桧山証言、供述調書疑義問題

 (最新見直し2013.03.04日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「嘱託尋問採用問題」の胡散臭さを見てきたが、「大久保、伊藤、桧山、若狭、大庭被告の供述調書疑義問題」も避けて通れない。これを検証する。果たして、マスコミの終始一貫無批判の「検察寄り報道」は適切だったのだろうか。れんだいこには大いに疑問がある。

 2007.5.26日号週間現代のヤメ検・田中森一の独占手記「人は私を悪徳弁護士と呼ぶ」は次のように述べている。一部引用する。
 「東京地検の捜査は、最初にストーリーがありきだ。大きな事件ほどそうで、最初に検察が作り上げたストーリーに合った供述を引っ張りだすのが、現場の検事の仕事だといってもいい。もちろん、実際に調べたら事前の筋書きと違うことがよくある。しかし大物の被疑者を引っ張りながら、『事前の報告とは違った』という失態は、検察内部では許されない。へたをすれば、部長、副部長のクビがとびかねないのだ。そこで、事前の筋書きに合致した供述調書を作ることに検事は躍起になるのである。だが、『調べ』というものは、真剣にやればやるほど、その作業は酷くなる」。

 2007.6.2日号週間現代のヤメ検・田中森一の独占手記「東京地検の罠と我が潔白」は次のように述べている。一部引用する。
 「今年3月に証券取引法違反で、懲役2年6ヶ月の実刑判決を受けた堀江貴文(ライブドア元社長、34歳)が『捜査は茶番だ』として『最初に筋書きありき』の検察姿勢を批判した。前回記したように、重大事件ほど、最初に筋書きを作りあげ、取調べでそれに合った供述を集めて行くのが検察の常套手段である。もちろん被疑者は検察の重い通りに供述はしない。そこで、いろいろなテクニックが駆使される。

 これは私自身、検事としてやってきたことだが、まず、その筋書きを被疑者に教え込む。密室の取調室で一週間も繰り返し教え込んでいくと、やがて相手は実際にそうしたかのような錯覚に陥り、『あの時はこうでした』と、こちらが教えたようになる。それが調書になり、後で冷静になった被疑者が検察の手口に乗せられたことに気づき、公判で『あれは検事から教えられた話だ』と言う。そんな被告の主張を通さない為のテクニックがある。(以下略)」。

 田中森一の内部証言は、ロッキード事件期のものではない。しかし、ロッキード事件期にも同じような取調べ体質があったと推定でき、その意味で貴重な証言となっている。それはそれとして、「最初に検察が作り上げたストーリー」がミソである。一体、誰がシナリオを拵えるのだろうか。田中森一は一兵卒検事なので、そこが説き明かせていないのも止むを得ない。実際には、シナリオ作成者を見定めるのが肝要であり、その黒幕、その奥の院こそが詮索されねばならない。

 2005.3.7日 2007.5.23日再編集 れんだいこ拝


【桧山被告の供述書疑義問題】

 桧山は7.13日、逮捕された。桧山の人となりは次の通りである。

 「昭和7年に東京商科大学(現・一橋大学の前身)を卒業、丸紅に入社。戦中、戦後の混乱期を商社マンとして生き抜き、高度成長時代には、海外を飛び回って猛烈サラリーマンとして活躍。早くも昭和27年に取締役に抜擢されているほどの逸材で、以降、出世コースをまっしぐら。常務、専務、副社長を経て、39年から11年間社長を務めた。

 この間、大阪の繊維会社でしかなかった丸紅を、総合商社に引き上げ、業界№3にまで躍進させた。この功績は桧山のリーダーシップに拠るところ大と賞賛されている。その反面、米の買占めなど、なり振り構わぬ商法が批判されたこともあったが、桧山の実力は世界のビジネスマンから高く評価されていた。

 財界活動でもVIPの名前をほしいままにし、日本貿易会副会長、関西経済連合会常任理事、経団連常任理事などを歴任。財界の『論客』としても有名で、経済記者を集めては、世界を視野に入れた天下国家論をとうとうと語ることを趣味としていた。処世訓は『至誠一貫』」。

 桧山の取り調べは安保憲治・検事が当たった。8.10日、桧山の供述検事調書が作成されている。この時の「桧山自供ストーリー」が次のようにまことしやかに公報されている。それによれば、頑なに調書作成を拒否していた桧山が、安保検事の身の上話を聞くことにより恥じるところとなり、積極的に真実を述べるに至ったという。桧山は公判で、安保検事作文によるこの「お涙シーン」の信憑性について真っ向から否定し、詮議されるところとなった。

 そのことをひとまず置くとして、桧山調書では、72.8.23日に目白邸を詣で、田中首相に対し、全日空が大型機を輸入するにあたっては、ダグラス社のDC10ではなく、ロッキード社のL1011という機種を選定するように働きかけて欲しいと縷縷尽力を要請し、見返りとして5億円を贈ることを約束したと書かれている。田中首相は、桧山に対し、「よしゃ、よしゃ」と快諾した旨が記載されている。この陳述は、桧山逮捕後29日目のものではあるが、請託と約束があったと明記されており、これが検事側からする唯一の証拠能力を持つ調書となった。

 この檜山調書の真実性を廻って、公判で完全否定側の田中及びその弁護人と検察間で激しく争われることになった。ちなみに、田中自身の受託収賄を裏付けるのは、この部分を記した桧山調書だけが証拠でこれ以外には全くないという奇妙な構図がここにある。一国の元首相犯罪を立件するにしては杜撰さが過ぎようと云うべきである。

 補足すれば、檜山氏は、公判途中より目白邸へ挨拶に行ったところまでを認め、後の部分は検事の作文であると主張するところとなった。こうなると「よしゃ、よしゃ」の遣り取りそのものが疑わしいということになる。

 公判で、石黒検事と角栄の間で、この時の請託の質疑が為されている。要約すると次のようになる。

石黒  「72.8.23日に、あなたの私邸事務所で丸紅社長とあったことはないか」。
角栄  「記憶にはないが、翌日の日経新聞『首相官邸』欄の記載によると、午前7時に15組の訪問客があり、その中に名前があるので、来宅したことは事実のようです。用件については『全く記憶していません』。格別の話が無かったので、記憶に残っていないのだと思います」。
石黒  「桧山から助力願いたい旨の依頼はありませんでしたか」。
角栄  「『全然有りません』。桧山氏は、飛行機のことで私のところに頼みに来るような人ではありません。私は桧山氏や丸紅とは親しい付き合いではないので、そういうことを頼みに来るはずがないのであります」。
石黒  「成功報酬として5億円の申し出がなされたのではないのか」。
角栄  「『そのようなことは断じてありません』。15組も訪問客があって次々と会いごった返している中で、そんな話ができたり、あったと考えること自体無理であり、現実離れしていると思います」。

 こうして、田中は、桧山からの請託も、5億円を受け取る話も、終始一貫して否定し続けた。田原氏の「誰かが嘘をついている」は、驚愕の事実を明らかにした。桧山を取り調べ調書を作成したのは安保憲治検事であったが、80.10.8日の堀田力検事の尋問に答えて為した「桧山自供ストーリー」が、捏造の疑いが強いことを明らかにしている。「桧山自供ストーリー」とは、桧山調書が作成される契機になった「お涙シーン」のことを云う。 それによれば、頑なに調書作成を拒否していた桧山が、安保検事の身の上話を聞くことにより恥じるところとなり、積極的に真実を述べるに至ったという逸話が為されていた。

 田原論文は、79.11.21日の第84回公判で、堀田検事の質問に答えて、桧山が概要「請託問答は検事の作文である」と述べていることを明らかにしている。79.12.12日の第88回公判で、宮原弁護士の「調書に書かれていることは事実ですか」の問いに、桧山が「事実と違います」と強く否定したことを明らかにしている。

 この時、桧山は、概要「桧山自供ストーリー」そのものを真っ向から否定し、真相はこうであるとして次のように述べている。

 「安保検事が非常に激昂して『この嘘つきめ』とか『国賊め』などと罵声を浴びせ、『拘禁したままで、二年でも三年でもやろうぜ』と恫喝され、最後には『ああ、どうぞ調書に勝手にお書き込みください』となった」。

 かく検事の作文経過を暴露したことを明らかにしている。これが実際であったとすると、この一点からでも、当の検事のみならず検察トップに責任が及ぶのが必死というべきであろう。

 れんだいこの「左往来人生学院」に、2005.2.19日付で「kinlaw」氏の「安保憲治氏について」が投稿された。これを転載しておく。
 こんにちは、元東京地検特捜部検事だった安保憲治氏についてお話させて頂きます。まず、私は安保憲治氏と私の祖父が同僚であった関係から安保氏について知るようになりました。ですから伝聞ではありますが事実だと思います。

 現在、安保氏が生存しているかは祖父が亡くなってしまったので不明ですが、生存しているならば70代後半だと思われます。安保氏は、秋田?生まれ(違うとしても東北)で、多くの兄弟の長男として生まれました、家計を助けるために小学校卒業後、土木作業員などしていたそうです。一番下の兄弟が自立後、日本大学法学部の通信制に入学し、ダンス教室を経営して生計をたてていたそうです。その後、二部、一部と転部し日本大学を卒業後に司法試験合格。

 昭和30年ごろ検事に任官し、特捜部の生みの親とも言うべき河合信太郎検事のもとで吉永祐介(元検事総長)とともに捜査技術を学びました。ロッキード事件の時点では横浜地検の総務部長でしたが、主任検事だった吉永氏にお願いされ捜査陣に加わり、丸紅会長の檜山広氏の担当検事となり、自白を引き出すなどの活躍をしました。その後、釧路地検検事正を経て山形地検検事正を最後に退官し、公証人となられました。
(私論.私見) 「安保憲治考」
 安保氏は、歴史責任上、「檜山調書作成過程の真相」を明らかにしておく義務が有ると考える。檜山調書の作成契機が「お涙シーン」にあったのか、「恫喝屈服」に拠ったのか、その際に上からの政治圧力があったのかなかったのか、あったとすればどのようなものであったのか、それを明らかにしておく責務があると考える。

 どうぞこの声が聞き届けられますように。れんだいこは、今に至る「司法の腐敗」の直接的契機となったと考えるので、重要なテーマである。その場面をできるだけ克明に書き綴って欲しい。なぜなら、ウソならばれるから。

 2005.3.6日 れんだいこ拝

【若狭被告の供述書疑義問題】
 秦野章・氏の「角を矯めて牛を殺すなかれ」は次のように記している。
 「ロッキード事件のとき、全日空社長であった若狭得治氏も、調書の内容が真実でないと主張しても、検事は全く聞く耳を持たず、とにかく内容に違うところがあれば、公判廷で主張すればいいのだと強引に要請されたので、とうとう負けて捺印に応じたという。そして、法廷に登場したとき、検事の言うとおり、検事調書の内容について、そこは違うと主張した。そのことは検事調書作成のおり、検事に申し上げた、と申し立てたところ、裁判官に、しからば、被告人は検事が偽証しているというのかと反論されたという」。






(私論.私見)