容赦ない。被疑者が、これは検事の作文だよとよく非難しますが、故のないことではないと思った。恐ろしいと思いましたよ。冤罪をでっち上げることにもなりかねないので。だから、僕は東京のやり方には従わなかった。大阪流で押し通した。上がなんぼ「俺の言う通りに直せ」といっても、「実際に尋問もしていない人の言うことなんか聞けるか」で、はねのけた。

 p86~ 大物検事も認めた稚拙なつくりごと---田原

 4回目の授受の場所を特定したのは誰か---ロッキード事件に関わった東京地検特捜部のある検事にこの質問をしたところ、彼は匿名を条件に「誰にも話したことはないが」と前置きして、次のように当時の心境を語っていた。

 「ストーリーは検事が作ったのではなく、精神的にも肉体的にも追いつめられた被告の誰かが・・・カネを受け取ったことは自供するけれども・・・あとでお前はなぜ喋ったんだといわれたときのエクスキューズとして、日時と場所は嘘を言ったのじゃないか。そして、それに検事が乗ってしまったのじゃないか、と思ったことはある。田中、榎本弁護団が、それで攻めてきたら危ないと、ものすごく怖かった」。

 この元検事の証言を、事件が発覚したときに渡米し、資料の入手やロッキード社のコーチャン、クラッターの嘱託尋問実現に奔走した堀田力元検事にぶつけると、「受け渡しはもともと不自然で子どもっぽいというか、素人っぽいというか。恐らく大金の授受などしたことがない人たちが考えたとしか思えない」と語っていました。堀田さんは取り調べには直接タッチしていない。だからこそ言える、正直な感想なんでしょうけれど、どう考えても、あの受け渡し場所は稚拙なつくりごとだと認めていましたよ。


【桧山被告の供述書疑義問題】

 桧山は7.13日、逮捕された。桧山の人となりは次の通りである。

 「昭和7年に東京商科大学(現・一橋大学の前身)を卒業、丸紅に入社。戦中、戦後の混乱期を商社マンとして生き抜き、高度成長時代には、海外を飛び回って猛烈サラリーマンとして活躍。早くも昭和27年に取締役に抜擢されているほどの逸材で、以降、出世コースをまっしぐら。常務、専務、副社長を経て、39年から11年間社長を務めた。

 この間、大阪の繊維会社でしかなかった丸紅を、総合商社に引き上げ、業界№3にまで躍進させた。この功績は桧山のリーダーシップに拠るところ大と賞賛されている。その反面、米の買占めなど、なり振り構わぬ商法が批判されたこともあったが、桧山の実力は世界のビジネスマンから高く評価されていた。

 財界活動でもVIPの名前をほしいままにし、日本貿易会副会長、関西経済連合会常任理事、経団連常任理事などを歴任。財界の『論客』としても有名で、経済記者を集めては、世界を視野に入れた天下国家論をとうとうと語ることを趣味としていた。処世訓は『至誠一貫』」。

 桧山の取り調べは安保憲治・検事が当たった。8.10日、桧山の供述検事調書が作成されている。この時の「桧山自供ストーリー」が次のようにまことしやかに公報されている。それによれば、頑なに調書作成を拒否していた桧山が、安保検事の身の上話を聞くことにより恥じるところとなり、積極的に真実を述べるに至ったという。桧山は公判で、安保検事作文によるこの「お涙シーン」の信憑性について真っ向から否定し、詮議されるところとなった。

 そのことをひとまず置くとして、桧山調書では、72.8.23日に目白邸を詣で、田中首相に対し、全日空が大型機を輸入するにあたっては、ダグラス社のDC10ではなく、ロッキード社のL1011という機種を選定するように働きかけて欲しいと縷縷尽力を要請し、見返りとして5億円を贈ることを約束したと書かれている。田中首相は、桧山に対し、「よしゃ、よしゃ」と快諾した旨が記載されている。この陳述は、桧山逮捕後29日目のものではあるが、請託と約束があったと明記されており、これが検事側からする唯一の証拠能力を持つ調書となった。

 この檜山調書の真実性を廻って、公判で完全否定側の田中及びその弁護人と検察間で激しく争われることになった。ちなみに、田中自身の受託収賄を裏付けるのは、この部分を記した桧山調書だけが証拠でこれ以外には全くないという奇妙な構図がここにある。一国の元首相犯罪を立件するにしては杜撰さが過ぎようと云うべきである。

 補足すれば、檜山氏は、公判途中より目白邸へ挨拶に行ったところまでを認め、後の部分は検事の作文であると主張するところとなった。こうなると「よしゃ、よしゃ」の遣り取りそのものが疑わしいということになる。

 公判で、石黒検事と角栄の間で、この時の請託の質疑が為されている。要約すると次のようになる。

石黒  「72.8.23日に、あなたの私邸事務所で丸紅社長とあったことはないか」。
角栄  「記憶にはないが、翌日の日経新聞『首相官邸』欄の記載によると、午前7時に15組の訪問客があり、その中に名前があるので、来宅したことは事実のようです。用件については『全く記憶していません』。格別の話が無かったので、記憶に残っていないのだと思います」。
石黒  「桧山から助力願いたい旨の依頼はありませんでしたか」。
角栄  「『全然有りません』。桧山氏は、飛行機のことで私のところに頼みに来るような人ではありません。私は桧山氏や丸紅とは親しい付き合いではないので、そういうことを頼みに来るはずがないのであります」。
石黒  「成功報酬として5億円の申し出がなされたのではないのか」。
角栄  「『そのようなことは断じてありません』。15組も訪問客があって次々と会いごった返している中で、そんな話ができたり、あったと考えること自体無理であり、現実離れしていると思います」。

 こうして、田中は、桧山からの請託も、5億円を受け取る話も、終始一貫して否定し続けた。田原氏の「誰かが嘘をついている」は、驚愕の事実を明らかにした。桧山を取り調べ調書を作成したのは安保憲治検事であったが、80.10.8日の堀田力検事の尋問に答えて為した「桧山自供ストーリー」が、捏造の疑いが強いことを明らかにしている。「桧山自供ストーリー」とは、桧山調書が作成される契機になった「お涙シーン」のことを云う。 それによれば、頑なに調書作成を拒否していた桧山が、安保検事の身の上話を聞くことにより恥じるところとなり、積極的に真実を述べるに至ったという逸話が為されていた。

 田原論文は、79.11.21日の第84回公判で、堀田検事の質問に答えて、桧山が概要「請託問答は検事の作文である」と述べていることを明らかにしている。79.12.12日の第88回公判で、宮原弁護士の「調書に書かれていることは事実ですか」の問いに、桧山が「事実と違います」と強く否定したことを明らかにしている。

 この時、桧山は、概要「桧山自供ストーリー」そのものを真っ向から否定し、真相はこうであるとして次のように述べている。

 「安保検事が非常に激昂して『この嘘つきめ』とか『国賊め』などと罵声を浴びせ、『拘禁したままで、二年でも三年でもやろうぜ』と恫喝され、最後には『ああ、どうぞ調書に勝手にお書き込みください』となった」。

 かく検事の作文経過を暴露したことを明らかにしている。これが実際であったとすると、この一点からでも、当の検事のみならず検察トップに責任が及ぶのが必死というべきであろう。

 れんだいこの「左往来人生学院」に、2005.2.19日付で「kinlaw」氏の「安保憲治氏について」が投稿された。これを転載しておく。
 こんにちは、元東京地検特捜部検事だった安保憲治氏についてお話させて頂きます。まず、私は安保憲治氏と私の祖父が同僚であった関係から安保氏について知るようになりました。ですから伝聞ではありますが事実だと思います。

 現在、安保氏が生存しているかは祖父が亡くなってしまったので不明ですが、生存しているならば70代後半だと思われます。安保氏は、秋田?生まれ(違うとしても東北)で、多くの兄弟の長男として生まれました、家計を助けるために小学校卒業後、土木作業員などしていたそうです。一番下の兄弟が自立後、日本大学法学部の通信制に入学し、ダンス教室を経営して生計をたてていたそうです。その後、二部、一部と転部し日本大学を卒業後に司法試験合格。

 昭和30年ごろ検事に任官し、特捜部の生みの親とも言うべき河合信太郎検事のもとで吉永祐介(元検事総長)とともに捜査技術を学びました。ロッキード事件の時点では横浜地検の総務部長でしたが、主任検事だった吉永氏にお願いされ捜査陣に加わり、丸紅会長の檜山広氏の担当検事となり、自白を引き出すなどの活躍をしました。その後、釧路地検検事正を経て山形地検検事正を最後に退官し、公証人となられました。
(私論.私見) 「安保憲治考」
 安保氏は、歴史責任上、「檜山調書作成過程の真相」を明らかにしておく義務が有ると考える。檜山調書の作成契機が「お涙シーン」にあったのか、「恫喝屈服」に拠ったのか、その際に上からの政治圧力があったのかなかったのか、あったとすればどのようなものであったのか、それを明らかにしておく責務があると考える。

 どうぞこの声が聞き届けられますように。れんだいこは、今に至る「司法の腐敗」の直接的契機となったと考えるので、重要なテーマである。その場面をできるだけ克明に書き綴って欲しい。なぜなら、ウソならばれるから。

 2005.3.6日 れんだいこ拝

【若狭被告の供述書疑義問題】
 秦野章・氏の「角を矯めて牛を殺すなかれ」は次のように記している。
 「ロッキード事件のとき、全日空社長であった若狭得治氏も、調書の内容が真実でないと主張しても、検事は全く聞く耳を持たず、とにかく内容に違うところがあれば、公判廷で主張すればいいのだと強引に要請されたので、とうとう負けて捺印に応じたという。そして、法廷に登場したとき、検事の言うとおり、検事調書の内容について、そこは違うと主張した。そのことは検事調書作成のおり、検事に申し上げた、と申し立てたところ、裁判官に、しからば、被告人は検事が偽証しているというのかと反論されたという」。

【大庭被告の供述書疑義問題】
 若狭被告の検察批判を相殺する形で大庭が登場している。若狭被告は、全日空のロッキード社のトライスターL1011機種選定につき、田中首相の介入を否定したが、大庭被告は、その若狭被告の人格批判をする形で検察側有利な証言をする役割で登場している。

 この大庭の胡散臭い「全日空M資金事件」を確認しておく。「全日空M資金事件」その他を参照する。
 本所次郎『巨額暗黒資金―影の権力者の昭和史〈3巻〉』だいわ文庫(0709)に、その経緯が詳しく記述されている。

 大物運輸事務次官と称された若狭得治は、昭和44(1969)年5月30日に、全日本空輸(全日空)に、代表取締役副社長として迎えられた。全日空(ANA)は、今でこそ日本航空(JAL)と航空業界を2分する存在であるが、当時は圧倒的にナショナルフラッグ・キャリアであるJALの天下だった。JALに飲み込まれてしまうのではないか、という危機感が、若狭の獲得への動きになった。ANAの社長は大庭哲夫だった。大庭は、JALの社長の松尾静麿の子飼いだったから、大庭体制のANAは、JALの支配下にあったも同然だったといえる。

 この大庭が、「M資金」に乗った張本人ということになる。大庭は、以下のような依頼書を、「M資金」の紹介者に渡していた。
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  依頼書
一、金 額  金参阡億円也
二、期 間  拾ケ年切替参拾ケ年
三、利 息  壱ケ年四分五厘(後払い)
四、方 式  約定方式による
五、銀行名  株式会社日本興業銀行
六、依頼者  全日本空輸株式会社
         代表取締役 大庭 哲夫
七、担当者  常勤顧問  長谷村 資
 上記の条件をもって御依頼致します
  昭和四十四年八月二十五日 
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 この依頼書には、代表者と担当者の実印が捺印されていた。依頼書とは別に、手数料について記した「念書」を紹介者に渡しており、それにも2人の実印が押してあった。

 この依頼書と念書が、総会屋や暴力団に出回った。担当者の長谷村は、日本銀行から日本輸出入銀行(輸銀)に出向した。輸銀時代の長谷村は、輸出船ジュネの融資審査を担当していたが、積極的に融資許可を出す姿勢だった。それが、輸銀と同じビルにあった日本開発銀行(開銀)総裁の小林中の目にとまり、小林の勉強会のメンバーになった。長谷村は、山下太郎が政財界の支援のもとに設立したアラビア石油が締結したサウジアラビアやクウェートとの石油利権協定に関連して、石油産出の可能性の事前調査の特命を帯びてイランに行くことになった。長谷村は、上司の日本興業銀行から出向していた湯原章郎審査部次長と共に、テヘランに飛んだ。寺岡イラン大使によって、石油情報はアバダンの方が豊富にあると教えられ、アバダンでNIOC(ナショナル・イラニアン・オイル・カンパニー)から調査資料を入手し、油が出ることを確信した。実際に、1年3ヵ月に、アラビア石油は大規模油田を発見し、カフジ油田と命名された。アラビア石油の採掘権は2000年に失効したが、伝説の名編集長と語り継がれている遠藤麟一朗氏が、アラビア石油のカフジで働いていたことについて触れたことがある(08年5月28日の項)。

 カフジ油田の発見からさらに3ヵ月後、小林中にアラビア石油への転職を要請され、カフジに行くことになったが、小林が東京に置いておくように求めた。長谷村は、昭和39(1964)年5月、富士石油をスタートさせ、コンビナート建設に取り組むことになった。8月末に、長谷村は小林に呼ばれ、佐藤栄作の許に行き、私設秘書として行動するよう命じられる。佐藤の長男竜太郎が、アラビア石油で長谷村の部下だったことも関係していたようであるが、その頃、池田に喉頭ガンが発見され、それを知った小林が、長谷村を佐藤に近づけたのだった。佐藤は、池田勇人に総裁選で敗れ、当時は無任所だった。

 池田は、昭和39(1964)年東京オリンピック閉会式の翌日の10月25日に辞意を表明、11月9日に池田の指名により佐藤栄作が総理の座についた。当時、財界四天王と呼ばれた小林中、水野成夫(国策パルプ社長)、永野重雄(富士製鉄社長)、桜田武(日清紡績会長)が、池田政権を支えていたが、四天王は池田に続き佐藤政権も積極的に支える姿勢を継続した。

 長谷村が係わった富士石油は、住友化学や東京電力などと共に、沼津・三島石油コンビナートを計画するが、地元の強い反対によって計画は頓挫した。海岸線と豊富な水に恵まれていたことがコンビナートの適地と判断されたのだった。いま、名水として知られる柿田川は、同コンビナート計画の中心に位置している。高度成長期で各地でコンビナートが建設されている時代、計画を撤回させて豊かな自然環境を保全し得たことは、戦後史を画する出来事だったといえるだろう。


【「雑感日々思うこと」の2011.1.23日付けブログ「事件のひな型&記事のひな型」の指摘考】
 「雑感日々思うこと」の2011.1.23日付けブログ「事件のひな型&記事のひな型」が次のように指摘している。参考になるので転載しておく。
 今から28年前、つまり西暦1983年、昭和でいうと58年に刊行された”田中角栄の読み方”(高野孟著)という本がある。その中の文章を引用しもって登場人物・場所を入れ替えてみた。そしたら、今回の西松・陸山会事件とロッキード事件があまりにもそっくりなので驚くやらあきれるやらで。検察には、はじめから事件のひな形が存在をしていて、それにあわせて登場人物を配置して捜査・起訴を繰り返してきたのではないだろうかと思えてならない。

 
普通、ワイロの受け渡しというのは、絶対に第三者の目に触れないところでやる。丸紅(水谷)なら丸紅(水谷)の応接室とか、伊藤(水谷元会長)の自宅とか田中邸(小沢邸)の奥座敷とか、あるいは料亭で芸者を呼び入れる前にとか相場は決まっている。そうゆうときには、芸者はもちろん腹心の者やお茶汲みの事務員すら遠ざけて、受け渡しの瞬間だけは人に見られないようにするのが、ごく初歩的な政界の”常識”なのである。それなのに、なんだって白昼堂々、人通りも決して少なくないイギリス大使館裏の路上(都内のホテルの喫茶店)で、大きなダンボール箱(大きな紙袋)を車から車へ移しかえ(喫茶店で手渡)なければいけないのか。もし田中邸(小沢邸)へ運び込んで目立つというなら、多摩川でも越えたあたりの連れ込み旅館でやるとか、やりようはある。伊藤(水谷元会長)も榎本(大久保・石川)も、無名の人というわけではないし、第一両方の運転手(喫茶店にいるお客)がモロに目撃者になる。金権政治も極に達していて、一億円やそこら、どこでどうしようと・・・・というくらい、政財界の金銭感覚がマヒしていたからだという説明もありうるが、それならなおさら、テレビ映画じゃあるまいし、路上や電話ボックスの前やホテルの駐車場(ホテルの喫茶店)なんて”絵”になりそうなところばかり使うのか。まったくもって不可解なのである。

 もし田中側が言うようにこれがフィクションであるとすれば、検察がいきなりこんなディテールまで描くわけはないから、丸紅(水谷建設)の伊藤(水谷元会長)に何らか目的でそういうプロットを仕立てなければならない事情があったということになるが、それにしては供述が具体すぎる。反面では、調書段階でキレイに伊藤(検面調書)に足並みが揃っていた榎本(大久保)や松岡(西松建設元総務部長)の供述が、裁判では全面否定に近いかたちに引っくりかえっている。笠原の自殺まで含めて、田中側(小沢側)が強烈なプレッシャーをかけたからだというのが検察側がにおわせている見解。かたや田中側(小沢側)は、検察側が無理やりプロットにハメ込もうとして脅迫まがいのことまでやって調書を作り上げた、その心労に耐えかねて笠原も死を選んだのだと主張している。笠原氏の自殺をのぞいては、ほぼ全文名前を入れ替えるだけで今回の西松・陸山会事件が出来てしまう。今回は、ご丁寧に高野氏の文章を補完するような記事も新聞では流されいるから二度驚いてしまった。

 探したらまだ、あるだろうとは思うが。とりあえず毎日新聞と夕刊フジの記事を引用してみたい。

 毎日新聞 2010年2月4日 15時0分
 大久保秘書も特捜部の調べに元幹部らと面識があることを認め、「向島の料亭で2回接待を受けた」と供述したとされる。水谷建設元幹部らは「04年10月に都内のホテルで石川議員に5000万円を渡し、05年4月には大久保秘書に5000万円を渡した。国発注の胆沢(いさわ)ダム(岩手県奥州市)下請け工事の受注謝礼だった」と供述。これに対し石川議員、大久保秘書とも現金授受は否定している。
 夕刊フジ
 http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20100126/dms1001261629012-n2.htm


 「最強の捜査機関」による執念の捜査の一端が明らかになった。

 東京地検特捜部が外堀を埋めつつある。民主党の小沢一郎幹事長の資金管理団体「陸山会」の土地購入をめぐる事件で、公設秘書の大久保隆規容疑者(48)が、 中堅ゼネコン「水谷建設」側から料亭接待を受けた証拠写真が存在し、 これを押収したという。(中略) しかし特捜部は、元幹部らの供述の信用性は高いとして、04年10月の5000万円が陸山会による同時期の土地購入(代金約3億5200万円)の原資の一部になったとみている。

 ワイロを渡すのなら料亭で云々という高野氏の過去記事に反応をしたわけではあるまいが、ワザワザ「水谷建設」側から料亭接待を受けた証拠写真が出てきて、それを押収したとの記事。

 だからどうしたの?・・・という程度のレベルの話でしかないし、何よりも大久保元秘書はこの件に関してはなにも語っていないのに一方的に検察のリーク情報を流し具体的な数字(2回)を出し、さもそれが事実のように報道をしていたマスコミの過去記事の醜悪さには恐れいる。朝日新聞は複数回と書いているのだが、心象記事による”悪”とのイメージの植え付けを行っているようなものである。

  同様に毎日新聞も記事タイトルには「陸山会事件:大久保秘書、接待認める…水谷建設から複数回」と書かれているのだが記事の中では二回と書かれていて、これもこれも読者の年齢層が上がると複数回の概念が多くなることを加味しての記事であろう。これくらい、ロッキード事件をなぞったような事件の記事を書き続けるマスコミが問題だとかどうとか今更言うつもりもないし、相手にする心算もないが、読者側が少し記事の内容とか事件の内容を冷静に読み直したら”こりゃ、おかしい”と思うのが当然であろう。読者がそのことに気が付いていることにさえ気が付かない既存のマスメディアの存在・・・これは果たしていかがなものであろうか。

 石川氏のICレコーダーの録音を証拠採用され、大久保氏への取調べ調書も取り下げてしまったのなら、これから検察・検察審査会が出来る事といったら、小沢氏を起訴をして、裁判を引き伸ばすことしかなくなるのである。もっとも、これから既存のマスメディアは、小沢氏が無罪判決が出る直前まで”小沢はクロ”のイメージ報道を延々と続けるだろう。同時に無罪が出ても誰も責任を負う人間はいないだろうし、その時には蜘蛛の子を散らすようにその場から立ち去るであろう。しかし、昨今はどこの誰がどのような発言をしたのかが一般の人間の手元にも残るようになり、ロッキード事件のように「ノド元過ぎたら熱さ忘れ」という状態に決してしてはならない。なぜなら、西松事件・陸山会事件は、マスコミと官邸(自民時代・民主時代共)と検察官僚そして裁判所による小沢氏の力を殺ぎ政治生命を抹殺しようとするために作られた捏造事件であり冤罪なのである。マスコミと官邸(自民時代・民主時代共)と検察官僚そして裁判所が起こした犯罪なのである。






(私論.私見)