ロッキード事件の概要4(角栄保釈後) |
更新日/2021(平成31→5.1栄和元/栄和3).2.8日
これより以前は、【】に記す。
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「ロッキード事件の概要4(角栄保釈後)」をものしておく。 2003.9.16日再編集 れんだいこ拝 |
【1976(昭和51)年】 |
【「挙党協」の結成】 |
8.19日、福田、大平、田中、椎名、船田、永田の6派閥からなる「挙党態勢確立協議会」(挙党協)が結成され、衆参両院議員393名の7割強が結集した。三木内閣の閣僚20名のうち15名が参加していた。三木首相は自民党内で孤立したが、メディアの支援を受け、辞任を拒否し続けた。 |
【「疑惑の灰色高官」のうち佐藤、橋本が逮捕される】 |
「挙党協」が結成されたタイミングに合わせて、二階堂や橋本らの「灰色高官6名」が取沙汰され始めた。「挙党協」は、8.24日の両院議員総会に向けて、反三木攻勢が盛り上げようとしていた。 8.20日、「疑惑の政府高官」の一人であった元運輸政務次官・佐藤孝行氏が200万円の受託収賄罪容疑で東京地検に逮捕され、東京拘置所へ入った。佐藤氏は中曽根派内で最も田中派に近く、総裁公選の時も親田中で活躍した経歴を持つ。 8.21日、同じく元運輸大臣・橋本登美三郎が逮捕された。この時橋本は76歳。 9.10日、東京地検が、橋本元運輸相、佐藤下運輸政務次官を受託収賄罪で起訴する。 |
【「稲葉法相の政治主義的はしゃぎ」考】 |
8.23日、稲葉法相が、「灰色高官のトップは二階堂だ」とリークしている。田中派の指揮官として取りまとめに奔走している二階堂の失脚を狙った悪質な手法であった。この厳正であるべき法相の一連の政治主義的な動きが、ロッキード事件の胡散臭さ第21弾である。 |
【「船田中発言が批判される」】 | ||
8.24日、衆参両院議員総会が開かれ、元衆院議長の船田中氏が「ロッキード事件の解明には政治的配慮を」と演説した。主旨は次のようなものであった。
この「船田中発言」は、三木陣営と野党、マスコミ世論の一斉にブーイングにより掻き消された。 |
【「マスコミ各社の灰色高官報道の御用性報道」】 |
8.26日、朝刊各紙が、二階堂進、佐々木英世、福永一臣、加藤六月の4議員を、ロッキード資金を受け取った「灰色高官」として一面トップの大見出しで報道した。しかし、奇怪なことに又もやこれは誤報であった。この時点ではこれら4議員の取調べが為されていないことが今日明らかにされている。にも関わらず名前がデカデカとマスコミ報道されたことになる。つまり、マスコミの悪意あるミスリードとして銘記されねばならないが、一体全体マスコミの「不偏不党性」とはいかなるものなのであろうか。この経過も又、マスコミの中立性なるものが、ここ一番になると如何に政治主義的にかなぐり捨てられるのかを語って余りあるであろう。これが、ロッキード事件の胡散臭さ第22弾である。 ちなみに、二階堂氏は「天地神明に誓って事実無根」と反論している。 |
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佐藤、橋本の逮捕は反三木攻勢の出鼻をくじくという政治的役割を担った。してみれば、「灰色高官」は極めて政治的な動きであったことになる。 |
【高瀬検事正の「誤報責任談話」】 | |
新聞各社は「誤報責任」を問われることになった。地検担当記者クラブと高瀬、豊島らと折衝が続き、紛糾した末、高瀬検事正の次のような「誤報責任談話」が発表された。
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【「中曽根幹事長の証人喚問」の動き】 |
8.21日、佐藤氏の逮捕は、派閥の長である中曽根疑惑へと発展していった。朝日新聞が「コーチャン回想」を元に疑惑を報じた。中曽根は、「ロ社の為に工作した覚えは無い」と強く否定し、「コーチャンの目の前で児玉が中曽根に電話した云々というのは、児玉が私の名前を利用して一芝居打ったのではないか」と開き直った。 8.26日、衆議院ロッキード問題に関する調査特別委員会で、社、共、公、民による田中前首相と中曽根幹事長の証人喚問動議が提出され、否決されている。 |
9.3日、保釈後の角栄を訪問したNHK会長・小野吉郎が辞任。(9.21日、坂本朝一福会長が昇格就任)
9.8日、クラッター、エリオットの嘱託尋問がロサンゼルス地裁で再開される。9.22日、クラッター氏から対日工作資金を記入した秘密帳簿が提出される。
9.13日、米国多国籍企業小委で、グラマン社の売り込み工作が明るみに出る。
9.15日、三木改造内閣が発足。自民党新三役は、内田恒雄幹事長、松野頼三総務会長、桜内義雄政調会長)の布陣。
9.28日、児玉秘書の太刀川氏が保釈される。
10.12日、宇都宮徳馬代議士が、ロ事件での自民党執行部の対応を不満として、議員辞職願を提出し離党する。
【「角栄の弁明と決意」】 | |
10.20日、角栄が、越山会の機関紙「月刊越山」紙上に、「私のとるべき道」と題した所信を発表。1・ロッキード社から政治献金は全く受けていない、2・ロッキード社とは、通産大臣当時の表敬訪問一回以外、一切接触も無い等々と述べており、逮捕容疑を全面的に否定している。
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【前殖産住宅前会長東郷が、中曽根と児玉の親密な関係を暴露する】 |
10.21日、前殖産住宅前会長東郷が、児玉の秘書太刀川に対する強要罪容疑事件の公判廷で、「赤坂の千代新で初めて児玉と会った時、自民党の中曽根康弘代議士も同席した」と述べ、中曽根幹事長と児玉の親密な関係を爆弾証言した。東郷と中曽根は旧制静岡高校、東大を通じての友人であり、その後も親交を続けていたが、この頃既に東郷は中曽根に裏切られ決別していた。 中曽根は、ロ事件が勃発して以来、児玉との深い関係を否定し続けてきていたが、こたびの東郷発言が、その嘘を暴いた事になる。中曽根は、東郷証言に対して、「千代新で別の会合が有り、帰り際にちょっと顔を出したかもしれない」と弁明した。 |
【「鬼頭判事補事件」】 | |
この頃、「鬼頭判事補事件」が発生している。鬼頭判事補が、何を目的に画策したのか全貌が明らかにされていない。これは、ロッキード事件の胡散臭さ第23弾である。 10.22日、読売新聞が、京都地裁の鬼頭史郎判事補が、8.4日、布施検事総長の名を騙って三木首相に電話をかけ、三木首相は気づかず応答し続け「中曽根幹事長逮捕に対する指揮権発動を要請する」という事件を引き起こし、、この時の会話の録音テープを報道関係者に公開するという珍妙な謀略事件をスクープした。一般解説では「ロッキード事件捜査に関する指揮権発動を求め、三木の事件への政治介入の言質を聞き出そうとした」とされているが、これでは何のことか分からない。会話の中身が公開されていないので真相が掴めない。 鬼頭は、報道関係者に対し取材源秘匿という職業倫理を盾に自分の名前を出さないように要求したが、報道関係者は布施を名乗る人物の声が鬼頭に酷似していたため、検事総長を騙った鬼頭自身が電話した謀略事件であることを突き止め、取材源を秘匿にしたまま報道することは謀略事件に加担することになるとして、取材源が鬼頭であることを公開した上で謀略事件として報道した。報道によって鬼頭は謀略事件の主役として世間に晒されることになった。 10.23日、最高裁事務総局が、鬼頭判事補から事情聴取。同判事補は、記者会見して「電話の主は別人」と主張。 10.25日、最高裁裁判会議、ニセ電話事件の想起解明を確認。東京地検が、ニセ電話事件を「官名詐称」の軽犯罪法違反容疑で捜査開始。 10.26日、参院ロッキード特別委が、鬼頭判事補の証人喚問を決定。 10.27日、参院ロッキード特別委事務局が、東京都内のホテルで、同判事補に出頭要求書を手渡す。同判事補は、心身疲労を理由に出頭できないとの上申書を渡す。 11.12日、鬼頭は参議院で証人喚問されるも、刑事訴追のおそれを理由として宣誓を拒絶する。 1977.2.2日、鬼頭は、議院証言法違反で告発され裁判官弾劾裁判所(裁判長・荒船 清十郎)に訴追される。3.21日、不起訴処分となる。 3.23日、、弾劾裁判所が、鬼頭本人が出席しないまま罷免判決を下す。これにより法曹資格を失う。鬼頭はこの事件で官職詐称の罪で起訴もされ、拘留29日の有罪判決を受ける。 6月、鬼頭は、第111回参議院議員通常選挙に全国区から出馬したが落選。街頭演説の際、聴衆の一人から暴行を受けた。 1979年、映画「白昼の死角」(監督村上透)に弁護士役で出演し話題を呼ぶ。 1984年、鬼頭は、法曹資格回復裁判を弾劾裁判所に請求。1985年、鬼頭は、法曹資格を回復する。 複数の弁護士会に対して弁護士登録を申請したが、入会を拒絶される。(未だ登録されていない)鬼頭は、弁護士登録を認めなかった日本弁護士連合会(日弁連)の裁決を取り消すよう訴訟を起こす。 2004.6月、鬼頭は、古屋弁護士会(後の愛知県弁護士会)に4回目の登録を申請したが、拒否された。審査請求を受けた日弁連は、「弁護士会の信用を害するおそれがある」と退けた。鬼頭は他にも日本弁理士会への登録申請を巡る記事でプライバシーを侵害されたとして、産経新聞社に400万円の損害賠償を求めた訴訟を起こしたが、1・2審とも敗訴した。 2005.6.25日、1審の東京高裁判決で、房村精一裁判長は、「原告による刑事事件が、風化したとは認められない」と述べ、請求を棄却した。更に鬼頭に対し「政治問題への執着など、従来から指摘された思考や行動様式を保持しており、変化は認められない」とも判示した。鬼頭は同様の訴訟を3回起こし、いずれも敗訴している。 「ウィキペディア鬼頭史郎の経歴」は次のように記している。
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この事件も胡散臭い。だいたい、現役の司法職にある者が、「布施検事総長の名を騙って三木首相に電話をかけ続け、三木首相が長時間話しこんだ」という。しかも、角栄の時には逆指揮権を発動した三木政権が、窮地に陥った中曽根幹事長救済の為に指揮権発動するという件に関して話し込んでいたという。これはスキャンダルであろう。このスキャンダルがさほど追求されないまま有耶無耶にされたが、当時のマスコミ人の見識が疑われよう。 |
10.31日、ロ事件を指揮した検察首脳の一人、最高検次長検事・高橋正八が定年退官した。
11.2日、東京地検検事正・高瀬礼二が、福岡高検検事長に発令された。高瀬は、餞別の場で、記者に次の言葉を残している。「僕がね、捜査の始まった頃、終わるのはセミが鳴く頃かも知れない、といいましたね。あれは、来年のセミかも知れませんよ」。
【総選挙告示、田中角栄、橋本登美三郎、佐藤孝行が無所属で立候補する】 |
11.2日、衆議院ロッキード事件問題特別委秘密会で、田中伊佐次委員長の指示を受けて、法務省掲示局長が「5名の灰色高官」の氏名を明らかにした。田中派の田中角栄100万円、元官房長官・二階堂進500万円、元運輸相・佐々木秀世300万円、自民党航空対策特別委員長・福永一臣300万円、元運輸政務次官・加藤睦月200万円。 11.4日、「灰色高官」として名指しされた5名の弁明機会がもたれ、いずれも「事実無根」、「やましいところはない」と釈明した。二階堂は「三木首相の政治的意図」と反発、福永は「政治献金として届けてある。毒饅頭だった。我々5人は犠牲の羊」と反駁した。 |
【総選挙告示、田中角栄、橋本登美三郎、佐藤孝行が無所属で立候補する】 |
11.15日、総選挙が公示された。田中角栄、橋本登美三郎、佐藤孝行は無所属で立候補した。 |
【「ロッキード選挙」】 |
12.5日、第34回総選挙(いわゆるロッキード選挙・田中角栄逮捕後初の総選挙)が行われた。角栄人気は衰えず、16万8522票という高得票で当選している。田中派の議員達は、世論の集中砲火を浴び、苦戦を強いられた。結局4名減らした。自民党は前回比22議席減の249議席で結党以来初めて過半数を割った。 |
【「三木内閣退陣、福田内閣の誕生」】 |
12.7日、遮二無二「三木降し」に抵抗してきた三木内閣も選挙大敗で命運尽き総辞職させられている。 12.23日、福田(71歳)が総裁に指名され、12.24日、国会で選出され、福田内閣発足。衆院での首相指名選挙では、過半数ギリギリの256票しか獲得していない。 翌1.20日、米大統領にカーターが就任している。 |
【1977(昭和52)年】 |
【「ロッキード公判」始まる】 |
その経緯は、「ロッキード裁判の経過」に記す。 |
【その①、丸紅ルート公判始まる】 | |||
1977(昭和52).1.27日、ロッキード事件丸紅ルート初公判が始まった。岡田光了裁判長の指揮の下で東京地裁7階の701号室(地裁では一番大きい法廷)と定まった。以降公判は毎週1回開かれ、回数にして191回、「公判三千日」を重ねていくことになる。この異例の裁判の長期化がこの後悪弊として先例となり、今日まで続いている。この異常な裁判の長期化が、ロッキード事件の胡散臭さ第24弾である。 主任検事・吉永祐介、被告席には裁判長席に近い順から田中・榎本・檜山・伊藤・大久保が並んだ。検察側の冒頭陳述で幕を開けた。田中角栄は受託収賄罪及び外為法違反で、榎本敏夫は外為法違反で、檜山広・大久保利春・伊藤宏らは贈賄、外為法違反、議院証言法違反で起訴されていた。 人定質問の後、田中前首相は次のように述べ、容疑を全面否認した。(「田中、榎本は5億円の受領を否認」)
つまり、事実無根を主張し真っ向から闘っていくこと、徹底抗戦の姿勢を明確にして陳述した。 小室直樹氏は、著作「田中角栄の遺言」において、「角栄裁判は、日本人における裁判観を、あますことなく露呈してくれた。その意味で、この上なく貴重である」と書いている。その趣旨は、戦後旧刑事訴訟法が書き改められ、近代的デモクラシー原理が取り入れられたにも関わらず、法の番人の世界の人心変わらず、相変わらず「お白洲裁き」の旧態依然が罷り通っているという告発である。小室氏の指摘する様を追っていきたい。 |
【マスコミ報道の煽り暴走】 | |||
この間のマスコミ報道は、田中有罪色を濃くした客観性・公平性を欠くキャンペーン報道に終始した。かって、数々の冤罪事件を取り上げ、検察-判事連合の非を咎めてきたマスコミが、一転して「クロ側」に立って有罪認定を煽り続けたという不名誉な醜態を晒しつづけた。これが、ロッキード事件の胡散臭さ第25弾である。こころなしか、この頃よりマスコミの冤罪事件に対する肩入れが弱くなってきており、今日までその後遺症を引きずり続けている。
これでも足らぬもっと詮索せよとばかりの見解を表明している。こうなると漬ける薬が無いというべきだろう。 政治評論家俵孝太郎氏は、週間サンケイの8.23日号で次のように述べている。
元内閣法制局長官・林修三氏は、正論10月号に「ロッキード疑獄の法律的研究」を寄稿し、次のように述べている。
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【全日空ルート公判始まる】 |
1.31日、全日空ルートの初公判も始まる。 |
【東京国税局の暴走】 |
3月、東京国税局が、角栄がロッキード社から賄賂5億円を受け取ったと認定し、その雑所得に対し本税約3億7500万円、過少申告加算税約1800万円の更正処分。角栄所有の長野県軽井沢町の「南が丘別荘」と角栄系企業・長鉄工業名義の軽井沢町の「三笠別荘」に担保設定している。 |
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【岡原昌男が最高裁長官に就任】 |
1977.8.26日、弁護士出身の藤林益三長官の後を受けて、第8代最高裁判所長官に就任。 岡原昌男の概要履歴は次の通り。 1909.4.1 日、岩手県水沢市(現:奥州市)生まれ。仙台二中から旧制第二高等学校に入学。同高も2年で、東京大学法学部英法科に入学。在学中に司法試験に合格。20歳で司法官試補。検事として函館、浜松、千葉に赴任。戦前の公安検事のエリートコースを突き進んだ。司法省刑事課長、人事課長、会計課長を歴任。1954年、法務省刑事局長から千葉地方検察庁検事正に左遷。その後、東京高等検察庁次席検事。1960年 京都地方検察庁検事正に異例の5年間在籍。その後は札幌高等検察庁検事長、福岡高等検察庁検事長、大阪高等検察庁検事長と地方畑を歩まされる。この人事の背景には、当時の検察内部を二分した派閥抗争(戦前の思想検察を代表する塩野閥の系譜につながる岸本義広派、刑事検察の小原閥の系譜を継ぐ馬場義続派)により、岸本派に繋がる岡原が冷や飯を食わされたことによる。検事としては大阪高検検事長として退官する。1970.10.20日、大阪高等検察庁検事長の時、最高裁判所長官の石田和外から最高裁判所判事就任依頼の電話を受ける。石田は最高裁判所人事課長のときに岡原が司法省人事課長であったころから旧知の間柄であった。1970.10.28日、最高裁判所判事に就任。この時、「私は検察の利益代表ではありません」と述べる。1977.8.26日、弁護士出身の藤林益三長官の後を受けて、第8代最高裁判所長官に就任する。1979.4.2日、退官。後任の最高裁判所長官は裁判官出身の服部高顯。長官としての任期は1年7か月とショートリリーフであったが、ロッキード事件の嘱託尋問調書をめぐり重要な役割を果たした。 この時代、新左翼系裁判での弁護士の出廷拒否に対し、「弁護士の中には相当無茶なのがいて裁判所の努力にも限界がある。『弁護士抜き裁判』の法案が必要」、「弁護を受ける権利を逆手に取られては、いつまでも裁判が進まない。法廷で問題を起こす弁護士はバッサリやればいい」と発言し物議を醸している。尊属殺人罪(※1995年廃止)に対しては刑の選択の幅が狭く極端に重いとして違憲とした判例変更に同調。全逓東京中郵や東京都教組事件では判例をわずか数年で変更し、公務員の労働基本権の制約を再び正当化し、有罪とした全農林警職法事件判決で法廷意見に賛同。1票の最大格差が約5倍まで開いた1972年衆院選について「全体として違憲状態だが、事情判決により選挙を無効にはしない」との判決に対し「問題となった千葉1区のみが違憲で、選挙も無効」との反対意見。大阪空港騒音訴訟の上告審では、住民側の『夜間飛行差し止め』、『過去被害賠償』、『将来被害賠償』をほぼ全面的に認めた控訴審判決を見直すべく、いったん第一小法廷で控訴審追認の方向で結論が決まりかけていたものを長官権限で大法廷に回付。審理はそのまま服部次期長官に引き継がれた。また、すでに退官していた田中二郎氏の『最高裁2つの顔』論に対して「二つの顔があるわけがない。あったら精神分裂病だ。くやしまぎれに言っている。全農林警職法事件でも、私たちは十分に議論をつくしており、議論の積み重ねで多数意見を形成している。これが国民の常識と合致するかを探るのが私の仕事だ」と反論した。 1979.4.29日、勲一等旭日大綬章受章。ロッキード事件第1審判決の際、田中角栄氏の有罪判決について、「判決確定までの無罪推定論は、一審判決の重みを理解しないもの」と述べ物議を醸した。1994.7.14日、逝去。 |
【1978(昭和53)年】 |
6.21日、ロッキード裁判丸紅ルートで、元首相・田中角栄被告人の首相の犯罪を暴くとして立ち働いた東京地検特捜部副部長堀田力・氏が、法務省刑事局総務課長に栄転した。次のように紹介されている。
【大平内閣成立】 |
1978.12.7日、大平内閣成立。 |
【「ダグラス・グラマン事件」発覚】(「ダグラス・グラマン事件」) |
1978.12.25日、米国証券取引委員会(SEC)が、マクドネル・ダグラス社のF4EJ(ファントム戦闘機)売り込みに関わる対日不正支払いを告発し、ダグラス社が、戦闘機の売り込みに70年に1万5千ドルを日本政府当局者に支払ったと表明した。当時の古井法相は、「底の深さ、幅の広がりにおいてロッキード事件を超える」と明言している。 これに関連して、1957(昭和32)年、国防会議決定の第1次防衛力整備計画により日本政府は、旧式化した自衛隊の主力戦闘機F186Fにかわる超音速戦闘機300機の機種選定に関して、当初米・ロッキードF104を圧倒的最有力候補としていた。だが、岸内閣成立後の58年4月、米・グラマンF11ー1Fの採用に急展開した。その裏面でグラマン社が納入1機につき1,000万円(総額30億円)のリベートが岸内閣の総選挙費用と総裁選対策費として支払われたのではないかという事件を中心とする一連の航空機売り込み疑惑も発覚した。 |
【「ダグラス・グラマン事件」その後の流れ】 |
1979.1.9日、トーマス・P・チータム米グラマン社前副社長が、同社の早期警戒機(E2C)対日売り込みに関連して、疑惑の政治家名を明らかにして、岸、福田、松野、中曽根の4名を挙げた。捜査当局がダグラス・グラマン疑惑の解明に動くことになった。第二次ロッキード事件として大騒ぎとなった。 1.9日、東京地検特捜部はこのダグラス・グラマン両社の航空機売りこみにからむ疑惑について法務省に米側資料の入手を要請、捜査を開始した。捜査の中心は、両社の販売代理店である日商岩井であったが、2月1日、グラマン疑惑の重要人物であり、東京地検に召還されていた日商岩井島田三敬(みつたか)常務が東京・赤坂のビルから飛び降り自殺し、捜査は難航する。 1.30日、通常国会再開。冒頭からダグラス・グラマン疑惑で荒れた。衆院ロッキード問題調査特別委員会が「航空機輸入調査特別委員会」と改称された。特別委員会は、ダグラス・グラマン疑惑はもちろん、民間機、航空機の売り込みにかかわる、すべての疑惑を調査することになった。野党は、岸・松野らの証人喚問を要求したが拒否した。日商岩井の植田三男社長、海部八郎副社長らが喚問となった。 2.9日から国会(衆院予算委員会)で疑惑解明の集中審議を開始、防衛庁に強力な影響力を持つ岸信介元首相と太いパイプで結ばれた日商岩井の植田三男社長・海部(かいふ)八郎副社長らと松野頼三元防衛庁長官を証人喚問した。 参院予算委で航空機疑惑集中審議最中の4月2日には海部が外為法違反容疑で特捜部に逮捕されるが、この時、伊藤栄樹法務省刑事局長(1925年2月名古屋市の生まれ。学徒出陣で海軍に入隊。戦後の司法修習生の1期生で、1949年に検事任官。東京地検特捜部検事、法務省人事課長、東京地検次席検事、法務省刑事局長、事務次官、東京高検検事長などを経て、1985年12月に検事総長に就任。1988年3月24日、病気のため任期を約2年残して退官した)は、「捜査の要諦(ようてい=肝心なところ)はすべからく、小さな悪をすくい取るだけでなく、巨悪を取り逃がさないことにある。もし、犯罪が上部にあれば徹底的に糾明し、これを逃さず、剔抉(てっけつ=あばき出すこと)しなければならない」と述べ、政界中枢への波及を示唆した(「巨悪を逃さず」はこの年の流行語なる)。 4.16日、検察側の総指揮官であった検事総長が定年で神谷尚男から辻辰三郎に交代した。神谷は「サヨナラ記者会見」で「検察の捜査力はまだまだ頼むに足る。私は事件途中で去るが、背後に検察の意気込みを感じながらやめるのはうれしい」との言葉を残した。 結局、同社から総額5億円を受け取った松野元防衛庁長官(79年7月に議員辞職。10月の総選挙でも落選)が“灰色高官”として浮上しただけで、捜査中に明らかになったダグラス社と元首相のかかわりが示唆する内容が記されていた「海部メモ」に名前の出た岸信介元首相については、検察側の事情聴取もなく、また証人喚問すらなされず、捜査は79年5月に未解明のままで打ち切られた(刑事訴追を受けた政治家はゼロ)。 |
【1979(昭和54)年】 |
【1980(昭和55)年】 |
【伊藤宏が、第91回公判廷で角栄に5億円授受を主張】 |
1980(昭和55)年1.30日、丸紅元専務伊藤宏が、第91回公判廷で角栄に5億円授受したと主張。今日、この時の伊藤氏の陳述の真実性が精査されねばならないだろう。 |
【田中弁護団の方針齟齬する】 |
この当時、裁判をどういう方針で進めるかで、田中と弁護団の意見は噛み合わなかった。弁護団は、「金をもらったことは認めて、総理大臣の職務権限で争ったらどうか」の方針を掲げようとしていた。これに対して、田中は、5億円の授受を認めることは論外という立場を主張しぬいた。当人は身に覚えが無いということと、「俺が普通のものならまだいい。しかし、日本国の総理大臣が外国の企業から金を受け取っていたとなれば、これは国の恥じだ。後世まで歴史を汚すことになる。だから、難としても冤罪は晴らさなければいけない。日本国総理大臣の尊厳のためにも、俺は闘わなければならないんだ」。この田中の思いが弁護団になかなか伝わらなかった観がある。 |
【鈴木内閣成立】 |
1980.7.17日、鈴木内閣成立。 |
【総合雑誌「現代の眼」11月号の奇怪】 | ||||||
10月頃、総合雑誌「現代の眼」11月号で、「有罪か無罪か田中角栄の陰謀」という別冊特集が出されている。「文化人・知識人の100人に聞く」というアンケート記事が掲載され、ロッキード事件の第一審係争中であるにも関わらず、不用意な作為的キャンペーンが張られている。
この時の有罪派、無罪派、態度保留派は次の通り。
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「現代の眼(11月号)」の企画は貴重と思料する。政治家、評論家、学者の眼力が問われており、れんだいこには、有罪派=時局迎合派、態度保留派=日和見派、無罪派=一言居士のように見受けられる。仮に、近未来にロッキード事件の虚飾が剥げ角栄の無罪が判明したとしたら、有罪派の連中はどう弁明するのだろう。 |
【1981(昭和56)年】 |
【田原総一朗氏の田中角栄インタビュー】 |
1981(昭和56)年2月号「文芸春秋」で、田原総一朗氏が田中角栄とのインタビュー記事を掲載している。角栄が首相を辞任して以来、6年2ヶ月ぶりの沈黙を破った肉声を伝えている。 |
【榎本秘書の妻の「ハチのひと刺し」発言」】 |
1981(昭和56).4.8日、丸紅ルート第126回公判が開かれ、弁護人側が「榎本アリバイ」による反証開始。これに対して、10.28日、丸紅ルート第146回公判で、検察側は、榎本被告の前夫人榎本美恵子を検察側証人として出廷させ、「ハチのひと刺し」発言で物議を呼んだ。 榎本美恵子氏は、概要「ロッキード事件発覚直後の1976.2.10日過ぎ、田中邸からの帰りの車の中で、榎本は私にカネを受け取ったことを認めた」、その為、2.16日に首相秘書官当時の日程表などを逮捕に備えて自ら償却したことを証言し、この証言が田中側の反証の流れを覆す大きな役割を果たした。 榎本夫人は、その日の夜の記者会見で、「ハチは一度刺したら死ぬと云われておりますが、同じ気持ちです」と語った。11.4日、記者会見し、「妥協の無い女ということで社会の片隅に追いやられる覚悟でいましたが、皆様の暖かいご支援をいただいております」と述べている。 |
【1982(昭和57)年】 |
【「全日空ルート一審判決」】 |
1982(昭和57).1.26日、全日空ルート東京地裁一審判決。若狭氏他全日空幹部全員に有罪判決(若狭得冶/懲役3年・執行猶予5年(控訴)、渡辺尚次/懲役1年2か月・執行猶予3年(有罪確定))。 6.8日、全日空ルート東京地裁判決。橋本登美三郎、佐藤孝行にも有罪判決(橋本登美三郎/懲役2年6か月・執行猶予3年・追徴金500万(控訴)、佐藤孝行/懲役2年・執行猶予3年・追徴金200万円(控訴))。 |
1982.10.6日、毎日新聞が、田中新金脈を報道。
【ポスト鈴木談義】 | ||||||||||||||||||
鈴木善幸が総理の座を降りた後の角栄と早坂秘書の「ポスト鈴木談義」が遺されている。これを確認しておく。(「田中角栄という生き方」134p)
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【中曽根内閣成立】 |
1982.11.25日、自民党総裁選挙が行われ、田中派の支援を取り付けた中曽根が圧勝。1982.11.27日、中曽根内閣成立。この時、マスコミは「田中曽根内閣」と揶揄している。 |
【1983(昭和58)年】 |
【中川一郎氏が不審死】 |
1983.1.9日、自民党総裁選挙に敗れた中川一郎氏が札幌のホテルで首吊り不審死している。自殺と報道された。 |
【野党が角栄に対し議員辞職勧告決議】 |
1.26日、全野党が、ロッキード事件裁判における田中角栄被告に対する論告求刑を契機として、共同で議員辞職勧告決議を提出した。 2.25日、衆議員議院運営委員会に参考人として自民党推薦の松本正雄弁護士(元最高裁判所判事)、野党推薦の星野安三郎(立正大学教授、憲法専攻)が呼ばれ意見を述べている。松本氏は、議員辞職勧告決議に反対する立場から論告、求刑段階での犯罪人扱いに疑問を述べた。星野氏は、議員辞職勧告決議に賛成する立場から政治的道義的責任を追及する者であるから問題ないとした。 |
【検察の論告求刑為される】 |
1983(昭和58).8.26日、検察官が論告求刑を行った。田中に対して懲役5年・5億円追徴、榎本に対して懲役1年であった。 |
【「労組の御用提灯」の奇怪さ】 |
その当夜、総評は組合員を動員して検察応援・論告支持・田中有罪のちょうちん行列を都心で行い、目白の田中邸前で気勢を挙げている。野党第一党社会党委員長が自ら「田中角栄御用だ」とアジっている。かくて、角栄批判の為なら本来なら有り得ようの無い「御用」などというお上権力丸出しの字句を使って恥じない総評組合員の痴態が繰り広げられた。マスコミも又この御用提灯デモを当然の如く報道し、只の一社も愚劣と報じていない。「これが進歩的なマスコミの編集局の内幕である」(岩崎定夢「角さんの功績、真の実力この魅力」。 わが国の政治史上右翼から全野党、左翼まで、裁判所と検察が意思一致させ、これにマスコミが「田中有罪」を更に煽りに煽るという奇妙な構図の第一ページが刻まれた。労組の御用ちょうちん行列も常識的には考えようが無いが、事実として進行した。過去労組は御用されたことはあっても、したことはない。その労組がこの当時御用ちょうちんを振り回している奇怪さがここにある。誰が入れ知恵したかが精査されねばならない。これが、ロッキード事件の胡散臭さ第26弾である。 |
【狂気の角栄包囲網】 | ||
この当時、角栄は、「カラスの鳴かない日はあっても、田中の悪口が書かれない日はない」という日々が続いていくことになった。「俺は今、おろしガネでおろされているような毎日だ」と述べている。 こうした雰囲気に対して、井上正治氏は、著書「田中角栄は無罪である」で次のように述べている。
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【朝日新聞の事前報道の奇怪さ】 | ||
奇怪なことに、裁判所の判決に一日先行して朝日新聞の10.11日付け朝刊は「田中有罪の記事を載せている」との由である。同記事内容を知りたいが手元にない。いずれにせよ、同社は、続行中の裁判について、言論界の嗜みを破って、裁判所の判決以前に、「自前の事前判決」を発表したことになる。 「田中事件の本質とロッキード事件の真相」は、次のように批判している。けだし正論であろう。
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【第一審判決で、有罪実刑判決下される】 | |
10.12日、最初の公判から6年後、東京地裁のロッキード事件丸紅ルート第一審有罪実刑判決が下された。主文と要旨のみ下され、要旨文中にはところどころ「略」とされていた。且つ正文は添付されていなかった。 田中元首相は、検察側の主張どおりに受託収賄罪などで「懲役4年、追徴金5億円」の実刑判決、榎本も有罪「懲役1年 執行猶予3年」とされた。贈賄側は丸紅社長の檜山広が懲役2年6ヶ月、伊藤宏専務が懲役2年、大久保利春専務が懲役2年・執行猶予4年。田中、榎本、檜山、伊藤、大久保の全員が控訴した。田中は直ちに保釈の手続きをとった。 岡田光了(みつのり)裁判長の判決文は次のように述べている。
官邸の弁はこうであった。中曽根首相「行政府の長として裁判所の判決について意見を述べることは差し控えたい」。後藤田官房長官「裁判は厳正厳粛に受け止めなければならない」。 |
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新聞各紙はこぞって、「暴かれた政治家の虚構」などと何面も使って報じ、いわゆる有識者の見解も載せられ、例外なく求刑の軽さに憤る論調であった。 |
【元最高裁長官藤林益三、岡原昌男氏のコメント】 | ||
この一審有罪判決直後の15日、毎日新聞は、「藤林益三氏の政治浄化の提言」と題したインタビュー記事を載せている(聞き手は白根邦男社会部長)。続いて同21日、朝日新聞が、元最高裁長官にして最高裁不起訴宣明書に関わった藤林益三、岡原昌男氏のコメントを載せ、概要「一審の重みを知れ。居座りは司法軽視。逆転有罪は有り得まい。国会に自浄作用を求める。元最高裁長官が『田中』批判」と見出しに大書している。 両名は、次のように発言していた。
元OBによる変調な論旨による露骨なオーバーコミットメントであった。これが、ロッキード事件の胡散臭さ第27弾である。ちなみに、上智大学の渡部昇一氏が手厳しく批判している。 |
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秦野法務大臣は、月刊誌「文芸春秋」12月号に寄稿し、角栄の人権擁護の観点から国連の人権宣言の趣旨を援用して、「第一審判決の際の藤林、岡原コメント」を批判した。これに対し、藤林、岡原両氏は、秦野発言に対し「法律のシロウトの云うこと」と反論した。思うに、「第一審判決の際の藤林、岡原コメント」は徹底的に批判されねばならない。しかし、当時のマスコミからの批判は出されなかった。 秦野章・氏は「何が権力か」の中で次のように記している。
正論だろう。れんだいこは「司法人の自己否定の極致発言」と評する。 なお、同年12.2日号の朝日ジャーナルで、元札幌高裁長官の横川俊雄氏は次のように述べている。
2005.7.2日、2006.3.19日再編集 れんだいこ拝 |
【角栄の激怒】 | ||||||
角栄は目白の自宅に帰り、家の子郎党70人を前に、次のように語って、判決に激怒した様子を伝えている。
この日の夕刻、田中の秘書である早坂茂三が「今後とも不退転の決意で闘い抜く」とする「田中所感」を読み上げた。
角栄は、三木・中曽根らの党内からの辞職勧告を拒否した。しかし、その後の流れは、両名控訴→東京高裁'87年7月29日控訴棄却→上告→1993.12.17日、田中死亡により公訴棄却となる。 |
【中曽根首相が田中宛親書を差し出し、議員辞職を要求する】 | |
当夜、中曽根首相の田中宛親書が上和田義彦秘書官を通じて佐藤昭子まで届けられている。議員辞職を要望する内容であった。これに対して、佐藤昭子は次のように答えている。
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【マスコミ各社の有罪喧騒協奏曲考】 |
10.12日、ロッキード事件の丸紅ルートで受託収賄罪などに問われた元内閣総理大臣の田中角栄の第一審判決公判のこの日、NHKや民放各局は午前中に同公判の報道特別番組を放送。田中に実刑判決が言い渡された後、午後の民放各局ワイドショーは田中公判関連の話題を中心にした内容となり、夕方から夜にかけても定時ニュースの放送時間拡大や報道特別番組などを編成した。前代未聞の「総理の犯罪」に判決が言い渡された日の、夕方以降の各局の対応は次の通り。
NHK総合「ニュースセンター9時」は放送時間を1時間繰り上げ、「ニュースセンター特集」(20:00〜22:00)として田中公判関連のニュースを中心に伝えた。このため、21時40分からの銀河テレビ小説「青春前後不覚」は20分繰り下げて22時から放送された。 日本テレビ系は「NNN JUST NEWS」を1時間繰り上げて、「JUST NEWSスペシャル・総理の犯罪に断!田中被告徹底追跡」を放送。また「11PM」枠で「11PM報道スペシャル どうなる田中権力・判決その衝撃と波紋」が放送された。 TBS系は「JNNニュースコープ」の放送時間を18時からの2時間枠に拡大して「ニュースコープスペシャル特集・田中判決」が放送された。 フジテレビ系は、23時から「FNN報道特別番組 どうなる田中支配!衝撃ドキュメント&激突討論」が放送された。 テレビ朝日系は「ANNニュースレーダー」の放送時間を1時間繰上げ、「ロッキード特集・田中元首相に判決」が放送され、23時に「報道スペシャル・田中角栄実刑4年の衝撃波」が放送された。 「毎日ニュース」然り。 |
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マスコミ各社が田中角栄の第一審判決公判を「放送時間を1時間繰り上げ」大きく報じたことは良い。良くないのは、各社一斉に角栄有罪判決礼賛報道に終始していたことである。「毎日ニュース」では、前首相・田中角栄は既に「田中」と呼び捨てで犯罪人扱いされていた。こういうのは報道の自由とは云わない。見えてくるのは操作されたマスコミの生態である。ただの一社でも良い、贈収賄を頑強に否定する角栄の側からの問題点指摘が欲しいところであった。このことを指摘する評論氏がいないのは寂しい限りである。 |
【第一審有罪実刑判決考】 | |
「田中事件の本質とロッキード事件の真相」は次のように語っている。
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【第一審有罪実刑判決の正文不在事件】 | ||
俵孝太郎氏の「田中裁判ーもう一つの視点」は、「田中判決と奇怪な官僚の常識」(1984.4.5.6月号「時評」)で、この時の判決文に正文、正本が付されていなかった非を告発している。それによれば、主文で「懲役4年、追徴金5億円」判決が下され、判決理由は付されたものの、その判決の正文、正本が発表されたのは判決後百数十日以上経過した翌年の1984.2.23日であった。 正文は、660ページ、56万字の長大文になっていたが、文章が確定していたなら長くて1週間以内にワープロ文書化でき、20日以内に印刷製本できるはずであるが、遅れた理由には「判決が先、論拠が後」という逆立ちがあったのではないかと推定される。 俵氏は、元首相を裁く判決がこういう杜撰のままにされたことに対して、次のように批判している。
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【第一審有罪実刑判決後の流れ】 |
【田中派内に動揺走る】 |
一審判決を廻って、田中派内は割れた。「オヤジ問題ありだ」、「俺達何のために頑張っていたのか分からなくなった」と不信感を露に肩を落とすグループが大勢を占めた。 |
【田中の議員辞職勧告決議案が出され紛糾する。共産党が異常にハッスルする】 |
一審判決後、国会は田中の議員辞職勧告決議案を廻って紛糾した。特に共産党の追撃が尋常でなく、後のダグラス・グラマン事件の際の追及と比較して見ても際立って激しいものとなった。ここにも「闇」がある、と私は窺う。これが、ロッキード事件の胡散臭さ第28弾である。 |
【判例事報の「ロッキード裁判の法的問題点」連載が打ち切られる奇怪さ】 |
判例事報で、中央大学法学部の橋本公亘名誉教授が、「ロッキード裁判の法的問題点」と題して連載をはじめたが、5回連載したところで打ち切っている。これを考究させない隠然とした圧力があったことが予想される。この闇も深い。これが、ロッキード事件の胡散臭さ第29弾である。 |
【マスコミの角栄議員辞職キャンペーン】 |
この頃、マスメディアはこぞって角栄の議員辞職を求めた。福田や三木元首相も「田中が辞職しないと自民党政権が維持できない」と主張した。 |
【「中曽根―角栄会談」が取り持たれ、中曽根首相が角栄の議員辞職を要求する】 |
10.26日、中曽根首相、後藤田官房長官、藤波孝生官房副長官、二階堂進幹事長、細田吉蔵総務会長、田中六助政調会長など政府・与党の首脳が集まり、角栄の進退問題を協議。翌27日にも続行されるが結論が出ず、中曽根首相自身が角栄と直接会って話し合い、現状打開するのが至当ということになった。 11.1日中曽根は自民党総務懇談会で、「10.28会談」を報告し、「進退は自分で決めることだ。返事は聞く必要ない。『よく考えてくれよ』と善処を要望した」と報告している。 |
【秦野法相の元検事総長発言批判】 | |
11月中旬、秦野法相が月刊「文芸春秋」12月号に寄稿し、元検事総長発言を次のように批判している。
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【第37回衆議院議員総選挙】 |
11.28日、野党が中曽根内閣不信任案を提出。中曽根首相は直ちに衆議院を解散し、いわゆる「ロッキード選挙」に突入した。 |
【1984(昭和59)年】 |
【元最高裁長官・岡原昌男の政治主義的発言】 | |
1984.1.20日、元最高裁長官・岡原昌男氏が、日本長老会での講演で次のように述べている。
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れんだいこが評するまでも無く、識見の疑われる政治主義的発言が過ぎるであろう。岡原が何者か、調査を要する。 |
【渡部昇一教授、自由法曹団の重鎮・石島弁護士、井上正治教授の第一審判決批判】 |
4月、文芸春秋社発行の「諸君!」5月号が、石島泰弁護士の48ページにわたる長大談話記事を掲載した。同誌は、既に2回にわたって渡部昇一氏が「角栄裁判は違憲合法だ」と論ずるなど、第一審の岡田判決批判の論陣を張っていた。渡部氏は、「法律のシロウトが何を云うか」式の逆批判していた藤林元最高裁長官に公開質問状を突きつけていた。しかし、藤林元最高裁長官はこれに応じなかった。この状況下に於いて、刑事弁護人としての第一人者にして自由法曹団の重鎮として定評のある石島弁護士が登場してきたことになる。石島氏は、第一審判決全文の公表を踏まえて、満を持してその論旨の全面的批判に踏み切った。「諸君!」6月号は、九州大学の元法学部長・井上正治氏が参戦した。しかし、「諸君!」7月号で立花隆の反論が為されると共に相殺されていった。 |
4.27日、児玉ルート東京高裁判決で、小佐野賢治に懲役10か月・執行猶予3年(上告)。
【日本共産党(行動派)の「ロッキード裁判と田中角栄問題に関する我々の一考察!」】 | ||||
俵孝太郎氏が、「アカハタが批判した角栄裁判」(1984.11月号文芸春秋)に寄稿し、日本共産党(行動派)中央委員会書記局署名の9.20日付アカハタ再建62号の「ロッキード裁判と田中角栄問題に関する我々の一考察!」を論評している。アカハタは次のように述べている。
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11.1日、第2次中曽根改造内閣発足。首相・中曽根康弘、副総裁・二階堂進、幹事長・金丸信(田中派)、総務会長・宮澤喜一鈴木)、政調会長・藤尾正行(福田)、大蔵大臣に竹下、外務大臣に安倍が留任。
11.25日、政治評論家の俵孝太郎うじが、「田中裁判ーもう一つの視点」を出版した。しかし、ロッキード事件糾弾派の波に消され、特段の影響力を持たなかった。
12.3日、ロッキード事件全日空ルートの控訴審第1回公判が東京高裁刑事5部で開かれた。橋本登美三郎元運輸大臣(一審は懲役2.6ヶ月、執行猶予3年、追徴金500万円の有罪判決)は、一審と同様に請託、金銭授受の容疑全て否定した。佐藤孝行元運輸政務次官(一審は懲役2年、執行猶予3年、追徴金300万円の有罪判決)は、請託と「賄賂性の認識」の関係につき、「仮に受け取ったとしても政治献金かご祝儀としか思えなかった」と抗弁し、無罪を主張した。
【1985(昭和60)年】 |
【「創政会」発足】 |
1985.2.7日、竹下を担ぐ「創政会」発足。梶山と小沢がお膳立てし、派内の一人一人に会って説得した。 |
【角栄の最後の言葉「愚者は語る、賢者は聞く」】 | |
1985(昭和60)年2.26日、田中派内の閣僚経験者を集めた懇親会の席上、宴も終わり近くなった頃、角栄がすっくと立ち上がり、次のように述べた。
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【石田省三郎弁護士が二審の弁護方針を相談するために田中邸訪問】 |
1985.2.24日午前8時頃、石田省三郎弁護士(ロッキード事件一審有罪判決を受けて、田中角栄は弁護団を総入れ替えした。学生運動を経験した若手弁護士たちを採用。その中心だった)が二審の弁護方針を相談するために東京・目白の田中邸を訪ねた。田中はその朝、ウイスキーをあおって酔いつぶれていた。2週間あまり前の2.7日、竹下を頭とする田中派40名が創政会という派中派を結成。それ以来、田中は朝から酒を飲み、荒れていた。田中が脳梗塞で倒れる三日前のことである。 |
【角栄、脳梗塞で倒れる】 |
1985(昭和60)年2.27日、「創政会」発足の月末頃、角栄が脳梗塞で倒れ、東京逓信病院に緊急入院した。角栄の政界引退を伝えた日刊ゲンダイ紙は、見出しに「ざまをみろ」と書いた。 |
【1986(昭和61)年】 |
5.14日、東京高裁が、佐藤孝行に対し、控訴棄却(上告取り下げ有罪確定)。
5.16日、東京高裁が、橋本登美三郎に対し、控訴棄却(上告)。
【1987(昭和62)年】 |
【第二審判決で、控訴棄却を言い渡される】 | |||
1987(昭和62)年7.29日、丸紅ルートの東京高裁(裁判長・内藤文夫、陪席裁判官・前田一昭、本吉邦夫等)は、第二審判決で一審判決を支持し控訴棄却を言い渡した。事実認定、法律論もほぼ全面的に一審の判決の判断を踏襲していた。
首相の職務権限認定については次のように述べている。
受託収賄罪認定については次のように述べている。
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1987.11.6日、竹下内閣成立。
1989.6.2日、宇野内閣成立。
1989.8.9日、海部内閣成立。
1991(平成3).11.5日、宮沢内閣成立。
12.17日、大久保利春、死亡につき公訴棄却。
1992(平成4).9.18日、最高裁、若狭得治に対し上告棄却(有罪確定)。
12月、竹下派(経世会)分裂。
1993(平成5).3.6日、東京地検特捜部が、金丸を脱税の疑いで逮捕。
1993.6.23日、自民党分裂、小沢一郎ら新生党を結成。
1993.7月、総選挙に真紀子が新潟3区から立候補、見事なトップ当選を飾る。
1993.8.9日、細川内閣成立。
【角栄逝去】 |
1993(平成5).12.16日、角栄は、別件逮捕劇から17年、有罪か無罪かロッキード最高裁判決の日を見ることなく上告審に係属中のまま逝去した(享年**歳)。 |
【角栄葬儀】 | ||||||||
12.25日、青山葬儀所で、自民党・田中家合同の葬儀が行われ、5千名が参列、冥福を祈った。
12.25日、田中家と自民党の合同葬が東京・南青山の青山葬儀場で真言宗の仏教方式で執り行われた。弔問の人々の群れは葬儀場の外でも数100メートル続く。葬儀委員長は河野自民党総裁。参列者は約5000人。新潟3区の支持団体「越山会」が、福島からは田中直紀後援会が、それぞれ貸し切りバスで乗り付けた。福田、中曽根、鈴木、宇野など歴代首相や、二階堂自民党元副総裁、鈴木東京都知事、田中派を割ってから目白の田中邸には入れなかった竹下元首相らも、葬儀に顔を見せた。土井、原田の衆参両院議長、村山社会党委員長ら与党の委員長、連立政権の現職閣僚のほとんど、それに相撲の北の海親方、デザイナーの森英恵なども参列した。数日前に沖縄の新政党結成式で「衆議院は常住戦場」と、政治改革が実現できなければ議院解散もと発言、その後静養を宣言した小沢新政党幹事は夫人を代理出席させた。
この日に先だつ私邸での密葬には300名、出身地の新潟県西山町の西山中学校体育館で行われた町葬にも1千名を超える人々が集まった。長女の田中真紀子は次のように挨拶した。
田中金脈を追及し続けた評論家の立花隆は次のように評している。
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【最高裁、本人死亡により「控訴棄却」を決定し、裁判終結】 |
最高裁は、本人死亡により「控訴棄却」を決定し、裁判終結。つまり、確定判決はないまま公訴棄却となった。 |
【最高裁が、榎本と桧山に上告棄却を言い渡す】 |
1995(平成7)年2.22日、最高裁は、榎本と桧山に上告棄却を言い渡す(平成7.2.22大法廷判決/昭和62年(あ)第1351号)。これにより有罪確定。 |
(私論.私見)