朴正煕(パク・チョンヒ)の履歴

 (最新見直し2012.8.20日)

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 2012.8.17日 れんだいこ拝


【朴正煕(パク・チョンヒ)の総評】

 1917.11.14(時憲暦9.30)日―1979.10.26日)は、大韓民国の軍人、政治家。第5-99代大統領(在任:1963年―1979年)を務め、軍事独裁下での戦後韓国の国家体制を成功裏に導いた。日韓基本条約の締結を行い、韓国の奇跡的な経済発展である漢江の奇跡を実現させた。本貫は、高靈朴氏。号は「中樹」(チュンス、중수)。

 日本語読みは「ぼく・せいき」。日本名は高木正雄(たかぎ まさお)。日本では1984年の全斗煥大統領訪日を契機に韓国人人名の現地読み化が行われるようになったが、昔通りの漢字読みも一般的である。陸英修は妻、セヌリ党非常対策委員長の朴槿恵は長女、EGテック現会長の朴志晩は長男。なお、出生日を1917.9.30日とする文献等があるが、これは時憲暦での表記でありグレゴリオ暦に直すと11.14日である。


【朴 正煕(パク・チョンヒ)の履歴戦前篇】

(出生及び家系年)
 1917.11.14日、生誕。朴正煕は、日本統治下の朝鮮の慶尚北道善山郡亀尾(クミ、現在の亀尾市)で、貧しい農村部家庭の5男2女の末子として生まれた。父親は科挙に合格したが、韓国が併合された後に没落し、墓守をしていた。小学生の頃は、学校に弁当を持って行けないほど生活は苦しく、後世、酒に酔うたびに友人や側近に「俺は本当の貧しさを知っている」と語っていたという。家が貧しいうえに病弱だった。
(戦前篇)
 19**年、亀尾小学校を優等で卒業。

 1932年、大邱師範学校入学。

 1936年、最初の結婚。

 1937.3月、大邱師範学校を70人中69位で卒業。慶北聞慶国民学校で3年間教師をした。

 1940.4月 日本国籍のまま満州国の首都の新京で、満州国軍軍官学校に240人中15位入学。

 1942年、満州国軍軍官予科を首席卒業。優秀な成績のため、特に選ばれて日本の陸軍士官学校に留学編入された(57期相当)。その後、創氏改名によって高木正雄と名乗った。

 1944年、日本陸軍士官学校を3位の成績で卒業(57期)。満州国軍歩兵第8師団に配属。

【朴 正煕(パク・チョンヒ)の履歴戦後篇】

 1945年8.15日、第二次世界大戦で大日本帝国が敗北し朝鮮半島での日本の統治が終了する。以降、連合国軍の管轄になる(北緯38度線以北をソビエト連邦軍が、同以南をアメリカ軍が管轄する。朴正煕が満州国軍中尉で終戦を迎える。朴正煕が日本陸軍の軍人だったという誤解があるが正しくは満州国の軍人として日本の士官学校へ留学し卒業した訳で日本軍人として任官したことはない。 終戦後、満洲国が崩壊したために退役し朝鮮半島に戻った。

 同年9.6日、南側で呂運亨らによって結成された「朝鮮建国準備委員会」が「朝鮮人民共和国」樹立を宣言。9.8日、ホッジ中将の米第24軍団第一陣が仁川に上陸。9.9日、朝鮮総督府が降伏文書に調印。9.11日、アメリカが在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁を宣布。これ以降「連合軍軍政」が続く。10月、アメリカが「朝鮮人民共和国」及び「朝鮮建国準備委員会」の承認を拒否する。10月、北朝鮮共産党が臨時人民委員会を樹立。12月、モスクワ三国外相会議。最高5年間、朝鮮を信託統治することを決定。

 1946年9月、 朴正煕、陸軍士官学校の前身である国防警備隊士官学校(南朝鮮国防警備隊の幹部を育成するためにアメリカ軍政庁が設置した教育機関)に2期生として入学した。

 1946年10月、共産党が指導の下、大邱で230万人がアメリカ軍政に抗議する暴動事件(10・1暴動事件)が発生し、この事件で兄の朴相煕が共産党幹部として警察に殺害された。朴正煕も南朝鮮労働党(共産党)に入党し、軍内党細胞の指導者となる。同年12月、3ヶ月余りの速成教育を受け国防警備隊士官学校卒業。国防警備隊大尉に任官される。

 1947年2月、北朝鮮人民委員会樹立。

 1948年4.3日、済州島四・三事件が起こり、多数の済州島民が虐殺されるとともに日本に密入国する。5.10日、初代総選挙。7.17日、第一共和国憲法制定。8.15日、李承晩が大韓民国の建国を宣言。9.9日、北側で「朝鮮民主主義人民共和国」(以下、北朝鮮)が樹立宣言。10.19日、麗水・順天事件が起こり、多数の市民が虐殺されるとともに日本に密入国する。同年、朴正煕が粛軍運動で逮捕され、死刑を宣告された。

 1949年1.7日、対馬領有宣言。日本に返還を要求。4月、 朴正煕、軍法会議で執行免除の無期懲役、軍籍剥奪され、情報局嘱託となる。南朝鮮労働党の内部情報を提供したこと、北朝鮮に通じていることがアメリカ軍当局に評価されて釈放された。10.19日、共産党非合法化措置の断行。民主主義民族戦線傘下の南朝鮮労働党など133団体の登録を取り消し。12.1日、国家保安法を制定公布。12.24日、聞慶虐殺事件。

 1950年5.30日、第2代総選挙、反李承晩系の南北協商派と中道勢力が過半数を占める。6.25日、北朝鮮の朝鮮人民軍が北緯38度線南侵、朝鮮戦争勃発。朴正煕が韓国陸軍少佐戦闘情報課長を復命される。朝鮮戦争勃発とともに軍役に復帰し、更に戦闘情報課長から作戦教育局次長へと昇進した。この頃、陸英修と再婚する。夏以降、韓国史上最大規模の虐殺と云われる保導連盟事件発生。10月、中国共産党の義勇軍が戦闘に参加。

 1951年、 朴正煕、韓国陸軍本部作戦部次長。

 1952年、8.5日、大統領選挙。直接選挙制によって行なわれた選挙で李承晩大統領が2回目の当選を果たす。李承晩ライン宣言(参考:対馬、竹島問題)。

 1953年、朴正煕、韓国陸軍准将。7.27日、朝鮮戦争停戦。板門店で停戦協定が調印され、現在の軍事境界線が敷かれる。休戦後、アメリカの陸軍砲兵学校に留学した。韓国が竹島占拠。

 1955年7.14日、 朴正煕、第5師団長。囲碁の韓国棋院が設立される。1956年、韓国では第1期国手戦がスタートした。

 1957年、朴正煕、陸軍大学を卒業して第7師団長。

 1959年7.1日、朴正煕、第6管区司令官。韓国陸軍少将。

 1960年1.21日、朴正煕、釜山軍需基地司令部司令官。3.15日、大統領選挙(315不正選挙)。4.19日、不正選挙を糾弾する大学生等がソウルでデモ、デモは全国に拡大。警官隊の発砲で死者多数(4月革命)。4.27日、 李承晩退陣。7.29日、第5代総選挙、民主党が圧勝。8.12日、民議院・参議院の合同会議で民主党旧派の尹潽善が大統領に選出される。この時期は議院内閣制のため、実質的な権力は首相の張勉にあった。
12.15日、第2軍副司令官となった。

【朴政権篇】

(1961年)

【「5・16軍事クーデター」】
 1961.5.16日、 朴(少将、第2野戦軍副司令官)派が、張都暎(チャン・ドヨン)陸軍中将(当時)を議長に立てて「軍事革命委員会」を名乗り、軍事クーデターを起こした(「5・16軍事クーデター」)。クーデターに動員された人員は必ずしも多くはなく成功もおぼつかないはずだったが、軍首脳の懐柔により逸早く軍を掌握し軍事政権樹立を成功させた。「革命主体勢力」と自称し、反共親米、腐敗と旧悪の一掃、経済再建などを決起の旗印として軍事革命委員会を設置(議長・張都暎、副議長・朴正熙)、全国に非常戒厳令を公布した。決起に関する謀議は李承晩が退陣に追い込まれた四月革命の過程と同時進行だった。学生たちが南北朝鮮会談を開こうとする政治的騒乱の中、軍が突然、政治の舞台に踊り出たことは多くを驚かせた。

 当時、陸軍少将の階級にあり第2軍副司令官だった朴正煕は、陸軍士官学校第8期生を中心とするグループに推されてクーデターグループのリーダーになった。陸士8期生は解放後初めて韓国が自前で訓練した軍人たちであり、その中心人物が金鍾泌だった。なお、陸軍士官学校11期生には後に大統領になる全斗煥、盧泰愚が含まれている。これら軍人たちには地方の貧困層出身者が多く、彼らの信望を集めていたのが朴正煕であった。

 5.19日、軍事革命委員会を国家再建最高会議(最高会議)に改称。金融凍結、港湾・空港閉鎖、議会解散、政治活動禁止、前政権の張勉政権の閣僚逮捕等、鮮やかな手際で政権を奪取した。リーダーの朴正煕は「軍事革命委員会」を「国家再建最高会議」と改称して自ら国家再建最高会議議長に就任した。治安維持と経済改善のためとして国家再建非常措置法を施行した。

 5.18日、張勉内閣総辞職。6.10日、金鐘泌を部長として秘密諜報機関・韓国中央情報部 (KCIA) を発足させた。6.14日、不正蓄財処理法公布。7.2日、張都暎最高会議議長が失脚、後任議長には朴正熙最高会議副議長が就任。7.3日、軍事政権のトップに立った朴正熙が韓国中央情報部設立。7.4日、反共法公布。これらの権力奪取の過程で軍事独裁政治色を強めていった。これに抗議するデモが頻繁に起きるようになるが、武力で押さえ込んだ。また、腐敗政治家の排除・闇取引の摘発・治安向上を目的とした風俗店摘発なども行い、「ヤクザも敵わぬ朴将軍」と言われるようになる。


 
経済企画院を新設し計画的な経済開発をめざした。7.22日、五ヵ年総合経済計画案発表。8.12日、朴正熙最高会議議長、2年後の1963年夏に民政に政権を移譲することを発表。8.28日、「民族日報」の趙社長ら三人に死刑宣告。10.20日、第六次日韓会談開始(~64年4月)。その後、政権へのアメリカの支持を取り付けるために訪米することとなり、アメリカ大統領と釣り合う階級を与えるべきとの軍長老の進言に従い、大将に昇進した。
 11.11日、訪米(ケネディ会談)。11.12日、訪米しケネディ大統領との会談を実現した後の往路、日本に立ち寄り、池田勇人首相と会談、早急なる国交正常化で合意した。このとき一部日本語を使って会談したため、韓国内の反日勢力から批判を買うこととなった。

(1962年)

 1962.1.13日、第1次経済開発五ヵ年計画発表。1.20日、新商法公布。3.16日、政治活動浄化法公布。3.22日、尹大統領、政浄法に反対し大統領職を辞任。3.24日 大統領権限代行に就任。6.10日、 第2次通貨改革を実施、10対1で切り下げすると共に、通貨単位を「ファン」から「ウォン」に変更。11.5日、大権強化改憲案広告。11.11日、金鐘泌・大平メモ合意。12.2日、改憲案に対する国民投票を実施、8割近い賛成票で承認。12.26日、第三共和国憲法制定。

(1963年)

 1963.2.26日、 軍事クーデター勢力が中心となって、与党・民主共和党(総裁・朴正煕)を創党する。8月、軍を退役し民主共和党代表の文民として大統領選に出馬。前大統領の民政党の尹潽善との一騎打ちとなった。

 10.15日、民主共和党(共和党)の大統領候補である朴正熙が、軍事政権を嫌うケネディ政権の干渉があったものの、朴は470万票を獲得、15万6千票の僅差であったが勝利し、第五代韓国大統領に当選する。これより朴正煕大統領による開発独裁の時代がはじまる。11.26日、第6代総選挙、共和党が過半数を超える議席を獲得して勝利。12.16日、国家再建最高会議解散。12.17日、憲法発効、第6代国会の召集、朴正熙大統領の就任宣誓式挙行。第三共和国体制がスタートする。

(1964年)

 1964.6.3日、首都ソウルで、日韓会談に反対する大規模デモ、政権打倒のスローガンまで登場。政府はソウル一円に非常戒厳令を宣布(6・3事態)。8.2日、統制目的で言語倫理委員会法案を与党単独で深夜に可決。
【ベトナム派兵】
 10.31日、南ヴェトナムと派遣協定締結 。
 同年12月、朴正熙大統領夫妻は西ドイツ・ボンから車で一時間あまりのハムボルン鉱山を訪問し、この鉱山で働く鉱山夫として300人、看護婦として50人の韓国人を慰安した。彼らは、韓国内で100倍の競争を勝ち抜いて祖国代表として異郷の地に派遣されていた。彼らへの給料を担保として西独政府から巨額のマルク借款に成功している。

(1965年)

【「日韓基本条約」】

 1965.6.22日、激しい抵抗の中、日韓基本条約を結び、日本との国交を回復した。日本は、外貨準備が18億ドルにも拘わらず韓国に対し無償3億米ドル、有償2億米ドルの資金提供と民間融資3億米ドルの経済協力支援を行った。これが「漢江の奇跡」と云われる驚異的な韓国の経済成長に繋がる。但し、この条約が「日韓の国家間における賠償・歴史問題を全て帳消しにする」内容だったため、韓国内の反日派から「日韓基本条約は植民地支配を清算するものでなく、僅かばかりの金で国を売るものである」として反対闘争が始まった。その渦中、日本との条約締結が強行された。日本国内でも、条約に基づく巨額の資金提供は独裁政権を利するとして反対運動が起こり、大学生を中心に大々的な反対運動が展開されていた。8.14日、第一次人民革命党事件。

 12.18日、韓日協定批准書交換に際しての「大統領談話文」は次の通り。

 親愛なる国民の皆さん! 今日ソウルでは,韓日両国の全権代表の間で韓日協定批准書が正式に交換されました。14年という長い歳月にわたり、その処理過程において,相当の陣痛を経ねばならなかったこの問題がとうとう解決され,ここに両国間に批准書が交換されることに至ったことで,私はいくつかの所信を明らかにし,国民の皆さんの協調を得ようと思います。

 国家と国家との間の関係も,個人と個人との間の関係と全く同じく,利害関係によって互いに離合集散するのが歴史における一つの鉄則だともいえます。時代の大勢と国際情勢の変動は,当事国の望むと望まないとに拘わらず,国家と国家との間に驚くべき変化をもたらしているのであります。昨日の友邦が今日の敵国になるかと思えば,昨日の敵国が今日の盟邦になったりします。もっとも最近の例をとりましても,鉄の団結を誇っていたソ連と中共は互いに憎悪し,舌戦を戦わす対立国家になりつつあるし,長い間仇敵関係にあったフランスと西独は切っても切れない友邦へと結ばれており,相互の利益のためにお互いに協調していっております。

 かつて36年間のわが国と日本との関係についていうならば,それは明らかに仇敵関係だったといえます。しかしそれは,あくまでも過去であります。それはわれわれの現在でもなければ,また未来がそうでないであろうことはあらためていう必要さえないことであります。今日,国際的連関を離れたわれわれだけの独存とか繁栄はあり得ないことであります。

 とくに好戦的な中共の使嗾を受けて,いつ再侵してくるかも知れない北傀と対峙しているわれわれの場合,一国でもより多くを友邦とし,相互協力関係を結んで,そうした国際協力の基調の上から祖国の近代化と自立経済建設に拍車を加えて,われわれの力で国土を統一することができる自主的力量を育てねばならないことは,一つの歴史的当為だといっても過言ではありません。

 親愛なる自由世界の市民,とくに日本市民の皆さん!今日韓日協定の批准書が交換されたことに際して,韓国民は自由世界の大義とアジア反共態勢の整備のために,万難を排してこれを受け入れることを私は闡明にしようと思います。しかし,韓国のこうした決断が真に自由世界のためのものであり,極東反共態勢の強化のためになるためには,今やその鍵は日本国政府と国民の友好に満ちた善隣意識に立脚した韓日両国相互協力体制と反共態勢の強化にあるといわざるを得ません。私は,日本国政府と国民のこうした国際的信義を信じるとともに,また自由世界の友情にあふれる協調が継続されることを確信しないわけにはいきません。

 親愛なる自由世界市民の皆さん,韓国と日本は今や新しいアジアの歴史を創造する一歩を歩み出しました。侵略ではなく協力が,また一方的なもので相互利益が,そして結局は一つになろうとしている世界の中で,まずわれわれだけでも互いに信じ,助け合いながら純粋な友邦として新しいアジアの歴史を創造しようとするものです。私は韓日両国のこうした新しい出発に,自由世界の緊密な協調のあることを期待してやみません。

 次に私は,在日僑胞に対して,一言お願いをしようかと思います。親愛なる在日僑胞の皆さん!現在60万人以上と推算されている在日同胞のこれまでの苦労がどれくらいつらかったことかを,私は誰よりもよく知っています。在日僑胞のその苦労の原因をたどってみると,ひとえにそれは本国政府の責任となる他ありません。したがって,これまでに在日僑胞の一部が共産主義者の使嗾に駆り立てられその系列に加担するようになったのも,実は大部分本国政府が在日同胞をより暖く,より徹底して保護できなかった責任であるといえます。これより本国政府は皆さまの安全と自由について,より積極的に努力して可能な最大限に皆様の生活を保護するつもりであります。これとあわせて私は,一時的な過誤で朝鮮総連系に加担した同胞たちの一切の前過を不問に付して,本国政府の保護下に立ち戻ることを希望します。政府は最大限に彼らを暖く迎え,一つの血筋を引いた同胞として,韓国民として保護するでありましょう。そうして私は,日本の空の下で韓国同胞たちが再び分裂して相剋することなく,暖い同胞愛の紐帯の中で互いに和睦して親近となり,また幸福な生活を営なむことを希望してやみません。

 これとともに私は,これまで分別なく故国をすてて日本に密入国しようとして抑留され,祖国のあるべき国民になれなかった同胞に対しても,この機会に新しい韓国民として前非を問わないことをあわせて明らかにしておこうと思います。再びこうした分別のない同胞がいなくなることを希望しながら,今日からわれわれは新しい気持と新しい心構えで,栄えあるわが祖国を建設する働き手とならんことを,訴えてやみません。

 親愛なる国民の皆さん!われわれは今,新しい民族史の門出に立っています。この新しい民族史は外には互恵平等の位置から胸襟をひらいて世界の舞台に進出し,民族の栄光を占め,内にはわれわれの至上課題である祖国の近代化作業を一日も早く成就することにより,自立と繁栄に浴することができる統一された福祉国家を建設するものでなければなりません。国民の皆さん!われわれは発展する民族としての矜持と自信と勇気をもって,明日の栄光のために一致団結して前進しましょう。

 1965年12月18日 大統領 朴 正 煕

【「ベトナム戦争への派兵」】
 1965.5.16日、訪米。5.18日、朴・ジョンソン共同声明(ベトナム支援強化)。アメリカの要請に応じてベトナム戦争への派兵を決定し、2個師団プラス1個旅団の延べ31万名、最盛期には5万名の韓国軍をを派兵した。この時、韓国軍は30万人を超すベトナム人を虐殺したとも言われている。派兵された韓国軍部隊が現地でベトコンと見なした一般市民を女性や子供も含めて虐殺する事件やベトナムの女性を強姦する事件、その他数々の蛮行を起こした。生存者の韓国軍の行為に関する証言で共通な点は、無差別機銃掃射や大量殺戮、女性に対する強姦殺害、家屋への放火などが挙げられている。また強姦により韓越混血児ライタイハンが数万人が生まれたことが確認されている(ライタイハンを参照)。ベトナムでは村ごとに『タイハンの残虐行為を忘れまい』と碑を建てて残虐行為を忘れまいと誓い合っているという。韓洪九は自著「韓洪九の韓国現代史」(元はハンギョレ新聞連載コラム)でベトナム戦争の植民地解放運動への圧迫としての面を重視し、日本による侵略に苦しんだ韓国の近現代史と重ねながら、朴大統領のベトナム戦争参戦を批判している。

 アメリカは見返りとして、韓国が導入した外資40億ドルの半分である20億ドルを直接負担し、その他の負担分も斡旋した。また、戦争に関わった韓国軍人、技術者、建設者、用役軍納などの貿易外特需(7億4000万ドル)や軍事援助(1960年代後半の5年間で17億ドル)などによって韓国は高度成長を果たして行くことになる。
 6.21日、13大学、58高校に休校令 非常警戒令(条約締結を目前に) 。6.22日、日韓基本条約(東京、椎名悦三郎・高杉晋一 李東元・金東祚)。8.12日、民衆党61議員、日韓条約反対で辞表。8.14日、与党単独で日韓条約批准、学生デモ再燃 。12.18日、日韓国交正常化する。この年、人民革命党事件(第一次)が発生。

(1966年)

 1966.1.25日、野党色の濃い京郷新聞社公売処分。3.24日、日韓貿易協定。3.20日、新韓国党創党、総裁尹前大統領。6.8日、「統一問題は70年に入ってから」と見解表明 。6.14日、ASPAC(アジア太平洋地域閣僚会議)ソウルで初会議 。7.29日、第2次経済開発五カ年計画議決 。9.8日、日韓経済閣僚懇談会。10.24日、べトナム参戦7カ国首脳会議(於マニラ)に主席。11.3日、アジア民族反共連盟総会開幕。

(1967年)

 1967.4.14日、在韓日本商社にオファー商の登録許可。5.3日、第六代大統領選挙で共和党の朴正熙候補が新民党の尹潽善を抑えて2度目の当選を果たし第6代大統領に就任する。7.8日、東伯林(東ベルリン)留学生スパイ事件。8.9日、第1回日韓定期閣僚会議。
【朴政権の自律化始まる】
 ベトナム戦争でアメリカ軍の敗色が濃厚となるに従い、ナショナリスト的な立場から次第にアメリカから離れていった。国防の面では、中華人民共和国の核兵器開発に対抗して、密かに核・ミサイル開発に着手してアメリカと衝突して中止するなど、ハリネズミのごとく武装する「小強国」ビジョンに基づく独自の自主国防計画を推進することになる。

(1968年)

 1968.1.1日、不動産投機抑制税法。
【「青瓦台襲撃未遂事件」】
 1968.1.21日、北朝鮮のゲリラ部隊の31名に大統領官邸を襲撃される(青瓦台襲撃未遂事件)が発生する。
 1.22日、スパイ対策本部設置。2.12日、フォンニィ・フォンニャットの虐殺。2.13日、日韓経済人懇談会。4月、1月に発生した青瓦台襲撃未遂事件を教訓に郷土予備軍が創設される。
【「ハングル専用化を決定」】
 12.6日、70年からのハングル専用化を決定する。朝鮮語から漢字の使用を禁じ、以後ハングル文字だけで表記されるようになった。当時のライバルであった金日成が政権就任当時から漢字を禁じていたためにこれに倣ったという説もある。漢字の廃止は現在でも賛否両論が続いている。
 12.21日、大韓民国初の高速道路として京釜高速道路漢南IC-水原IC (22.4km)が 開通する。

(1969年)

 1969.1.7日、尹致暎共和党議長代理が記者会見で、大統領の3選出馬を可能とする為の憲法改正、所謂「3選改憲」を検討することを表明した。これは、1962年の国家再建最高会議によって策定され、国民投票で承認された所謂「第3共和国憲法」では、大統領の任期が4年(第69条1項)で再選に関しては「1回に限って容認される」(第69条3項)と規定していた為、1967.4月の大統領選挙で再選を果たした朴正煕大統領の任期が1971.4月末に満了するのを防ぐ為に、朴正煕の3選可能化の為に憲法改正をすると云う狙いがあった。同日、野党新民党の金泳三院内総務は「いかなる改憲にも反対する」する旨の声明を発表。

 1.27日、第1回日韓民間合同経済委員会。3.1日、国土統一院設置。4.7日、権五柄文教部長官に対する野党提出の不信任案が、与党共和党の一部議員の造反で可決(4・8坑命事件)。現職閣僚の不信任動議が可決されたのは史上2番目。この事態に激怒した朴大統領は、党規委員会に首謀者を特定して厳しく処罰する事を命じ、4.15日、楊淳稙を初めとする5名の金鍾泌系議員を除名処分とした。また7.12日、党規委員会で党中央委員11名、地区党副委員長4名を含めた96名を除名し、共和党内における批判勢力を一掃した。

 7.25日、朴正熙大統領が大統領3選改憲に関する最終決定をし、3選出馬の意志を表明(7・25談話)。7.29日、共和党が議員総会を開き、翌30日、改憲発議決議案を満場一致で採択した。改憲案は国会議員122名の署名を得て国会に提出された。9.14日、三選改憲案を国会別館で変則強行可決。10.17日、改憲国民投票(賛成755万、反対363万)。10.21日、改正憲法公布。

 12.10日、大韓航空機YS-11ハイジャック事件。

(1970年)

 1970.3.31日、日本赤軍ハイジャック機、ソウルの金浦空港着。4.22日、セマウル運動を開始する。スローガンは自立、勤勉、共同。このスローガンの下、道路の改修、屋根の改良、倉庫の建設、等が農家の共同作業で行われた。この運動は都市に波及し、生産性向上運動と結びつき、産業の発展に貢献した。6.2日、 「五賊」筆禍事件、金芝河ら拘束。7.1日、郵便番号制実施。7.7日、京釜高速道路大田IC-東大邱IC開通。これをもって京釜高速道路全線(428キロ)開通。
【「南北平和統一の動き」】
 8.15日、 朴正熙大統領、光復節の演説で初めて北朝鮮政権の存在を認める。同時に北朝鮮の対韓武力行使と戦争挑発行為の即時放棄を前提に、南北間の人為的障害を除去する方策を採る用意があることを表明(8・15宣言)。
 9.29日、新民党、翌年の大統領選挙における同党候補として金大中候補を選出。12.24日、非敵性共産国との交易緩和の貿易取引法を国会通過させる。12.30日、 湖南高速道路懐徳JCT-全州IC開通。

(1971年)

 1971.1.27日、金大中宅で爆発事件 。1.29日、第3次経済開発五カ年計画発表 。3.19日、釜山広域市古里で国内初の原子力発電所起工。4.27日、大統領選挙。朴正煕は、野党・新民党の大統領候補・金大中を破り大統領3選を果たしたものの、金大中候補に95万票余りの差にまで攻め寄られた。第7代大統領に就任する。

 5.25日、第8代総選挙で野党新民党が89議席を獲得し躍進。6.2日、金大中から民主的改革の要望を受ける。10.15日、デモの激化に対し9項目の特別命令(衛戌令を発令)。12.6日、朴正熙大統領、「北朝鮮による南侵の脅威」を理由として「国家非常事態宣言」を布告。12.22日、与党共和党は大統領に非常大権を与えることを内容とした「国家安全保障に関する特別措置法」を国会に提出、単独で強行成立させた。12.27日、大統領に非常大権を与える特別措置法公布。その一方でデタントの流れを受ける形で北朝鮮政府との秘密裏の接触を初めた。

(1972年)

 1972.2.17日、ニクソン米大統領訪中。5.2日、KCIA(韓国中央情報部)部長・李厚洛がピョンヤンを極秘に訪問して北朝鮮の首相である金日成と実弟のナンバー・スリーの金英柱と会談を行い、7.4日、自主的な民族統一をうたった南北平和統一に関する共同声明を発表する。北朝鮮の金日成首相は、決死の覚悟で単身ピョンヤンに乗り込んだ李厚洛の態度に驚き、「わがほうにこのような勇者はいない」と羨ましがったという話が伝えられている(朝日新聞72.12.12日)。李厚洛は北朝鮮との交渉を成功させ、7.4日、南北平和統一に関する共同声明の発表。8.30日、平壌で第一回南北赤十字会談開催。この業績は、1970年代初頭の韓国において朴大統領に次ぐナンバー2と見られていた尹必鏞将軍に高く評価され、尹必鏞と李厚洛という朴政権の後継者の連携ができあがった。
 8.3日、業私債凍結宣言(8・3措置)。10.12日、南北調整委、板門店で初会談。
【「十月維新」】
 1972.10.17日、非常戒厳令を発する(十月維新)。憲法の一部条項の効力を停止、国会の解散、政治活動の禁止等を宣布した。戒厳令司令部の布告によって大学は休校、新聞や放送などマスメディアには事前検閲が敷かれた。10.18日、金大中、東京で抗議声明 。10.27日、大統領の任期6年と重任制限の撤廃を旨とする憲法改正案を公告した。11.21日、維新憲法案、国民投票で成立。(維新独裁体制)。12.15日、第1回統一主体国民会議代議員選挙。立候補資格が厳しく、当選者はほぼ政権支持派で固められた。12.23日、統一主体国民会議が開かれ朴正煕が第8代大統領に選出される。第四共和国体制が出帆する。12.27日、維新憲法公布。維新体制へ。朴政権は次第に独裁色を強め中央情報部による強権的な反政府運動弾圧をも行った。反政府勢力に対する弾圧は執政期全般を通して苛烈を極めた。共産主義者ないし北朝鮮のスパイ摘発に名を借りた不法な拷問・冤罪事件は枚挙に暇がない。自分を脅かす者は政敵ばかりか与党の有力者であっても退け、独裁体制を維持し続けていた。
 11.13日、金大中、反朴活動のため渡米 。

(1973年)

【「尹必鏞将軍失脚」】
 1973.2.27日、第9代総選挙。3.3日、韓国放送公社(KBS)発足。3.10日、維新政友会創立。4月、朴政権のナンバー2に位置する将軍として、朴長期独裁の基盤をつくった実力者の尹必鏞将軍が突然、反逆罪で逮捕されて軍事裁判にかけられるという事件が起こり韓国国民を驚愕させた。4.28日、普通軍法会議は、首都警備司令官・尹必鏞をはじめとする高級将校11名に、横領・収賄・職権乱用・軍務離脱罪を適用して、懲役15年から2年の刑を宣告した。それに付随して、尹必鏞将軍配下の31名が退役させられて、尹派が軍から一掃された。尹必鏞将軍は、1961.5月の朴正熙の軍事革命に中領として参加した陸士8期組の1人であり、70年以降は首都警備司令官をつとめており、72.10月の「維新革命」では、ソウル地区の戒厳司令官になった。
 6.23日、南北国連同時加盟を提案。金日成北朝鮮国家主席が「高麗民主連邦共和国」施政方針提唱。
【「金大中拉致事件」】
 1973.8.8日、1971年春の韓国大統領選挙において540万票を集め、現職の朴大統領を僅か94万票の得票差にまで追い詰めた韓国野党の第1人者政治家キム・デジュン(金大中)氏が、白昼(午後1時半ごろ)東京・飯田橋九段下のホテルグランドパレス)から拉致されるという事件が発生した。これを「金大中事件」と云う。部屋には北朝鮮のタバコとバッジが置かれてあり、北朝鮮の仕業に見せかけられていた。当初は金大中氏の生存を悲観視する見方が多かった。しかし、意外なことに若干の傷を負いつつも、事件から5日後の8.13日夜、本人が無事にソウルの自宅に現れた。
【「李厚洛失脚」】
 同年10月、 李厚洛が金大中事件によりKCIA部長を解任される。
【「戒厳令」】
 1973.10月、ソウル大学文・理系大生の維新反対デモをきっかけとし、全国的に反独裁・反体制運動が波及・拡散していった。。10.17日、北朝鮮の侵略の危険性に対して全国に戒厳令を宣布。10.27日、非常国防会議を開き、憲法改正案を議決した(「維新改憲」)。11.23日、維新憲法による初の統一主体国民会議を開催し、第8代朴大統領を終身制として正式に決定した。11.30日、南北調節委員会が正式に発足した。12.24日、張俊河、白基琓(백기완)など在野人士30名余りを中心に改憲100万人署名運動開始。

(1974年)

 1974.1月、李熙昇など文人61名の改憲署名支持宣言などが起こり、知識人、宗教人、野党人士達が民主憲政回復と民主共和党政府の人権弾圧を糾弾する本格的な改憲署名運動を行なった。1.8日、改憲論議禁止令。非常軍法会議設置。しかし、緊急措置公布後も、学生達による地下新聞の發行や同盟による休学といった地下活動、及びに知識人・宗教界による時局宣言文の採択などにより、秘密改憲署名運動は継続され続けた。1.9日、「緊急措置」発動。4.3日、民青学連事件。
【「民青学連事件」】
 1974.4.3日、大韓民国維新政権が「緊急措置4号」を宣布し、民青学連と関連する集団行動などの活動を一切禁止するとともに、民青学連が「不順勢力」(韓国の国家秩序に順じない勢力)の操縦を受けていると発表した。4.25日、全国民主青年学生総連盟(略称:民青学連)の構成員を中心とする180名が、韓国中央情報部(KCIA)によって拘束され、非常軍法会議に起訴された。KCIAの発表によれば、民青学連の主動者達は、「4段階革命」を通じて労働者・農民による政府を韓国に打ち立てることを目標とし、過渡期的な統治機構として「民族指導部」を結成する計画を立てていた、とされる。また、KCIAは同時に、韓国政府を転覆しようと考えていた民青学連が、反政府運動の背後で朝鮮総連、人民革命党(人革党)関係者及びに日本共産党と結託していたとも主張した。これを「民青学連事件」と云う。

 最終的に、この事件に関連する学生を含め、総計1024名が調査を受け、その中の180名が軍法会議に起訴された。なお、KCIAによる一連の関係者摘発行為のうち、特に人革党関係者23名の摘発については人革党再建委員会事件としても知られている。民青学連関連者に対する初公判は1974.6.5日に開始され、李哲、金芝河らは死刑が一旦宣告された後、無期懲役へと減刑された。しかし、人革党関係者は23名中8名が死刑に処され、民青学連の主謀者級関係者は無期懲役、他の被疑者達も懲役15~20年の重刑に処された。また、尹潽善前大統領、池学淳主教、朴炯圭牧師、金東吉教授、金燦國教授なども民青学連の背後支援の嫌疑で全員が有罪判決を受け、同事件を取材していて逮捕されたジャーナリストの太刀川正樹ともう一人の日本人も内乱扇動罪などで懲役20年の重刑に処された。日本人関係者の逮捕・裁判は一時日韓両国の外交問題となったが、最終的には1975.2.15日の大統領特別措置により、人革党関連者など一部を除外した大部分の刑執行が停止され釈放された。2004.11.2日、韓国国家情報院の「過去の事件の真実究明を通じた発展委員会」(呉忠一委員長)が真相究明の調査を開始し、2005.12.7日、「民青学連事件はKCIAによる捏造であった」とする調査結果を発表した。 2010.1.27日、太刀川正樹に対する同事件の再審公判がソウル中央地方裁判所で行われ、裁判所は無罪判決を言い渡した。

【「文世光事件」】
 1974.8.15日、日本植民地統治から解放されたことを記念する光復節の祝賀行儀に参加していたところ、在日韓国人・文世光に銃撃を受け、朴正煕自身は無事だったものの、夫人の陸英修が頭部を撃たれて死亡した(文世光事件、陸英修大統領夫人暗殺)。この際に用いられた拳銃が、文世光が日本で警察官を襲撃し強奪したものであったことや、事件に関与したと見られる朝鮮総連を、自由民主党の一部や日本社会党などから圧力を受けた日本政府及び警察側が擁護し続けたこともあり、日韓両国の政治問題へと発展した。さらに最末期には、核開発などでしばしばアメリカと対立していたとも漏れ伝わっている。
【「朴鐘圭失脚」】
 尹将軍、李厚洛に続いて、朴政権を支える四天王ともいうべき警備室長の朴鐘圭も、1974.8月の文世光事件の責任をとって抹殺された。
  8.15日、ソウル市地下鉄開通(ソウル駅~清凉里駅、現・ソウルメトロ1号線)。8.19日、陸英修の国民葬。日本からは田中角栄総理が参列。8.23日、新民党、臨時党大会を開催。新総裁に金泳三を選出。9.6日、反日デモ隊、日本大使館に乱入 。10.24日、東亜日報の記者約180名が社内で集会を開き、「自由言論実践宣言」を採択。東亜放送、韓国日報、朝鮮日報、中央日報でも記者らによる集会が行われ、言論の自由を求める決議を採択した。11.15日、国連軍司令部、北のトンネル工作を発表。11.22日、フォード大統領が訪韓、朴正熙大統領と会談し、共同声明を発表。翌23日に離韓。11.27日、民主回復国民会議発足。

(1975年)

 1975.2.12日、維新憲法の是非を問う国民投票実施(→大韓民国の国民投票 (1975年))。維新体制支持が多数を占めた。3.17日、東亜日報、12日より言論の自由や解職記者の復職を求めて新聞製作を拒否し籠城していた同紙記者ら約150名を強制排除、新聞発行を正常化。5.13日、大統領緊急措置第9号布告、反政府活動全面禁止の体制批判厳禁令。7.9日、4大戦時立法案可決。9.1日、新国会議事堂竣工。9.22日、民防衛隊発足式。
【「学園浸透スパイ団事件」】
 1975.11.22日、「学園浸透スパイ団事件」。日本でも大きく報道された。国内でのマスコミへの言論弾圧も自由主義国家としては極めて異例なほどに行い映画のセリフひとつまで国の検閲が及び、海外の新聞、特に朴に批判的であった日本の朝日新聞、読売新聞の韓国への輸入が禁じられるほどであった。
【「金鐘泌失脚」】
 1975.12月、初代KCIA部長で首相の大物政治家・金鐘泌が解任されている。こうして、朴大統領の維新体制側近派が1975年までにすべて抹殺された。尹将軍は、1975.2月、刑の執行停止。1980年春、全、慮政権下で復権、道路公社社長、たばこ人参公社理事長。

(1976年)

 1976.2.4日、米国上院外交委員会の多国籍企業小委員会(民主党のチャーチ上院議員を長とする「通称チャーチ委員会」)が開かれ、いわゆるロッキード事件が勃発する。3.1日、在野指導者、民主救国宣言を発表。民主救国宣言をした金大中らを逮捕。7.27日、日本の田中角栄前首相がロッキード事件に伴う容疑で逮捕される。8.18日、板門店ポプラ事件(北朝鮮軍、米兵2名殺害)。10.11日、全羅南道新安沖沈没船発見。10.15日、対米不正工作事件(※ 朴東宣事件)を米紙が暴露。

(1977年)

 1977.1.27日、ロッキード事件丸紅ルート初公判が始まった。以降、田中角栄が公判に括られ政治的影響力を大きく殺がれることになる。3.10日、 ジミー・カーター米大統領、在韓米軍の撤退発表。6.19日、原子力発電所1号機点火。11.14日、裡里駅でダイナマイトを満載した貨物列車が爆発(裡里駅爆発事故)。

(1978年)

第9代大統領に選出される】

 1978年、2.24日、尹潽善ら在野指導者、第2の「民主救国宣言」を発表。4.20日、大韓航空機銃撃事件

 いわゆる維新体制第1期(72年~78年)の最後の年に当り、5.18日、統一主体国民会議代議員選挙。7.6日、統一主体国民会議が朴正熙を大統領に選出、第9代大統領に就任する。11.7日、米韓連合司令部発足。12.2日、第10代総選挙、野党新民党が得票率で与党共和党を上回る。維新体制の継続が確定し、朴正煕大統領が更に6年間政権を担当することとなった。この間学生デモを含め若干の反政府運動の動きはみられたものの、政府が国民総和を目指す諸政策の運用に意を用い、経済面でも種々の問題をかかえつつも成長路線を継続し得たこともあつて政情は安定した状況で推移した。12.22日、政府、76年3月の民主救国宣言で逮捕拘束されていた金大中の刑執行停止と釈放、金芝河の懲役20年への減刑を発表。12.27日、第9代大統領に就任、金大中が恩赦で釈放 。


(1979年)

 1.19日、北朝鮮に平和統一のための話し合いを呼びかけ。2.10日、カーター米大統領、在韓米軍撤退中止を発表。2.11日、アメリカ(大統領はカーター)が緊急措置を人権侵害だとして批判。2.17日 南北対話再開 。5.30日、対政府強硬派の金泳三が新民党総裁に選出される。6.11日、金泳三、ソウル特派員クラブで独裁政権を非難。6.29日、カーター米大統領来韓。7.23日、金泳三、維新憲法改正と緊急措置の撤廃を要求。8.11日、警察機動隊が新民党本部に籠城していたYH貿易の女子工員150名余りを強制排除。その際に女子工員や党職員と殴り合いになり、女子工員一名が死亡(YH事件)。新民党は強制排除に対し、強く抗議。 9.11日、金大中、金泳三会談。10.4日、与党、変則的本会議で金泳三を除名。10.16日、ソウルと釜山で維新憲法撤廃を求める学生デモ、市民にまで拡大(釜馬民主抗争) 。

【「10.26朴正煕暗殺事件」】
 1979.10.26日、 釜山・馬山で大規模な民主化デモ(釜馬民主抗争)が起こり、ソウル市鍾路区宮井洞(クンジョンドン)にある中央情報部所有の秘密宴会場「安家」で歌手やモデルなどの部外者も出席の上での会食中、側近の韓国中央情報部(KCIA、現在の国家情報院)の金載圭部長(当時、後に死刑執行)に射殺された(10.26朴正煕暗殺事件)(亨年61歳)。4期17年の朴政権政治が終わった。金載圭の犯行が明らかになると、緊急国務会議で逮捕令が出され、27日午前0時40分に大統領殺害犯として国軍保安指令部により逮捕された。その直後に全国に非常戒厳令が敷かれ、鄭昇和参謀総長が戒厳司令官に就任した。捜査は戒厳司令部合同捜査本部長に就任した国軍保安司令官・全斗煥陸軍少将によって進められ、金載圭とその部下らにはのちに死刑が宣告された。

 国葬が執り行われ、遺体は国立墓地顕忠院に葬られている。なお、朴正煕は1985年には自ら下野すると側近に話していたという。

 朴正煕暗殺の顛末は次のように伝えられている。「2012.8.23日現在のウィキペディア朴正煕暗殺事件」を参照する。

 「大韓民国中央情報部(KCIA)部長・金載圭は朴大統領の古い友人だったが、「学生運動の弾圧が生ぬるい」としてしばしば叱責され、ライバル関係にある車智澈・大統領府警護室長からも攻撃を受けていた。このため、金載圭は両人の殺害を計画するようになった」。
 (ぼそぼそ)これによれば、金載圭は事前に殺害計画を練っていたことになる。
 「事件当日、朴大統領が金載圭に対して、反政府学生らが釜山のアメリカ文化館を占拠した事件についての責任を追及した。車智澈室長も追従して批判を加えた」。
 (ぼそぼそ)これは、事件のお膳立てであり、、金載圭の朴大統領暗殺計画が事前に進行していたのなら意味がない付けたしでしかない。
 「金載圭は晩餐会場から中座して直属部下の朴興柱と朴善浩を呼び、銃声が聞こえたら控え室の大統領府警護員(車智澈の部下)を射殺するよう指示した」。
 (ぼそぼそ)これによれば、金載圭と直属部下の朴興柱と朴善浩が暗殺団になる。
 「晩餐会場に戻ると、金載圭は車智澈と朴正煕にそれぞれ1発ずつ拳銃を発射した」。
 (ぼそぼそ)これによると、金載圭が車智澈と朴正煕を射殺したことになる。
 「しかし金載圭の拳銃が故障し、また銃声を電機のショートと勘違いした職員によってブレーカーが落とされたため、室内の電気が消えた」。
 (ぼそぼそ)おかしな話である。「銃声を電機のショートと勘違いした職員によってブレーカーが落とされたため、室内の電気が消えた」なる話がこじつけであることはすぐに分かる。要するに大統領防衛隊と暗殺隊の乱戦になり、どちらが措置したのかは分からないが消灯され真っ暗闇になったと云うことである。これは事実なのだろう。
 「金載圭は晩餐会場を一度出て、銃声とともに警護員らを射殺した朴善浩から拳銃を借りると再び晩餐会場に戻り、車智澈と朴正煕にとどめとして1発ずつ銃撃した」。
 (ぼそぼそ)これによると、最初の銃撃では車智澈と朴正煕は致命傷にならず応戦していたことになる。ここで改めて射殺されたことになる。この時点で、朴善浩によりとされているが要するに鄭仁炯・大統領府警護処長、安載松・大統領府警護副処長が射殺されている。他に金容太・警護員、金容燮・警護員も死亡させられている。朴相範・警護員は重傷。

 「このとき晩餐会場には、他に大統領府秘書室長・金桂元やホステス2名(有名歌手の沈守峰と女子大生の申才順)も同席していたが、難を逃れた」。

 (ぼそぼそ)ならば、生き証人として詳細な証言を得るべきであろう。どのように陳述しているのだろうか。
 「またこの日の宮井洞は、金載圭の招待によって陸軍参謀総長の鄭昇和大将が大統領一行とは別に訪れていた。しかし、大統領の接待をしなくてはならなかった金載圭は、部下である中央情報部第二次長補の金正燮に、宴会場とは別の部屋で鄭昇和の相手をさせていた」。
 (ぼそぼそ)要するに、大統領チームは用意周到に二手に分離されていたと云うことになる。
 「間もなく金載圭は、自分が射殺犯であることを隠して鄭昇和のもとを訪れ、鄭や朴興柱らを伴って現場を離れたが、自らの牙城である情報部庁舎ではなく陸軍本部に向かい、参謀総長である鄭昇和に戒厳令の布告を迫った」。
 (ぼそぼそ)鄭昇和大将が、どのような経緯と経路で陸軍本部に帰っていたのか分からないが、要するに、金載圭が参謀総長である鄭昇和に戒厳令の布告を迫ったと云うことであろう。
 「しかし、軍上層部にそれほどのパイプもない金載圭の説得は無為に終わる」。
 (ぼそぼそ)ここも変な話であるが、とにかく金載圭の説得は失敗したと云うことになる。
 「その後、金桂元秘書室長の証言によって金載圭の犯行が明らかになると、緊急国務会議で逮捕令が出され、27日午前0時40分に大統領殺害犯として国軍保安指令部により逮捕された。その直後に全国に非常戒厳令が敷かれ、鄭昇和参謀総長が戒厳司令官に就任した」。
 (ぼそぼそ)そういうことのようである。
 「捜査は戒厳司令部合同捜査本部長に就任した国軍保安司令官・全斗煥陸軍少将によって進められ、金載圭とその部下らにはのちに死刑が宣告された」。
 (ぼそぼそ)そういうことのようである。
 「朴正煕の死によって大統領権限代行となった崔圭夏国務総理は事件の一報を耳にしたとき、「金日成がこの事を知ったらどうなることか」と涙ながらに語ったという」
 (ぼそぼそ)ここは意味のない付けたしだろう。
 「訃報は、北朝鮮との対峙を続けている韓国では国防的見地からすぐに報じられず、その結果アメリカでの報道が韓国に先行したため、アメリカに友人・知人がいる韓国人は、いち早く大統領の死を知った」。
 (ぼそぼそ)要するに、アメリカの方は逸早く正確に事の顛末を知っていたと解するべきだろう。これを地獄耳と云う。何でかなぁ。
 「この事件により、朴政権の3大中枢機関のうち、中央情報部はトップが大統領殺害犯となったことから、また警護室は室長が殺害されたことからそれぞれ影響力を失い、唯一残った国軍保安司令部の司令官兼合同捜査本部長・全斗煥と、陸軍トップの参謀総長兼戒厳司令官・鄭昇和が実権を掌握した。しかし、鄭昇和は事件当時現場に居ながら事実確認をしなかったことが弱みとなって大統領殺害の共犯容疑をかけられ、全斗煥によって逮捕されてしまう(粛軍クーデターの始まり)。軍部に疎く非常事態の収拾能力を持たなかった大統領権限代行の崔圭夏は、翌1980年にかけて全斗煥になし崩し的に実権を奪われ、第四共和国体制の終焉、第五共和国体制の成立へと繋がっていった」。

 30名を越える大弁護団が結成され、ロサンゼルスや国内の大学で助命運動が起こった。 処刑後は、当局により墓碑の建立も禁じられた。

  • 金載圭…韓国中央情報部長。主犯。絞首刑。
  • 朴善浩…中央情報部儀典課長。共犯。絞首刑。
  • 朴興柱…中央情報部部長随行秘書官。陸軍大領(大佐)。共犯。銃殺刑。
  • 金泰元…中央情報部食堂警備員。共犯。絞首刑。
  • 李基柱…中央情報部食堂警備員。共犯。絞首刑。
  • 柳成玉…中央情報部食堂運転士。共犯。絞首刑。

 1980年3月6日に銃殺刑が執行された朴興柱を除き、同年5月24日に執行された。他に、共犯容疑をかけられた人物として、金桂元(大統領府秘書室長。終身刑を宣告されたが、82年に刑執行停止で釈放、88年2月に特別赦免・復権で刑執行が免除されて公民権を回復した)、鄭昇和(大韓民国陸軍参謀総長)、金正燮(韓国中央情報部第二次長補)。

 (ぼそぼそ) 始末されたこれらの暗殺団、容疑者の事件調書は存在するのか。どう語っているのだろうか。肝腎のこの辺りが明らかにされていない。


【朴政権の経済政策】
 朴政権の内政は「開発独裁」と云われている。軍備増強よりも経済基盤の建設を優先し、軍人としては珍しい経済マインドを持つ人物であった。クーデター直後、最初に着手したのは農村における高利債整理法(一種の徳政令)であった。大統領に就任すると、戦後日本の経済成長を模範とした経済政策を布いた。国家主導で産業育成を図るべく、経済開発院を設立した事を皮切りに、財閥や国策企業を通じて、ベトナム戦争により得たカネとモノを重工業に重点的に投入した。これによって建設された代表的施設に、八幡製鐵所をモデルとした浦項製鉄所がある。又、「日本の経済急成長の秘密は石油化学にある」として、石油化学工場建設を急がせた。農業政策においてはセマウル運動を展開し農村の近代化を果たした。また、高速道路の建設にも力を入れた。1962年から数次にわたる5ヶ年計画方式をの開発計画を導入している。西ドイツへ炭鉱労働者と看護婦を派遣し、その給与を担保に借款を受けたことに始まり、日韓基本条約の締結により得た資金を不足していたインフラの整備に充てた。結果的に、その後の韓国の経済成長の基盤作りに成功した。

 この結果、1961年に国民1人あたりの所得が一月あたりわずか僅か80ドルでしかなかった世界最貧国圏から、1979年には1620ドルになるといったように、30年弱で国民所得を約20倍にまで跳ね上げるという「漢江の奇跡」を成し遂げた。韓国と北朝鮮の国力は朴正煕時代に逆転した。
(私論.私見) 朴政権の経済政策考
 朴政権の「開発独裁」と呼ばれる経済政策を、満州国時代の革新派官僚・岸の政策を先例として実践したとする説があるが、仮にそう云う面が認められたとしても一知半解だろう。朴政権の経済政策は、同時代の戦後日本の政策を徹底研究し学んでいるとする見方が自然だろう。そういう意味では、岸政治より田中角栄政治から大いに学んでいると見立てたい。通説は、殆ど常にズバリを見ずに当らずとも遠からずの説を振りまわす癖がある。我々は余計な見方を学ぶより、肝腎な見方をするべきである。

 2012.8.19日 れんだいこ拝

【朴政権の文化政策】
 この稿は今後に記す。「為せばなる 為さねばならぬ 何事も ならぬは人の 為さぬなりけり」。

【朴正煕(パク・チョンヒ)論】
 1999年、アメリカの雑誌TIMEで「今世紀もっとも影響力のあったアジアの20人」に韓国人から唯一選ばれている。朴政権の「開発独裁」が「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展を成し遂げ、韓国を中華民国(台湾)・シンガポール・香港と並ぶ「アジア四小龍の一つ」とまで言わしめることとなる足がかりを作った事が評価されつつある。政敵であった金大中が、大統領選を控えて保守票を取り込むために朴正煕時代の経済発展を評価するに至って、韓国近代化の礎を築いたという声が高まった。また人事面においても釜山市の都市建設で力量を発揮した工兵将校出身の金玄玉をソウル市長に抜擢するなど、格式を無視して有能な人材を要職に登用したことも評価されている。かって朴正煕批判で職を追われたことがある趙甲濟も、「日本の一流の教育とアメリカの将校教育を受けた、実用的な指導者だった」と、暗殺事件の取材を通じて以前の否定的な見解を変えている。独裁的でありながら私生活はいたって質素潔癖であり、ネポティズム(縁故採用)も嫌っており、韓国大統領の中で極めて清廉潔白な大統領とされ、汚職も見られず、彼の死後には私有財産がほとんどなかった点でも評価されつつある。韓国大統領の人気ランキングでは、朴正煕がダントツ1位の75.8%、金大中が2位の12.9%に選ばれている。

 次のように評されている。
 「彼は独裁者でありながら終生、清廉であった。その点も特筆に価する。 生きていれば台湾に李登輝あり、韓国に朴正煕あり、となっていた、かも。 実に惜しい」。
 「故人は日本植民地下の貧しい農家に育ち、幼少時より、韓国の自主独立と特権階級の君臨しない庶民の社会が実現することを希求し、また中国の孫文の革命、明治維新、トルコのケマル・パシャの革命を偲んで、韓民族中興の革命を達成せんとの志あり、李承晩政権崩壊後の張勉内閣の 下における政治社会の混乱に際して起ち、軍事革命に成功した。故人は、権力の座についた後も、軍政、民政復帰、維新体制の18年間を 通じて、『素朴、勤勉、正直、誠実なる庶民の社会が基礎となる自主独立の 韓国創建』という年来の理想を堅持し、韓国の旧支配階級の華美、虚飾、 文弱、労働蔑視の風を克服し、韓国政治の伝統的弊害である党争、事大主義 から脱して、民族の精神を刷新してその中興を達成することを求めてやまな かった。その間、新農村運動に自ら挺身するなど率先して国務に精励し、 国家の権力を一身に集めながら、ついに華美虚飾に溺れることなく、 清廉潔白を全うして、死して、個人的な富や新たな閥族を遺すことをしなかった。 その志す所は遠大にして、もとより一代のうちにその達成は期すべくもなく、またその理念とその達成のための手段は、自由民主の内外の時流と 相剋する所少なくなく、あるいは故人は、生前においては理想と現実の間の懸隔を嘆き、死して後も理想の未達成を憾みとしているかもしれないが、 その治世18年間における韓国経済の躍進と民度の向上は故人の敵讐と いえども認めざるを得ないほどのものであり、またその間における韓国国民 の自信と愛国精神の高揚も否定し得ざる事実であって、いずれも故人の治世の業績として数え得るものであり、まさに、民族中興の業を大きく 進めた功あったと言える」。
 「朴正熙は言葉の真の意味でのエリートだった。彼がクーデタで政権を掌握した時、韓国は究極の危機にあった。 韓国人が残忍極まりない北の共産主義者と対抗し、国家建設を進めるにあたって朴正熙の存在はどれほど評価してもし過ぎることは無い。 しかし彼は生前それに相応しい評価を受けることが無かった。 「独裁」「腐敗」「人権抑圧」。ありとあらゆる誹謗中傷が彼に投げかけられた。 しかし彼は自らの歴史的使命に確信を持って、前進した。自己憐憫に逃げ込むこともせず、ただひたすら自分の義務を果たしつづけた。 そんな彼を私は心から尊敬する 」。

 他方、終始民主化運動を徹底的に弾圧したこと、朴政権下での拷問、不当逮捕を含む強権政治が大統領の死後も2代の軍事政権に引き継がれ韓国の民主化を阻んだことが批判されている。批判的な見地からは、独裁者としての批判に加えて朴正煕を植民地支配における対日協力者・親日派とする意見もあり、2005.8.29日に韓国の市民団体民族問題研究所、ならびにその傘下の親日人名辞典編纂委員会より発表された親日人名辞典の第1回リストに記載された。2004年に日本植民地統治時代の対日協力者を解明するための日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法が可決され、その時代に日本の陸軍士官学校で学び、満州国国軍に参加していた彼もそれに含まれる(最終的には保守派の反対を受け、彼は該当しないように配慮されることとなる)という一幕もあった。

【朴正煕記念館】
 2012年3月、「漢江の奇跡」といわれた韓国の経済発展を実現し「民族中興の祖」と評価された朴正煕元大統領(1917~79年)の記念館がソウルに開館した。死後、30年以上たっている。記念館はゆかりの人たちなど民間による社団法人「記念事業会」が政府の補助金を得て完成させた。途中、左派勢力の反対や盧武鉉前政権下での補助金打ち切りなど曲折があり、開館まで13年かかった。

参考文献
 朴正煕 『國家と革命と私』(1963年、のち図書出版地球村で再発刊、1977年)(朝鮮語のPDFファイルあり)
 『朴正煕大統領選集 第一巻』朴聖煥訳(アジア政経研究所、1969年)
 『朴正煕選集 1 韓民族の進むべき道』(鹿島研究所出版会、1970年)
 『朴正煕選集 2 国家・民族・私』(鹿島研究所出版会、1970年)
 『朴正煕選集 3 主要演説集』(鹿島研究所出版会、1970年)
 『民族の底力』金定漢訳(サンケイ新聞社出版局、1973年)
 『平和統一の大道 朴正煕大統領演説文選集』(大韓民国大統領秘書室、1976年)
 趙甲済、永守良孝訳『朴正煕-韓国近代革命家の実像』(亜紀書房、1991年)
 金【ジン】 梁泰昊訳『ドキュメント朴正煕時代』(亜紀書房、1993年)
 河信基『韓国を強国に変えた男 朴正煕』(光人社、のち光人社NF文庫)
 金潤根『朴正煕軍事政権の誕生 韓国現代史の原点』(彩流社、1996年)
 池東旭『韓国大統領列伝 権力者の栄華と転落』(中公新書、2002年)
 木村幹『民主化の韓国政治 朴正煕と野党政治家たち 1961〜1979』(名古屋大学出版会、2008年)
 木村幹『韓国現代史 大統領たちの栄光と蹉跌』(中公新書、2008年)
 趙甲済 【ペ】淵弘訳『朴正煕、最後の一日 韓国の歴史を変えた銃声』(草思社、2006年)
 趙利済、渡辺利夫、カーター・J・エッカート『朴正熙の時代-韓国の近代化と経済発展』(東京大学出版会、2009年)






(私論.私見)