「漢の武帝東方侵略の古朝鮮時代から高句麗、新羅、百済の三国時代、そして新羅の統一時代を経て後百済、後高句麗、新羅の後三国時代、さらに高麗時代から李朝五百年に至る我が五千年の歴史(ウリナラ半万年の歴史)は一言でいって退嬰と粗雑と沈滞の連鎖史であった。 |
いつの時代に辺境を超え他を支配したことがあり、どこに海外の文物を広く求めて民族社会の改革を試みたことがあり、統一天下の威勢でもって民族国家の威勢を誇示したことがあり、特有の産業と文化で独自の自主性を発揮したことがあっただろうか。 |
いつも強大国に押され、盲目的に外来文化に同化したり、原始的な産業の枠からただの一寸も出られなかった。せいぜい、同胞の相争のため安らかな日がなかっただけで、姑息、怠惰、安逸、日和見主義に示される小児病的な封建社会の一つの縮図に過ぎなかった。今ここでそのように際立った我々の歴史を落ち着いて解剖してみることにしよう。これはあくまでも我々の歴史の過去を回顧し、反省し、批判することによって新しい文化と進歩をなし遂げようとするものである。 |
(私論.私見) |
朝鮮、韓国の歴史を中国、日本と鋭く比較し、足りざるところを厳しく見つめている。かく説く朴正煕の言は鋭い。確固とした愛国心を自負する者ならではの言であろう。 |
第一にウリナラ(我々)の歴史は始めから終わりまで他人に押され、 それに寄りかかって生きてきた歴史である。古朝鮮時代、漢の武帝の侵略を受け、その封鎖として楽浪、真蕃、臨屯、玄菟の四つの郡を設置されたことから始まって、高句麗、新羅、百済の三国時代にあった隋、唐の漢民族の侵略、唐の支援を受けた新羅の統一と高句麗流民の渤海国創建及びその反目、高麗朝にあった契丹、蒙古、倭冠などの侵入、李朝中葉までの壬辰倭乱、丙子胡乱を経て、その後、日清戦争と前後した三国の干渉を最後に日本の単独侵略により遂に大韓帝国が終幕を告げるまで、
この国の歴史は平安な日がなく、外国勢力の弾圧と征服の反覆のもとに辛うじて生活とはいえない生存を延長してきた。 |
ところが、嘆かわしいことは、この長い受難の歴程の中でただの一度も形勢を逆転させ、外へ進み出て国家の実力を示したことがないということである。そして、このような侵略は半島の地域的な運命とか、ウリナラの力不足のため起こったのではなく、ほとんどがウリナラが招き入れたようなものとなっている。また、外圧に対して我々が一致して抵抗したことがなかったわけではないが、 多くの場合、敵と内通したり浮動したりする連中が見受けられるのであった。自らを弱者とみなし他を強大視する卑怯で事大的な思想、この宿弊、この悪い遺産を拒否し抜本せずには自主や発展は期待することはできないであろう。 |
(私論.私見) |
この件も然りである。朝鮮、韓国の歴史を中国、日本と鋭く比較し、足りざるところを厳しく見つめている。 |
第二に、ウリナラの党争に関することである。 これは世界でも稀なほど小児病的で醜いものである。こういう点では、中世紀まで我々の祖先は比較的活発で男性的な気質があったけれども、李朝に入ってから次第にこういう気象は姿を消すことになった。仏教から儒教へと文物の制度が変わってくるにつれ、それは急激に民族自主的な気概を蝕むことになった。党派争いが実にささいなことから始まったことは歴史で我々が知りつくしているところである。沈義謙と金孝元の実にささいな対立が「東人・西人」へと、東人はさらに「南人・北人」に、北人はさらに「大北・小北」に、大北はまた「肉北・骨北」に別れ、小北は別途に「清小北と濁小北」となり、後になって商人は「清南と濁南」に、西人は「清南・小南・老南」に分裂し、老論・少論の学派が起こり、「少論」は再び「僻派と時派」に別れるなど、実にどの系譜がどうなったのか訳が分からない分裂ぶりである。これ以後の歴史がどうなったかは、ここでこれ以上説明が必要ないのではなかろうか。李朝は結局、この党派の争に明け暮れているうち、亡国の悲運を味合うことになったのであった。言葉では先頭をゆき、行動では最後につきながら、論争や派閥争いといえば夢中になるこの悪い遺伝を、我々はもう拒否すべぎときがきたのではないか。小英雄主義的な小人癖を清算せずには、決して大国民的な襟度や大乗的な団結は不可能であろう。 |
(私論.私見) |
ここで、朝鮮、韓国特有の政治闘争上の分裂性を自己認識している。「これは世界でも稀なほど小児病的で醜いものである」とまで卑下している。「李朝は結局、この党派の争に明け暮れているうち、亡国の悲運を味合うことになったのであった。言葉では先頭をゆき、行動では最後につきながら、論争や派閥争いといえば夢中になるこの悪い遺伝を、我々はもう拒否すべぎときがきたのではないか。小英雄主義的な小人癖を清算せずには、決して大国民的な襟度や大乗的な団結は不可能であろう」と述べ、問題のありかを指摘している。 |
第三に、ウリナラは自主、主体意識が不足していた。 我々の波乱多き歴史の陰になって固定されることのなかった文化、政治、社会は遂に「ウリナラのもの」を失い、
代わりに「よそもの」を仰ぎ見るようになり、それに迎合する民族性に陥らせてしまった。 これについては詳しく前で論及したので省略する。我々に残されている「ウリナラのもの」はハングルのほかにはっきりとしたものは何があるか。我々はいち早く、我々の哲学を創造しなければならず、独自の文化の形成に進まねばならない。なぜなら、この哲学や文化は民衆の道標(しるべ)となるからである。
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(私論.私見) |
「我々はいち早く、我々の哲学を創造しなければならず、独自の文化の形成に進まねばならない。なぜなら、この哲学や文化は民衆の道標(しるべ)となるからである」の言も鋭く有益なものである。これは何も朝鮮、韓国い。 |
第四に、経済の向上に少しも創意的な意欲がなかったということである。国民の皆さんがご存知のとおり、 ウリナラが眠っている間に世界各国はいち早く自国の経済向上のため
目覚しい活動を展開していた。 しかし、ウリナラは海外進出は念頭におかず、 せいぜい座ってワラを編んでいただけではなかったか。高麗磁器などがやっと民族文化として残っているのみである。
それも辛うじて貴族の趣味にとどまっているだけであった。 しかし、これも途中から命脈が切れてしまったのだから嘆かわしいことである。経済生活の主となったのは単に農業生産だけである。
「農は天下の大本」であるが、それも食べるための目的がなかったならば、これすら途中から廃止されたかもしれないではないか。我々は、このような経済に対する国民性を根本的に改造する経済至上の観念に立脚できるならば、我々が目標としている強力な民族国家の建設は、単なる空念仏に過ぎると云わざるをえないであろう。自らを弱者とみなし、他を強大国視する卑怯で事大的な思想、この宿弊、
この悪い遺産を拒否し抜本せずには自主や発展は期待することはできないで あろう。 |
(私論.私見) |
ここ鋭い。「自らを弱者とみなし、他を強大国視する卑怯で事大的な思想、この宿弊、 この悪い遺産を拒否し抜本せずには自主や発展は期待することはできないで
あろう」は名言であろう。 |
以上のように我が民族史を考察してみると情けないというほかない。もちろん或る一時代には世宗大王、李忠武公のような万古の聖君、聖雄もいたけれども、全体的に顧みるとただ唖然とするだけで真っ暗になるばかりである。
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我々が真に一大民族の中興を期するなら、まずどんなことがあっても、この歴史を改新しなければならない。このあらゆる悪の倉庫のような我が歴史はむしろ燃やして然るべきである。我々は漠然とした未練やさびれた歴史の年輪だけを誇ることはできない。
大胆な、新しい出発がなければ、我々の発展は最後まで阻害されてしまうからだ。我々は、ほんとに新しい決意がなければならないのである。 百の理論より一つの実践が要望され、楽しい分裂よりも苦しい団結がなければならず、他をくじくことよりも助けることを知り、惜しむことを知らねばならぬ
。聡明で、勤勉で、堅固な意志と新しい整理が要請される。そうしないでは我々の新しい歴史はとうていできないからである。これが当代の使命を担う我々の義務ではないか」(
朴正煕選集2、国家・民族・私、[ 我々は何をいかにすべきか―五千年の歴史は改新されねばならない (1)退嬰と粗雑と沈滞の連鎖史 P234)。(朴大統領の語る韓国の歴史) |
(私論.私見) 朴正煕の「国家・民族・私論」考 |
以上、全文が名言にして銘文足り得ている。相当程度に日本を意識して、韓国に足りないところを手厳しく自戒せしめている。日本はこれにより自惚れるのではなく寧ろ似たりよったりのところがあり共に自戒すべきではなかろうか。心情琴線的に、朴正煕は田中角栄と近いと改めて思う。これを名言集の中に取り入れようと思う。但し、原文の確認ができていない。この種の文章は全文開示が良いと思う。
2012.8.19日 れんだいこ拝 |