【毛沢東―角栄会談秘話、角栄の悲劇性予見】 |
(最新見直し2007.5.9日)
【毛沢東―角栄首脳会談の秘話】 | ||||||||||
2002.11.27日付けで講談社より青木直人著「田中角栄と毛沢東」が初版されている。時期を同じくして日経BP出版より三浦康之著「頂に立て!田中角栄とニクソン上・下」も初版されている。いずれも、ロッキード事件を通じて口を極めて批判されてきた田中角栄の見直しに資する良書である。本来もっと注目されても良いが、我が社会に牢として形成されている「角栄包囲網」の幻影に禍(わざわい)されてマスコミに登場する機会が少ない。まことに惜しまれることである。 さて、「田中角栄と毛沢東」は、「毛沢東―角栄首脳会談」の内容が、実は世間に流布されている遣り取りではなく、真相は極めて大胆且つ高度な政治的遣り取りをトップ・シークレット的に為していたことを暴露しており、極めて衝撃的である。「現在でも、この夜の会談内容の詳細は謎に包まれている」と云う。 以下、青木直人著「田中角栄と毛沢東」を下敷きにしながら、れんだいこ風に纏める。(より読みやすいように漢字変換、句読点、段落変え、解説部分削除、文意を変えない範囲で多少の意訳をしております―れんだいこ) |
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昭和47.9.27日午後7時半、北京の迎賓館でくつろいでいた田中首相一行のもとへ、中国外務次官の漢念竜から電話がかかってきた。日本外務省の橋本中国課長が取り次ぐと、「毛沢東首席がお会いします。田中総理と大平外務大臣にお越しいただきたい」という電話の内容であった。それを聞いた田中は、即座に云った。「二人だけというのはダメです。二階堂官房長官も一緒に来ているのだから、行くのなら一緒に参ります。そう応えてくれ」。 午後8時、周恩来首相が「先ほどは失礼しました」と云って、姫鵬飛外相と共に迎えに来た。この時、ちょっとした悶着が起った。田中の護衛官が、必死の形相で、「私を連れて行ってた下さい。そうでないと、日本からついて来た私の職責が果たせません」と田中の袖にとりすがって再三哀願した。田中は、「いいんだよ」と軽く振り払おうとするが、護衛官はそうはさせじと頑張った。田中は、彼の顔を真正面から見据え、概要「いいんだよ。分かっている。ここまで来れば煮て食われようと、焼いて食われようと、いいじゃないか」と云って、ニッコリと笑った。こうして三名のみが出発したが、突然の予定変更であった為、二階堂の車にはホストが不在だった。 午後8時半、日本側首脳と毛沢東主席(78歳)との会見がセットされた。日本側は田中・大平・二階堂、中国側は毛、周、姫、りょう、これに通訳・記録係として王効賢(外務省アジア局所属)と林麗雹(共産党中央連絡部所属)の二人の女性が加わった。日本側の事務方は出席していない。会見は約1時間にわたった。田中が辞去するとき、毛は用意していた「楚辞集注」大巻を贈った。 青木直人著「田中角栄と毛沢東」は次のように記している。
会談の冒頭、毛は、「周首相との喧嘩はすみましたか」と切り出した。「喧嘩はしなきゃ駄目ですよ。互いに云うべきことを主張し喧嘩してこそ仲良くなれるものです」と続けた。田中答えて曰く、「ええ、周恩来首相と円満に話し合っております。いいたいことは、一つ残さずに話したつもりです」。毛曰く、「そう、それで結構、喧嘩をしてこそ仲良くなれます。本当の友情が生まれます」の遣り取りが為された。 田中首相のスピーチにあった「多大な迷惑」を廻る周首相との鞘当も話題になり、次のように遣り取りされている。れんだいこが、現在漏洩されている情報から類推して再現してみる。
続いて雑談が少々続き、毛は、「いろは、アイウエオ。平仮名とカタカナを創り出した日本民族は偉大な民族です。今日本語の勉強をしています。日本に留学したいと思っているのですよ」と述べている。大平が、「では、私たちはどうやってあなたの世話をしたらいいのですか。難しいですよ。やはり他の国に留学してください」と茶化し、毛曰く、「大平先生は友好的でないですね」と応えた。会談時の友好ムードが伝わる逸話である。 その他、中国の伝統墨守的弊害、日本の選挙制度等々にも話題が及んだと伝えられている。 |
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ひと通リの挨拶と雑談が終わると、毛沢東は田中角栄の目の前で、やおら右手を頭上にあげた。その手を左右にゆっくりと振る。田中達の前で何度か同じ動作を刳り返した後、彼は視線を泳がせるようにしながら口を開いた。
この発言を耳にして、田中は辟易し、内心ではくど過ぎると思ったと云う。「四つの敵」という言葉は、中国を訪問する前に行われた外務省のブリーフィングで、何度も聞いていた言葉だったからだ。当時、中国共産党は日本に対して盛んに「アメリカ帝国主義、ソ連修正主義、日本軍国主義、日本共産党宮本修正主義」の「四つの敵」と戦うよう訴えていた。いわば、中国革命外交のキーワードだった。しかも、日本の軍国主義については、中国訪問の当日からさんざん説明し、中国側の理解も得たはずのテーマである。 だが、毛の口から出た「四つの敵」は田中の想像を裏切るものだった。毛は右手の指を一本ずつ折り始め次のように語った。
視線は四本の指を折り曲げた自分の右手に向けられたまま、田中らを見ようともしない。その姿は瞑想に耽っているようだった。列席した人の中からは咳き一つ聞こえない。田中だけではない。大平も二階堂もこの言葉に沈黙していた。静寂の中、毛の声だけが室内に響いた。 毛は更に話を進めた。意外な人物の名前が毛の口から発せられた。
次に槍玉に挙がったのが、日本の東条英機だった。
彼らの名前を挙げて、毛は田中にこう聞いた。
ここから先は、れんだいこが会話を推理する。毛沢東は次のように述べたのではなかろうか。
毛沢東の話は続いた。
二つの大国が日本と中国の接近の行方を注視している。毛はこう云うのだった。
ソ連が日中接近を警戒するのは分かる。日本と中国という、ソ連に対して友好的ではないアジアの二大国が関係を正常化することにモスクワは神経を尖らせていた。アメリカはなぜ気分が悪いのか。
毛は笑いながらアメリカとソ連の心中を解説して見せたのだった。
毛沢東の口から出たのは日中同盟論だった。即答できるような話ではなかった。 こうして会談は終わった。最後の言葉で、日中国交正常化交渉の成功は約束されたも同前だった。時間にして一時間。しかも通訳が入るので実際の会話は三十分にしかならなかった。毛の自宅を辞した田中は大きく息を吸い込んだ。政治抜きと伝えられた日中首脳会談は、徹頭徹尾政治的なものだった。(以上) |
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この「秘話」は極めて重要なメッセージを告げているように思われる。れんだいこ観によると、稀代の戦略家・毛沢東は、田中角栄に同じ資質を見出し、恰も同志的もてなしをしていることに気付くべきである。その上で、「トップ・シークレット的百年の計」を授けようとしている、と読み取るべきである。この視点によってこそ「毛沢東―角栄会談」の凄さが見えて来る。「角栄の左派的資質」―ここにキーワードが隠されている、とれんだいこは観る。 |
【毛沢東の角栄に対する並々ならぬ関心】 |
毛沢東は、田中角栄に対する並々ならぬ関心を持ち続け、その後も角栄の動向に慈愛を注いでいた様子が「田中角栄と毛沢東」で明らかにされている。 1976(昭和51).2.4日、突如ロッキード事件が発覚した。この時既に毛は最後の闘病の日々を送っていた。その後日本の政界は未曾有の政治危機に直面していくことになった。同年7月、毛は中国を訪れたタイのククリット首相に、「私が実際に会って褒めた人は、国に帰るとみな災難に遭っている」と云いながら、ウォーターゲート事件に巻き込まれたニクソンと金脈追及で辞任した田中角栄の名を挙げた、とある。 もう一つのエピソードが次のように明かされている。毛は最晩年まで身辺から書籍を離そうとしなかった。病床にあっても意識はまだはっきりしていた。身辺の看護を担当していた愛人の張玉鳳は、毛が選んだ本を朗読することが日課になっていた。では、毛が人生の最後に接した書籍は何であったか。諸説あるが「三木武夫」であったという説がある。これは何を示唆しているのか。読み解くのに、毛は、田中角栄逮捕となった日本のロッキード事件に並々ならぬ関心を持ち、角栄訴追の急先鋒を勤める政治家三木の分析に向かおうとしていたのではなかろうか。 青木氏の言をそのまま借りれば、「毛は田中をロッキード事件で追い詰めている三木という政治家の経歴や思想からロッキード事件それ自体の政治的構造を推理したかったのだろうか」ということになる。これが死の前日のエピソードであり、毛は翌日の1976.9.9日に生涯を閉じている。 |
Re:【毛沢東―角栄首脳会談の秘話】 | れんだいこ | 2003/03/31 |
帽子屋さん皆さんちわぁ。毛沢東的世界観についてですが、思うところを書き付けてみます。毛沢東は、この時点において、根っからソ共を嫌悪しております。これを推測するのに、建国以来ソ共の指示に従った政策のことごとくが失敗に帰し、その他諸々のことを思案した結果、本質的にロシア大国主義でしかないのに左派的言辞を弄ぶ最も油断のならない社会主義的帝国主義国家であると位置づけていたのではないでせうか。 それ故に、この時点では、ソ連を明確に敵性国家とみなしております。そうすると、そのソ連と対立しているアメ帝とどの程度まで関係修復するのか、これが課題となりますがやはりイデオロギーが違いすぎるので難しい。しかし、カードとしてはこの切り札を切り始め、キッシンジャーの訪中、続いてニクソン訪中が実現します。その結果、最も親密な盟友林彪派がその左派性ゆえに粛清されることになります。 むしろ、毛沢東は、奇跡の復興を遂げつつあった日本に熱い視線を送ります。アメ帝との軍事同盟下にありながら、平和的国際協調的憲法精神に則り没イデオロギー的に経済発展を遂げつつある日本を羨望していた感があります。歴史的に繋がりも深いこの日本と提携していくことが、中国のためにもなり日本のためにもなるという国家百年の計による文明的判断を確立していたように思います。要するに、日中ブロックを形成して西欧諸国と伍していくという青写真を構想していたのではないかと思います。 しかし、このシナリオは当の中国でも我が日本でも困難がありました。その後の流れを見ると、両国ともこのシナリオの徹底的破壊方向に向かったことで分かります。周恩来はこのシナリオの合点者でしたが、ケ小平以降現政権に至る系譜は親米派で固められていきます。日本も同じです。今や、日中はアメ帝を媒介せずには何も手が打てないところまで楔を打ち込まれております。 話を戻します。70年代前半のかの時、日本に田中角栄内閣が登場しました。首相・角栄、外相・大平、官房長官・二階堂の布陣ですが、戦後日本政治史上ハト派系が頂点に達していたのがこの時でした。考えて見れば、よりによっていずれも貧農出身の戦後秩序ならでは頭角を現すことの出来た好人物であったことが分かります。皆な生き様が良いですね。 れんだいこは、この勢力を日本の土着型社会主義者集団ではないかと推定しております。この観点から戦後史を見ていくと、既成の政治史家の学問ではさっぱり役に立たないことが分かります。どんな党派のものであろうと大御所のそれでも納得できるものがありません。 それはそれとして、毛沢東ー角栄会談とは、中国の土着型社会主義者と日本の土着型社会主義者が邂逅した後にも先にもない一回こっきりの歴史的意義深いものであったということになります。緊張し且つ緊迫した中にも旧知の間柄の肝胆相照らす同志的雰囲気が漂っていたと推測されます。 面白いことに、時のニセモノ左翼がこれに如何に対応したか。ニセモノ度の強さに応じて金切り声を上げ罵倒している、あるいは陰に陽に価値を貶める策動している様が見えてまいります。後日発生したロッキード事件で誰が最も執拗に反角栄的動きをしたか、申すまでもありません。この観点から当時の裏づけを取る作業をして見たいのですが、時間がありません。 >「靖国」などで注文をつける中国政府は、右派には評判が悪いですが、要するにこの観点からすれば「なぜ、漁夫の利を取らせるような日中対立に持ち込みたいのか?」という疑念があるのでしょうね。 れんだいこ史観によれば、「靖国」などで注文をつける中国政府は、かっての毛沢東的世界観とは反目の系流です。旧日本軍部の所業を批判する観点は、毛沢東時代にも当然ありましたが、そもその目線が違います。今日の中国政府の海外からする何でもかんでも批判は、別の人種達による歴史責任追及であり、それはかなり得手勝手なものがあると思っております。しかしこの連中と宮顕ー不破系日共とは思想が合うようで、最近は招いたり招かれたりして小手先の体制修復運動を賛美しあって居ります。よほどウマが合うのでせうね。 |
【「日中の戦略的同盟提起した毛沢東 田中角栄と毛沢東」 】 | |
「阿修羅 国家破産38」の2005.1.30日付け愚民党氏の投稿文で「21世紀ジャーナル」の「日中の戦略的同盟提起した毛沢東」の一文が紹介されている。これを転載しておく。
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【「その夜、新たな歴史がひらかれた 毛―田中会談を再現する (横堀 克己)」】 | |
「阿修羅 国家破産38」の2005.1.30日付け愚民党氏の投稿文で横堀克己氏の「その夜、新たな歴史がひらかれた 毛―田中会談を再現する日中の戦略的同盟提起した毛沢東」の一文が紹介されている。これを転載しておく。
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ここに一つの逸話がある。角栄は首相就任時に「決断と実行」を掲げ、その言葉通り日中国交回復交渉に取り組み北京へと飛んだ。道中の剣呑さをも見事こなして堂々と帰国したのは衆知の通りである。ところで、ここで見落としてはならないエピソードがあるので以下記す。 世上、この毛沢東の田中角栄に対する「楚辞集注」プレゼントの意味を様々に解釈している。れんだいこを得心させるものはない。れんだいこは、毛主席が「楚辞集注」を渡した寓意を次のように解く。
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【楚辞について】 | |
楚辞について「『楚辞』〜中華文明の黎明期〜」(http://web.kyoto-inet.or.jp/people/cozy-p/soji.html)が参考になるのでこれを転載する。
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(私論.私見)