児玉・小佐野賢治公判の経緯

 (最新見直し2012.02.24日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、ロッキード裁判の「児玉、小佐野ルート公判」の経過を確認しておく。

 2012.02.24日 れんだいこ拝


【児玉誉士夫公判】

児玉は事件の核心を握る中心人物であったにもかかわらず、1976年(昭和51年)2月から衆議院予算委員会において証人喚問が行われることが決定した直後に、「病気」と称し自宅にこもり、さらにその後は入院した東京女子医科大学病院にて臨床取調べを受けるなど、その態度が大きな批判を受けただけでなく、そのような甘い対応を許した政府や検察に対する批判も集中した。その後児玉の態度に怒ったポルノ俳優の前野光保が同年3月に児玉の豪邸へ小型軽飛行機による自爆テロ(児玉誉士夫邸セスナ機特攻事件)を行なったが、児玉は別の部屋に寝ていて助かった。

その後の1976年3月13日に児玉は所得税法違反と外為法違反容疑で起訴され裁判に臨むことになったが、1977年6月に1回だけ公判に出廷した後は再び「病気」と称して自宅を離れなかったために裁判は進まなかった。その後1980年9月に再度入院し、裁判の判決が出る直前の1984年昭和59年)1月に死亡した。


小佐野賢治公判】

 小佐野賢治#ロッキード事件」も参照

 小佐野は、1976年(昭和51年)2月から行われた衆議院予算委員会において第1回証人として証言したものの、上記のような「証言」が議院証言法違反にとわれ、翌1977年(昭和52年)に起訴され、1981年(昭和56年)に懲役1年の実刑判決を受けた。判決が言い渡された翌日に控訴したものの、その後1986年(昭和61年)10月に小佐野が死亡したために被告死亡により公訴棄却となった。


【半谷(はんや)恭一裁判長の最後の不審死】
 2012..2..22日、警視庁捜査1課は、昨年2月、ロッキード事件の裁判長を務めた元東京高裁判事で弁護士、半谷(はんや)恭一(当時78歳、ロッキード裁判「児玉・小佐野ルート」の1審で裁判長を務め、小佐野賢治元国際興業社主を懲役1年の実刑としたほか、米側証人の嘱託尋問調書を初めて証拠採用するなど斬新な手法で注目を集めた。三越元社長の背任事件では控訴審を担当した)の首を絞めて殺害した殺人容疑で妻の俊子容疑者(81)を逮捕した。逮捕容疑は昨年2月5〜6日、文京区本郷の自宅マンションで、恭一さんの首を絞めて窒息させ、殺害したとしている。





(私論.私見)