コーチャン証言、クラッター証言をどう見るべきか、コーチャン回顧録から見えてくるもの考 |
(最新見直し2008.12.22日)
【「コーチャン証言」をどう見るべきか】 | ||
「コーチャン証言」をひき出したチャーチ委員会とは何者か。「チャーチ議員CIAの職員説」があり、通常であればこの種の企業問題は上院の証券取引委員会で取り上げるのが通例のところ、自分の委員会で取り上げることを強く要求してチャーチ委員会が始められたという経過があった。 一連の経過に不審を持ったジャーナリスト高野孟氏は次のように明らかにしている。
ロッキード社の前副社長A・C・コーチャンの嘱託尋問は、1976.7.6、7、8の4日間、ロサンゼルスの連邦地裁で行われた。嘱託尋問したのは、キャロリン・レイノルズ連邦地検検事と、ロバート・クラーク特別検事で、日本の検察からは、東京地検特捜検事の堀田力と東条伸一郎が立ち会った。この時の調書の全容は開示されていないが、標的として田中角栄に対する嫌疑を外掘り、内堀から埋めていく一連の尋問が為されている様子が漏洩されている。 そして、その決め手として、ロッキード社が丸紅に5億円支払った日時を特定させていた。73.8.9日の1億円、73.10.12日の1億5千万円、74.1.21日の1億25百万円、74.2.28日の1億25百万円の4回に分けて支払われたとされた。コーチャン著「ロッキード売込み作戦」は、日本への資金ルートを「Mカンパニー」(丸紅)、「Tカンパニー」(友達の意で児玉)、「Fカンパニー」(ジャパンPRの福田)、「Cカンパニー」(カーリー頭をもじっての意で小佐野)であったと指摘している。 留意すべきは、ロッキード社から丸紅までの流れであり、それから先丸紅から田中角栄に対して云々というものではない。次のように供述している。
鳴り物入りの免責特権証言にしてこれが実際のところ、日本のジャーナリズムは、「コーチャン証言が田中元首相への5億円贈収賄を証言した」とプロパガンダしていくことになった。 |
【白井為雄氏の「児玉疑惑」批判】 | |||||
日本生産性本部常任理事、児玉氏とは40年来の親友の白井為雄氏は、著書「ロッキード事件恐怖の陰謀」の中で次のように述べている。
白井氏は、「田中内閣打倒に対するアメリカの遠隔操作」を指摘し、児玉も事件の被害者として見立てている。白井氏は、以上のような疑惑を述べながら、更に次のような重大な可能性を示唆している。
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【「コーチャン証言」をどう見るべきか】 | |||||
「コーチャンらの証言」は、児玉ルートへの贈収賄を証言したものの、「その先の行方については私は全く知らない。受け取っていない可能性も、額面以上受け取っている逆の場合も有る」と述べているにも拘わらず、田中角栄逮捕に利用されていくことになる。 果たして「コーチャン調書」は、正確に史実を語っていたのだろうか。その証言が田中角栄逮捕に繋がっていくに足りるものであったのであろうか。無理やり角栄に結び付けられていった「闇」の部分があるのではなかろうか。 「コーチャン調書」は、トライスターとP3Cの売り込みについて明らかにしている。元来は、金額的にも桁違いに多く公金不正という観点からも、P3C問題の方が事件としてはより深刻で犯罪性が高いであろう。にも関わらず、P3Cについてはいつの間にか捜査線上から消えてしまい闇に隠されていくという経過を見せていくことになる。こうして、「ロッキード問題」は、「5億円授受」のトライスター売り込み商戦に限って事件化されていくことになる。これが「コーチャン調書」とその政治主義的な利用に纏いついている疑惑であり、ロッキード事件の胡散臭さ第9弾である。 コーチャン氏のその後情報。「『角栄の犯罪』25年目の新事実」の筆者徳本栄一郎氏は、ネバダ州の田舎で引退生活を送るコーチャン氏に電話を入れたところ、彼は突然の取材に明らかに苛立っている様子で次のように述べたと記している。
徳本栄一郎氏は、「コーチャンの口は極めて重いが、改めてカネを渡したことを認めているのである」と何やら得意げに書いている。この御仁は無茶苦茶な理解の仕方を得手とするのが分かる。この証言の文意は、「あの事件は複雑な構図で、簡単にイエス・ノーで片付く問題ではない」、「我々は田中に渡してくるといった人間に渡しただけだ」をその通りに解することにこそ意味があるだろうに。 これに対し、角栄は、「見ず知らずのコーチャンなる者の証言で、しかも反対尋問もさせないで、なぜこんな目にあわなければならないのだ」と異議を申し出ているが、角栄のこの疑問は当たり前であろう。検察、地裁はこの疑問に答えていない。角栄死亡後の公判で初めて認めたが何の甲斐があろう。こうして、仮に贈収賄があったとした場合に於いてさえ「贈賄側が免責で、収賄側が有罪とされる」という全く奇怪なシナリオが進められていくことになった。 このことに関して、当時の後藤田正晴官房長官は、ロッキード裁判経過に対して次のように言っている。
後藤田と云えば戦後警察界をリードしてきたドンである。警視庁長官として長年警察捜査を指揮し続けてきたいわば捜査の常道に関するプロである。そういう後藤田氏の見解には大いに説得力と重みがあると云うべきだろう。ところが、後藤田が田中派に位置していたこともあってか、この声が掻き消されてしまう。 元九州大学法学部教授で、破防法反対闘争を果敢に担い、新左翼運動にも理解が深いことでも著名な井上正治氏は、著書「田中角栄は無罪である」211Pの中で次のように述べている。
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【「クラッター証言」をどう見るべきか】 |
コーチャンへの嘱託尋問と恐らく同じ頃、元ロッキード社東京事務所代表J・W・クラッター氏に対する嘱託尋問も行われているようである。角栄裁判での検事陳述では、このクラッターから丸紅へ現金入りのダンボールが授受されたことになっており、いわば事件の現行犯であるからしてその陳述は貴重であった。 ところで、こうした重要な役割を持つ「クラッター嘱託訊問」が注目されること少なく、各書においても触れられておらぬため従って私も分からない。が、松下三佐男著「ロッキード5億円裁判無罪論」では、その期日が1976.9.21日から29日にかけての正味四日間となっている。おかしなことは、この日付だと田中逮捕後のことになる。ところが、松下氏もこの不自然さを訝らず「このクラッター証言と物証とに、極めて高い信用性を認めた検察が、『外為法違反の被疑』という意表をつく別件逮捕的な強硬手段で、田中前首相を逮捕した日が昭和51.7.27日。検察の冒頭陳述が昭和51.8.16日」と記している。 「1976.9.21日から29日にかけての正味四日間」をその通りだとすると、7.27日の田中逮捕後のことになり、クラッター尋問調書が田中逮捕の決め手なったことにはならなくなる。仮に「7.21日から29日の正味四日間」としても田中逮捕の期日を挟んでおりおかしなことになる。とすれば、「6.21日から29日の正味四日間」の間違いかも知れぬ。しかしそうすると、コーチャン訊問より逸早く為されたと云うことになる。とにかく変であることが分かるが、どなたか解明をお願いしたいところである。 ところで、このクラッター証言はかなり問題のある尋問調書となっている。児玉ルートへの贈収賄についてはその繋がりを陳述しているも、田中角栄ルートとの事前交渉についてはかなり曖昧で、「思い出せません」、「恐らくそうでしょう」発言を乱発している。 ここで注意を喚起すべきは、かくも刑事免責を与えられた上でのクラッター証言にして、田中角栄ルートの贈収賄への流れについて曖昧であるということは、これは事実隠蔽のせいではなく、田中角栄ルートの事前折衝が存在しなかったことを意味しているのではなかろうか。他方で、児玉ルートに対しては領収書の遣り取りを絡めての陳述がスムーズに為されていることからして、余計にそう思える。 クラッター証言に対する疑惑として、クラッター自身が記録したとされている手帳や符丁の意味に対する尋問に対してまで「よく分かりません、思い出せません」発言が非常に多いことが看過できない。これは、クラッターの記憶が経年経過により事実曖昧になっていたというより、他の筋より胡散臭さを道具立てするために提出されたクラッター手帳であり、従って当の本人も良く分からなかったということではなかろうか。 ところが一転して、クラッターは、5億円授受の遣り取り証言の段になるや、「実に生き生きと思い出します」と述べ、計5回の現金授受の様子を語っている。大久保に連絡を取り、野見山がダンボール箱を受け取りにきて、領収書と交換で授受した様子を語っている。とはいえ、ダンボール箱への札束詰めは「私自身が勘定して箱に詰めた」、ダンボール箱も「東京事務所で空いていた書類用のボール紙の書類箱を使ったと思います」等々の証言は、角栄公判での検事の訴面内容とは齟齬をきたしている。 尋問時の「箱の重さはどれくらいでしたか」の質問に、「よく分かりませんが、考えて見ます」、「私はその重さを量りませんでした」と答えている。自身で札束を詰めた人間が箱の重さを語ることが出来ないとは不自然が過ぎよう。 更に、「4回の交付について皆東京事務所で行われたのか、その内どれかは他のやり方で行われたのか」の問いに対して、「私に言えることは、そのようなことはなかったと思えるものの、あった可能性もあるということです。はっきりしたことはいえません」と答えている。受け渡し当事者とされているクラッター自身が重要な事柄に対してかような曖昧な陳述をしているのが尋問調書の内容である。 クラッター本人によるこうした供述にも拘らず、検察側の冒頭陳述では、クラッターが出向いて現金授受した様子を告げており、「4回の交付について皆東京事務所で行われた」とのクラッター証言と整合していない。これを受け取ったとされる丸紅側の供述と重ねれば、もっと様子が異なるというへんちくりんになっている。このようないかがわしいクラッター証言を利用して田中角栄側の贈収賄事件が立件されたということになる。 |
【村上吉男氏著「コーチャン回顧録、ロッキード売込み作戦」考】 |
1976.11.10日付け朝日新聞社発行、同社記者・村上吉男氏著「コーチャン回顧録、ロッキード売込み作戦」を手に入れた。それを見て思ったことは次のことである。 このコーチャン証言に拠れば、1・角栄への5億円授受は逆に何ら裏づけされない、2・二階堂、橋本ら政府高官への賄賂も憶測でしかない、3・児玉誉士夫との深い結びつき、4・その児玉と中曽根との深い結びつき、5・中曽根の暗躍面こそ疑惑に値するのではないか、ということである。 同書を読めば、普通にはそのように理解されるものを何故に角栄訴追へ一瀉千里に向かったのか。「ロッキード事件」の闇の部分はここにある。本書は朝日新聞社から発行されている。このトクダネをスクープした村上記者は、コーチャン証言に従えば中曽根こそ臭いと思うべきであるのになぜ素直にそのように発想し得なかったのか。朝日新聞社も自社のトクダネを何ゆえにそのように活用し得なかったのか、そういう疑問が禁じえない。 以下、「コーチャン回顧録、ロッキード売込み作戦」の骨子を抜書きしつつコメント付ける。 2003.7.23日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評507 | れんだいこ | 2008/12/22 |
【コーチャン逝去考】 2008.12.14日、元ロッキード社副会長にしてロッキード事件の「重要証言」の役割を果たしたことで知られるアーチボルド・カール・コーチャン氏が米カリフォルニア州レッドウッドの病院で死去した(享年94歳)。12.21日、、ロサンゼルス・タイムズ紙(電子版)が報じた。葬儀は行われず、ノースダコタ州で埋葬の予定。れんだいこには感慨深いものがあるので、これにコメントする。 ロッキード事件とは概要次の通りのものである。米ロッキード社は、ダグラス、ボーイング社とともに日本市場への軍用機及び民間旅客機商戦に参加し、1972.11月、丸紅経由で全日空機へのトライスター21機受注に成功した。1機50億円、全機1050億円の商戦となった。軍用機商戦も凄まじく、児玉誉士夫との間に「P3Cオライオン対潜哨戒機を50機以上販売できた場合は、報酬として総額25億円を支払う」旨のコンサルタント契約を結んでいた。1977.12月、国防会議がロッキード社からP3C−45機の購入を決めている。 1976(昭和51).2.4日、米国上院外交委員会の多国籍企業小委員会の公聴会証言で、ロッキード社の会計監査に当たった会計士W・フィレンドレーによってロッキード社の対外秘密工作が漏洩された。日本関係のくだりで、「裏金を政商・小佐野、右翼の大物である児玉誉士夫、総合商社の丸紅を仲介とする政府高官たちに1千万ドル(当時の円換算30億円)の工作資金を流した。そのうち708万5000ドル(当時のレート換算で約21億円相当)が児玉に秘密コンサルタント料として渡った」と証言した。 2.6日、ロッキード社の前副社長アーチボルド・カール・コーチャンが同じ委員会での公聴会尋問に答えて次のように証言した。概要「児玉に払った21億円のうち、いくらかが国際興業社主小佐野賢治に渡ったと思う。我が社の日本での代理店丸紅の伊藤宏専務に渡った金は5億円であり、そのうちから日本政府関係者複数に支払われた。そうした支払いの必要性を私に示唆したのは丸紅会長の桧山広か、専務の大久保利春だった」。 この二つの爆弾証言がロッキード事件の幕開けとなった。これによれば、工作費30億円の大半を受け取った児玉−中曽根ラインこそが事件の主役となるべきところ、どういうわけか小佐野−田中元首相ラインへの訴追運動へと向かう。結果的に、政治家、丸紅、全日空の幹部ら計16人が受託収賄、贈賄などの罪で起訴された。不思議なことに中曽根には捜査の手が向かっていない。小佐野、田中元首相は最後まで頑強に否定したが、「始めに判決ありき」の流れが工作され、田中元首相は東京地裁で懲役4年の判決を言い渡された。その後公判闘争となったが、上告中の1993.12月、死去した。こうして、ロッキード事件は、元首相の容疑否認のまま長期裁判となり、死去するまで続くという前代未聞の異例の日本政治史上最大の首相訴追疑獄事件となった。 コーチャンの概要履歴は次の通りである。ノースダコタ州生まれ。スタンフォード大学で経営学修士(MBA)取得後、1941年にロ社の子会社に入社。ロ社の筆頭副社長を経て1967年、ロ社社長に就任。トライスターの名前で知られるL1011型旅客機を開発、1976年までの任期中に販売を指揮した。ロッキード事件勃発により上院の委員会で日本への航空機売り込み工作を証言。ロ社退職後は、ロサンゼルス郊外などに住み、ビジネスコンサルタント業などを営んだ。コーチャン氏の息子のロバートさんはロサンゼルス・タイムズ紙に、ロッキード事件について「父は会社のために正しいことをしたと思っていた」とする一方で、「父は板挟みになっていたのかもしれない」とも語っている、とある。 ロッキード事件勃発後、コーチャンは、東京地検特捜部の事情聴取を拒否した。このため日本の検察庁は不起訴を約束、最高裁もコーチャン氏の不起訴を容認する異例の宣明となり、その後東京地裁の依頼を受けたロサンゼルス連邦地裁の嘱託尋問で贈賄工作を証言した。東京地検特捜部の異例の奮闘の背後に何が有ったのか。嘱託尋問そのものの違法性問題もある。そういう嘱託尋問する為の検察の不起訴約束、最高裁の容認宣明も前代未聞措置であり、誰がどの勢力がこれを後押ししたのかと云う疑問が残されている。とにかく異例尽くめであった。 「コーチャン証言」は、「ロッキード事件勃発時のコーチャン証言」、「嘱託尋問調書のコーチャン証言」の二系で構成されている。問題は、「コーチャン証言」が「田中元首相への5億円の供与裏づけ証言」とされているが、原文開示されぬままフレームアップ式に改竄されていることにある。「コーチャン証言」は、児玉疑惑を明らかにしているが角栄疑惑には及び腰の証言になっているとの指摘もなされている。これによれば、震え上がるのは中曽根であって角栄ではない。 そういう曰くつきの嘱託尋問調書が日本側に渡され、捜査に大きな影響を与えることになった。マスコミの低級安上がり正義頭脳が飛びつき以降、「元首相の判決前の有罪決め付け報道」に明け暮れ喧騒し続けた。これを競って加担した者がその後出世街道を歩み、今日のマスコミ界上層部に君臨している。繭唾した記者は冷や飯を食わされ干されたまま今日に至っている。マスコミが祝詞(のりと)の如く唱えるジャーナル精神の質とはかようなものであることを知らねばならないであろう。 れんだいこがロッキード事件に注目するのはもう一つ、この事件を通じて戦後日本政治の質があからさまにハト派政治からタカ派政治へ転換させられる起点となったと思うことにある。これが今日の貧相政治の始まりであり、日本経済破産の道の根源となっている。れんだいこは、そう見立てている。ここではこれを問わないが、「コーチャン証言」はそういう重要な役割を担ったという意味で歴史性を持つ。 その当人がその後、人目を忍ぶようにして隠遁生活に入り、そのまま逝去したことになる。その罪は大きいというべきであろう。どうせ、こうやって死す身なのに何を恐れたのか、誰がそうさせたのか、マスコミ取材から逃げ回っている。れんだいこは、ここに闇があると窺う。陰謀史観を批判する者は、この問いに答えねばならないであろう。 2008.12.22日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)