読売新聞連載「ロッキード事件30年-米国からの証言」
ロッキード事件の端緒、ニクソン献金の調査だった
田中角栄元首相が逮捕されたロッキード事件が暴かれる端緒となったのは、ウォーターゲート事件で失脚したニクソン米元大統領への献金に関する、米証券取引委員会(SEC)の調査だったことが、当時のSECや米上院関係者の証言などで明らかになった。SECが不正献金を疑い、ロッキード社などの海外口座を調べた結果、海外での不正工作を把握。調査を引き継いだ米上院小委員会の秘密公聴会で、ロ社の贈賄先として田中元首相の名前が浮上し、公開の公聴会に切り替えた1976年2月、日本をはじめ世界15か国での工作が明らかにされた。ロ事件をめぐっては、独自のエネルギー政策を打ち出していた田中元首相が米側から狙い撃ちにされたという「陰謀説」もあるが、当時の米関係者は否定している。事件発覚の経緯の詳細が明らかになったのは、これが初めてのことだ。関係者の証言などによると、SECは当初、ニクソン元大統領(74年辞任)陣営に対する米企業の不正献金を疑い、75年はじめ、米企業の海外口座を一斉に調査した。この結果、不正献金は見つからなかったが、ロ社が海外口座に巨額の秘密資金を隠し、海外で航空機を売り込むためのわいろなどに充てていたことを突き止めた。調査を引き継いだ米上院多国籍企業小委員会は、ロ社の不正工作は日本のほか、イタリア、オランダ、サウジアラビア、インドネシアなどで行われていたことを把握。このうち日本では、丸紅の指示で、全日空がロ社の新型ジェット機「トライスター」を導入する見返りとして、田中元首相に多額の現金が渡った事実が浮かび上がった。
(2006年7月23日3時3分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20060723it01.htm
(貼り付け終わり)
ロッキード事件の端緒がニクソン金権政治の調査から来ているというところは徳本氏の『角栄失脚 歪められた真実』(光文社)でも、チャーチ委員会がニクソンのウォーターゲート事件を受けて「当時、米国を支配した清教徒的雰囲気」のもとで行われたという形で解説してあった。しかし、当時、清教徒的雰囲気が充満していたのだったら、その後のロックフェラーの三極委員会によるカーター政権誕生、善良派のチャーチ上院議員の上院選落選は無かったのではないか。アメリカのエスタブリッシュメント分析の視点がないからこうなる。ニクソン政権は元々は東部エスタブリッシュメント系ではない中西部財閥系の政権だったが、キッシンジャーが東部財閥の代表として政権入りしていた。NYから考えれば田舎者のカリフォルニア出身のニクソンが扱いづらいロックフェラーのコントロールに入りにくいと考えた東部エスタブリッシュメントは、ロックフェラーのコンロールを受け入れられるフォードを大統領に据え、そこにキッシンジャーを居抜きで大統領補佐官として残したのである。
ニクソンが失脚し、キッシンジャーがなぜ失脚しかったのか。彼は、チャーチ委員会のメンバーでもあった、パーシー上院議員の縁戚であったロックフェラー家に“雇われた”アメリカの国家戦略家なのである。ニクソン政権にロックフェラーが送り込んだ“根草忍者”がキッシンジャーだ。
キッシンジャーにも徳本氏はインタビューを試みたが、当然のように陰謀の存在は否定されていた。当たり前だ。陰謀を仕掛けた側が陰謀の存在を取材するためにやって来たジャーナリストに「私がやりました」というわけはない。キッシンジャーの「謀略発言」を最初に本に書いたジャーナリストの韓国系アメリカ人の文明子女史も「知りません」と逃げた、という。だから陰謀は否定された、というのであるが、これは容疑者否認だから「容疑事実無し」というに等しく、話にならない。
参考:当ブログの過去の記事(http://amesei.exblog.jp
/771994/)
それで三回目の連載には、チャーチ委員会(多国籍企業小委員会)に対する、ロッキード社の事態沈静化のための圧力工作が描かれている。ロッキード社は、チャーチ委員会のメンバーでフランク・チャーチ上院議員のライバルのチャールズ・パーシー上院議員に接近したという。ウィキペディアによると、パーシー上院議員は、ネルソン・ロックフェラーの大統領選挙を応援したこともある。これは1968年の選挙だが、ニクソンの次のフォード政権の副大統領にネルソンは就任する(しかし、すぐに彼は愛人宅で腹上死を遂げる)このときに共和党の大統領指名を勝ち取ったのが、ニクソンであり、ネルソンは党大会で破れている。この敗北は1960年選挙でニクソンに敗れて以来の二回目である。つまり、ロックフェラー家にとって、ニクソンは政敵である。だから、スパイのキッシンジャーに情報をディープスロートにリークをさせて、叩きつぶしたのである。そして、パーシー上院議員の娘であり、今のウェストヴァージニア州上院議員のジェイ・ロックフェラーに嫁いでおり、ペプシコーラやアメリカ公共放送(PBS)の重役を務めているのが、シャロン・パーシー・ロックフェラーである。パーシー上院議員はロックフェラー一族である。それで、読売の記事によると、チャーチ委員会は日本についての資料の提供の権限を握っていたという。チャーチ委員会は日本に関していえば、実質的にパーシーが権限を握っていたことになる。つまり、角栄に関しての資料があったとして、それの中から田中に関する資料を選定して提出することを決めたのはパーシーであると考えることができるのだ。
この読売の記事では、中曽根康弘についてのファイルがあったかどうかは書かれていない。これは今後の調査を待たなければならない。ここで重要なのは、中曽根康弘は、若くしてヘンリー・キッシンジャーに認められた、「世界の指導者候補」であったという事実である。だから、私はキッシンジャーがレヴィ司法長官に出した手紙で、守ろうとした「政府高官」は田中ではなく、むしろ中曽根ではないかという説を既に出しておいた。キッシンジャーは田中首相の独自外交を「ジャップ」呼ばわりしたことは、今年の公文書公開資料で明確になっている。田中を守るはずはないというのが私の考えである。これは事実であると私は自信を持っている。
もとより私は田中は5億円は受け取っているという立場である。だとしても、それは政治献金にすぎないという立場である。田中以外でスキャンダルを逃れて首相になった人物が怪しいといっているのである。私はクリーンな政治などというものに幻想を持っていない。キッシンジャーと中曽根。ニクソンと田中の側近といわれた二人の風見鶏。この二人の以心伝心の政治工作により、日米の政界再編が行われたのだ。ウォーターゲート事件とロッキード事件はだからコインの裏表であり、コインを投げたのは、ロックフェラー家だったのである。このようにアメリカのウォール街の政治的闘争が日本にも波及する。このことは知っておかなければならないだろう。
ロッキード事件の謎は全て解けた! どうも、「読売新聞」は墓穴を掘ったようである。ご愁傷様でした。
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以下、中曽根康弘の証言。産経新聞にも詳しいレポートがあったのだが消えてしまっている。
(引用開始)
データベース『世界と日本』
戦後日本政治・国際関係データベース
東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室
[文書名] 高崎高等学校における講演,政治を志す若い諸君へ(中曽根内閣総理大臣)
[場所] 高崎高等学校
[年月日] 1983年7月31日
[出典] 中曽根演説集,486-493頁.
【大切な中学・高校時代の基礎】
それからもう一つ、非常にありがたいと思ったのは、この高崎高校、昔の旧制中学に英語のいい先生がいました。たとえば藤本純助先生とか栗原重吉先生とか。この先生の発音が非常にいいんですね。恐らく中学や高校時代の先生の発音というものが学生に移っていって、それがそのまま大人になってからの発音になってくるように私は思う。
私は外国へ一年、二年と留学したことはない。一番長かったのは、ハーバード大学のインターナショナル・サマー・セミナールに、キッシンジャーがアシスタント・プロフェッサーでおったころ、そこへ出ただけです。あとは独学です。しかし、高崎中学時代勉強したその基礎というものがしっかりしておって、たとえば以前ニューヨークへ行ったときも、お前はどこの大学を出たと言われて、東京ユニバーシティだと言ったら、いやアメリカのどこの大学を出たかと言うんです。いやおれはアメリカの大学は出ていないと答えたが、それくらい私の英語はニューヨーカーに近いと。自慢じゃないけれどもそう言われた。それは藤本先生や栗原先生のイントネーションがニューヨーカーのものをそのまま持ってきたのではないかと思う。
私は心臓が強いから、アメリカへ行って英語で演説したり、外人が来れば大体英語で話をしたりしております。それは全く独学であります。しかし、それは高校時代の力が根になっている。恐らく高校時代の英語以上の力にはなっていない。ほとんど文法は忘れていますから、あとは八百屋の符丁みたいに知っていることを言うだけの話であります。そういう意味において、中学から高校のときの英語の力というものは非常に大事である。そういうふうに思った。
発言が非常に大事で、はじめてアメリカへ行ったときに、タクシーに乗って、ロックフェラー・センターへ連れていってくれと言ったら、何回言ってもわからない。それで、一体お前はどこの国の国民だと言うんで、黒人運転手に当ててみろと言ったら、まずタイランドかと言った。私はタイ国人に見えたらしい。それからコリヤン、パキスタン、インドネシアまで来て、もうほかにないんじゃないか、ああチャイナがあった。そうじゃない。みんなノー、ノーと言ったら、もうないじゃないかと運転手が言うんで、ザ・ストロンゲスト・エネミー・イン・ザ・ワールド・ウォー[[undef12]]と言ったら、ああジャパン、とそう言ったね。
そういう思い出があるが、そのときにロックフェラー・センターへ行けと言ったってわからない。そこで、アメリカのミリオネアの名前の付いているビルだと言ったら、ああロックフェラー・センターかと。私がロックフェラー・センターと言うと向こうには通じない。RとLの発音の節回しが非常に難しい。それでそのときに、なるほどこれはRとLというものの使い方は難しいんだなとつくづくわかった。
ハーバード大学へ行ったときに、私の友人が、おれがアイスクリームを注文してやると言った。英語使いで有名な男だ。それが、おれはチョコレートだ、お前何にする、おれはバニラだ。それでバニラとチョコレートのアイスクリーム持ってこいと言ったら、バナナとチョコレートを持ってきた。バナナじゃない、バニラだ、ともう一回言った。またバナナ持ってきた。私の友人が怒っていろいろ説明したら、それはバ{前1文字に傍点}ニラではない、バニ{前1文字に傍点}ラだと言うんですね。マ{前1文字に傍点}ニラじゃない、マニ{前1文字に傍点}ラと言う。そういうイントネーション一つで通ずるか通じないか境が出てくる。そういうようなところは、中学・高校時代の基礎的な先生方の力、自分の勉強というものが非常に響いてくる。
〔この講演は、昭和五十八年七月三十一日、母校の高崎高等学校において行われたものである。〕
田中明彦(三極委員会メンバー)研究室
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/
texts/exdpm/19830731.S1J.html