キッシンジャー履歴1

 更新日/2022(平成31.5.1栄和元/栄和4).8.23日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 2007.3.末、キッシンジャーが来日した。その政治的狙いが奈辺にあるのかは不明である。4.1日の六本木ミッドヒルズのオープンに絡んでいるのかも知れない。メディア、政党は、こたびのキッシンジャーが来日目的を訝らず、ひたすら提灯報道し続けている。膨大になりつつあるれんだいこサイトの中にキッシンジャー論が含まれていなかったので、ここに追加する。ネット検索で出てきた「ウィキペディアのヘンリー・キッシンジャー」、田中宇・氏の2002.12.2日付け「激化するアメリカ権力中枢の戦い」その他を資料的価値としてのみ参照し、れんだいこ的キッシンジャー論を書き上げることにする。それにしても、ろくなキッシンジャー論がない。改めて、日本左派運動の理論的貧困を痛苦せざるを得ない。れんだいこの以下の検証が役立てば幸いである。

 好き嫌いは別にして、キッシンジャーが、ニクソン、フォード両大統領の右腕として、冷戦時代の外交史を築き上げ、1960年代末から80年代頃までの国際政治の舞台で最も活躍したとされる人物であることは確かだ。

 2007.4.2日 れんだいこ拝


【ヘンリー・アルフレッド・キッシンジャー(Henry Alfred Kissinger、1923.5.27 - )】
1923年  5.27日、ドイツ・ヴァイマル共和国の小さな田舎町フュルト(フェルト)で、ユダヤ系ドイツ人の家庭に生まれる。本来の姓名はHeinz Alfred Kissinger(ハインツ・アルフレート・キッシンガー)で、苗字はバート・キッシンゲン(Bad Kissingen)に由来。父ルイス・キッシンガーは女子高で歴史と地理を教え、母パウラ(旧姓シュテルン)はアンスバッハ近郊ロイタースハウゼン出身の富裕な家畜業者の娘。両親ともにユダヤ人で、その長男として生まれた。故郷バイエルンのなまりは生涯続いた。

 ハインツは、1歳下の弟ヴァルターと共に幸福な少年時代を過ごしたが、1933年、ヒトラー支配のもと反ユダヤ人政策を推し進めるナチスが政権を掌握したために運命が一変した。

1938年  15歳の時、ユダヤ人迫害を逃れてアメリカへ移住。(ドイツに残った親類はナチに殺害された、と云われている。但しその検証はされていない) 

 苦学しながら経理士を目指した。傍らユダヤ難民青年グループで政治と宗教を学んでいる。移住後はジョージ・ワシントン高校に3年半通う。後半の2年間は夜間クラスで、昼間は髭そり用ブラシの工場で働き、週約15ドルの賃金が一家のアパート住まいの生活を助けていた。
 高校卒業後は、工場で働く一方職場近くにあったニューヨーク市立大学シティカレッジ経営・行政管理学部(ニューヨーク市立大学バルーク校の前身)にもパートタイム学生として通い、特に会計学で優秀な成績を修めた。

1943年  ニューヨーク市立大学シティカレッジでの学業を中断してアメリカ陸軍に志願し市民権を得てアメリカに帰化した。
 米陸軍に入隊。第二次世界大戦にはアメリカ軍情報部の士官として参戦し、ドイツ語の能力を生かしヨーロッパ戦線の第84歩兵師団CIC(諜報部隊)で調査官として活動した。上等兵、軍曹に特進し、ナチスの破壊工作の調査に当たっている。「アレン・ダレスの部下としてOSS(後のCIA)に配属された」。キッシンジャーのヨーロッパ時代、KGB(ソ連諜報部)、GRU(ソ連軍諜報部)のスパイや士官名簿整備の責任者として、ロンドンのМ(英国諜報部)等々と連絡した第一級の情報部員として活躍している。対諜報部隊に3年間所属した。

 終戦後も引き続き母国ドイツに駐留し、CIC(諜報部隊)分遣隊長としてナチ狩りを担当した。「私は誰よりもゲシュタポを逮捕した」と豪語している。この時、F・クラエマー上官の影響を受ける。
 1年後、ヨーロッパ戦線諜報学校の教官となっている。
 帰米後、メリーランド州フォート・ホラバードの米国陸軍諜報センターで大尉にまで昇進、G2参謀課長補佐になっている。

1946年  24歳の時、ハーバード大学2年に編入されている。政治学を専攻し、19世紀のヨーロッパ外交史を専攻した。4つの奨学金(ロックフェラー財団)を受けている。

1949年  2.6日、高校時代、アン・フライシャー(Ann Fleischer)と知り合い交際をしていたが、戦争の影響でしばらく疎遠となっていた二人が結婚した。ヘンリー25歳、アン23歳だった。結婚式はワシントンハイツにあるヘンリーのアパートで行われ、12名ほどが出席した。ユダヤ教正統派に則って式が行われた。長女が1959年、長男が1961年に生まれたが、1963年別居状態となり、1964年に離婚する。

 その後アンは女性解放運動に参加。1973年に化学者のソール・コーエン(Saul Cohen)と再婚。一方のキッシンジャーは1974年、ハーバード時代の教え子でネルソン・ロックフェラーの秘書だったナンシー・シャロン・マギネス(Nancy Sharon Maginnes、1934年生まれ)と再婚した。式には 前妻との2人の子供も出席した。キッシンジャーは離婚から再婚までの間に少なからぬロマンスを報じられていたこともあり、この際UPI通信は、「浮名を流したヘンリー年貢を納める(Swinging Henry Ends His Days of Bachelorhood)」と報じている。

1950年  政治学の学士学位を取得し、ハーバード大学を最優秀の成績で卒業。引き続き同大学大学院に進学し、ウィリアム・ヤンデル・エリオットの指導のもと19世紀のヨーロッパ外交史を研究している。その後、米ハーヴァード大学で学士、修士、博士学位を取得。その後、同大学で国際関係を教えた。
 ハーバード大学を卒業した直後、キッシンジャーは、フォード財団(ロックフェラーが後援するアジア財団)、イスラエル、CIAがスポンサーの「ハーバード国際セミナー」というサマー・スクール(夏期講座)の責任者になり、世界各国の有望な若手指導者をハーバード大学に集め、国際情勢について講義や議論を通じて国内外に人脈を形成している。同大学院を終了後、講師・准教授・教授と昇進して行く。その後1969年まで同校の政治学部教授として教鞭をとり外交問題評議会の研究指導者等をつとめる。
 1950.6月、中曽根が、スイスで開かれるMRAの世界大会に出席している。この時、中曽根はヘンリー・キッシンジャーなどCFR(外交問題評議会)のメンバーと知り合い面識を得ている。キッシンジャーは1923(大正12)年生れであるから大正7年生まれの中曽根、田中角栄とは5歳年下ということになる。
 中曽根は死んでいる。キッシンジャーは生きている。確認したところ二人は1950年頃、知り合ったと思われる。巷間「中曽根がキッシンジャーに師事」と云われている。これを普通に解するとキッシンジャーの方が年上と読むだろう。実際はキは1923(大正12)年生れ。中曽根は大正7年生まれ。キの方が5歳年下になる。してみれば、中曽根は27歳の頃から22歳のキッシンジャーに師事し(顎で使われと読む)、その関係が終生続いたということになる。こう読み取らないときれいごとになる。

1951年  キッシンジャーが初来日している。日米学生会議に参加している。
1952年  修士号取得。
 ロックフェラー財団の資金援助でコンフルエンス(融合)誌を主催。親共産主義者と親しくし情報収集している。

1953年  中曽根がハーバード大学のセミナーに参加している。セミナーのスポンサーにはロックフェラー財団やフォード財団のほか、「中東の友」といった団体も含まれていた。「中東の友」はCIAが隠れ蓑に使っていた団体だと言われている。時期が1年ずれているが次のように解説されている。
 「アメリカの重要な大学としてジョーンズ・ホプキンス大学がある。この大学はワシントンに高等国際研究所を持っており、そこのサナイエル・セイヤー教授の手引きで、1954年に中曽根が初めてハーバード大の夏期講座に参加した。その前にセイヤーはCIAのアジア太平洋部長だった。それが縁で中曽根はCIAとつながった。中曽根は、ジョーンズ・ホプキンス大学の系列でもってハーバードのキッシンジャーのゼミに出席して、そこで洗脳されて、原子力の重要性をたたき込まれた。帰国後は、彼の伝記を読むと、手柄話として自分が原子力予算をつけたことを書いている。正力がスパイになった同じ時期に、中曽根もアメリカに協力していたことがはっきりする」。

1954年  キッシンジャーが、ウィーン体制についての研究で哲学博士の学位を取得する。(邦訳「回復された世界平和」)。博士課程修了後、ハーバード大学政治学部で教鞭をとっていたが、外交問題の研究指導者となり、外交問題評議会への参加を通じて、同時代の外交政策にも積極的な提言をはじめる。

1955年  ドイツや他のヨーロッパ諸国を訪問。除隊。「私は他の任務につきたいし、緊急事態の際の、さらに重要な任務に向いていると確信しているから」との言葉を残している。
 その後、ネルソン・ロックフェラーの直参で活動し始める。キッシンジャーはアイゼンハワー政権の採用した核戦略(「大量報復戦略」)の硬直性を辛辣に批判し、ケネディ政権が採用する「柔軟反応戦略」のひな型ともいえる、核兵器・通常兵器の段階的な運用による制限戦争の展開を主張した。その他多くの官庁コンサルタントを務めている。

1960年  大統領選挙で、共和党の大統領候補指名予備選に立候補したネルソン・ロックフェラーの外交政策顧問を務めている。1964年と1968年の大統領選でも予備選に出馬したネルソンを支援するなどロックフェラー家との交流が深く、後に3代目の当主デイヴィッド・ロックフェラーは銀行の中国進出を決めた際にキッシンジャーから助言を受けている。
1960年代  ケネディー政権下で大統領特別顧問に就任し外交政策立案に一時的に関与している。しかし、ケネディ政権で国家安全保障問題担当大統領補佐官に就任したマクジョージ・バンディがベルリン危機 (1961年)に際してドイツ問題の専門家であるキッシンジャーを遠ざけたため、1年足らずの1961.11月に辞職している。

1965年  南ベトナム駐在大使ヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニアの長男がハーバード大学で同僚だった関係で、大使の顧問として1965年から1966年にかけ3回サイゴンを訪問し、ベトナム戦争の現実を知った。この時キッシンジャーが国務省に行った報告が、ウィリアム・ウェストモーランド大将をベトナム派遣軍司令官から更迭する遠因になったという。また学者としてチェコスロバキアの情報機関と接触したことから、国務省が行っていた北ベトナム政府との秘密工作のひとつ(「ペンシルベニア」と呼称)と関わったが成果は上げられなかった。

1968年  大統領選では共和党の大統領候補指名選に立候補している。ニクソンに敗北したネルソン・ロックフェラーの外交顧問を務めた。大統領選挙で当選したリチャード・ニクソンから直々のスカウトを受け、政権誕生とともに国家安全保障問題担当大統領補佐官として政権中枢に入り、ニクソン外交を取り仕切る。キッシンジャーの大統領補佐官指名は、国務長官、国防長官の指名の前になされた。ここにニクソンのキッシンジャーへの期待を読み取る論者も少なくない。

 「官僚と政策立案」と題する論文を発表。アメリカ外交の機能強化のためジョンソン政権下でほとんど有名無実の存在と化していたNSCの活用を提案している。ニクソンの命を受けたキッシンジャーはNSCのスタッフ(特別補佐官)に若手の外交官、軍将校、国際政治学者をスカウトして組織した。キッシンジャーからNSC特別補佐官にスカウトされた人物には、アンソニー・レイクローレンス・イーグルバーガーアレクサンダー・ヘイグブレント・スコウクロフトなどがいる。

 キッシンジャーは、国務省などと激しい権力闘争を行い、ニクソン政権ではNSCが外交政策の決定権を独占することとなる。特にウィリアム・P・ロジャーズ国務長官を重要な外交政策から排除した。キッシンジャーは、NSC特別補佐官のほかに大使、駐在武官、CIA支局長などをNSCの手足として用いた。


1969年  1月、第37代米国大統領ニクソン政権の誕生とともに政権入り(ホワイトハウスに入り)し、国家安全保障担当大統領補佐官(国家安全保障)として外交全般を取り仕切る。ソ連と第一次戦略兵器制限条約(SALT1)を締結するなどデタント政策を推進した。アメリカの外交政策に大きな影響力を持つようになった。

1971年  7月、ニクソンの「密使」として極秘に中華人民共和国を二度訪問し、ニクソン大統領の中国訪問による米中和解への道筋をつけた。キッシンジャーと周恩来の会談は冷戦後の米中指導者の初会談となり、歴史的転換点となる会合だった。

 極秘訪中の際も、キッシンジャーはロジャース国務長官と国務省に一切知らせずに、フランス、ルーマニア、パキスタンなどに勤務している駐在武官やCIA支局長を利用して秘密裏に北京に到着した。北京では、中華人民共和国側の英語通訳に依存して交渉が行われた。


 2002.2月末、この時の「キッシンジャー・周恩来首相会談機密文書」が公開された(関連記事)。キッシンジャーは、1979年に発行した回顧録で、「周恩来との会談では、米中関係の基本となる認識論が話し合われた。米中間には、具体的に解決しなければならない問題がほとんどなかったため、相互信頼を醸成するための抽象的な話し合いだけで十分だったからだ。台湾問題についても、ほとんど話し合わなかった」と記している。

 ところが、「キッシンジャー・周恩来首相会談機密文書」は、キッシンジャー回顧録の記述がウソであったことを判明させた。実際にはキッシンジャー・周恩来会談は7時間に及んでおり、冒頭の2時間以上が「台湾問題」に費やされている。周恩来は、米国が「一つの中国の原則」を認めない限り、アメリカと外交関係を樹立することはできないと主張した。これに対してキッシンジャーは、北京政府が中国の唯一の正統政権であることを認め、「台湾が中国の一部だということは認められない」としながらも、台湾が中国とは別の国として独立すること(二つの中国論)も認めないと明言し、いずれ中国と台湾が統合されることが望ましいと述べ「一つの中国原則」の主要部分を認めている。このことは、キッシンジャーが平気で歴史偽造を行う御仁であることを知らせている。いわゆるユダヤ狡知であろう。

1972年  日本の田中角栄首相が訪中し日中国交正常化を図る計画を知り、「ジャップ」("Jap")との表現を用いて田中首相の日中国交回復の動きに対して、「最悪の裏切り者」と非難した。

 8.19日、ハワイでの日米首脳会談10日後の8.31-9.1日(現地時間)に控えたこの日、キッシンジー米大統領補佐官が、中国との国交正常化に動きだした田中首相の静養する軽井沢町を訪問した。午前9時すぎに東京からヘリコプターで軽井沢駅南のホテルゴルフ場に到着。車で別荘地帯にある万平ホテルに入った。ホテルでは約10分前に到着していた首相と、カメラマンのライトを浴びながら握手を交わした後、同9時20分すぎから別室での会談に臨んだ。日米首脳会談に備えて、その中心的課題について、あらかじめ調整をしたいという米側の要請で開かれたもので、予定を1時間も上回る約3時間にわたって中国、日米経済関係など両国をめぐる重要な懸案について会談した。席上、田中首相は、キッシンジャー補佐官の求めに応じ、日本が中国との国交正常化に臨む態度を詳しく説明した。また、ハワイ会談のもう一つの重要な柱である日米経済、貿易関係の調整についても突っ込んだ協議が行われた。(信濃毎日新聞夕刊参照)

1973年  8.23日、フォード大統領のもとで国家安全保障担当大統領補佐官に留任したまま国務長官に指名され就任する(1977年までの8年間)。フォード政権の退陣までの間において外交政策の全般を掌握しデタントを推進することとなった。フォード政権でも外交政策に明るくない大統領を尻目に、補佐官時代の部下であった国家安全保障問題担当大統領補佐官のブレント・スコウクロフトや、国務省参事官ヘルムート・ゾンネンフェルトら側近を活用しながら、フォード政権下でも続いたデタント政策をリードした。一方でより厳しい対ソ連認識を抱き、ニクソン政権時代から進められていたデタント政策に批判的なドナルド・ラムズフェルド(大統領首席補佐官・国防長官を歴任)などとは閣内で対立していた。
 3.29日、米軍がベトナムから撤退した。
 パリ協定締結へ向けての努力など、ベトナム戦争終結への貢献を理由にノーベル平和賞を受賞した。
 南米チリのアウグスト・ピノチェト将軍による、世界初の自由選挙による社会主義政権として登場していたサルバドール・アジェンデ政権に対する軍事クーデターが発生した。キッシンジャーは、CIAを使ってこれを裏支援したとして、後に国際的な非難を浴びた(関連記事) 。
 同年11月、キッシンジャーはニクソン訪中後再訪中し、再び周恩来と会談している。この会談で、翌年までに台湾にある米軍の核兵器とU2偵察機、F4戦闘機をすべて撤去する、と表明している。しかし、アメリカがこのことを台湾政府に伝えたのは半年も経った後だった。(関連記事

 毛沢東中国共産党主席はキッシンジャーとの会談で米国、日本、中国、パキスタン、イラン、トルコ、欧州によるソ連包囲網の構築を提案した。

 この年、「ノーベル平和賞」受賞。周恩来、毛沢東、ブレジネフなどと精力的に会談。ベトナム和平の功績が評価された。
 73年の第4次中東戦争以後の中東情勢に対しても、頻繁に中東諸国を訪問してアラブ・イスラエル間の調停にあたりエジプトとシリア、イスラエル間の敵対行為を停止させた。、「シャトル外交」と言われたが、基本的なイスラエル支持(キッシンジャー自身がユダヤ系であった)、ソ連の影響力の排除というアメリカの中東政策の枠組みから抜け出すことはできなかった。また、アラブ諸国を牽制するためにイランと接近し、パフレヴィー王政との関係を強めたことが79年のイラン革命を誘発する原因をつくった。

1974年  ニクソン大統領が「ウォーターゲート事件」で失脚した。
 フォード政権が誕生し、キッシンジャーは引き続き政府中枢に居残って国務長官をつとめることになった。
 キッシンジャー国務長官は、中東でアラブ諸国とイスラエルの対立を緩和するために「シャトル外交」を展開し、エジプト(アンワル・サダト政権)とイスラエルを和解させた。

 サウジアラビアのファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ第二副首相兼内相と会談して原油をドル建て決済で安定的に供給するサウジに米国は安全保障を提供する協定(ワシントン・リヤド密約)を交わしてオイルダラーを確立させてドル防衛に成功した。アフリカでのソ連の影響力排除を目的にエジプトとサウジアラビアなどが結成した反共同盟サファリ・クラブも支援した。

 シリアで行われた同国のアサド大統領との会談において、直前にインドで行われた地下核実験が「パキスタン、中華人民共和国を神経質にするだろう」と発言。さらに同氏は「日本も核を開発すると思う」と指摘。

1976年  アフリカ南部に勢力を伸ばすソ連やキューバをけん制するために、傍観的な立場にあったローデシア問題、ローデシア紛争に突然介入を開始。同年4月27日、ローデシアの隣国のザンビアを訪問し、ローデシアのイアン・スミス政権に対し黒人多数支配に移行するように圧力を掛け、結果的に白人独裁体制を終焉させるきっかけの一つを作った。

1977年 キッシンジャーはフォード政権の退陣と共に国務長官を退任した。その後、国際コンサルティング会社「キッシンジャー・アソシエーツ」を設立し、社長に就任。同社にはジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ政権で国務副長官(後に国務長官)を務めたローレンス・イーグルバーガーや、国家安全保障担当大統領補佐官を務めたブレント・スコウクロフトなどが参加している。
 キッシンジャーは国務長官在任中(1973-1977)に、シオニスト指導者たちを多くの政府機関の役職に就け、ADL(ユダヤ名誉棄損防止連盟)支持者を新教系協会団体のなかに導入し、前内国歳入庁(IRS)長官シェルダン・コーエンに説いて、ADLや何百というシオニスト機関が永遠に免税措置を受けられるよう、IRSの規則を書き換えさせた。

1979年  キッシンジャーは回顧録を出版。 ジョージタウン大学戦略国際問題研究所(CSIS)に招かれ、在職中次々と政権時代の回想録を発表し、話題を呼ぶこととなった。

1980年  『キッシンジャー秘録』で全米図書賞受賞。

1982年  国際コンサルティング会社「キッシンジャー・アソシエーツ」を設立し、社長に就任。同社にはジョージ・H・W・ブッシュ政権で国務副長官を務めたローレンス・イーグルバーガー(後に国務長官)や、国家安全保障担当大統領補佐官を務めたブレント・スコウクロフトなどが参加している。また、バラク・オバマ政権で財務長官に就任したティモシー・ガイトナーも、一時同社に籍を置いていた。

2007年  1.4日、ジョージ・シュルツウィリアム・ペリーサム・ナンらと連名で「核兵器のない世界に(A World Free of Nuclear Weapons)」と題した論文をウォール・ストリート・ジャーナル紙上に発表した。同論文はイラン・北朝鮮などが核開発を試み、また国際テロリスト・グループによる核保有の可能性すら存在する現代において、核兵器に過去のような抑止効果は存在しないとして核兵器廃絶をアメリカが唱道すべきことを訴えており、注目を集めている。
 3.30日、来日し、東京都港区のホテルオークラで講演会が開かれた。数多くのホテルの中でホテルオークラで「国際政治の激流と新時代の予兆」と題した講演を行った。講演会は、フジサンケイグループとFCG懇話会主催で開かれた。フジサンケイグループとFCG懇話会がキッシンジャーとよほど親しい関係にあることが分かる。
 4.1日、早稲田大学の名誉博士号が授与され、記念講演が行われた。同日午後7時半、フジテレビ系列が、春の報道特番「特別来日!外交の巨人キッシンジャーの警告 目覚めよ!日本人」を放送した。ゲスト出演は石破茂、司会/安藤優子。

2009年  4.20日、岡山大学にて特別講演会を実施。この模様は後日岡山放送でも放映された。

2011年  11.11日夜、首相官邸を訪問、野田佳彦首相と会談し、「TPP交渉参加方針を歓迎する」と述べた。

2016年  2月、プーチンの招待で訪露。
 アメリカ合衆国大統領選挙で当選した第44代アメリカ合衆国大統領のドナルド・トランプとはトランプ曰く「政治の世界に入るずっと前からの友人」という旧知の仲であり、大統領就任前後からトランプはキッシンジャーに助言を仰いできた。キッシンジャー・アソシエーツに所属したキャスリーン・マクファーランド国家安全保障問題担当大統領副補佐官やCSISで同僚だったレックス・ティラーソン国務長官の抜擢はキッシンジャーの推薦だったとされる。これらのことから非公式の外交顧問になっていると目されている。
 12月、訪中して習近平国家主席(党総書記)と北京で会談し、タイミング的に勝利したトランプ新政権の対中外交方針を伝えたものとされている。

2017年  5.10日には、ホワイトハウス大統領執務室にて報道陣と応対、トランプが「キッシンジャー氏と議論ができて光栄だ」とコメントしている。
 7月、ティラーソン国務長官に対して「米中は北朝鮮の政権崩壊に向けて在韓米軍撤退を事前合意すればよい」と提言したとされる。同年8月、ウォール・ストリート・ジャーナルで「北朝鮮問題は専ら米中で解決すべき」とする寄稿を行った。
 10.10日、トランプは日中韓3か国への初のアジア歴訪に備えてキッシンジャーと会談した際に「キッシンジャー氏を尊敬している」と発言した。
 6.29日、ロシアを訪問してウラジミール・プーチン大統領と会談。その直後、ホワイトハウスは同年7月に米露首脳会談を実施することを発表したことから、ロシアの報道機関はキッシンジャーが調整役を担ったとの見方を示した。

2020年  1.15日、米中貿易戦争の打開に向けて結ばれた米中経済貿易協定の署名式では同じく中国と関わりの深いラスベガス・サンズ会長兼CEOのシェルドン・アデルソンブラックストーン・グループCEOのスティーブン・シュワルツマンらとともに出席した。
 11.25日、トランプ政権のクリストファー・ C・ミラー国防長官代行は国防総省の諮問機関である国防政策委員会からキッシンジャーら11人の委員を解任し、同年12月15日に対中強硬派のマイケル・ピルズベリーを新たな委員長とする人事刷新を行った。

2021年  3月、リチャード・ニクソン財団主催のセミナーに出席し、2020年アメリカ合衆国大統領選挙で当選したジョー・バイデン大統領に対してアブラハム合意など対イランでイスラエルの防衛を強化したトランプ前大統領の中東政策を継承することを助言した。

 現在は「現代外交の生き字引的存在」として多くの著書を持つほか、世界各国で講演活動を行っている。また、ニクソン以降のアメリカの歴代大統領をはじめとする世界各国の指導層と親交を持っており、ジョージ・W・ブッシュ政権において指南役として活躍した。ブッシュはキッシンジャーとは定期的に会談の機会を設けており、政権外で最も信頼する外交アドバイザーであった。キッシンジャーはブッシュ政権下で行われているイラク戦争も基本的に支持していた。その国際的影響力は「最大級」と評価されている。


2022年  10.26日、キッシンジャー(99歳)元国務長官が来日、車いすで総理大臣官邸を訪れ、岸田首相 とおよそ30分間会談した。具体的な会談内容は明らかになっていない。松野官房長官は、記者会見で「国際情勢について、一般的な意見交換を行ったと承知している」と述べた。最新の中国の動向や、ロシアのウクライナ侵攻などを背景に厳しい状況にある核軍縮の取り組みなどをめぐって意見を交わしたものとみられる、と解説されている。

2023年 11.29日、ヘンリー・キッシンジャー元米国務長官が逝去(享年100歳)。キッシンジャー氏が設立した政治コンサルティング会社「キッシンジャー・アソシエーツ」が発表した。米コネチカット州の自宅で亡くなったという。死因は公表されていない。
  1970年代半ばに公職から退いたが、その後何十年にもわたって、さまざまな世代の指導者たちから意見を求められ続けた。 ジョージ・W・ブッシュ元大統領は、アメリカは「外交問題に関して最も信頼でき、特徴的な声のひとつを失った」と、追悼した。 リチャード・ニクソン大統領の娘のトリシャ・ニクソン・コックス氏とジュリー・ニクソン・アイゼンハワー氏は、キッシンジャー氏の人生は「とてもユニークで、徹底してアメリカ人だった」と述べた。 「ヘンリー・キッシンジャー氏は、平和の大義を推進した数々の功績により、長く記憶されるだろう。しかし私たちが決して忘れることができないのは、その人柄だ」

 キッシンジャー氏は2022年7月、99歳の時の米ABCのインタビューで、自分のこれまでの決断で撤回したいものはあるかと質問され、「私はずっとこれらの問題について考えてきました。私の趣味であり、職業でもある」と述べ、こう続けた。 「そして、私が行った提言は、その時の私にできる最善のものだった」。 キッシンジャー氏には、50年近く連れ添った妻のナンシー・マギネス氏がいる。前妻との間に2人の子供がおり、孫も5人いるという。 (英語記事 Ex-US Secretary of State Henry Kissinger dies, 100)
  キッシンジャー氏の訃報はすぐにソーシャルメディアの「微博(ウェイボー)」でトレンド入りした。 中国中央電視台の英語放送「CGTN」は、キッシンジャー氏を「中国国民の古い友人」と呼び、死去を伝えた。 中国中央電視台の放送では、米中関係で重要な役割を果たした同氏を、「伝説の外交官」「生きた化石」と説明した。

 一方でキッシンジャー氏は長年にわたり、人権よりもソ連との対立を優先させたり、チリのアウグスト・ピノチェト政権をはじめとする世界中の抑圧的な政権を支援したりしてきたとして、痛烈な批判にさらされた。 しかしキッシンジャー氏自身は、こうした批判を相手にしなかった。

 100歳の誕生日直前の米CBSの取材では、「批判する人々の無知を反映している」と語っていた。 キッシンジャー氏は1973年、北ベトナムのレ・ドゥク・ト氏と共にノーベル平和賞を受賞した。レ・ドゥク・ト氏は賞を辞退している。 この授与は議論を呼び、ノーベル委員2人が辞任している。 キッシンジャー氏は1977年に政府の職から退いたが、その後も公共問題に関するコメンテーターとして活躍し続けた。故ジョン・F・ケネディ氏から現職のジョー・バイデン氏までの12人の歴代大統領や議員らも、しばしば同氏に助言を求めた。 また、さまざまな企業の役員を務め、外交政策や安全保障のフォーラムにも顔を出した。
 キッシンジャー氏は今年5月に100歳を迎えたが、7月には中国の習近平国家主席と会うために北京を電撃訪問するなど、晩年になっても精力的な活動を続けた。同氏は、毛沢東氏から習近平氏までのすべての中国の指導者と直接やりとりした唯一のアメリカ人でもある。 この訪問はホワイトハウスを憤慨させ、国家安全保障会議(NSC)のジョン・カービー報道官は、「民間人が中国指導者に接触できるのに、アメリカ政府は接触できないのは残念だ」と遺憾の意を示した。
 著書は21作に上る。
 岸田総理大臣は総理大臣官邸で記者団に対し、「アメリカと中国の国交正常化など地域の平和と安定に大きな功績を残された。私自身も若い頃からたびたび直接、お会いし、知見をたまわった。今日(こんにち)までの偉大な足跡に心から敬意を表し、哀悼の誠をささげたい」と述べました。





(私論.私見)