補足・児玉領収書疑惑、児玉関連「P3Cグラマン事件」疑惑考

 (最新見直し2006.5.11日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 ロッキード事件で、検察の冒頭陳述は、1・請託の有無、2・5億円の贈収賄授受、3・首相の職務権限の三要件で構成された「首相の犯罪」を暴き、元首相田中角栄を追い込んでいったが、明らかに国策裁判であった。ロッキード事件に絡むブラックマネーの流れは、1・田中被告への贈賄金5億円、2・全日空関係贈賄金1億2千万円、3・デモフライト費用1億6千3百6万5千円疑、4・児玉分19億円の以上、総額27億円に分岐している。

 一見して分かることは、「児玉分19億円」が突出した金額になっているということである。そして、この児玉ルートには、軍用機P3C購入に纏わる贈収賄が見え隠れしている。ここに中曽根ー松野ラインの影も見て取れる。しかし、金額も大きく、民間機購入ではない税金投入による自衛隊機購入という性質に於いてもより重大な、こちら側への捜査は「圧力により封印」された。にも拘わらず、操作されたマスコミとそのマスコミの動かす世論によって、ロッキード事件が扇動されていった。これを思えば、三木首相のはしゃぎも検察の正義も全てウソっぽい演出されたものでしかないことが判明する。

 ここで、分かる範囲内の「軍用機P3C購入に纏わる贈収賄事件」を考察しておく。「ロッキード事件の概要1(角栄逮捕前)」の該当部分に付け加える。

 2006.1.9日 れんだいこ拝


 俵孝太郎氏の「田中裁判ーもう一つの視点」所収の「検察の無能を露呈したグラマン疑惑」(「政経人」1979.7月号)は早くより貴重な指摘をしている。これを転載しておく。
 「事件の表面化はロッキード事件が先だったが、事件の発生そのものはグラマン航空機疑惑のほうがはるかに古く、ロッキード事件は替え歌、ロッキード事件で現に刑事被告人の座にある田中角栄氏は単なる替え歌の歌い手、航空機疑惑こそ元歌、そして時効と職務権限と金銭授受の趣旨のカベによって刑事訴追とは関係なく済んだのが松野頼三氏、あるいは松野氏の背後に潜む単数か複数のかはさておいて保守政権のまさに奥の院に座す『巨悪』こそが元歌の歌手ということが、はっきりした」。
 「航空機疑惑のキーポイントの一つである『海部メモ』は、十年も前から流布されていたが、検察はこれを久しく怪文書扱いにし、ニセモノ視してきた。ロッキード事件の操作の際に、それより古く発生していた航空機疑惑の関連資料が、有森国雄氏というキーパーソンの存在もあり、検察の手に入っていなかった訳は無いのに、どういう訳か、検察はロッキード事件だけに焦点を絞り、同時並行してメスを入れても良いはずの航空機疑惑については、放置してきた。そして、その中で、いわば元歌歌手の一人である松野頼三は、福田派を代表して送りこまれた『クリーン三木』政権の政調会長として、ロッキード事件の真相の徹底究明、関係者の責任の徹底追及を、声高に叫んで止まなかった」。
 「ところが、今になってみると『海部メモ』は内容はいかがわしい点もあるがともかく海部八郎氏の真筆だという。松野氏への鐘の流れもあったという。ただ、時効になっているから今更どうにもならぬというのである。これは一体どういう訳か。松野氏の金の流れは、検察の今になっての公表に拠ると、42年の秋から46年にかけてだったという。であるならば、51年の前半のロッキード事件捜査のころ、並列処理して起訴しておけば、時効にならずに済んだはずである。当時、有森国雄氏らを取り調べ、ロッキード社からライバル社の動向を調べつくした資料を押収しているのだから、まさか、航空機疑惑について、夢にも知らなかったはずはない。詳細な調べは、それは捜査に着手しなかったのたがら、結果的に掴めなかったに違いないが、ニオイぐらいはしていたはずで、そのニオイに敏感に気づき、やるべきことをしていれば、今頃、航空機疑惑を中途半端に終わらせることはなく、ひょっとすると『巨悪』も取り逃がすことはなかったかも知れないのである。勿論、当時松野氏が、まさに『クリーン三木』政権の支柱として、真相の徹底究明などと、今になってみれば何とかたけだしいというはかない大見得を切ることも、許されなかったに決まっているのである」。
 「3年前に航空機疑惑の解明が放棄されロッキード事件の捜査だけが集中的に行われていった背後の事情として、政治の側からの指揮権発動に類するものがあったのではないかという疑問も、論理的には一応持ち出しうるといわなければなるまい。既に再三触れているように、検察はよほどの怠慢が無い限り、航空機疑惑の端緒について掴みうる状況にあったとみてよい。仮に端緒を掴んでいたとしたら、まさか、第一の想定のように勝手に判断して一方を放棄、一方を追及と割り切ることはせず、情報を法相を経て政府首脳に上げ、判断を仰いだと見るほうがはるかに自然である。仮にこういう第二の想定をしてみた場合、政府首脳はどう考えたか。現にロッキード事件で、結果的には疑惑は晴れたとはいえ、中曽根康弘幹事長が疑惑の標的にされている。ここに新しく松野政調会長への疑惑が出たということになれば、『クリーン三木』政権はつぶれるしかない。そういう状況であってみれば、指揮権発動の結果こういう偏った決定が下されたのかも知れぬということも、一応は疑ってみることはできるといえよう」。
 「5億円の賄賂が、『例を見ない』どころか、グラマンー日商岩井ー松野頼三氏というルートでロッキード事件以前の42年から46年にかけて流れていたことは、松野氏自身が54年に衆議院の特別委員会で証人として認めた事実であり、法廷外の出来事とはいえ、まさか裁判官も知らないはずはないと思われるからである。国民衆知のこの事実をなぜ裁判は見落とし、検察主張に沿って認定した田中角栄被告への5億円を『例を見ない』と強調したのか」(「アカハタが批判した角栄裁判」1984.11月号文芸春秋)。
 概要「なにしろ松野氏への5億円の授受は、42年から46年にわたるとされており、それが事実なら51年当時、ぎりぎりで時効にならなかったかも知れないのである。それに54年になってはじめて公に取り上げられた『海部メモ』は、既にロッキード事件発覚以前から、いわゆるアングラ情報としては流れていたのである。ロッキード事件を廻っては、まだまだ知られていないこと、良く知られているが解明されていないことは、多いのである」(「アカハタが批判した角栄裁判」1984.11月号文芸春秋)。

Re:れんだいこのカンテラ時評その139 れんだいこ 2006/01/11
 【小泉の後ろでちらちらしている松野頼三について】

 小泉政権の陰で松野頼三の姿がちらちらしている。これに不快を覚える者がいるとしたらかなり政治通である。何も感慨覚えないとしたらよほど鈍感というべきである。れんだいこは、戦前戦後の軍事防衛に小泉ー松野ラインの陰を見て取ることができる。両家はよほど昔から米英ユ同盟のエージェントしてきた系譜であることが分かる。しかし、この方面の研究をする者が居ない。危険なのかもしれない。

 松野頼三と云えば、ロッキード事件の際に三木内閣の政調会長としてロッキード事件徹底追求、角栄逮捕を人一倍熱心に煽った史実を残している。当時、中曽根が幹事長で、この二人は呼吸を合わせて角栄の政界追放に立ち働いた。これを思えば、福田はかっての昭電工事件で逮捕された覚えがあり、角栄に同情的であった。この二人は君子の争いをした。

 日共の宮顕ー不破が「左」から角栄追討を促進させたという史実を残している。児玉ー中曽根ーナベツネー松野ラインは胡散臭い。宮顕ー不破ラインも胡散臭い。胡散臭い連中が左右から呼吸合わせたのがロッキード事件徹底解明であった。これは偶然だろうか、そう問いかける者が少な過ぎる。

 ロッキード事件徹底解明それ自体はよろしい。角栄派もそれを願っていたわけだから。ちなみに角栄は5億円授受事件とは無縁であった。よって角栄逮捕から始まる一連の公判闘争は冤罪を晴らすためのものであった。これがロッキード事件に対するれんだいこ見解である。角栄支持派でさえ大方の向きは有罪としてその能力を惜しむ弁をしているが、それは生ぬるい擁護論でしかない。

 ロッキード事件徹底解明は、角栄逮捕とその後の公判ハリツケにのみ意義があった。ハト派の総帥角栄を身動き取れなくさせることにより、60年安保闘争以降封じ込まれていたタカ派が息を吹き返し、その間隙を縫うようにして紆余曲折しながらではあるが中曽根ー小泉へと政権をバトンタッチさせてきた。そして現在に至る。

 生み出されたのは極めつけの米英ユ同盟エージェント派による日本解体政治であった。それは、角栄の日本列島改造計画に対することごとくアンチであり、その指針を否定し続けている。近時の民営化の流れもそのシナリオに沿っている。お陰で日本の国庫が空っぽにされつつある。今年の雪害に対しても政府の動きは鈍い。ブッシュの意向には素早く応ずる割には。

 元サンケイ新聞政治部記者にして政治評論家として健筆を奮っている俵孝太郎氏の「田中裁判ーもう一つの視点」は貴重な告発をしている。それを書き記しておく。俵氏によれば、当時の捜査当局には、ロッキード事件に併行してグラマン事件の贈収賄資料があった。しかし、グラマン事件の19億円贈収賄が隠され、ロッキード事件の5億円贈収の方へ捜査の舵が切られた。当局奥の院の政治的指令がそうさせたに違いない。検察ー裁判所がこれに応じ、マスコミが加勢し、世論をつくっていった。ちなみに、警察は、グラマン事件の方の解明に向おうとしたが封殺された。思えば、土田警視総監ピース缶殺傷事件には裏がありそうである。

 これにより、今日では自明な能力があり真の意味での愛国愛民族派が蟄居せしめられ、能力の低い売国エージェント派が台頭していくことになった。その分水嶺がロッキード事件の喧騒であり、してみればロッキード事件は今に至る政治の貧困の端緒を為しており政治史的意味が大きい。この時宿された種の中にその後のあらゆる不正を見て取ることができる。

 もとへ。俵氏は、松野について次のように述べている。 「5億円の賄賂が、『例を見ない』どころか、グラマンー日商岩井ー松野頼三氏というルートでロッキード事件以前の42年から46年にかけて流れていたことは、松野氏自身が54年に衆議院の特別委員会で証人として認めた事実であり、法廷外の出来事とはいえ、まさか裁判官も知らないはずはないと思われるからである。国民衆知のこの事実をなぜ裁判は見落とし、検察主張に沿って認定した田中角栄被告への5億円を『例を見ない』と強調したのか」(「アカハタが批判した角栄裁判」1984.11月号文芸春秋)。

 そういういかがわしい経歴を持つ松野が自分の不祥事に頬かむりしつつ角栄訴追に動いていたことになる。ロッキード事件に対する腹立たしさはこういうところにもある。なお、ここでは松野のみが取り上げられているが、グラマン事件には、児玉ー中曽根ーナベツネの影が見て取れる。

 その後の歴史は、この時の真の意味での巨悪中曽根ーナベツネー松野ラインを押し上げていくことになったことを示している。冒頭で述べたように、松野は小泉の裏で今も蠢いている。軍事防衛面で暗躍していることが推定される。今後数兆円のミサイル防衛網整備、その他軍事技術開発費日本側負担の按分等に於いて立ち働いていることが想定される。この不義を許せようか。

 2006.1.11日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評その171 れんだいこ 2006/05/11
 【松野頼三逝去考】

 2006.5.10日、「政界の策士、寝業師」として知られた松野頼三氏(以下、松野と云う)が心不全のため東京都内の病院で逝去した(享年89歳、民主党の松野頼久衆院議員は長男)。新聞各社がこれを報じたが、例によって肝心なヶ所への言及がなさ過ぎるので、れんだいこが補考する。

 れんだいこが思うに、松野は、小泉同様に親の代からのネオ・シオニストのエージェントのように思われ、そういうこともあって松野と小泉の間柄は異様に親密であった。まずこのことを確認しておきたい。こういうところの考察が弱すぎる。

 松野の履歴は次の通り。松野鶴平元参院議長の三男として熊本県に生まれた。慶応大卒業後、海軍少佐。戦後、吉田首相秘書官を経て、1947(昭和22)年の衆院選に公職追放中だった父の代わりに旧熊本1区で立候補し、田中角栄、鈴木善幸、中曽根康弘らと共に初当選。以降、保守合同をはさみ通産当選15回を重ねた。著書として、「川・小沢政権陰陽のバランスが崩れるとき」(日本テレビ、1994.3月初版)、「保守本流の思想と行動―松野頼三覚え書」(朝日出版社、1985.10月)。

 政治家としての松野は、一貫してシオニスタン系タカ派として政治遍歴したことに特質が認められる。その限りで何度も窮地を脱し起き上がっている。内閣の総理府総務長官、第2次岸内閣で労相。池田内閣時代は遠ざけられ、第1次佐藤内閣で防衛庁長官、農相を歴任。この頃、田中角栄らとともに「佐藤派五奉行」として知られた。

 1970年代始め、角栄ー大平のハト派同盟が力を増し始めるや、雌伏を余儀なくされる。1972(昭和47)年の自民党総裁選「角福戦争」の際は福田支持に廻り裏方工作する。これが失敗したのは周知の通りである。田中政権時代は終始党内反対派に位置し、金脈問題が勃発するや軍師的存在となって揺さぶった。

 三木内閣誕生で党政調会長に就任する。三木をクリーンなどと称する向きがあるが、冗談ではなかろう。ネオ・シオニストの御用聞き政治の元祖的地位にあることを見て取るべきであろう。三木政権は、三木、中曽根、松野という曰くつきのシオニスタンがたむろしている。松野は、1976(昭和51)年のロッキード事件が勃発するや、事件徹底究明を呼号し「角栄潰し」に狂奔する。これに対する党内抵抗勢力が「三木おろし」に向うや、福田派を離脱してまで三木を擁護。同年9月、総務会長に回り最後まで三木政権を支えた。

 天網恢恢疎にして漏らさず。1979(昭和54)年、ダグラス・グラマン事件が発覚。ロッキード事件徹底究明を呼号していた当の松野自身が、ロッキード事件前からにしてロッキード事件を上回るしかも公金に関わる航空機導入を巡って、総合商社日商岩井から約5億円の政治献金を受領したことが判明した。れんだいこ史観によれば実に、ロッキード事件とは、ダグラス・グラマン事件を角栄の犯罪にする為に仕立てた空前絶後のすり替え事件であったことになる。

 衆参両院で証人喚問を受けると「政治家松野を育てる献金だった」と政治献金論で弁明した。松野の角栄金脈批判が極めて政治主義的なものであったことが暴露した瞬間となった。事件は時効となっていたものの辻褄合わず責任を取って議員辞職、自民党離党を余儀なくされた。松野辞職を、「時効にも拘わらず、道義的責任をとって辞めた天晴れ男児」なる虚像で称えるのは言語道断であろう。

 同年の衆院選で落選した後、1980(昭和55)年に無所属で出馬、当選し政界復帰。1983年に自民党に復党。中曽根政権当時の1984年、総裁選を巡り、福田赳夫、鈴木善幸両元首相らと会合を重ね、二階堂進・元副総裁の擁立を画策したとも云われているが怪しい。二階堂擁立潰しに向ったとも考えられる。1990(平成2)年の衆院選で落選し、政界を引退した。

 その後、「政界のご意見番」として発言を続けた。それは事実である。しかし、ならば問わねばならない。なぜ彼はその後もフィクサー然として暗躍し得たのかを。ここを問わない新聞各社の解説ほど詰まらないものはない。れんだいこには歴然である。彼のその後も、シオニスタン系タカ派政治家としての暗躍であり、中曽根、民主党の鳩山現幹事長、現小泉首相と格別関係が深いのも同じ穴のムジナ故に為せることである。小泉政権となってしばしば官邸に出没しており、政局の節目節目で会食していた。

 そういうこともあって、小泉首相は10日夜、首相官邸で記者団に次のように述べた。
 概要「びっくりしています。さまざまなことを思いだすが、よくご指導いただいた。三木内閣時代の派閥間の争い、人間の嫉妬(しっと)など人間関係から政争を実に詳しく教えてくれた。人間関係から政争、実に詳しく教えてくれた。私を子供、息子みたいに思っていたのかな。あれだけざっくばらんに人に言えないようなことを教えてくれる先生いなかったなあ。残念だ」。

 我々は、この松野をどう評すべきであろうか。れんだいこは、寿命ある身にも拘わらず、最後の最後まで売国奴としてシオニスタン系タカ派政治家として奉公した松野の反革命、反人民的立ち回りのみ見て取る。人は一体歴史に何を刻むべきか。栄耀栄華を極めるのは本能だろうから、若い時から壮年期までは権力に向うのも良かろう。が、その生の枯れを認識し始めた時からは世のため人のために精出すべきではなかろうか。そういう意味で、れんだいこは、松野に容赦しない。一言愚昧過ぎると一瞥しておく。

 児玉領収書疑惑、児玉関連「P3Cグラマン事件」疑惑
 kakuei/rokiido_saibankeika.htm

 2006.5.11日 れんだいこ拝




(私論.私見)