ロッキード事件に果たした昭和天皇&皇室のミスリード

 更新日/2017.4.11日

【昭和天皇の角栄に対する態度】

 昭和天皇が、角栄を嫌っており、角栄がテレビに出るとツと立ってテレビをプツンと消したという話が流布されている。その情報元ははっきりしないが、当時そういう宮内庁情報がリークされていた。

 藤原弘達「角栄、もうええかげんにせんかい」に次の記述があるとのことである。

 「フォード大統領が来日して、宮中で晩餐会が催された時、金権批判で失脚寸前の田中は、首相らしい行動様式の威厳も、外交的ホスピタリティーも忘れて、呆然としており、天皇もさすがに不満をもらされたとかなんとか。またロッキード裁判で法廷に出る時、『よおっ』と右手をあげる田中の姿がテレビの画面に出ると、黙って天皇はスイッチを切られるとかなんとか」。
(私論.私見)
 この情報の正確さがはっきりしないのでコメントしづらいが、この流言は昭和天皇の政治的意向を飛語させており、かなり問題があるところである。この種の情報は確かめようのない口伝になる傾向があるので信憑性に欠けるが、有り得る情報であろう。となると、昭和天皇が何故に角栄を毛嫌いしたかという問題になる。これはかなり意味深な考察課題である。

 2009.10.22日 れんだいこ拝

【平野貞夫氏の「昭和天皇の『極秘指令』」考】
 平野貞夫氏は、「昭和天皇の『極秘指令』」(講談社、2004.4.10日初版)の中で、ロッキード事件渦中に果たした昭和天皇の「極秘指令」を暴いている。直接的なものではないが、「入江相政侍従長日記」(以下、「入江日記」とする)の記述に留意しながら昭和天皇の意向を見ようとしている。「側近を通じ、昭和天皇の田中角栄という政治家に対する感情が浮き彫りとなる」、「ロッキード国会と昭和天皇の『極秘指令』は車の両輪として歴史を動かし、その陰には前尾議長の人知を超えた苦悩があった」と推定している。もう一つ。平野貞夫氏は、同書の中で、昭和天皇の「象徴制」にも拘わらず案外な政治的立ち回りをも暴いている。いずれにしても衝撃的な内容の良書である。概略を以下に記す。

 昭和天皇の「角栄不快観」は、政権発足時に忽ち表れている。「1972.7.7日付け入江日記」は次のように記している。(読み易くするため、漢数字の洋数字への書き換え、句読点等任意挿入、一部ひらがな転換をした)
 「田中内閣は少しづつ出来ていく。三時、両院議長、続いて佐藤総理それぞれ内奏。田中総理の親任式。続いて内奏。(中略)内奏の時、後から聞くところによると、贅沢な盆栽を持ってくるなとかアメリカへ行くことになっても前総理は随行するな、など相当なことをおっしゃったらしい」。
(私論.私見)
 昭和天皇は、普通では云わない「贅沢な盆栽を持ってくるな」、「アメリカへ行くことになっても前総理は随行するな」などと述べていることになる。「贅沢な盆栽を持ってくるな」とは、角栄の成金趣味に対するあてつけであろう。「アメリカへ行くことになっても前総理は随行するな」の意味は分からないが、余計な口出しには相違ない。

 「1972.9.6日付け入江日記」は次のように記している。
 「1時50分に田中総理、2時から拝謁、45分間。前総理よりいつも短い」。
(私論.私見)
 「前総理よりいつも短い」ということは、昭和天皇が角栄を嫌っていたということになろう。

 「1973.5.24日付け入江日記」は次のように記している。
 「この間、田中総理の拝謁の際、聞き損ったとて、日中航空に台湾をどうするか、沖縄のその後の模様は、とこの二件。昨日、羽田で長官が総理に云ったら、近く外相が宮中に出ると云っていたから、その時、申し上げるようにしようということだった由、調整してくれとの話」。
(私論.私見)
 これによれば、昭和天皇は、時の首相に対し、いろいろ質疑するのを常習化している観がある。興味深いことは、うすうす嫌われていることを察知している角栄は、天皇のご下問に対して自ら出向かず、担当外相に説明に出向かせていることになる。角栄もまた苦手な様子が分かる。

 平野貞夫氏は、ロッキード事件について次のように記している。
 「この(「入江日記」)一文には田中前首相への尊敬や憐憫はなく、ひたすら客観的である。あくまで侍従長の感想なのだが、昭和天皇にも同じような目線があったことは想像に難くない。このロッキード国会の底流には、昭和天皇の田中前首相に対する厳しい目があったということだ」。
(私論.私見)
 これによれば、昭和天皇は、ロッキード事件に対し、それが角栄失脚に向う方向に対し間接的リードしていることになる。具体的な動きまでは分からないが、それはそういう遣り方だからして永遠に解明不能ではあろうが留意しておくべきことのように思われる。そういえば、宮顕が突如シャカリキに取り組んだ裏事情にこの辺りのことが関係している可能性が強い。

 2005.10.6日 れんだいこ拝

 田中角栄が逮捕された日の「1976.7.27日の入江日記」は次のように記している。
 「朝のニュースで田中前首相が地検に呼ばれたことを知る。余程のことが無ければこうはすまい。還御は3時過。この時田中前首相の逮捕を知る。こうなってみればはかないもの」。
(私論.私見)
 入江侍従長本人の気持ちか昭和天皇の気持ちをも表しているのかまでは分からないが、角栄逮捕を賛辞している様子が分かる。

 (以下、略)

 2005.10.5日 れんだいこ拝

 「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK73 」の脳天気な醜男氏の2009.10.21日付け投稿「昭和天皇による外交政策への容喙 『古川利明ブログより』」を転載しておく。

 昭和天皇が戦後長く国政に関する外交活動を独自に(?)続けていた事は、「昭和天皇・マッカーサ会見」(豊下楢彦、岩波現代文庫、2008年)に詳しく考察されている。また、「新潮45」8月、9月号(2009年)で連載されている「パケナム日記で紐解く戦後日本秘史」(青木富貴子)でも、天皇の日本国外交政策への容喙の一端が記されている。下記もそれと整合する資料と思われる。

 http://toshiaki.exblog.jp/

 以下一部抜粋#####
 
 2009年 10月 19日

 そういえば、ワシも、つい、さっき、久しぶりに、平野貞夫のオッサンんところに電話を入れて、少し、喋ったんだが、オッサンが、04年の参院ギイン引退直前に、講談社から出した『昭和天皇の「極秘司令」』(07年に講談社+α文庫で再刊)で、「字」にしておったことについて、アレコレと聞いてみたんだが、コイツは、どういう本かというと、ちょうど、ロッキードがハジけておった1976(昭和51)年の通常国怪において、突然、「核防条約」、すなわち、「NPT」のことだが、コレが、突如、国怪で批准されることとなるんだが、実は、この「ウラ」(=真実)とは、ヒロヒトこと、昭和天皇が、当時の衆院議長だった前尾繁三郎に「指示」しておった結果だっていう、超ド級の「スクープ」なんだ。

 で、このウラ話の本筋ってのは、このNPT批准が、ぬあんともビミョーに、「角栄タイホ」と繋がっておったってことなんだよなあ。それは、どういうことかというとだな、この年の通常国怪ってのは、春先に、亜米利加の方のチャーチ委員怪で、一連のブツがバクロされて、ニッポンの国怪は、マトモに審議入りできず、野党側の審議拒否の連続で、空転しまくっておったんだな。で、NPT批准も、店晒し状態で、本来であれば、「お流れ」というムードだったんだが、ヒロヒトが強硬に「ぬあにがぬあんでも、国怪で通せ!」って、前尾に指示したってんだよな。当時の政局状況は、任期満了が年末なんで、実は、三木武夫も、田中角栄も、「さっさと、予算を上げたら、あとは、解散・総センキョで行けー!」と、野党も、それにノリノリという状況だったんだな。だから、この76年4月の時点で、強く、「解散説」も流れておったんだが、もし、ここで三木が解散・総センキョに踏み切っておったら、おそらく、ロッキード事件のソーサは、「パー」になっておった筈なんだ。

 ところが、ヒロヒトが、「NPTを絶対に批准しろ!」と、前尾に指示しておったんで、「陛下からの命令」であれば、逆らえんよなあ。前尾は、ここで「ロッキードの徹底解明」を旗印に、三木の「解散阻止」に動いて、「国怪正常化」のカタチで、それを封じ込めることに成功したんだな。だから、結果的に、そのまま、角栄は、チケンに身柄を取られてしもうたんだ。実は、三木は、ぬあんと、このとき、解散に持ってくために、「民社」を抱き込んでおって、「センキョ資金」として、「3億円出す」って、約束したってんだ(笑)。で、とりあえず、その手付け金として、「3000萬円」だけ渡したんだが、平野貞夫のオッサンは、文庫本の101頁で、「ある高官」と顔伏せで書いておるんだが、このときの「運び屋」は、実は、当時、官房フク長官だった「海部俊樹」だったんだってさ(笑)。だから、「出所」は間違いなく、「官房キミツ費」だろうなあ。ワシもブンヤだから、そのウラをちゃんと取る。当時のシンブンの縮刷版を見るとだな、野党の中で、民社だけ、なぜか、異様に突出して、態度が、チョー自民党寄りなんだ(笑)。鼻薬がちゃんと効いてるんだなあと思って、実に分かりやすい。

 #ワシは、超アナログな人間で、未だにケータイすら持っておらんのだが、資料収集とかも、超アナログで、今の時代、例えば、シンブン記事を検索するのでも、パソコンにキーワードを打ち込み、ヒットした当該記事のみをプリントアウトするというスタイルだと思う。しかし、ワシは、アナログなんで、図書館に行って、シンブンの縮刷版をコピーしてくる。それも、必ず、見開きの「A3」で、たとえ、当該記事が「ベタ」であっても、周囲の記事とまとめてコピーを取る。そういう「紙麺全体」を見渡しておると、思いがけない発見がある。例えば、「上」で書いたロッキード事件についても、発火点は、「76・2・4」に、亜米利加の上院・外交委員怪の多国籍企業小委員怪(=チャーチ委員怪)で、児玉誉士夫に渡したカネの流れを示す「領収証」が出てきたことがきっかけで、それから、ニッポンの国怪では大騒ぎになって、当時の野党がイッチ結束して、「ギワクの徹底解明」を要求するんだが、当初、チケンは、ほとんどヤル気を見せておらんかったんだなあ。一応、「やるフリ」だけは、見せておったんだがな。

 それを証明するものとして、「76・2・22」付けの朝日朝刊の読者投書欄「窓」に、ハタチの大学生が、「チケンは、ギワク解明に向け、ソーサに本腰を入れよ!」って、書いてるんだな(笑)。チケンは、全然、ヤル気を見せておらんで、コクミンだって、全くのバカぢゃないんで、見てりゃ、わかるからな。だから、コイツは、「刑事ジケン」なんかでのうて、最後まで「政治取引」で、平野貞夫のオッサンも、「上」で紹介した本(『昭和天皇の「極秘司令」』の中でバクロしておるが、当時の検事総チョーの「フセケン」こと、布施健は、「角栄がバッジを外したら、タイホは見逃してヤルで」って、事前に何度も持ちかけておったんだよなあ。それも、かなり早い段階からな。ところが、角栄にしてみるとだな、その丸紅絡みで「5億円を貰うた件」についても、本人にしてみりゃ、「いったい、どこが、モンダイなんだ?」って、「悪い」だなんて、ちっとも思っておらんかったからなあ。まあ、そのへんのウラ話は、小沢が一番、知ってそうだよなあ。でも、小沢は、口が堅いから、なかなか、喋らんよなあ。記者カイケンも、サービスでやっておるだけだしなあ。

 引用終わり#####

(私論.私見)  平野貞夫氏の「昭和天皇の『極秘指令』」の重要性
Re::れんだいこのカンテラ時評615 れんだいこ 2009/10/22
 【平野貞夫氏の「昭和天皇の『極秘指令』」の重要性考】

 平野貞夫氏は、「昭和天皇の『極秘指令』」を著わしている。れんだいこは、読んでも今一つピンとこなかった。ところが、2009.10.19日、古川利明ブログ三井環(元大阪高検公安部長)氏の「口封じ逮捕事件」に対する上告棄却決定を弾劾する(承前)は、文章中段で平野貞夫氏の「昭和天皇の『極秘指令』」に言及し、ロッキード事件の際に昭和天皇の果たした役割をより鮮明にしている。れんだいこは、この古川ブログの補足によって、平野氏が抑揚を利かせ過ぎた点が分かり合点するところとなった。歯に衣着せず読解すると次のような証言になる。

 昭和天皇は、戦後の象徴天皇制にも拘わらず、案外と政治に容喙している。戦前に果たした能動的役割が敗戦によって政治責任を問われ、天皇制廃嫡の危機にあったことを思えば、懲りていたのかと思うとそうでもないらしい。大事な局面では相変わらずくちばしを入れていたことになる。その様子は、「昭和天皇・マッカーサ会見」(豊下楢彦、岩波現代文庫、2008年)、「新潮45」8月、9月号(2009年)連載「パケナム日記で紐解く戦後日本秘史」(青木富貴子)でも知ることができるが、ロッキード事件の際の角栄訴追に見せた昭和天皇の態度も一例である。

 ロッキード事件が勃発した1976(昭和51)年の通常国会において「核防条約」(「NPT」)が批准されることになったが、その裏には「昭和天皇の意思」があった。どういうことかというと、この時の通常国会はロッキード事件で喧争し、野党側はいつものように審議拒否の連続で国会は空転した。ともかく予算を通過させ、解散、総選挙へなだれ込もうとしていた。この流れに棹差したのが「昭和天皇の意思」であった。昭和天皇は、当時の衆院議長だった前尾繁三郎にNPT批准審議を進めるよう「指示」を下した。その裏意味は、「核防条約」(「NPT」)審議という名目で国会を開会させ続け、これを利用してロッキード事件を徹底追及解明させよという要請にあった。前尾議長は、この「指示」に従い、「解散阻止」に動いて審議軌道に戻した。これにより、「ロッキードの徹底解明」を旗印にした国会が再開した。この流れで、角栄逮捕へと辿り着くことになった。

 それはそれで良いのだが、この流れの臭さは次のことにある。ロッキード事件はそもそも発生過程からして謀略的なものであるが、それはさておいても元々は児玉−中曽根−ナベツネラインこそが本ボシの軍事関連贈収賄事件であった。それを無理やりに小佐野−角栄ラインの悪事にすり替えて追撃して行ったのが当時のロッキード事件騒動の真相である。当時の国際金融資本−キッシンジャー権力は、何としてでも角栄を失脚させたかった。なぜ角栄を許さなかったかの解明は別の案件になるので、ここでは触れない。

 そのユスリの種として用意周到に拵えられたのが角栄逮捕型ロッキード事件であった。ロッキード事件の真相の深層をかく解する必要がある。大方の見方は、この説を採らず、立花隆−日共式「諸悪の元凶=角栄金権論」に熱狂して訴追弾劾して行った。国際金融資本戦略に踊らされるピエロでしかないのだが、この見方が今日まで続いている。これが、現在の小沢パッシングの背景でもある。日共はともかく、新左翼系の一部でも未だこの観点からの批判が強いが、彼らは歴史をどう観ているのだろうか。れんだいこに云わせれば、言論を時流に売る貧相頭脳と性悪精神にお似合いの御用説でしかないというのに。この手合いばかりがテレビ評論に登場し、金満痴言を垂れ流し続けている。新聞各紙の社説を見よ、くつわを並べてのうんざり評論ばかりだ。

 平野貞夫氏の「昭和天皇の『極秘指令』」は、もう一つ大事な言及をしている。当時の検事総長・布施健が、かなり早い段階から「角栄がバッジを外したら、タイホは見逃してヤルで」と事前に何度も持ちかけていたことを明らかにしている。ということはつまり、布施健以下当時の検察−裁判司法がグルになって国際金融資本−キッシンジャー権力の下僕となって立ち働いていたことを示唆している。実に「上からの法破り」が、この時点から露骨になったと云えよう。その後、司法権力はとめどなく腐敗し始めるが、それはこの時暗躍した角栄訴追仲間が揃って出世階段を登りつめて以来のことである。かの連中の登用により、司法は上から腐った。これが、「三井環(元大阪高検公安部長)氏の『口封じ逮捕事件』」へと至る伏線になる。かく関係している。

 まことに、物事には原因と要因があるという例証であろう。れんだいこは最近著作権でイジメられているが、この連中が著作権万能時代を作った側でもある。まことに一事万事とは、昔から云われる通りである。この連中を一網打尽にして、別系のタレントを登用しなければ世の中は良くならない。鳩山政権にその能力があるだろうか。平和革命は云うに易いが、行うに難しでもある。無欲至誠の西郷ドンが各界から出ずんば世の中は変わらないのではなかろうか。

 2009.10.22日 れんだいこ拝
 夢幻と湧源」の2009年3月21日付けブログ「ロッキード事件L…昭和天皇の極秘指令と田中角栄逮捕の関係」。
 平野貞夫『ロッキード事件「葬られた真実」』講談社(0607)は、ロッキード国会の最大の謎は、前尾繁三郎衆院議長の「核防条約」承認への異常な執念だったという。前尾は、昭和56(1981)年7月7日、亡くなる約2週間前に、平野氏に神田の割烹で、核防条約に突っ走った理由を説明する。前尾議長によれば、両院議長裁定までやって国会を正常化したのは、核防条約のためだった。前尾は、国会報告の内奏で天皇陛下に面談するたびに、核防条約のことを聞かれていた。昭和天皇は、外国の元首と会うとかならずといっていいほど、核防条約のことが話題になり、気にしていたのだった。唯一の被爆国として、署名しないまま放置している核防条約について、心を痛めていたのだ。

 この昭和天皇の想いに報いるため、前尾議長は核防条約を成立させるため、衆院を解散させないと腹を括った。4月20日までに審議を正常化させ、会期終了日の5月24日までに30日間の余裕を与えて自然成立を狙ったのだ。そのために最大の懸案事項は、ロッキード事件だった。前尾議長は、直接あるいは間接に、田中角栄にいったん政界から身を退くように伝えた。しかし、田中角栄はそれを了承しなかった。

 前尾議長の国会正常化への執念が、両院議長裁定となって、解散風を止めてしまった。それは結果的に、ロッキード事件の方向性を、田中逮捕に転じさせることになった。平野氏によれば、核防条約の成立は、田中角栄の逮捕の上に成り立っていたということになる。つまり、核防条約承認を求める昭和天皇の「極秘指令」が、結果として田中角栄を逮捕する道筋をつけた、というわけである。

 前尾繁三郎は、平野氏にこのことを伝えた約2週間後の昭和56年7月23日に心筋梗塞で急逝する。つまり、昭和天皇の極秘指令があったという話は、前尾の平野氏に対する遺言だったということになる。前尾の葬儀は、京都嵯峨野の清涼寺で、7月25日に行われた。田中角栄は、葬儀に参列したいという意向を持っていたが、鈴木善幸首相と宮沢喜一官房長官が参列できないことになり、角栄だけが参列すると誤解を招く可能性がある。官邸からの意向で、角栄の参列を断るべく、平野氏は早坂茂三秘書に頼んで、角栄に新潟の用事を作ってもらった。しかし、後日、東京の増上寺で告別式を行ったとき、平野氏は、焼香に来た角栄から、「どうしても顔を見てから別れたかったんだよ」と言われた。

 ロッキード裁判の1つのポイントとして、田中角栄首相の榎本秘書官のアリバイ問題があった。検察側は、昭和48年8月9日午後1時から1時20分に、榎本秘書が1億円を受領した、としていた。しかし、その時間帯は、前尾議長が会期延長の強行採決を正常化させるため、与野党国対委員長会談を主催していた。内閣官房副長官だった後藤田正晴は、東京地裁で、「議長が国会正常化工作をしているときに、首相秘書官は国会の外に出られない」として、榎本秘書官のアリバイを主張した。前尾議長が、与野党の国対委員長を招致していた時間帯を田中弁護団に証明したのは、他ならぬ平野氏だった。

 榎本秘書官に関しては、夫人の三恵子氏の「ハチの一刺し」の流行語を生んだ証言が有名である。10月28日、三恵子氏は、「ロッキード事件発覚直後、田中邸からの車の中で、夫が金銭の受領を認める発言をした」「その後、日程などの証拠書類を自宅で焼却した」と証言したのだった。田中有利に傾きかけていた流れが、再び有罪の方向に向かうことになった。強力な一刺しだったわけで、まだ若かった私は、女性の恐ろしさを垣間見たような気がした。


Re:れんだいこのカンテラ時評その107 れんだいこ 2005/10/05
 【「ロッキード事件に果たした皇室のミスリード」考】

 「2005.9.11総選挙」は小泉新党圧勝となり、大敗北を喫した民主党は小泉新党寄りの前原ー鳩山ラインを新執行部に選んだ。民主党の内紛必至で今後が危うい。もはや政局は、小泉新党+民主党+公明党で何でもできることになった。自衛隊のイラク派兵の長期固定化、むしろ増強。組織犯罪取締法等に於ける共謀罪の新設、大衆課税強化。これからいろいろやってくれるだろう。首を短くして待っておこ。

 れんだいこは、現代政治の局面分析を暫く放棄し、こういう政治になった転回点たるロッキード事件について更なる関心を寄せようと思う。ここのネジレを打開しないと闘おうにも闘えないと思うから。日本サヨ運動は今でも角栄糾弾闘争を誇りにしている。その非、そのウソを暴いていこうと思う。なかなかこれが通用しないんだけれども、漬ける薬がないものだろうか。

 そういう時、平野貞夫氏の「昭和天皇の『極秘指令』」(講談社、2004.4.10日初版)を手にした。れんだいこは、「ロッキード事件に果たした皇室のミスリード」と題してサイトアップした。kakuei/rokiido_koshitunoicoco.htm

 昭和天皇が戦前のみならず戦後に於いてもかなり自身の嗜好を政局に反映させようとしていた形跡が見えてくる。れんだいこは、大正天皇論をサイトアップしている。daitoasenso/daitoasensootou_taisyotennoco.htm

 それによって見えてくるのは、昭和天皇の根っからの政治好きな面である。大正天皇は、戦争よりも内治主義を好み、その気風が政局に影響を与え大正デモクラシーを生んだ、と思える気配がある。平成天皇は、こちらの大正天皇に近い。してみれば、昭和天皇は、独特の個性を放っていたことになる。

 それはともかく、小泉の暴政を止めるには何をすれば良いのだろう。国民の半分はまだ酔わされている。中国、韓国、北朝鮮には意気軒昂だが、イスラエル籍には弱いらしい。マスコミも及び腰で、当て逃げされたというのにいつものようには取り上げない。それが訝られない。もっとも、れんだいこはテレビを見ないのでそうではないかという推測だが、恐らく当たっているだろう。

 2005.10.5日 れんだいこ拝





(私論.私見)