ダグラス・グラマン事件あらすじ考 |
(最新見直し2009.1.29日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、ロッキード事件より本質的に犯罪性の高い且つロッキード事件の喧騒に比して闇に葬られたダグラス・グラマン事件を確認しておく。中曽根が主犯であるが又もや縄抜けしている。これはリクルート事件でも同じである。中曽根はなぜいつもこううまく切り抜けられるのだろう。名宰相、大勲位の名を得て我が世の春を謳歌したまま、幸せなあの世入りできるんだろう。「ウィキペディアダグラス・グラマン事件」その他を参照する。
2009.1.29日 れんだいこ拝 |
1978.2月、日米間の航空機(戦闘機)購入に絡んだ汚職事件が明るみになった。ダグラス社は当時すでにマクダネル社に吸収されるような形で合併しており、しかも戦闘機部門はマクダネルの流れを汲むもののため、本来は、マクダネルダグラス・グラマン事件と呼ぶべきであるが、ダグラス・グラマン事件(ダグラス・グラマンじけん)と呼ばれている。これを確認しておく。 朝日新聞の取材では、グラマン社は、元米人ジャーナリストのハリー・カーンと岸の秘書である川部美智雄をコンサルタントとして雇い、その紹介で、岸・松野らと何度も会談し、E-2Cの対日売込みでは、代理店を日商岩井に変更する方が好都合との感触を得たことを明らかにした。 MD社のF-4EJの売込みに関して、いわゆる「海部メモ」の存在が発覚した。海部が国内航空会社社長に宛てたハワイ・某ホテル客室の備付け便箋に書かれていた1965年7月24日付手紙のコピーが漏洩した。その内容は、岸と川部秘書、海部らが話し合い、F-4EJ導入が決まったこと、見返りに岸へ2万ドル払ったことが記載されていた。しかし、岸に対しては、同メモ発見の時点で公訴時効成立により捜査は打ち切られ、東京地検は岸に事情聴取すらしなかった。 岸に関しては、多くの航空機疑惑関与(第1次FX問題)が指摘されていた。1957年、国防会議決定の第1次防衛力整備計画に基づく、旧式化した自衛隊の主力戦闘機F-86Fにかわる超音速戦闘機300機の機種選定について、当初、防衛庁は次期戦闘機をロッキードF-104に内定していたのが、岸内閣成立後の1958年4月、日本政府はグラマンF11Fを採用決定した。この見返りとして、岸に対して、グラマン社が納入1機に対し1000万円、最大30億円のマージンを支払われたとされる疑惑である(資金は、その後の総選挙費用と総裁選対策費として支払われたのではないかと言われる)。しかし、実際に1962年から後継主力戦闘機として配備されたのは、一旦覆ったはずのF-104Jであった。 同1.30日、 衆議院ロッキード問題調査特別委員会が「航空機輸入調査特別委員会」と改称。特別委員会は、ダグラス・グラマン疑惑はもちろん、航空機売込みに関わる、全ての疑惑を調査することになる。 同2.1日、日商岩井航空機部門担当島田三敬常務が、赤坂の同社本社ビルから遺書を残して投身自殺し、キーマンの自殺に捜査は行き詰まる。 この自殺は、当時のノンフィクション番組で取上げられ、詳細が公開された。その内容は、飛降りに際して、心臓を一刺ししてから高い窓をよじ登り飛び降りる事は不可能と判断し、何故、最終的に警察は簡単に自殺と判断したのだろうと疑問を投げかけていた。この他に吉原公一郎も念密な医学的根拠を挙げた上で他殺説を主張する著書を書いている。 同2.14日、 衆議院予算委員会で日商岩井・海部八郎・副社長、植田三男・日商岩井社長、有森国雄・元同社航空機部課長代理を証人喚問する。海部が宣誓書に署名をする際、手が震え字が書けない様子がテレビ中継された。海部は「記憶に無い」の答弁を繰り返し、早期警戒機E-2Cの売込みに絡んで政府高官への金銭支払いの疑惑を否定したが、1972年の日米ハワイ会談前後に田中首相(当時)と、またグラマン社代理店変更の前後に松野と会談したことを認めた。なお、証人喚問での焦点だった「海部メモ」(後述)の筆跡については確認を拒否した。また、海部と田中六助自民党衆議院議員との関係が問質され、海部は田中との接触は全くなかったと国会で嘘の証言をした。 同3.14日、日商岩井航空機部門部長・次長を外為法違反容疑で逮捕する。 同3.19日、 参院予算委員会が海部を証人喚問する。海部は、日商岩井の政界工作をにおわす「海部メモ」を自分で作成したのに、国会で「関知しない」と証言する。後に同メモの作成者が海部と初めて判明することになり、4.4日に偽証告発されることになる。 同3.22日、 参院予算委員会での証人喚問において、日商岩井・海部八郎副社長と対立する日商岩井・山村謙二郎・元副社長、井上潔・専務が証言する。衆院予算委員会における海部証言について、山村は「錯乱していた」と証言した。 同3.31日、 参院予算委員会はこれまでの証人喚問において海部と山村らの証言が食い違ったため、海部、辻良雄・前会長、郷裕弘・元ダグラス社経済顧問を証人喚問。証言に立った海部は、3.19日の証言の重要部分のすべてを訂正したが、疑惑の核心部分に関しては依然、自殺した元常務に責任転嫁する姿勢が目立った。 同4.2日、 海部を外為法違反容疑で逮捕する。同日、参議院予算委員会航空機疑惑集中審議中に海部逮捕の報を受け、伊藤栄樹法務省刑事局長(後の検事総長)は、「捜査の要諦はすべからく、小さな悪をすくい取るだけでなく、巨悪を取り逃がさないことにある。もし、犯罪が上部にあれば徹底的に糾明し、これを逃さず、剔抉しなければならない」と述べ、政界中枢への波及を示唆した。 同4.16日、疑惑捜査の総指揮官である検事総長が定年により、神谷尚男から辻辰三郎に交代する。神谷は、「サヨナラ記者会見」で、「検察の捜査力はまだまだ頼むに足る。私は事件途中で去るが、背後に検察の意気込みを感じながらやめるのはうれしい」と述べる。 同4.24日、海部・元副社長を議院証言法違反容疑で再逮捕する。 同4.26日、事件に岸、松野らが関与していたのではないかとして、野党側が一致して喚問を要求。自民党側が拒否し国会が空転する。 同5.15日、検察首脳会議において、「政治家の刑事責任追及は、時効、職務権限のカベにはばまれ断念する」ことを確認し、ダグラス・グラマン事件捜査終結を宣言。日商岩井関係者のみ3名を起訴。 同5.24日、衆議院航空機輸入調査特別委員会で松野を証人喚問する。松野は5億円の授受を認めるも、「五億円は日商岩井からの政治献金」と主張、検察側及び野党側の「F-4E売込み工作資金及び成功報酬」との認定と平行線をたどった。また既に公訴時効が成立しており刑事訴追は逃れることになる。 5.25日、伊藤刑事局長が、参議院航空機輸入調査特別委員会答弁で「初めに5億円ありき」と述べ、「巨悪を逃さず」と共にこの年の流行語となった。 同5.28日、参院航空機輸入調査特別委員会、松野を証人喚問。 その後、野党側は松野を偽証告発する決議動議を提出しようとしたが、自民党が拒否し、国会は再度空転。参院で閉会中審査手続きを取れず、審議中の全法案が審議未了・廃案となった。 同7.11日、衆院航空機輸入調査特別委員会、E-2C導入をめぐる疑惑に海部、日高一夫・住友商事元航空機部長を証人喚問。海部のように逮捕・起訴後の証人喚問は異例。海部は、松野にF-4の売込みに対する成功報酬として5億円を支払ったことを明言した。 同7.25日、松野は、衆議院議員を辞職し自民党を離党する。同年10月7日の第35回衆議院議員総選挙では無所属で出馬するも落選した。1980年6月22日の第36回衆議院議員総選挙に再度立候補し、当選し自民党に復党した。 同9月、官民問わず、航空機選定の度に、数々の疑惑が発生する為、大平首相の私的諮問機関「航空機疑惑問題等防止対策協議会」が再発防止として、政治資金規正法改正など14項目を提言する。しかし、自民党内の反発で、具体化はなされなかった。 1980.7.24日、東京地裁判決で海部八郎に懲役2年執行猶予3年の判決。被告原告共に控訴せず、同年8月7日確定する。 1983.2月、事件当時の法相・古井喜実がインタビューで次のように語っている。
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(私論.私見)