補足「若狭得治考 |
(最新見直し2005.12.28日)
Re:れんだいこのカンテラ時評その135 | れんだいこ | 2005/12/28 |
【「若狭得治逝去考」】 2005.12.27日、戦後運輸行政の大立役者若狭得治氏が逝去した(享年91歳)。若狭氏も又ロッキード事件の犠牲者であった。被告にされ最高裁まで争ったが有罪の汚名を被せられた。口惜しいことであったと思う。 マスコミは判決に先立って罪を被せ続けた己の悪行を正視できず、お茶濁しの記事しか書いていないので、れんだいこがその生涯履歴を寸評しておく。 新聞各社の情報を取り寄せ、アンサンブルした。当然無通知無承諾、出所元無記載で引用している。著作権法違反だと云われるのならその責めを受ける用意がある。ブックは重い氏は腰が重くなっているのであるか、見解を聞かせたもれ。 富山県出身。1938年、東京帝国大法学部を卒業し逓信省(旧運輸省の前身)に入る。海運局長時代の1963年、主要外航海運会社を6グループにする海運集約化で業界の体質強化に尽力した。事務次官を経て、1967.3月、退任。 1969(昭和44)年、若狭氏の能力が買われ、全日空に顧問として入社。副社長を経て翌70.6月、社長に就任した。航空分野の規制行政で、86年まで締め出されていた全日空の国際定期路線進出に取り組む。遂に、同社の念願だった国際線進出を果たした。企業体質強化のためジェット化の推進やホテル事業などにも取り組み、経営基盤作りに尽力した。日航と肩を並べる航空会社に育て上げたことにより、「全日空中興の祖」と云われる。「航空界のドン」との異名をも取った。 その絶頂期の若狭氏に悲運が襲う。1976年、戦後最大の疑獄に仕立てられたロッキード事件が勃発。田中角栄元首相らが逮捕された。若狭氏は、社長在任中の1976年、新型ジェット機「トライスター」の選定を廻る贈収賄容疑に問われ、橋本登美三郎元運輸相らに対する贈賄側の中心とされた。これを全日空ルートと云う。 若狭氏は、贈賄罪容疑に就いては時効でもあり起訴を免れた。ところが、1976.7月、東京地検は、国会証言偽証による議院証言法違反と、トライスター採用を廻るロッキード社からの裏金受領による為替法違反の疑いで逮捕、起訴した。同12月、若狭氏は、代表権のない取締役会長に就任した。 若狭氏の真骨頂は一貫して容疑を否認し続けたことにある。田中角栄と同じく最後までこの姿勢を貫いた。1982.11月、一審判決で懲役3年、執行猶予5年の有罪判決を受けた。直ちに控訴したが二審も控訴を棄却。最高裁へ上告したが、1992.9月、最高裁も懲役3年、執行猶予5年の有罪判決を宣告した。これにより刑が確定した。1996年、恩赦法の適用を申請し、執行猶予期間が約1年2ヶ月短縮され、同7月、刑の執行猶予期間を終えた。 若狭氏は、被告の立場ではあったが社内の信望に支えられ会長で在り続けた。1991年、名誉会長になった後も取締役を務め第一線で活躍し続けた。1997.5月、日本航空協会会長に就任して、ロッキード事件後初めて公職に復帰した。この間影響力を持ち続けた。 1997年、若狭氏は、普勝清治社長と後継役員人事をめぐって対立、社内抗争が始まった。社内外から強い批判を浴び、相打ちの形で取締役を退任し相談役に就任した。1998.4月、相談役の廃止に伴い、常勤顧問となった。 れんだいこは、何故に若狭得治に注目するのか。ロッキード事件の虚構を暴き続けた氏の姿勢に対する評価は無論であるが、戦後運輸行政の大能力者が葬られていく過程に注目するからでもある。 戦後日本は、この頃までは有能な者が登用されるシステムがあった。ロッキード事件を境に潮の目が変わった。ロッキード事件にはそういう史的意味がある。今や日本は、若狭氏のみならず有能者ほど煙たがられ排斥される時代に入った。ネオ・シオニズム被れのイエスマンばかりが登用されるようになった。アメリカ帰りの要職者は皆この手合いだと思えば良い。 郵政民営化委員会の委員長に経済評論家の田中直毅が抜擢された。余りに露骨で却って滑稽ではある。こいつは、つい先だっての12.25日のNHKの日曜討論で、小ネズミの首相能力と実績に85点つけていた御仁である。その間云っていることは、ネオ・シオニストの論法と青写真ばかりであった。こういう連中が登用されるという格好見本だろう。いよいよ本気でやるということかも知れない。 2005.12.28日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)