俵孝太郎のロッキード事件批判論 |
(最新見直し2011.5.22日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、俵孝太郎の角栄論、ロッキード事件論を確認しておく。 2011.5.22日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評924 | れんだいこ | 2011/05/02 |
【俵孝太郎氏の「田中裁判もう一つの視点」書評その1】 2011年の5月連休に何か一冊読もうとしていたら、元産経新聞記者にして政治評論家の俵孝太郎氏の「田中裁判もう一つの視点」(時評社、1984.12月初版)が目に飛び込んできた。途中まで読み、その後別の読書に向かったままなので、この機に読み直すことにした。その評を「2011年の5月連休記念評」として綴っておくことにする。 俵氏になぜ注目するのか。それは、俵氏が、れんだいこの看做すところ、政治評論家として戸川猪佐武氏に続く炯眼の持ち主であることによる。今、こういう政治評論家がまるっきり居ないのが寂しい。探せば居るのであろう故、テレビ等にニュースキャスターとして登場する言論士と云う限りと云う意味に限定しておく。逆の御用粗脳評論家は掃いて捨てるほどおり胸糞が悪い。辛坊だの三宅だの森本だの竹中だの国際金融資本べったりのお銚子もん評論家が我が世の春とばかりに電波ジャックしている。 もとへ。炯眼評論家の大番頭の一人であった戸川氏(早大政経学部)が自民党史総論に詳しいのに対し、俵氏(東大文学部)は日共の批評に明るい。俵氏に対する個人的感概で云えば、他の評論家の誰よりも早く共産党の変質としての日共化を見抜いており、「裸の日本共産党」(日新報道、1972年)を著わし、日本共産党株式会社論の視点で異色の評論をしていたと記憶する。 俵氏は、凡庸評論家が日共を通説の革命政党の視点で捉え、不破式ソフト路線への転換を「衣の下に鎧が見える」式の痛くもない腹を探っていたのに対し、いち早く革命路線を放棄した普通の市民政党として捉え、むしろ営利商売的な株式会社として位置づけ、それぞれの党幹部を会社的肩書で評論していたと記憶する。目下、その斬新さに注目し購入手続きしているところである。ことほど左様にユニークな視点を持っているのが俵史観の特徴である。付言すれば、この観点が宮顕の怒りを買い、このことをどこまで自覚しているかは分からないが為に陰に陽にいたぶられることになった形跡が認められる。 そういう眼力、履歴を持つ俵氏の田中角栄論、ロッキード事件論を確認しておく。俵氏の非凡さは、日本の戦後政治史を当人ははっきりは主張していないがハト派対タカ派の抗争軸に於いて捉え、戦後日本史のこの流れを是認しており、故にそういうハト派政治の総帥であった田中角栄を好意的に批評しているところにあるように思われる。為に、法を捻じ曲げてまでの為にする角栄批判に耽る法曹、ジャーナルに対して、法治主義の原則から警告批判していると云う構図に立っている。 俵氏の評は、1970年代の在りし日の日本の客観評論として恋しいものとなっているように思われる。かの頃までは日本の言論界はまだしも健全であった。健全論調を張る政治評論家が干され始めてより、日本は政治も評論も全てが二級、三級、五級と次第に資質を劣化させて行くことになった。 俵氏はもとより体制是認側であり左派言論士ではない。ではあるが粗脳軽薄頑迷な左派言論士よりよほど眼力確かな評論をものしている。日本の戦後政治におけるハト派政治を是認しており、ハト派政治の指導の下での日本の正成長的発展を謹賀している。この批評眼こそ貴重なのではなかろうか。この点で戸川史観と通底しており、この視点を持つ批評家がロッキード事件以降次第に逼塞させられ今日に至っているのが恨めしい。れんだいこ評はこれが総論であり、これでほぼ云い足りているので追加しない。 2011.5.2日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評925 | れんだいこ | 2011/05/02 |
【俵孝太郎氏の「田中裁判もう一つの視点」書評その2】 以下、本書の白眉部分を抜き書きして確認しておく。 秦野章氏の角栄擁護論を是認エールしている。これを確認する。「あとがき」で次のように述べている。 「ロッキード事件と『田中裁判』についての私の考え方は、政治的にきわめて不公平な形で処理されてはいないか、法律的にきわめて不適正なやり方で裁かれてはいないか、というに尽きる。(中略) 私は自分の八年間の仕事の一部をまとめたこのささやかな一冊が、言論の機能を通じて国家の基盤の安泰を保とうとする一つの試みであると自負するものである」。 (れんだいこ評)これが本書の眼目と云うことであろう。 目新しい論点として、ロッキード事件時の最高裁判事の岡原、最高裁長官の藤林両氏の一審判決直後のコメント「一審有罪判決は重みのあるもので、二審以降の判決は事実審ではなく一審を審査するためにうるものであって、一審が有罪と出た以上、三審の確定判決までは無罪の推定で行くべきだと云うのは誤り」なる主張に対して次のように批判している。 「岡原、藤林両氏は、週刊誌で、秦野発言を『法律のシロウトの云うこと』と云っているが、秦野氏も警視総監も務めた刑事警察のベテランである。岡原氏は、思想検事上がりであって、秦野氏以上に刑事事件について、法的にも実際的にも知っているとは思われない。藤林氏に至っては、会社法の専門家だそうで、刑事事犯にはそれこそ『シロウト』だし、三木政権下の最高裁長官として、ロッキード社のコーチャン、クラッタ―に対する検察の不起訴宣明という政治的措置を、なんの法律的な権限もないのに最高裁として保証するという、おそらく将来にわたって最高裁の汚点として論争の対象になる行為を敢えてした責任者である。こういう立場であれば、本人もコメントを避けるのが元裁判官としての常道だろうし、コメントを取るほうも、最低限微妙な立場を読者にわからせる注をつけるべきだろうに、それもせず、元最高裁長官の肩書を事大主義的に使って、いかにも大権威が公正な批評をしているようにみせかけているのである」。 (れんだいこ評)全くの正論であろう。 秦野氏の「政治家に古典道徳の正直や清潔などという徳目を求めるのは、八百屋で魚をくれというのに等しい」の名文句を次のように補足して庇っている。 概要「秦野氏の言は『政治家に倫理を求めるのは八百屋で魚をくれというのに等しい』と云う風にマスコミに紹介されているが、全文を読んでみると明らかに違う。秦野氏はまず、マックス・ウェーバーの古典的講義『職業としての政治』をひき、政治家に問われるのは結果責任であることを説く。善意でやったことでも失敗すれば悪い政治で、結果が良くなければ政治家は評価されないというのは、常識と云ってよい。その上で秦野氏は、政治家を評価するポイントしては、業績や、政策、能力など、色々あるのだということを言った上で、政治家の評価基準として、正直や清潔さなどという古典的徳目のみを取り上げるのは、八百屋で魚を求めるようなもの、と云っているのである」。 (れんだいこ評)俵氏の云おうとすることは分かるが、ややまだるっこい。秦野氏の言の要約としての「政治家に倫理を求めるのは八百屋で魚をくれというのに等しい」はさほど問題があるとは思わない、否簡潔明快にしている要約だと思う。そう受け止めたうえで堂々と「政治家に倫理を求めるのは八百屋で魚をくれというのに等しい」を議論すれば良い。「倫理」の質が問題になるが、政治家の本業は政治能力であり倫理基準ではないことを積極的に確認すれば良いのではなかろうか。れんだいこには、この方がよく分かる。 「秦野発言」に対するマスコミの論評の不公正さについて次のように批判している。 「秦野氏の云う『マスコミによる人民裁判』とは、まさにこういう手口による、問答無用の、ファッショ的断罪であって、大方のマスコミは、田中角栄氏に対するばかりか、その異様なあり方を正当に批判した秦野法相に対しても、まさに批判されたその通りの手口で、不当無法に逆襲しているのである。また野党も、自民党内の一部政治家も、党利党略、派利派略からか、それとも生来のズサンな頭脳で大方のマスコミの詐術を見抜けないのか、マスコミの重ね重ねの誤りに便乗して、秦野氏追及の構えを見せているのである。みっともよい図とは到底いえない。(中略)全文を読んだ人の中には、秦野発言はもっともだ、新聞はこの発言の報道の仕方を含めてやり方が汚い、という声ばかりで、秦野発言批判の声は、さっぱり出てこなかったという。秦野法相だけでなく、最近の新聞のあり方に対して、強い不満と批判を持っている人は、多いのだろう」。 (れんだいこ評)マスコミのエエ加減さはロッキード事件論評を嚆矢とするのではなかろうか。問題は、この偏向が何を基準にしているかであろう。秦野氏も俵氏も触れないが、背後に国際金融資本の情報操作があり、この良からぬ勢力に教唆されてオウム返しに紙面を作っている論調仕掛けの不正さに求めるべきではなかろうか。その後の言論は、これを請負う言論屋であり言論家ではないと云うことである。 検察の論告求刑「懲役5年、追徴金5億円判決」に対するマスコミの異様な過熱報道について次のように批判している。 「三審制が確立されている日本の裁判で、判決が確定するどころか、下級審の判決にさえ至らない論告求刑の時点で、裁判制度に疎い者には断罪が下されたと錯覚を与えるような紙面をわざと作り、そうした錯覚の上に多分に乗っかかりつつ、議員辞職、政界引退という本来確定判決が出て有罪となったのちにはじめて生じる問題をいち早く迫ると云うのも、異常というほかない。司法の独立、裁判の尊重、そして最終的に有罪が確定する以前の被告人の人権の保障、こういった日頃唱えているお題目はきれいさっぱり忘れてしまって、一切の民主的、人権的手続きを無視した前近代的論法で、ひたすら断罪し糾弾してやまないのは、単に偏向しているとか、大衆に迎合しているとかいう以上の、格別の背景を感じさせさえするのである」。 (れんだいこ評)俵氏の指摘は尤もな良識のものである。末尾の「格別の背景を感じさせさえする」と述べているが、何を見つめていたのだろうか。 2011.5.2日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評926 | れんだいこ | 2011/05/02 |
【俵孝太郎氏の「田中裁判もう一つの視点」書評その3】 「マスコミの検事主張丸のみ報道ぶり」批判の勢い余って、「宮顕戦前履歴のリンチ査問致死事件」について次のように述べている。 「たとえば現共産党中央委員会議長、宮本顕治被告の事件に関しては、逮捕され、起訴された当時、いわゆる記事解禁を受けて検察側の主張をマル写しにした断。 罪記事を大々的に載せ、宮本被告を殺人者扱いしたが、その後後半の経過で例の『リンチ事件』が殺人の名には値しないものであることが明らかになっても、これを報道しようとはしなかった。宮本被告は、最上級審で傷害致死と判決されたのだが、マスコミが検察側の一方的主張をもとに伝えた『リンチ殺人』の汚名は、容易なことでは消えずに長く残されたのである」。 (れんだいこ評)俵氏のこの指摘はいただけない。と云うか本書の値打を大きく毀損している。そもそも俵氏の「宮顕戦前履歴のリンチ査問致死事件」についての認識が狂っている。当事件は、不屈の再建を担い続けた戦前共産党の最後的解体に繫がる事件であり、党内スパイ摘発と云う流布されている通説に反して真相は、スパイ派の宮顕派が党内最後の労働者派の中央委員・小畑氏をスパイ容疑で査問リンチし続け、隙を見つけて逃亡を図った小畑氏を査問側が寄ってたかって押さえ込み圧殺したと云う査問過程上の殺人事件である。その際、宮顕は主犯であり、抑え込みの役割からみて小畑圧殺の直接的下手人でもある。これが真相である。これを冤罪理解せんとしている俵氏の惜しむべき軽薄性が見て取れる。 むしろ俵氏は気づかねばならない。俵説に立っても、ならばそういう履歴を持つ同類の宮顕がなぜ、角栄に対しては冤罪であることをゆめ想定せず率先的に角栄批判に興じているのか、そのアンバランスさを疑惑すべきではなかろうか。この観点から、日共宮顕式のロッキード事件徹底糾弾運動のウソ性に疑惑を投ずるべきではなかろうか。これをしているようには思えないので俵氏の軽薄性のみが残る結末となっている。あるいは、このくだりをわざわざ挿入言及することで間接的に日共宮顕批判をしているのかもしれない。そういう節も読み取れる。この場合にはまままま許される。 れんだいこのこのカンが当たり、読み進めて行くと次のような記述に出くわした。「宮顕戦前履歴のリンチ査問致死事件」についての誤認識はそのままながら、次のように述べている。 「私などは将来疑い深いし、疑獄事件はえてして裁判の結果無罪判決、つまり検察の敗北に終わり易いものであり、かっての帝銀事件のように、検察のファッショと云われてもやむを得ないような空中楼閣的『事件』もあることを承知しているから、無邪気に検察の嫌疑を最終事実とすることはできない。仮に検察の嫌疑を最終事実とするなら、共産党の宮本委員長はリンチ事件殺人犯だし、松川事件は共産党のしわざ、創価学会の池田会長は買収の選挙犯罪者にされても仕方ない筈である。ならば共産党や公明党は、骨身に徹して検察の嫌疑を鵜呑みにしまいと注意してしかるべきなのに、この際検察の嫌疑の当否を疑ってみる考え方は持ち合わせていないらしい。マスコミや世論は、なおさらのことである」。 (れんだいこ評)そういうことである。共産党はかっての共産党ではなく今や日共と呼ばれる看板騙しのヌエ政党である。そういう政党だからであろうが、「宮顕戦前履歴のリンチ査問致死事件」については冤罪、角栄の首相犯罪については有罪の二枚舌を平気で使い分けている。この両事件での舌の使い方を比較してみるのも面白かろう。 本書執筆当時に騒動化しつつあったグラマン疑惑について、ロッキード事件と比較して次のように述べている。 「百数十日にわたった航空機疑惑(グラマン疑惑)の捜査が終結し、事件の全貌が明らかになったとは云えぬまでも、その輪郭はほぼ浮かび上がってきた。一言に云って、事件の表面化はロッキード事件が先だったが、事件の発生そのものは今回の航空機疑惑の方がはるかに古く、ロッキード事件は替え歌、ロッキード事件で現に刑事被告人の座にある田中角栄氏は単なる替え歌の歌い手、航空機疑惑こそ元歌、そして時効と職務権限と金銭授受の趣旨のカベによって刑事訴追とは関係なくて済んだのが松野頼三氏、あるいは松野氏の背後に潜む単数か複数かはさておいて保守政権のまさに奥の院に座す『挙悪』こそが元歌の歌手と云うことが、はっきりした。(中略) 航空機疑惑のキーポイントの一つである『海部メモ』は、十年も前から流布されているが、検察はこれを久しく怪文書扱いし、ニセ物視してきた。ロッキード事件の捜査の際に、それより古く発生していた航空機疑惑の関連資料が、有森国雄氏と云うキーパーソンの存在もあり、検察の手に入っていなかった訳はないのに、どういう訳か、検察はロッキード事件だけに焦点を絞り、同時並行してメスを入れてもいいはずの航空機疑惑については、放置してきた。そして、その中で、いわば元歌歌手の一人である松野頼三氏は、福田派を代表して送り込まれた『クリーン三木』政権の政調会長として、ロッキード事件の真相の徹底究明、関係者の責任の徹底追及を、声高に叫んでやまなかった」。 れんだいこ評)その通りである。俵説の「ロッキード事件替え歌、グラマン事件元歌」論は表現も面白く且つ鋭く見抜いている。それにしても、元歌の松野、中曽根が見逃され、替え歌の角栄のみが徹底追及されたロッキード事件とは何だったのだろうと云う原点疑惑が残されていることになる。これにはしゃいだマスコミ、日共の胡散臭さも銘記されねばなるまい。 本書の結びはこうである。 「『大衆はつねに神のごときものだ』という言葉を、私は冒頭で述べたように、世論、大衆の判断は常に正しいものだという風には、理解しない。大衆はしばしば操作されるし、容易く間違う。日本人のように、熱しやすく冷めやすい民族、集団としての思考や行動になじみ、全体主義の政治の下にあったことが久しい国民では、なおさらのことであろう。しかし、世論や大衆をもとあそぶ者は、いつか必ず痛烈なしっぺ返しを受け、返り血にまみれる。その作用を通じて、大衆は『神のごときもの』になりうるのだと、私は思う」。 (れんだいこ評)良い言である。 2011.5.2日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評930 | れんだいこ | 2011/05/23 |
【俵孝太郎氏の「田中裁判もう一つの視点」書評その4】 「俵孝太郎氏の『田中裁判もう一つの視点』書評その1」で、俵氏の「裸の共産党」(日新報道出版部、1972.5.25日初版)がユニークな日本共産党論を述べていることに触れた。それは間違いではないのだが、「日本共産党を普通の市民政党として捉え、むしろ営利商売的な株式会社として位置づけ、それぞれの党幹部を会社的肩書で評論していたと記憶する」としていたのは、より正確には、「日本共産党のすべて」(サンケイ新聞出版局、1973.7.25日初版)に於いてであった。こう訂正し確認しておく。 「裸の共産党」は次のように記している。概要「党員拡大にせよ機関紙拡張にせよ大衆募金にせよ、“宮本日共”は目標を中央で査定、数字を割り当て、完全達成を求めるやり方をとってきた。この目標達成は県、地区、末端組織という各段階での団体目標と党員一人一人の個人目標に細分化され、たえず集約、点検を重ねることによって為し遂げられていったが、これは県を一事業部、地区を大型販売店、末端組織を小売商店、党員をセールスマンに置き換えてみれば、まさに近代経営学の教科書通りの目標管理と云って良い。しかもこの目標管理方式は、党員の拡大や資金づくりの面ばかりでなく、選挙の票固めにも日常活動にも適宜採用され、“宮本日共”全体を通ずる一つの特色とさえなっているのである。経営多角化と云い目標管理と云い、高度経済成長時代の日本の経営が採用した手段をいち早く政党の分野にとり入れたのが共産党だということは、皮肉な現象になっている」。 俵氏は、宮顕の近代経営学手法による党運営を賛辞的に評しているのだが、これが宮顕の逆鱗に触れた。宮顕はなぜ怒ったのか。それは、近代経営学と親疎にしている己の素姓が知れるからであろう。どこから見ても社会主義、共産主義的な共生感覚なぞなく、党中央を資本とする資本主義的党運営を党内に敷いているカラクリが暴かれたからである。ちなみに、宮顕の奥の院盟友たるナベツネも、読売新聞拡販に同じ手法を使って業績を伸ばしたことで知られている。こういうところから「お里が知れる」ことになる。この二人を結ぶ線は何なのだろうか。 ところで、「日本共産党のすべて」がズバリ次のように記している。概要「日本共産党を株式会社になぞらえて論ずるのは、日共にとっては『歪んだレンズに写されたピンボケの写真』を見せられるように、我慢できないことであるらしい。日共を株式会社になぞらえたのは、私が昨年春に書いた『裸の共産党』が最初だろう。私はこの本で、日共の他党とは段違いに整備された組織形態、まことに機能的で効率の高い組織運営を『積極的評価』して、日共は高度経済成長の旗手である大企業と共通したすぐれたマネジメントを採用することによって躍進した、と分析した。これに対して、赤旗は、『日本共産党の本質を歪める比喩―俵氏の日本共産党論に関して―』という、党外からの論評に対するものとしてはまことに異例の反論を掲載した」。 続いて、日共の幹部組織の機溝解析した後、次のように比喩している。「中央委員会議長は会長、幹部会委員長は社長、同副委員長は副社長、書記局長は専務、常任幹部会委員は常務、幹部会員は重役、そして党本部の専門部長は部長、都道府県委員会の委員長は支社長といったように、相応の序列と職務分担をもって、まさに株式会社―大企業並みのトップ・マネジメント体制を敷いているのが日共の人事の特徴といって、差し支えあるまい」。 赤旗がこの比喩に応えたのか無視したのかは定かではないが、まことに的確な描写ではなかろうか。これによると、日共党組織は、宮顕時代になって一般の企業組織と瓜二つの構造に変質させられたことになる。その組織体制が良いか悪いのかの判断は別にして、革命論なぞはお飾りに過ぎず本質は単なる口先商売的臭いを濃厚にし始めたことぐらいは確認しておくべきだろう。れんだいこ史観によれば、共産党が日共化して以来、かくも革命商売政党と化したと云うことになる。党が幹部を養う為の営利体であるからして口先三寸士ばかりを育成し、諸事アリバイ闘争化するのも無理はない。議会進出も高給就職先として送り込まれているにすぎないと云うことになる。その就職口にありつこうとして党中央に対するゴマすりが横行していると思えばよい。これが日共の内実であろう。党中央の耳たこ正義論が食傷され、人民大衆が口舌の徒輩の弁を聞き捨てるのも尤もということになろう。 俵氏が同書を書いたのは1972年から73年の丁度、角栄政権の時代に当たる。この時代、宮顕共産党は議会進出史上の絶頂期であった。1972.12.10日の第33回衆議員総選挙で、14議席から38議席(愛知1区の革新共同の田中美智子を加えると39議席)、京都1区で2名当選を果たした。特に首都圏で全員が上位当選を果たし、マスコミは「自共対決時代到来」と名付けた。この頃の俵氏の日共分析である。この党が今後勢力を増すのか足踏みするのか後退するのかの見極めを念頭に置いて解析していることになる。 俵氏は玉虫色に述べているが、史実は、この時を頂点に以降じりじり後退局面を迎え現在に至っている。敗北するたびに捲土重来を繰り返し、それでいて責任者の誰一人も責任をとらず、次回の挽回を期すのが真の責任の取り方なる論で遣り繰りしている。丁度今、民主党の岡田幹事長が同じ言を弄している。この御仁は、よほど赤旗を読み過ぎて被れたのか、背後の指示勢力が同じで教本通りの弁を請け売りしているのかのどちらかであろう。これ以上はもう云うまい。これにて「れんだいこの俵孝太郎氏の日共論解析考」を完結させることとする。 ところで、2011.5.22日、れんだいこブログに「波」氏から次のような情報が寄せられた。真偽不明で確かめようがないが重大ニュースである。これを確認しておく。 概要「不破は自民内閣の官房機密費を毎年500万円貰って、戦後CIAが創った自民党と大資本に買収されていた。2~3年前に週刊誌で中曽根康弘元首相と『友好的』な会談をしたのは、その恩義からであろう。志位陸軍中将孫の志位和夫共産党現委員長も、自民内閣の官房機密費を毎年500万円貰っている上に、2009年12月にロックフェラー独裁支配下の傀儡オバマ米大統領から『核兵器全廃協力金』の名目で100万ドルの賄賂を、自宅へ訪問した米大使館員から受取って、米帝に買収された。東京地検は24時間見張っているので政治資金規正法違反・外為法違反・収賄・脱税の容疑で立件する方針だったが、物的証拠を確保できなかったので立件を控えている。自・公・みんな・社民・共産その他野党の党首と幹部らは、みんなトカゲ座レプティリアンの変身体である」。 この話は、金権政治批判で田中角栄、小沢一郎を厳しく政治訴追している者の裏の正体を明らかにしている点で重要である。この情報を片鱗さえ伝えないマスコミも同じ穴のムジナと云うことになる。通りでグラマン事件、リクルート事件がスル―され、ロッキード事件、小沢キード事件ばかりが執拗に追及される筈であるということになる。してみれば、この情報は現代政治の裏舞台を暴く貴重な証言と云うことになる。問題は、これをどう証明するのかにある。極秘情報は秘されるので確かめようがない。しかしながら参考情報ぐらいには留めておくべきであろう。 2011.5.23日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)