朴正煕名言、逸話考

 (最新見直し2012.8.17日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、朴正煕の名言を確認する。

 2012.8.17日 れんだいこ拝


【朴正煕の戦前日本の植民地統治評について】
 福田赳夫が韓国を訪問した際、酒席において日韓の閣僚たちが日本語で会話をしている最中、韓国側のある高官が過去の日本による植民地統治を批判する旨の発言を始めたところ、彼を宥めたうえでこう語っている。

 「日本の朝鮮統治はそう悪かったと思わない。自分は非常に貧しい農村の子供で学校にも行けなかったのに、日本人が来て義務教育を受けさせない親は罰すると命令したので、親は仕方なしに大事な労働力だった自分を学校に行かせてくれた。すると成績がよかったので、日本人の先生が師範学校に行けと勧めてくれた。さらに軍官学校を経て東京の陸軍士官学校に進学し、首席で卒業することができた。卒業式では日本人を含めた卒業生を代表して答辞を読んだ。日本の教育は割りと公平だったと思うし、日本のやった政治も私は感情的に非難するつもりもない、むしろ私は評価している」(金完燮 日韓「禁断の歴史」p.212 )。


 中曽根康弘と福田和也との対談で次のように語られている。
 概要「韓国の朴正煕大統領がこんな話をしてくれました。彼の周囲にいるかつて軍人だったような威勢のいい連中は、 酒に酔ってくると『日本はけしからん』と言いだす。それに対して朴大統領は『まあ、待て』となだめながら自らの歩みを語る。 朴大統領は貧農の出身で、教育を受けたいと思いながら、 とても無理だろうとあきらめていた。 ところが日本がその統治下で義務教育制を敷いたことで、 朴少年も学校に通うことができた。 また満州軍官学校を首席で卒業した彼は、その特典で日本の陸軍士官学校に留学し、卒業します。 日本は朴少年のような存在にそうした機会を与えた。『日本人は名前を変えろとか生意気なこともやったけれど、 私はおおむね彼らは公平にやったと思う』 と朴大統領は述懐していたわけです」(2000年1月4日付産経の「新春正論対談」)。

 「朴正煕がこんなこと言ってたよ(石原慎太郎)」は次のように証言している。

 月刊正論2003年1月号【産経新聞70周年記念講演】「日本よ、自ら信じ自ら運命を切り開け」(作家・東京都知事 石原慎太郎)

 「その判断(日韓併合)を、ある意味で冷静に評価したのは韓国の大統領だった朴正煕さんだ。私も何度かお目にかかった。あるとき、向こうの閣僚とお酒を飲んでいて、みんな日本語がうまい連中で、日本への不満もあるからいろいろ言い出した。朴さんは雰囲気が険悪になりかけたころ「まあまあ」と座を制して、「しかしあのとき、われわれは自分たちで選択したんだ。日本が侵略したんじゃない。私たちの先祖が選択した。もし清国を選んでいたら、清はすぐ滅びて、もっと大きな混乱が朝鮮半島に起こったろう。もしロシアを選んでいたら、ロシアはそのあと倒れて半島全体が共産主義国家になっていた。そしたら北も南も完全に共産化された半島になっていた。日本を選んだということは、ベストとはいわないけど、仕方なしに選ばざるを得なかったならば、セコンド・ベストとして私は評価もしている」(拍手)。いや、こんなところで拍手しなくていい。朴さんが、「石原さん、大事なのは教育だ。このことに限ってみても、日本人は非常に冷静に、本国でやってるのと同じ教育をこの朝鮮でもやった。これは多とすべきだ。私がそのいい例ですよ」と言う。「私は貧農の息子で、学校に行きたいなと思っても行けなかった。日本人がやってきて義務教育の制度を敷いて子供を学校に送らない親は処罰するといった。日本人にしかられるからというんで学校に行けた。その後、師範学校、軍官学校に進み、そこの日本人教官が、お前よくできるな。日本の市谷の士官学校に推薦するから行けといって入学。首席で卒業し、言葉も完璧でなかったかもしれないが、生徒を代表して答辞を読んだ。私はこのことを非常に多とする。相対的に白人がやった植民地支配に比べて日本は教育ひとつとってみても、かなり公平な、水準の高い政策をやったと思う」(平成14年11月5日大阪・サンケイホール、同6日東京・新高輪プリンスホテル)


【朴正煕の日本の明治維新(幕末維新)評について】

 日本の明治維新(幕末維新)に対し次のように評している。

 概要「明治維新は無名の若者が国の近代化を進めた。明治維新の志士を見習いたい」。
 概要「明治維新の中心人物の一人である西郷隆盛を尊敬している。『子孫のために美田を残さず』の言葉が好きである」。(この言葉通り、独裁的でありながらの朴正煕大統領の私生活はいたって質素潔癖であり、縁故採用も嫌い、韓国大統領の中で極めて清廉潔白な大統領とされ、汚職も見られず、朴正煕大統領の死後には私有財産がほとんどなかった。また、自身の政治家としての潔白さを証明するため、親戚のソウルへの立ち入りを禁じていたという。酒を飲んで機嫌が良くなると、よく日本の軍歌を歌っていたとも云われている)

【朴正煕の朝鮮の歴史、民族、精神批判論】
 朴は自著「国家・民族・私」で、次のような言葉を遺している。なかなか鋭く味わい深い内容なので対話してみる。
 「漢の武帝東方侵略の古朝鮮時代から高句麗、新羅、百済の三国時代、そして新羅の統一時代を経て後百済、後高句麗、新羅の後三国時代、さらに高麗時代から李朝五百年に至る我が五千年の歴史(ウリナラ半万年の歴史)は一言でいって退嬰と粗雑と沈滞の連鎖史であった。
 いつの時代に辺境を超え他を支配したことがあり、どこに海外の文物を広く求めて民族社会の改革を試みたことがあり、統一天下の威勢でもって民族国家の威勢を誇示したことがあり、特有の産業と文化で独自の自主性を発揮したことがあっただろうか。
 いつも強大国に押され、盲目的に外来文化に同化したり、原始的な産業の枠からただの一寸も出られなかった。せいぜい、同胞の相争のため安らかな日がなかっただけで、姑息、怠惰、安逸、日和見主義に示される小児病的な封建社会の一つの縮図に過ぎなかった。今ここでそのように際立った我々の歴史を落ち着いて解剖してみることにしよう。これはあくまでも我々の歴史の過去を回顧し、反省し、批判することによって新しい文化と進歩をなし遂げようとするものである。
(私論.私見)
 朝鮮、韓国の歴史を中国、日本と鋭く比較し、足りざるところを厳しく見つめている。かく説く朴正煕の言は鋭い。確固とした愛国心を自負する者ならではの言であろう。
 第一にウリナラ(我々)の歴史は始めから終わりまで他人に押され、 それに寄りかかって生きてきた歴史である。古朝鮮時代、漢の武帝の侵略を受け、その封鎖として楽浪、真蕃、臨屯、玄菟の四つの郡を設置されたことから始まって、高句麗、新羅、百済の三国時代にあった隋、唐の漢民族の侵略、唐の支援を受けた新羅の統一と高句麗流民の渤海国創建及びその反目、高麗朝にあった契丹、蒙古、倭冠などの侵入、李朝中葉までの壬辰倭乱、丙子胡乱を経て、その後、日清戦争と前後した三国の干渉を最後に日本の単独侵略により遂に大韓帝国が終幕を告げるまで、 この国の歴史は平安な日がなく、外国勢力の弾圧と征服の反覆のもとに辛うじて生活とはいえない生存を延長してきた。
 ところが、嘆かわしいことは、この長い受難の歴程の中でただの一度も形勢を逆転させ、外へ進み出て国家の実力を示したことがないということである。そして、このような侵略は半島の地域的な運命とか、ウリナラの力不足のため起こったのではなく、ほとんどがウリナラが招き入れたようなものとなっている。また、外圧に対して我々が一致して抵抗したことがなかったわけではないが、 多くの場合、敵と内通したり浮動したりする連中が見受けられるのであった。自らを弱者とみなし他を強大視する卑怯で事大的な思想、この宿弊、この悪い遺産を拒否し抜本せずには自主や発展は期待することはできないであろう。
(私論.私見)
 この件も然りである。朝鮮、韓国の歴史を中国、日本と鋭く比較し、足りざるところを厳しく見つめている。
 第二に、ウリナラの党争に関することである。 これは世界でも稀なほど小児病的で醜いものである。こういう点では、中世紀まで我々の祖先は比較的活発で男性的な気質があったけれども、李朝に入ってから次第にこういう気象は姿を消すことになった。仏教から儒教へと文物の制度が変わってくるにつれ、それは急激に民族自主的な気概を蝕むことになった。党派争いが実にささいなことから始まったことは歴史で我々が知りつくしているところである。沈義謙と金孝元の実にささいな対立が「東人・西人」へと、東人はさらに「南人・北人」に、北人はさらに「大北・小北」に、大北はまた「肉北・骨北」に別れ、小北は別途に「清小北と濁小北」となり、後になって商人は「清南と濁南」に、西人は「清南・小南・老南」に分裂し、老論・少論の学派が起こり、「少論」は再び「僻派と時派」に別れるなど、実にどの系譜がどうなったのか訳が分からない分裂ぶりである。これ以後の歴史がどうなったかは、ここでこれ以上説明が必要ないのではなかろうか。李朝は結局、この党派の争に明け暮れているうち、亡国の悲運を味合うことになったのであった。言葉では先頭をゆき、行動では最後につきながら、論争や派閥争いといえば夢中になるこの悪い遺伝を、我々はもう拒否すべぎときがきたのではないか。小英雄主義的な小人癖を清算せずには、決して大国民的な襟度や大乗的な団結は不可能であろう。
(私論.私見)
 ここで、朝鮮、韓国特有の政治闘争上の分裂性を自己認識している。「これは世界でも稀なほど小児病的で醜いものである」とまで卑下している。「李朝は結局、この党派の争に明け暮れているうち、亡国の悲運を味合うことになったのであった。言葉では先頭をゆき、行動では最後につきながら、論争や派閥争いといえば夢中になるこの悪い遺伝を、我々はもう拒否すべぎときがきたのではないか。小英雄主義的な小人癖を清算せずには、決して大国民的な襟度や大乗的な団結は不可能であろう」と述べ、問題のありかを指摘している。
 第三に、ウリナラは自主、主体意識が不足していた。 我々の波乱多き歴史の陰になって固定されることのなかった文化、政治、社会は遂に「ウリナラのもの」を失い、 代わりに「よそもの」を仰ぎ見るようになり、それに迎合する民族性に陥らせてしまった。 これについては詳しく前で論及したので省略する。我々に残されている「ウリナラのもの」はハングルのほかにはっきりとしたものは何があるか。我々はいち早く、我々の哲学を創造しなければならず、独自の文化の形成に進まねばならない。なぜなら、この哲学や文化は民衆の道標(しるべ)となるからである。
(私論.私見)
 「我々はいち早く、我々の哲学を創造しなければならず、独自の文化の形成に進まねばならない。なぜなら、この哲学や文化は民衆の道標(しるべ)となるからである」の言も鋭く有益なものである。これは何も朝鮮、韓国い。
 第四に、経済の向上に少しも創意的な意欲がなかったということである。国民の皆さんがご存知のとおり、 ウリナラが眠っている間に世界各国はいち早く自国の経済向上のため 目覚しい活動を展開していた。 しかし、ウリナラは海外進出は念頭におかず、 せいぜい座ってワラを編んでいただけではなかったか。高麗磁器などがやっと民族文化として残っているのみである。 それも辛うじて貴族の趣味にとどまっているだけであった。 しかし、これも途中から命脈が切れてしまったのだから嘆かわしいことである。経済生活の主となったのは単に農業生産だけである。 「農は天下の大本」であるが、それも食べるための目的がなかったならば、これすら途中から廃止されたかもしれないではないか。我々は、このような経済に対する国民性を根本的に改造する経済至上の観念に立脚できるならば、我々が目標としている強力な民族国家の建設は、単なる空念仏に過ぎると云わざるをえないであろう。自らを弱者とみなし、他を強大国視する卑怯で事大的な思想、この宿弊、 この悪い遺産を拒否し抜本せずには自主や発展は期待することはできないで あろう。
(私論.私見)
 ここ鋭い。「自らを弱者とみなし、他を強大国視する卑怯で事大的な思想、この宿弊、 この悪い遺産を拒否し抜本せずには自主や発展は期待することはできないで あろう」は名言であろう。
 以上のように我が民族史を考察してみると情けないというほかない。もちろん或る一時代には世宗大王、李忠武公のような万古の聖君、聖雄もいたけれども、全体的に顧みるとただ唖然とするだけで真っ暗になるばかりである。
 我々が真に一大民族の中興を期するなら、まずどんなことがあっても、この歴史を改新しなければならない。このあらゆる悪の倉庫のような我が歴史はむしろ燃やして然るべきである。我々は漠然とした未練やさびれた歴史の年輪だけを誇ることはできない。 大胆な、新しい出発がなければ、我々の発展は最後まで阻害されてしまうからだ。我々は、ほんとに新しい決意がなければならないのである。 百の理論より一つの実践が要望され、楽しい分裂よりも苦しい団結がなければならず、他をくじくことよりも助けることを知り、惜しむことを知らねばならぬ 。聡明で、勤勉で、堅固な意志と新しい整理が要請される。そうしないでは我々の新しい歴史はとうていできないからである。これが当代の使命を担う我々の義務ではないか」( 朴正煕選集2、国家・民族・私、[ 我々は何をいかにすべきか―五千年の歴史は改新されねばならない (1)退嬰と粗雑と沈滞の連鎖史  P234)。(朴大統領の語る韓国の歴史
(私論.私見) 朴正煕の「国家・民族・私論」考
 以上、全文が名言にして銘文足り得ている。相当程度に日本を意識して、韓国に足りないところを手厳しく自戒せしめている。日本はこれにより自惚れるのではなく寧ろ似たりよったりのところがあり共に自戒すべきではなかろうか。心情琴線的に、朴正煕は田中角栄と近いと改めて思う。これを名言集の中に取り入れようと思う。但し、原文の確認ができていない。この種の文章は全文開示が良いと思う。

 2012.8.19日 れんだいこ拝

【朴正煕の「韓民族の進むべき道」論】
 自著「韓民族の進むべき道」で、李氏朝鮮について次の言葉を遺している。
 「四色党争、事大主義、両班の安易な無事主義な生活態度によって、後世の子孫まで悪影響を及ぼした、民族的犯罪史である」(朴正煕選集1 韓民族の進むべき道 p.92)。
 「今日の我々の生活が辛く困難に満ちているのは、さながら李朝史(韓国史)の悪遺産そのものである」(朴正煕選集1 韓民族の進むべき道 p.92)。
 「今日の若い世代は、既成世代とともに先祖たちの足跡を恨めしい眼で振り返り、軽蔑と憤怒をあわせて感じるのである」(朴正煕選集1 韓民族の進むべき道 p.92)

 朴は、朝鮮史における事大主義と属国性を批判的に自覚していた。自著「韓民族の進むべき道」で、韓国人の「民族の悪い遺産」として「自律精神の欠如」、「民族愛の欠如」、「開拓精神の欠如」、「退廃した国民道徳」を批判し次の問題を挙げている。事大主義、怠惰と不労働所得観念、開拓精神の欠如、企業心の不足、悪性利己主義、名誉観念の欠如、健全な批判精神の欠如。


【逸話など】

 生涯で2回結婚(もう1回は同居)しており、陸英修夫人とは見合いを経て結婚したが、恥ずかしがり屋であったために、見合いの際には酒を飲んでから臨んだ。陸英修夫人とは仲の睦まじさを演出したが、家庭内では夫人が「青瓦台(大統領官邸)の中の野党」の役割を果たし、政治的な助言も惜しまなかった為、時々「陸-朴戦」(韓国語では「肉薄戦」と発音が同じ)、つまり夫婦喧嘩があったという。終生、夫人に対してはただの妻以上に尊敬し続け、もし夫人が生きていたら、政権の末期もかなり違っていたかも知れないとよく言われる。

 朴は日本の英文学者・劇作家で保守思想家としても評価の高い福田恆存と親交を結んだ。福田は朴の暗殺を聞き、追悼文「孤獨の人、朴正煕」を書いている。福田はその中で、朴と昼食を共にした時のことを回想し、以下のように書いている。

 「故人に對して、そしてまた一國の元首に對して、頗る禮を缺いた話だが、私は敢へて書く、正直、私はその粗食に驚いた、オムレツは中まで硬く、表面がまだらに焦げてゐる。もし日本のホテルだつたら、「これがオムレツか」と私は文句を言つたであらう。が、それを平氣で口にしてゐる青瓦臺の「獨裁者」をまじまじと眺め(後略)」(福田恆存, 福田恒存評論集 第10巻)。

 マクドネル・ダグラス社重役のデービッド・シムソンが100万ドルの小切手を“誠意”として渡すと朴はこう言い返したという。

 「あなたが私にくれたこの100万ドルは、私のお金でも、かと言ってあなたのお金でも無い。このお金は、今、私の兄弟、私の子供らが千里他郷で、そして遠くベトナムで血を流しながら戦っているわが息子たちの汗と血と換えたものだ。そのようなお金をどうして一国の父親として私の腹を肥やすのに使えよう」。

 それでも薦めたシムソンに対し、朴は「このお金は持って帰れ。代わりに、このお金分の銃を我々に寄越し給え!」と言い返したという。

 韓国の他の大統領と同様に、よく教会に通っていた。


 カルグクス(韓国式うどん)が好物で、青瓦台で食事会が行われると必ず出た。このため大統領に呼ばれることの隠語として、カルグクスに呼ばれると言われていた。また、唐辛子を齧りながらマッコリを飲むのが、お決まりの晩酌のスタイルだった。






(私論.私見)