角栄執筆「日本列島改造論序文」と「日本列島改造論結び」

 (最新見直し2012.6.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、日本列島改造論の角栄自著部分である序文と結びを確認する。

 2012.6.19日 れんだいこ拝


れんだいこのカンテラ時評bP046  投稿者:れんだいこ 投稿日:2012年 6月19日

 【日本列島改造論、角栄自著の「序文と結び」】

 ここで、田中角栄が首相への道に至る際に掲げたマニュフェスト「日本列島改造論」のうち、角栄自身が書き上げた部分である序文と結びを確認する。時は1972年6月、今より丁度40年前のことになる。1970年代の政治の香りを嗅ぐことができる。それは同時に、この時代の政治を捨てた、と云うか真逆の現在の政治に対する穏やかにして実は鋭い批判を含んでいる。これを共に味わおう。

 序にかえて

 水は低きに流れ、人は高きに集まる。世界各国の近世経済史は、一次産業人口の二次、三次産業への流失、つまり、人口や産業の都市集中を通じて、国民総生産の拡大と国民所得の増加が達成されてきたことを示している。農村から都市へ、高い所得と便利な暮らしを求める人々の流れは、今日の近代文明を築き上げる原動力となってきた。日本もその例外ではない。明治維新から百年余りのあいだ、我が国は工業化と都市化の高まりに比例して力強く発展した。

 ところが、昭和30年代に始まった日本経済の高度成長によって東京、大阪など太平洋ベルト地帯へ産業、人口が過度集中し、我が国は世界に類例を見ない高密度社会を形成するにいたった。巨大都市は過密のルツボで病み、あえぎ、いらだっている半面、農村は若者が減って高齢化し、成長のエネルギーを失おうとしている。都市人口の急増は、ウサギを追う山もなく、小ブなを釣る川もない大都会の小さなアパートがただひとつの故郷と云う人を増やした。これでは日本民族のすぐれた資質、伝統を次の世代へ繋いでいくのも困難となろう。

 明治百年を一つの節目にして、都市集中のメリットは、今明らかなようにデメリットへ変わった。国民が今何よりも求めているのは、過密と過疎の弊害の同時解消であり、美しく、住みよい国土で将来に不安なく、豊かに暮らしていけることである。その為には都市集中の奔流を大胆に転換して、民族の活力と日本経済のたくましい余力を日本列島の全域に向けて展開することである。工業の全国的な再配置と知識集約化、全国新幹線と高速自動車道の建設、情報通信網のネットワークの形成などをテコにして、都市と農村、表日本と裏日本の格差は必ずなくすことができる。

 また、開かれた国際経済社会のなかで、日本が平和に生き、国際協調の道を歩き続けられるかどうかは、国内の産業構造と地域構造の積極的な改革にかかっていると云えよう。その意味で、日本列島の改造こそは今後の内政の一番重要な課題である。私は産業と文化と自然とが融和した地域社会を全国土に押し広め、全ての地域の人々が自分たちの郷里に誇りを持って生活できる日本社会の実現に全力を傾けたい。

 私は今年3月、永年勤続議員として衆議院から表彰を受けた。私はこれを機会に“国土開発・都市問題”と一緒に歩いてきた25年間の道のりを振り返るとともに、新しい視野と角度から日本列島改造の処方箋を書き上げ、世に問うことにした。国民及び関係者各位の参考になれば、大変、幸せである。

 なお、本書の執筆と出版に当たって、献身的な努力をいただいた日刊工業新聞社のスタッフ各位関係各省庁の専門家諸君に対し心からお礼を申し上げたい。

 昭和47年6月 東京・目白台にて 田中角栄
 むすび

 明治、大正生まれの人々には自分の郷里に対する深い愛着と誇りがあった。故郷は例え貧しくとも、そこには、厳しい父とやさしい母がおり、幼な友達と、山、川、海、緑の大地があった。志を立てて郷関を出た人々は、離れた土地で学び、働き、家庭を持ち、変転の人生を送ったであろう。室生犀星は「故郷は遠くに在りて思うもの」と歌った。成功した人も、失敗した人も、折に触れて思い出し、心の支えとしたのは、常に変わらない郷土の人々と、その風物であった。

 明治百年の日本を築いた私たちのエネルギーは、地方に生まれ、都市に生まれた違いはあったにせよ、ともに愛すべき、誇るべき郷里のなかに不滅の源泉があったと思う。

 私が列島改造に取組み、実現しようと願っているのは、失われ、破壊され、衰退しつつある日本人の“郷里”を全国的に再建し、私たちの社会に落着きと潤いを取戻す為である。

 人口と産業の大都市集中は、繁栄する今日の日本をつくりあげる原動力であった。しかし、この巨大な流れは、同時に、大都会の二間のアパートだけを郷里とする人々を輩出させ、地方から若者の姿を消し、田舎に年寄りと重労働に苦しむ主婦を取り残す結果となった。このような社会から民族の百年を切り開くエネルギーは生まれない。

 かくて私は、工業再配置と交通・情報通信の全国的ネットワークの形成をテコにして、人とカネとものの流れを巨大都市から地方に逆流させる“地方分散”を推進することにした。

 この「日本列島改造論」は、人口と産業の地方分散によって過密と過疎の同時解消を図ろうとするものであり、その処方箋を実行に移す為の行動計画である。

 私は衰退しつつある地方や農村に再生の為のダイナモをまわしたい。公害のない工場を大都市から地方に移し、地方都市を新しい発展の中核とし、高い所得の機会をつくる。教育、医療、文化、娯楽の施設を整え、豊かな生活環境を用意する。農業から離れる人々は、地元で工場や商店に通い、自分で食べる米、野菜をつくり、余分の土地を賃耕に出し、出稼ぎのない日々を送るだろう。

 少数・精鋭の日本農業の担い手たちは、20ヘクタールから30ヘクタールの土地で大型機械を駆使し、牧草の緑で大規模な畜産経営を行い、果物を作り、米を作るであろう。

 大都市では、不必要な工場や大学を地方に移し、公害がなく、物価も安定して、住みよく、暮らしよい環境をつくりあげたい。人々は週休二日制のもとで、生きがいのある仕事につくであろう。20代、30代の働き盛りは職住近接の高層アパートに、40代近くになれば、田園に家を持ち、年老いた親を引き取り、週末には家族連れで近くの山、川、海にドライブを楽しみ、あるいは、日曜大工、日曜農業にいそしむであろう。

 こうして、地方も大都市も、ともに人間らしい生活が送れる状態につくりかえられてこそ、人々は自分の住む町や村に誇りを持ち、連帯と協調の地域社会を実現できる。日本中どこに住んでも、同じ便益と発展の可能性を見出す限り、人々の郷土愛は確乎たるものとして自らを支え、祖国・日本への限りない結びつきが育っていくに違いない。

 日本列島改造の仕事は、けわしく、困難である。しかし、私たちが今後とも平和国家として生き抜き、日本経済のたくましい成長力を活用して、福祉と成長が両立する経済運営を行う限り、この世紀の大業に必要な資金と方策は必ず見つけ出すことができる。

 敗戦の焼け跡から今日の日本を建設してきたお互いの汗と力、知恵と技術を結集すれば、大都市や産業が主人公の社会ではなく、人間と太陽と緑が主人公となる“人間復権”の新しい時代を迎えることは決して不可能ではない。一億を越える有能で、明るく、勤勉な日本人が軍事大国の道を進むことなく、先進国に共通するインフレーション、公害、都市の過密と過疎、農業の行き詰まり、世代間の断絶なくす為に、総力をあげて国内の改革に進むとき、世界の人々は文明の尖端を進む日本をその中に見出すであろう。そして自由で、社会的な偏見がなく、創意と努力さえあれば、誰でもひとかどの人物になれる日本は、国際社会でも誠実で、尊敬できる友人として、どこの国ともイデオロギーの違いを乗り越え、兄弟づき合いが末長くできるであろう。

 私は政治家として25年、均衡が取れた住みよい日本の実現を目指して微力を尽くしてきた。私は残る自分の人生を、この仕事の総仕上げに捧げたい。そして、日本じゅうの家庭に団らんの笑い声かあふれ、年寄りが安らぎの余生を送り、青年の目に希望の光が輝く社会をつくりあげたいと思う。

れんだいこのカンテラ時評bP048  投稿者:れんだいこ 投稿日:2012年 6月21日

 【日本列島改造論、角栄自著の「序文と結び」の噛み締め考】

 我々は、角栄の日本列島改造論の「序文」及び「結び」から何を窺うべきか。短文ではあるが貴重なメッセージが託されていることを知ることができよう。読めば分かり、敢えて記すことでもないのだが確認しておく。

  既に、「今より丁度40年前のことになる。1970年代の政治の香りを嗅ぐことができる。それは同時に、この時代の政治を捨てた、と云うか真逆の現在の政治に対する穏やかにして実は鋭い批判を含んでいる。これを共に味わおう」と記した。以下、これに付加する。

 角栄時代、頻りに国民総生産(GNP:Gross National Product))論が云われた。高度経済成長の波に乗っており、昨年対比幾らの成長率云々と云うことが当たり前のように確認されていた。数字が強かった角栄が時代をリードしていたことによる「上向時代の特徴」だったのかも知れない。今、この作風はない。なぜか。それは、国民総生産が伸び悩んでおり、そのことを隠したいと云う思惑によってであるとしか考えられない。この一事を見ても、角栄時代が正々堂々オープンを常としていたのに対し、今は逆の姑息な時代になっていることが分かる。

 次に、日本列島改造論の目的が、「民族の活力と日本経済のたくましい余力を日本列島の全域に向けて展開すること」を通じて、その為に「工業の全国的な再配置と知識集約化、全国新幹線と高速自動車道の建設、情報通信網のネットワークの形成などをテコにして」、「ふるさと再生、都市と農村、表日本と裏日本の格差是正」を期すことにあると詠っている。続いて「開かれた国際経済社会のなかで、日本が平和に生き、国際協調の道を歩き続けられるかどうかは、国内の産業構造と地域構造の積極的な改革にかかっていると云えよう」と述べており、こうした日本の理想の国づくりこそが日本が国際的に生き延びる道だとしている。

 1970年代までの日本は、この方向に沿って国家プロジェクトが策定され実にうまく機能していた。この時代の特徴は、滅多に注目されていないがマルクス&エンゲルス共著の「共産主義者の宣言」の「プロレタリアと共産主義者」の項の「過渡的10政策処方箋」をモデルとして日本式に焼き直して政策化されていた感がある。
 (jinsei/marxismco/marxism_genriron_gensyo_sengen2_2.htm

 読まぬ者には分からないだろうし、読んでも不正確な訳文では分からないだろうし、正確な訳文でも理解能力がなければ分からないだろう。れんだいこが読めばそういうことになる。よって戦後日本は相当に社会主義的な国であったことになる。それも在地土着型の焼き直しマルクス主義と云う理想的な創造的適用であったと云うことになる。教育、医療、年金、雇用、最低限生活が保障されていたのは、こういう事情によると思えば良い。

 この政治が、中曽根政権登場とともに始まる1980年代以降、解体され強制終了させられ、代わりに真逆の政治を指針せしめ、これを定向進化させて今日に至っている。こう読むのがれんだいこ史観である。今のところ仲間が見当らないので独眼流である。角栄政治時代が1960年代から70年代までの20年間であったのに対し、中曽根政治時代はその倍の期間の40年間を越えている。角栄政治を是とすれば、その真逆の政治をこれほど長く続けると国が壊れるのも至極当然と云うべきではなかろうか。

 もとへ。「むすび」で、「私が列島改造に取組み、実現しようと願っているのは、失われ、破壊され、衰退しつつある日本人の“郷里”を全国的に再建し、私たちの社会に落着きと潤いを取戻す為である」と述べている。日本列島改造論は、都市集中型に傾斜した高度経済成長路線に対する角栄式手直しの処方箋であり行動計画である云う。

 曰く、「こうして、地方も大都市も、ともに人間らしい生活が送れる状態につくりかえられてこそ、人々は自分の住む町や村に誇りを持ち、連帯と協調の地域社会を実現できる。日本中どこに住んでも、同じ便益と発展の可能性を見出す限り、人々の郷土愛は確乎たるものとして自らを支え、祖国・日本への限りない結びつきが育っていくに違いない」、「日本列島改造の仕事は、けわしく、困難である。しかし、私たちが今後とも平和国家として生き抜き、日本経済のたくましい成長力を活用して、福祉と成長が両立する経済運営を行う限り、この世紀の大業に必要な資金と方策は必ず見つけ出すことができる」。

 この処方箋、行動計画は極めて唯物論的具体的である。即ち、ふるさと再生も、日本が平和国家として生き抜く道も、「日本経済のたくましい成長力を活用」してこそ可能であるとしている。これが「福祉と成長が両立する方途である」としている。その為の「経済運営」を指針させ、「この世紀の大業に必要な資金と方策は必ず見つけ出すことができる」としている。愛郷心、愛国心、お国の防衛も、この道を通じて自ずともたらされるものであり、この客体を無視して徒に掛け声だけして良しとするような観念的な作法は微塵もない。角栄後に登場する中曽根式大国責任論は、この対極のものであろう。

 角栄は最後にこう述べている。「私は政治家として25年、均衡が取れた住みよい日本の実現を目指して微力を尽くしてきた。私は残る自分の人生を、この仕事の総仕上げに捧げたい。そして、日本じゅうの家庭に団らんの笑い声かあふれ、年寄りが安らぎの余生を送り、青年の目に希望の光が輝く社会をつくりあげたいと思う」。事実、角栄はその後首相になり、この言葉通りに首相職を全うした。角栄政治がもう少し長く続いておれば、北朝鮮ともロシアとも現下の中国との交易の如く発展を見せていただろう。中小零細企業も逞しく自負の強い発展を遂げ、地方都市も理想的な発展を続けていたであろう。これを惜しめ。今は全てか逆である。

 角栄のその後は、ロッキード事件にお見舞いされ、周知の通りの結末を迎える。一体、誰が、このような非道を、正義ぶりながら画策したのか。ここでは述べないが、これを押し進めた末裔どもが現代政治を牛耳っている。ここに政治の貧困があると云うべきではなかろうか。

 そういう角栄政治の花粉を鼻孔に吸った小沢どんが、唯一かの政治の薫陶を思い出しながらリーダーシップを発揮しており、今や最後の決戦に向かおうとしているやに見受けられる。実に歴史は面白いと云うべきではなかろうか。

 2012.6.21日 れんだいこ拝






(私論.私見)