元書生証言考

 (最新見直し2006.4.23日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 古本屋で偶然片岡憲男著「田中角栄邸書生日記」を手にし、一気に読んだ。片岡氏は、1973年、新潟県立長岡高校を卒業、早稲田大学社会科学部に入学すると同時に田中角栄邸の書生となり、以降卒業するまでの4年間を田中邸に住み込んだ。この時、角栄の首相時代であり、辞任、ロッキード事件に遭遇し、一部始終を目白の田中邸の中から目撃するという貴重な体験をしている。

 片岡氏は、早稲田大卒業後、田中邸を後にし日経新聞者に入社した。以降、主に経済畑で活躍していくことになった。1992年、日経BP社に入社し、日経ビジネスの副編集長として数々の特集記事を手掛けている。2000年、部長待遇の参次になり、後輩記者の指導に当る身になった。その頃、体調を崩し始め、胃がんの手術後、抗がん剤を打ちながら仕事を続けた。余命幾ばくかを感知した片岡氏は突如、「田中角栄邸書生日記」の執筆を思い立ち校了した。あたかも「田中角栄邸書生日記」の執筆が天命であったかのように、校了の2週間後の2002.1.22日、逝去した。

 本書は、角栄邸での出来事を淡々と記しており、全体的に一般受けしない。しかし、れんだいこは、控えめながら随所に貴重な記述を遺していることが分かる。そういう訳で、そのエッセンスを抜書きしておくことにする。れんだいこの角栄研究に為になったことを故人に謝したい。

 余算ごとを書いておく。れんだいこは、角栄を史上300年に一人の傑物と思っている。角栄を直接見たことも話したことも無いが、1970年に上京したれんだいこは、角栄の幹事長から首相時代を同じ東京の屋根の下で過ごしていたことになる。それだけのこじつけの縁に過ぎないが、もう一つ親近を覚えることもある。それは、角栄は、れんだいこの親父と同じ大正7年生まれで、兵役も同じく満州に出征している。戦後、角栄はハナを見初め、長男が生まれたが可愛い盛りに死んだ。後に同じ年生まれの小沢一郎に出会うや、逝去した長男の代わりの如く親目を注いだと云われている。ならば、小沢が死んだ長男と同じ年生まれの縁なら、俺だって親父が一緒の年やがな、二男か三男の可能性があるわいと思っている。れんだいこはそれほど角栄をオヤジと思っている。

 その点、れんだいこより5歳若い片岡氏は、れんだいこの学生時代の真っ只を、同じキャンパスを徘徊しつつ目白の角栄邸に書生として住み込んでいる。これを稀有貴重な体験と云わずして何と云おう。角栄邸を出て以来の片岡氏はその後、特段に角栄に関わっていないように思える。否、意識的にその事実を伏せたのかも知れない。その片岡氏が余命を察知した時、積み残した荷物を取りに行くような気持ちで、「田中角栄邸書生日記」を書き上げたように思われる。そしてそれを偶然に手にしたれんだいこが、れんだいこの角栄研究に生かそうとしている。これも合縁奇縁と云うべきだろう。


 2006.4.23日 れんだいこ拝


【田中邸の陳情賑わいの様子】
 「田中邸の陳情賑わいの様子」を次のように記している。
 「朝の7時前後というのに、次から次に客が訪れ、わずか一つ言ふた言の会話で部屋を出る。遠方から来たのに失礼な対応だとか、もつとゆっくりと話を聞いてくれないものかとか、そうんな風には誰も思わない。その男に会えるだけで十分という客と、どんなに忙しくとも、来る者は拒まずで接客するエネルギッシュな男−それが田中角栄先生だった。

 9ヶ月ほど前に、田中先生が総理大臣になってからはますます、この目白台の私邸にある事務所への来客が激しくなり、客同士が肩をぶつけながら事務所の入り口や廊下をすれ違うのが、当たり前のようになっていた」。
 「総理大臣という職にあり、公務だけでも目の廻る忙しさにもかかわらず、名も知らぬ支持者だけでなく、時には団体客にまで、できる限りのサービスをしていたのである。歓待に気分をよくしてか、団体客が途切れることはなく、二度、三度と訪れる客も少なくない」。

【色紙、揮毫の様子】
 「色紙、揮毫の様子」を次のように記している。
 「たまに客が途切れると、たまっていた、頼まれものの色紙を処理する。(中略)次々と色紙を書いていった。愛用の筆は夏毛と呼ばれるうさぎの毛を使った柔らかい筆だ。やや細身の軸のお尻を軽くつまんで、筆の毛の先っちょを巧みに使って柔らかな字をしたためる。「微風和暖」、「天地英雄気千秋尚凛然」、「以和為尊」、「明朗闊達」、「寿似山」、「末ついに海となるべき山木もしばし木の葉の下くぐるなり」、「石もあり木の根もあれどさらさらと、たださらさらと水の流るる」など、依頼者に合わせて、お好みの言葉を選び、まさにさらさらと書き上げてしまう」。
 「揮毫の方は、色紙と違って大掛かりなこともあって、総理在任中は、よほど時間に余裕があり、気分が乗らないと応じなかった。いざ書くとなると、上着を脱ぎ、顔を真っ赤にして汗だくになって筆をとる。見ていて、顔の血管が切れないか、と心配になるくらい精魂込めて書く。単なるサービス精神では片付けられない気迫がそこにあった

 それだけに気に入らなければ、同じ書を何枚も破り捨てる。ある時などは十数枚も書いた挙句、『今日はダメだ、ダメだ』と叫んで、全部くちゃくちゃに丸めてしまったこともあった。不出来のものは一切門外不出。丸めるなり破るなりで、二次利用できないようにしてしまう。周囲の人間に求めるまではしないものの、田中先生自身は、あらゆることがらに完璧主義を貫いていた」。

【角栄邸での与野党秘密会談の様子】
 「角栄邸での与野党秘密会談の様子」を次のように記している。
 概要「田中邸には当然、総理番の新聞記者が詰めている。平時は共同通信と時事通信の記者が交代で私邸内に作られた番小屋と呼ばれるマスコミ専用の詰所に待機、通信社である両社が代表取材して各社に情報を配信している。米価問題など難問が持ち上がり国会が荒れたりすると、通信社以外の新聞、放送の各社の記者が20人以上も押し寄せてくる。当然、この日も首相官邸詰めの各社の記者が勢ぞろいしていた。

 その晩、共産党を除く社会、公明、民社の野党党首が私邸に集まった。野党の党首は、新聞記者がたむろする中を堂々と私邸の本宅応接間に上がりこんで、酒を飲みながら長時間の会談をしたのである。にも拘わらず秘密会談は外に全く漏れなかったのである」。

【角栄語録】
 「角栄語録」を次のように記している。
 「政治家にはね、三種類のタイプが居るんですよ、分かりますか。川の上流と、下流で両方の選挙民が橋を架けて欲しいと陳情している。さぁ、どうしますぅ。ある政治家はね、上流では、ここを最優先して橋をかけますよ、といい、下流でも、こっちを優先してかけます、と云い続けるんだな。で結局、どっちにも橋を架けない。もう一人の政治家は、両方の話を親身になって聞いた上、悩むんだな。どちらを急がなければならないんだろうか、と。悩んで悩んだ末に片方に橋をかける。

 で選挙をすると、どうなると思いますか。どっちにも橋を架けないで何もしない政治家が当選するんだな。橋をかけた方は、片方の選挙民には喜ばれるが、片方は総スカンだな。で仕事をする政治家がいなくなる。

 さて、三番目の政治家だ。どうするか。田中角栄は、まず片方に大急ぎで橋を架ける。だが、約束した以上は、もう一方にも必ず橋を架ける。最初は片方に嫌われますがねぇ、彼等もちゃんと知っているんだ。田中角栄は約束を守る男だってね。すぐに橋が架かるまが分かっている。とにんく汗をかけるだけ汗をかく。言ったことは必ず実行する、それが田中角栄です」。
 「役人はね、新しいことをしようとすると、すぐに、それは法律上問題があってできません、というんだな。彼らは秀才ぞろいで、仕事もよくやる。だが、ガチガチの行政官であり、発想が法律の枠内でしかできないように教育されているんですよ。だから、言ってやるんだ。法律が邪魔しているなら、新しい法律を作ればいいじゃないかつてね。それが立法府を司る我々国会議員の役割だと。君らは新しい仕事に萎縮することはない、国民の為必要な新しい施策であるなら、遠慮することは無い。どんどん田中角栄にもってこいとね。必要な法律はいつでも作るって言ってるんですよ。政治家は法律を作るのが仕事。それを生かすのが役人の仕事だ。そうやって田中角栄は、戦後、最多の議員立法を成立させてきたんです。私、政治家・田中角栄の一番の誇りは総理大臣をやったことでも、外遊で成果をあげたことでもない。国民生活の為に提出した、この議員立法の数なんです」。
 「皆さん、何で戦後の日本経済が、これほどの急成長を成し得たかわかりますか。それは民間企業の力なんですよ。じゃなぜ民間企業は力をつけたのか。その秘密が税金にあるんです。日本は戦後、法人税をできるだけ企業の負担にならないような制度にし、民間企業が投資し成長戦略をとりやすいような政策をとってきたんです。だから企業は活発に設備投資をして輸出を拡大し、国際化を進めることが出来たんです。

 野党の諸君は何かというと、法人優遇を見直して福祉に回せとか、財政を立て直すなら一般国民の負担を増やさないためにも、法人税率を大幅に引き上げろという。しかし、そんなことをして御覧なさい。企業は競争力を失い、たちまち、あんたたちのお父さんの給料は下がり、下手をすれば倒産する企業も出て、失業者が町に溢(あふ)れてしまう。企業が儲からなくなれば、株式市場だって急落するだろうし、日本の経済全体がおかしくなってしまいかねないんです。

 法人税は法人優遇でも何でもないんだ。これは日本企業が国際社会で生きていくために必要な方法なんです。企業が稼いでくれるから、国富が増し、国の経済に余裕ができる。企業の頑張りで社員の給料も上がり、国民生活だって豊かになっていくんです」。

【ロッキード事件騒動について】
 「ロッキード事件騒動」を次のように記している。
 「疑惑が報道される最中、右翼の青年が乗った飛行機が、児玉邸に突っ込むといった事件も起きた。小佐野賢治氏の名前が出たことから、田中先生にも疑いの目は向けられたが、田中事務所では田中先生が逮捕される事態になるなどとは、誰一人想像もしていなかった。

 田中先生自身も『何で疑われなきゃいけないんだ』とたびたび不満を漏らしており、。『全日空の若狭なんてのは、俺にろくに挨拶もしなければ見送りにだって出てこない。そんなのとまともに付き合うわけがないだろう』などと、酒を飲みながら、事務所の連中を前に愚痴ったこともあった。

 児玉氏が中心人物との報道が多かったこともあって、何かと児玉氏との関係が取り沙汰されていた中曽根康弘先生が大変なのではないかなどと、一部では噂していたくらいだった。それだけに、ほぼ無防備に近い状態で、田中事務所はガサ入れを受けることになったのだった」。
 「そんな日々が続く中で、山田秘書を筆頭に目白の事務所のメンバーは、任意の参考人聴取という名目で、東京地検に順番に呼び出された。事情聴取が始まってまもなく、その事件は起きた。事情聴取の後行方が分からなくなっていた小原(笠原)運転手が、山中で遺体となって発見されたのだった。(中略)田中先生が逮捕された直後の参考人聴取は任意というのは言葉だけで、かなり厳しいものだった。早々に聴取を受けた山田秘書たちは、『完全に犯人扱いの事情聴取だ。何を言ってもウソをつくなだとか、こうに違いないだとか、決め込んでいる。話にならんよ』とぼやいていた。小原さんもかなり、しつこく迫られたらしい」。
 「私が検察に呼び出されたのは、小原事件があった一週間ほど後だった。せいぜい2、3時間で終わるだろうと、軽く考えていたのだが、10時に東京地検に出頭、事情聴取は延々、夕方の6時近くまで続いた。質問はほとんど同じことの繰り返し。参考人を、これっぽっちも信用していないので、同じ事を何度も質問して、違った回答をしないか、2、3時間前に下質問と答えは同じかどうかを見ることで、相手の隙をつこうというものだった。

 事情聴取の中心は、現金授受に少しでも関与しているのかどうかと、田中先生の一日の行動の確認だ。田中邸での行動を確認することで、丸紅の桧山会長らと現金授受の話がどう為されたかのストーリーを作ろうというものだったらしい。(中略)

 『榎本さんはね、背の高い学生にダンボールを渡したって言っているのだよ。背の高い学生といったら君しかいないでしょう。じゃ榎本さんがウソつきかな』
 『榎本さんはウソをつくような人じゃないですよ』
 『じゃ君がウソをついているんだ』
 『いえ、もう一つ可能性が有ります』
 『何?』
 『検事さんがウソをついている場合です』
 『何だと君、バカにしているのか』
 『いえ、検事さんが余りにしつこいので、正直に感想をいっただけです』」。
 「保釈後の田中先生の言動や、その後の裁判を見るに付け、先生自身はロッキード社から裏金を貰ったはずがないと、信じていたように思えてならない。私も事務所を出て数年後に、裁判所から呼び出しを受けて、東京地検の証言台に立ったが、その前後に会った田中先生は、『俺は悪いことはしていない。だから裁判に負ける訳が無い』と確信している様子だった」。






(私論.私見)