角栄政治の対極としての中曽根政治との抗争考

 更新日/2023(平成31.5.1栄和元/栄和5).7.3日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、角栄政治の対極としての中曽根政治との抗争考を確認しておく。

 2006.4.29日 れんだいこ拝


Re::れんだいこのカンテラ時評918 れんだいこ 2011/04/19
 【角栄政治と中曽根政治、福田政治との差異考その1】

 2011.3.11日の三陸巨大震災、特に福島原発事故が、れんだいこに田中角栄と中曽根康弘の政治の質の違いを炙り出させた。ここで角栄政治、中曽根政治について再考しておく。爾来、田中角栄については「田中角栄論」、中曽根康弘については「中曽根康弘論」でそれぞれ考察している。サイトの分量の差は、対象人物の質の差を表象している。ここで、この両者の天敵性について確認しておくことにする。

 その昔、「2チャンネル」の「政治版」の「田中角栄part4 」の「名無しさん@3周年」氏の2006.4.28日付け投稿で次のような記述が為されている。これを転載する。

 「角栄は権力を掴み取ることにかけては天下一品だったが、持続させる力は皆無だった。 中曽根は理念のない風見鶏だが、権力というものを知り尽くし、様々な形で利用しながら掌握していく手法は天下一品だった。 角は早々とポシャってしまったが、最後に笑ったのは中曽根であった」。

 これが、角栄と中曽根を評する世間一般の見方なのだろうか。この見立てをどう評すべきか。れんだいこは異見を持つ。この論者は、角栄の政治能力より中曽根のそれの方が優ると云いたいのだろうが事実はどうか。れんだいこ史観によれば角栄の方が数段勝り、中曽根などは風見鶏であちこちするぐらいしか態を為さなかった。

 その関係がロッキード事件を境に逆転する。なぜ角栄が失脚し、中曽根がその後の政局を握ったのか。これには秘密の要因がある。その扉をあけると、角栄が現代世界を牛耳る国際金融資本ユダヤに終始距離を置き、中曽根が身も心もサインアップしていたことが分かる。為に角栄が罠を仕掛けられ、中曽根は如何なる窮地でも救われた。国際金融資本ユダヤは角栄を恐れるあまり失脚せしめた。中曽根は手駒に使うのに按配が良かったので利用され、褒美として大勲位の称号が与えられた。それだけのことである。

 中曽根芸は小泉に踏襲された。中曽根はレーガンと「ロン―ヤス」日米関係を取り持ち、小泉はブッシュと親密な関係を結んだ。これが小泉の歴代3位長期政権の秘密である。決して政治能力の為せる技ではない。中曽根よりもなお忠実に政策忠勤したことによってである。中曽根と小泉は何度も窮地を救われている。そのたびに云いつけられた通りのお仕事を命ぜられ売国奴してきた。それだけのことである。そう読み取ればよいだけのことである。こう読まない「名無しさん@3周年」氏の「角栄の政治能力より中曽根のそれの方が優った」論は何と愚昧なのだろう

 もとへ。田中角栄と福田赳夫の因縁の対決をもって「角福戦争」が云われる。確かに政治手法を廻って相容れざるものがあったので、「角福戦争論」には根拠がある。しかし、両者はハトタカ混交に特質を持つ戦後自民党政治の良き理解と実践者として土俵を同じくしており、その意味で「角福戦争」とは、同じ土俵上での同志的紐帯下での佐藤派相続争いのような観があり壮絶な権力闘争になった。しかし、例えて云えば、角栄と中曽根の関係との比較で言えば「近くて遠い」関係ではなかったか。このことを、越山会の金庫番・佐藤昭子女史は、著書「田中角栄ー私が最後に伝えたいこと」の中で、「角栄の角福戦争論」として次のように語らせている。

 「福田君と私が総裁の座を争うようになったのは、時の状況がそうさせたんで、好んで争ったわけではない。保守本流論からすれば、福田派と田中派は別な河の流れじゃないんだ」。

 田中角栄と福田赳夫の関係は上述の如く受け取るべきだろう。政治観そのものを廻ってもっと本質的な意味でことごとく角栄政治と対立しているのは中曽根康弘のそれではなかろうか。両者は奇しくも同じ大正7年生まれ同士である。余計ながられんだいこの親父も大正7年生まれである。だから、れんだいこは彼らの息子の世代となる。二人の政治は何から何まで見事なほど対比的であり、共に首相まで上り詰めた時代の双壁である。歴史は時にこういう演出をする。

 この「角栄対中曽根の深層での政治的対立問題」は是非とも明らかにしておかねばならないと考える。ボンクラマスコミの不明の見識、愚昧さは「角福戦争」のみ語り、角栄と中曽根は一見相通じているかの描き方を通説としている。「田中曽根政権」なる標語を生み出して得々としている。そういうジャーナリズムを見させられてきたが、それは表層しか見ない凡庸な見解であり、実は、角栄と中曽根は本質的に相いれないものであり、始終地下で暗闘していた。当然、側近取り巻きも然りである。

 戦前の大東亜戦争時代の兵役の肩書からして違う。角栄は新潟県生まれの陸軍上等兵、中曽根は群馬県生まれの海軍主計中尉。中曽根が戦地に赴いたことはなく、実際には女衒のようなことをしていたらしい。ちなみに兵役時代の上等兵的下位の肩書の者で首相になったものは角栄だけである。これが戦後民主主義の為せる技であった。角栄こそは戦後民主主義が生んだ蓮華であった。こう視座を据えるべきであろう。

 興味深いことに、両者の政治の始発からして次のように違う。角栄は、東京大空襲で焼かれた廃墟に佇み、深く戦後復興を思念し、得手とする土木建設から手始めし、その通りの政治家人生を全うした。これに比して、中曽根は、広島原爆を四国の高松から見て、これからは原子力の時代だと直感し、原子力利用を思念し、その通りの政治家人生を全うしている。両者は奇しくも1947(昭和22).4.25日の第23回総選挙で衆議院議員として初当選している。この時の同期に鈴木善幸も居る。

 両者健在の頃は、断然角栄が圧倒していた。角栄が戦後保守系ハト派に在籍しつつ順調に出世階段を昇って行ったのに比して、中曽根はタカ派に在籍しつつ常に傍流の悲哀をこぼしていた。角栄隆盛時代にあっては、中曽根は「三角大福」の中にも入れず、その後塵を拝しつつ軽挙妄動を繰り返していたに過ぎない。角栄は「中曽根君」と呼び、格下扱いしていた。これが史実である。

 2011.4.19日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評919 れんだいこ 2011/04/19
 【角栄政治と中曽根政治、福田政治との差異考その2】

 ところが、「ロッキード事件」以来風向きが変わる。角栄が捕縛される度合いに応じて中曽根の台頭が著しくなり、遂には中曽根の方が「田中君云々」なる傲慢不遜な謂いを為すようになった。角栄の生前中は貫目の違いで無理であったが、角栄が政治能力を失うや、こう発言するようになった。角栄全盛時代の史実は、中曽根は角栄の前では子ども扱いされる風見鶏に過ぎなかったと云うのに。

 1980年代前半、鈴木政権の後を受けた中曽根政権の登場により恐ろしいことが始まった。中曽根は日米の反動権力と結託して、「大国的国際責任論」、「戦後の総決算」を標榜しつつ、それまで営々と積み上げてきた世界史上未曽有の奇跡的復興を遂げ、その後の高度経済成長政策も成功裏に推移しつつあった戦後構造の見直しに着手した。

 これにより、角栄の日本列島改造論に基づく諸計画の解体シナリオに手を染めていった。「日本列島改造論」に対することごとくその否定に向った。これが、その後の日本経済失速の要因であると思われる。この解体計画が小泉政治に色濃く継承され、2011年現在は菅政治に引き継がれ今日に至っている。延々30年近くの解体事業のお陰で、今や気息えんえんとする日本に変わり果てている。

 この経緯に対し、今なお角栄を悪く云う者多い。対極的に中曽根が誉めそやされ続けている。こやつら、この歴史観に漬ける薬が欲しいと思う。一体、角栄政治のどこがオカシイと云うのか。れんだいこがことごとく論破して見せよう。一体、中曽根政治のどこがヨロシイと云うのか。れんだいこがことごとく論破して見せよう。

 こたびの福島原発事故により、いつ果てるともしれない危難が日本経済を直撃している。この政策を敷いた中曽根、1970年時点で早くも代替エネルギーをも視野に入れていた角栄。この両者の政治能力をそれとして評価する歴史論が、今ほど望まれていることはない。その起点に助する為にこの一文を捧げる。

 締めくくりとして、「角栄、福田、中曽根の寸評逸話」を確認しておこう。評論家の赤塚行雄氏は、著書「田中角栄の実践心理術」の中で歴代の首相田中角栄、福田赳夫、中曽根康弘の3人を比較する次のような寸評逸話を伝えている。

 「中曽根首相時代、ある自民党福田派の政治家が入院した。この政治家は日頃、角栄に対して批判的言動を繰り返していた。この政治家の入院を聞きつけて真っ先にお見舞いに訪れたのは、角栄だった。『国政のためにも、自民党のためにも、一日も早く治って、戻ってきてくれ』。角栄はそう云うと、ベッドに寝ている政治家の足元にそっと紙袋を差し込んだ。そしてそのまま帰った。中を開けたら紙袋の中に300万円が入っていた。

 次に、派閥のボス福田が見舞いに訪れた。一通りのお見舞いの言葉を述べた後、ぎごちない様子で、白地の封筒を取り出し、『こういう時だ。何かと不自由するだろう。これはほんの心ばかりのものだが』と云って差し出した。しかし、あまりにぎこちない福田の様子に、病人の方が恐縮し、『先生、お気遣いなく。私のことなら大丈夫ですよ』と礼儀として遠慮の言葉を述べたところ、『そうか、それならいいんだが』と、ホッとした様子で封筒を仕舞い込んだ。

 次に、中曽根がやってきた。一応の見舞いの挨拶を述べると、中曽根首相はおもむろに茶色の事務封筒を取り出して、『これ』と差し出した。病人は、福田のときに遠慮して貰い損ねたので、今度はその封筒を掴んだ。ところが、中曽根が、差し出したその封筒をなかなか放さない。お互いに封筒の端を握ったままの状態となった。『この政局の難局にあってはねぇ、君。政治家として心せねばならない要諦は云々』。中曽根はそう云いながらもなお封筒を放さない。封筒の端と端とを握り合ったまま『政治家たるもの、いついかなる時に於いても、初心に戻って己の云々』。遂に、病人の方が根負けして手離した」。

 この逸話は三者の性格を見事に描いている点で面白い。と云うか傑作であろう。これに匹敵するのが戦国武将の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のホトトギス譚であろう。これを確認しておく。江戸時代に松浦静山(まつらせいざん)が随筆集「甲子夜話(かっしやわ)」に書いた言葉とのことである。

 「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」が信長、「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」が秀吉、「鳴かぬなら鳴くまで待とう」が家康。これになぞらえれば、「要らぬでも、まぁ取っておけよ茶封筒」が角栄、「そうか要らぬのか、ならば返して貰おう茶封筒」が福田、「渡す前、説教づくめのただでは渡さぬ茶封筒」が中曽根ということになろうか。

 2011.4.19日 れんだいこ拝

【ロッキード事件の歴史的意味考】
 「ロッキード事件」は我が社会にどういう意味を持っていたのか。この観点から「ロッキード事件」が考察されることが少ない。れんだいこに見えてくるものは次の通りである。要するに、我が社会はこの事件を通じて「角栄的なるもの」から「中曽根的なるもの」へ一切委細が転換したのではないのか。この過程は革命でもなくクーデーターでもなく新種の政変として行われた。今から思えば、「ロッキード事件」から「ロッキード裁判」、「角栄の幽閉から死亡」へ至る過程は、「中曽根的なるもの」へ至る喧騒であり禊の儀式であった。

 2005年現在、「中曽根的なるもの」を偉大と評する論調がある。それについて、れんだいこはかく応える。「中曽根的なるもの」は卑大であって偉大なものでは決してない、むしろその政治思想は陳腐にして幼稚なものでしかない。この本質が、現代世界を牛耳るネオ・シオニズムに取り込まれ、上手にあやされている。中曽根政治を語る場合、ネオ・シオニズムとの親和性において露出的な面が有り、それが現下の小泉政治の先駆けとなっている。

 その意味で、「中曽根的なるもの」を語る意義が大きいというに過ぎない。この「語る意義」は、偉大なるが故のものではない。真に偉大であったのは「角栄的なるもの」であり、それが払拭されていった過程の歴史的意味が大きい故に、入れ替わるようにして台頭してきた「中曽根的なるもの」の考察の意義が大きいというに過ぎない。

 「ロッキード事件以降の一連の政治史検証」は、この構図に於いて貴重なのだ。それは、「中曽根的なるもの」が権力を恣(ほしいまま)にし始めて以来の日本の変態的変質化が、その後の我が国家の崩壊の下地を準備せしめたことを確認することになるだろう。それがネオ・シオニズムの日本溶解政策と奇妙なまでに一致していることを明らかにすることになるだろう。

 新野哲也氏は、著書「角栄なら日本をどう変えるか」の中で次のように述べている。
 「日本の金融機関と大企業の半分を乗っ取り、日本経済をウォール街の論理に切り替えるのがアメリカの最終目標だが、国益の為に邁進した角栄を悪玉に仕立て上げた現在の日本の支配階級は、その策動を撥ね付ける意地も気力も持ち合わせていないどころか、角栄とは全く逆の方向―国益を投げ出して保身と権力欲に汲々とするばかりで国益のことは端から頭に無い」。

 新野哲也氏の「角栄なら日本をどう変えるか」はロッキード事件の非道さを衝く好著となり得ている。日本政界の生態変化についても的確に表現している。が、肝心かなめの「角栄的なるもの」と「中曽根的なるもの」との相克史観が無い。「角栄VS中曽根」の構造解析を避け、福田、竹下、宮沢の小粒ぶりをなじる方向へすり替えている。故意か偶然か不明だが、その分値打ちを下げている。

 2003.7.22日、12.23日再編修 れんだいこ拝

【戦後日本の失われた帝王学考】
 「縄文と古代文明を探求しよう!」の「日本の帝王学〜各時代における支配者層の教育とは?〜7、戦後日本の失われた帝王学〜」転載。
 2014年05月27日 日本の帝王学〜各時代における支配者層の教育とは?〜7、戦後日本の失われた帝王学〜

 みなさんこんにちは★ 前回は、明治期の帝王学について、明治時代の富国強兵と近代国家を担う人材の育成について紹介してきました。明治期の統治者の論理は、何はともあれ、植民地支配の圧力を跳ね返すべく、富国強兵・殖産興業に代表される中央集権的な国を作り出すことにありましたが、それは共同体を解体することに他ならないものでした。そして、国家を食い物にする国際金融資本家(=金貸し)や欧米列強の思惑にはまり、官僚・軍部の暴走から、戦争へと突き進んでいく所までみてきました。今回は、終戦から1970年豊かさ実現(=貧困の消滅)までの時代をみていきます。この時代の帝王学はどのようなものであったか紹介していきます。応援よろしくお願いします!

 1.私権収束と背後に居る金貸し

 戦後の日本の人々は、自由・平等・博愛の名のもと私権闘争を正当化する近代思想、個人主義に洗脳されて私権に収束し、国も会社も家庭も個人も私権により統合されていました。日本人の持っている共同体性は根底に残しつつも、このときは私権性が共同体性を上回るほど私権に収束していたのです。その結果、市場は拡大し’70年豊かさを実現しました。なぜこのようになったかというと、裏には金貸しの戦略(市場原理で日本を支配し吸い上げる)がありました。実態は、金貸し支配の中で、彼らにいいようにされていたのです。

 <以下、参考記事> 金貸しは、国家を相手に金を貸す より金貸し支配の構造まとめ@ 

 2.共同体性を残し続けた為に実現出来た高度経済成長

 敗戦後の日本は高度経済成長に入り、’70年豊かさが実現されましたが、敗戦後の日本が短期間で高度経済成長を遂げることができたのは何故でしょうか。前述したように、実態は金貸しの思惑に踊らされて国民は私権に収束しましたが、それだけで他国に類を見ない急成長を遂げる事は困難なはずです。普通であれば己の私的権益を得るために他を蹴落とし、争いも起きるものです。しかし日本人は、私権に収束しつつも共同体性を残していたため一億総中流という言葉に象徴されるように、日本国民皆で豊かになりました。このような、お上や支配者と切り離された日本人特有の共同体性、勤勉性を母体にした国民性(労働観や企業理念)が日本の国力の基盤にあるのです。

日本人の労働観(働く事を美徳とする日本人の勤勉性の原点は?)

日本人の労働観についてネットで検索してみると、日本人の勤勉性の中心に江戸時代の仏教思想があり、生活の全てを修行と捉えるようになったことがその起源であると説明している例が多いようです。しかし、仏教思想は日本だけのものでは有りません。日本だけで仏教思想から勤勉性が育まれ、それも全国民の共通認識になったのですから、日本には仏教思想以前から、労働は良いこととする価値観が根強くあったと思われます。江戸時代以前に遡って、日本人の勤勉性が育まれたことを説明している事例を捜してみました。これには大きく二つあり、水田によって育まれたとする説と、原始共同体(縄文体質)が残存していたからとする説です。水田も説得力のある説だと思いますが、水田は日本だけではなくアジアには多くあります。これに対して、大陸では異民族による侵略、虐殺、服属によって原始共同体が完全に破壊されましたが、日本は異民族が渡来しても原始共同体を残存したまま、異民族を融合して来ており、これこそが日本の特殊性だと思われます。原始共同体では、仲間のために役に立ち、仲間に認められることが最大の充足源であり、だから自分が楽することよりも、人のため仲間のために働く事こそが良いことだという価値観が育まれたと思われます。この原始共同体の価値観=縄文体質が中心にあり、そこに水田、自然の恵み、仏教などの要素が加わることで、働く事を美徳とする日本人特有の価値観が形成されたと思われます。

 ○高度経済成長を実現させた母体ともいえる、企業経営の特徴については以下の記事を紹介します。

 日本型経営とは?(再考)

 日本人には、共同体のエネルギーと、勤勉な性格、高い規範意識があったために、私権収束しながらも、根底にある共認充足を基盤にみんなが豊かになるという方向(集団性)に向かえたのです。だからこそ高度経済成長が実現されたのです。一方で、経済成長が実現されましたが、益々日本は米国の圧力に翻弄されていき、統合者はついに日本を守るという視点を失っていきます。次に当時の日本の統合者についてみていきます。

 3.失われた日本の帝王学

 戦後の日本の統合者をみてみると、田中角栄までは一定私権に収束しながらも、日本古来からの帝王学(=共同体を守るという教育)に基づき、日本を守るという共同体意識を持ち合わせていた為に、金貸しの圧力にさらされながらも日本を本気で守るという視点がありました。しかし、ロッキード事件にて失脚してしまいます。その後の中曽根康弘は田中角栄と全く正反対で、金貸しの思うままに行動し、金貸しと手を結び、日本を欧米の属国へと導きはじめました。そしてさらに金貸しの圧力が高まり、その後の統合者は益々全体性を失い、金貸しの言いなりになっていきました。 

 <参考記事>

角栄政治と中曽根政治、福田政治との差異考その1よりリンク
〜前略〜
「角栄は権力を掴み取ることにかけては天下一品だったが、持続させる力は皆無だった。 中曽根は理念のない風見鶏だが、権力というものを知り尽くし、様々な形で利用しながら掌握していく手法は天下一品だった。 角は早々とポシャってしまったが、最後に笑ったのは中曽根であった」。

これが、角栄と中曽根を評する世間一般の見方なのだろうか。この見立てをどう評すべきか。れんだいこは異見を持つ。この論者は、角栄の政治能力より中曽根のそれの方が優ると云いたいのだろうが事実はどうか。れんだいこ史観によれば角栄の方が数段勝り、中曽根などは風見鶏であちこちするぐらいしか態を為さなかった。

その関係がロッキード事件を境に逆転する。なぜ角栄が失脚し、中曽根がその後の政局を握ったのか。これには秘密の要因がある。その扉をあけると、角栄が現代世界を牛耳る国際金融資本ユダヤに終始距離を置き、中曽根が身も心もサインアップしていたことが分かる。為に角栄が罠を仕掛けられ、中曽根は如何なる窮地でも救われた。国際金融資本ユダヤは角栄を恐れるあまり失脚せしめた。中曽根は手駒に使うのに按配が良かったので利用され、褒美として大勲位の称号が与えられた。それだけのことである。

中曽根芸は小泉に踏襲された。中曽根はレーガンと「ロン―ヤス」日米関係を取り持ち、小泉はブッシュと親密な関係を結んだ。これが小泉の歴代3位長期政権の秘密である。決して政治能力の為せる技ではない。中曽根よりもなお忠実に政策忠勤したことによってである。中曽根と小泉は何度も窮地を救われている。そのたびに云いつけられた通りのお仕事を命ぜられ売国奴してきた。それだけのことである。そう読み取ればよいだけのことである。

(後略) 

角栄政治と中曽根政治、福田政治との差異考その2よりリンク

ところが、「ロッキード事件」以来風向きが変わる。角栄が捕縛される度合いに応じて中曽根の台頭が著しくなり、遂には中曽根の方が「田中君云々」なる傲慢不遜な謂いを為すようになった。角栄の生前中は貫目の違いで無理であったが、角栄が政治能力を失うや、こう発言するようになった。角栄全盛時代の史実は、中曽根は角栄の前では子ども扱いされる風見鶏に過ぎなかったと云うのに。

1980年代前半、鈴木政権の後を受けた中曽根政権の登場により恐ろしいことが始まった。中曽根は日米の反動権力と結託して、「大国的国際責任論」、「戦後の総決算」を標榜しつつ、それまで営々と積み上げてきた世界史上未曽有の奇跡的復興を遂げ、その後の高度経済成長政策も成功裏に推移しつつあった戦後構造の見直しに着手した。

これにより、角栄の日本列島改造論に基づく諸計画の解体シナリオに手を染めていった。「日本列島改造論」に対することごとくその否定に向った。これが、その後の日本経済失速の要因であると思われる。この解体計画が小泉政治に色濃く継承され、2011年現在は菅政治に引き継がれ今日に至っている。延々30年近くの解体事業のお陰で、今や気息えんえんとする日本に変わり果てている。(後略)

 このように中曽根以降の統合者には、日本をどうするよりも、己の利権や地位を優先する統合者が台頭したといえるのではないでしょうか。このとき、日本古来の共同体を守るという帝王学も消え失せていたと考えられます。その後の日本は、金貸しに利益を持って行かれることを幾度となく繰り返します。 

 4.日本人の可能性

 統合者は全体的視点を失い、金貸しに都合良いいように日本の資産や文化等が欧米に奪われていきました。震災等の自然災害に何度も直面し、日本が失ったものは計り知れません。しかし、それでも日本人は何があっても立ち上がります。それはこれまでみてきたように、日本人はたとえ私権収束したとしても、深い部分に共同体性を残し続けている為、共認充足が私権充足を上回り、共認充足を母体にどんな困難からでも復活できるのです。これこそが日本人の可能性です。統合者が日本古来の共同体性に基づいた、共同体を守るという帝王学を失っても、国民は共同体性を失っていなかったのです。高度経済成長や幾度の復興を実現できた原動力は、共同体性を母体にした日本の国民性にあったのです。突き詰めれば、日本人のベースとして失われず残し続けている「縄文体質」こそが日本人の可能性です。

 <参考記事>
復活力。叩き潰されても復活しようと考えるのが日本人の特性だ
お正月特別テーマ【日本人の可能性2】日本人の資質(勤勉性・共同性・充足性) 

 このようにみてみると、共同体を守る視点を失った統合者など、もはや不要なのです。では、これからの日本に必要な帝王学、あるいは帝王学に代わるものとは何なのか。次回、シリーズ最終回でみていきたいと思います。最後まで読んで頂きありがとうございました!!


【角栄、福田、中曽根の寸評逸話】
 赤塚行雄氏の「田中角栄の実践心理術」で、歴代の首相田中角栄、福田赳夫、中曽根康弘の3人を比較する寸評逸話がまことしやかに伝えられている。
 「中曽根首相時代、ある自民党福田派の政治家が入院した。この政治家は日頃、角栄に対して批判的言動を繰り返していた。この政治家の入院を聞きつけて真っ先にお見舞いに訪れたのは、角栄だった。『国政のためにも、自民党のためにも、一日も早く治って、戻ってきてくれ』。角栄はそう云うと、ベッドに寝ている政治家の足元にそっと紙袋を差し込んだ。そしてそのまま帰った。中を開けたら紙袋の中に300万円が入っていた。

 次に、派閥のボス福田が見舞いに訪れた。一通りのお見舞いの言葉を述べた後、ぎごちない様子で、白地の封筒を取り出し、『こういう時だ。何かと不自由するだろう。これはほんの心ばかりのものだが』と云って差し出した。しかし、あまりにぎこちない福田の様子に、病人の方が恐縮し、『先生、お気遣い無く。私のことなら大丈夫ですよ』と礼儀として遠慮の言葉を述べたところ、『そうか、それならいいんだが』と、ホッとした様子で封筒を仕舞い込んだ。

 次に、中曽根がやってきた。一応の見舞いの挨拶を述べると、中曽根首相はおもむろに茶色の事務封筒を取り出して、『これ』と差し出した。病人は、福田のときに遠慮して貰い損ねたので、今度はその封筒を掴んだ。ところが、中曽根が、差し出したその封筒をなかなか放さない。お互いに封筒の端を握ったままの状態となった。『この政局の難局にあってはねぇ、君。政治家として心せねばならない要諦は云々』。中曽根はそう云いながらもなお封筒を放さない。封筒の端と端とを握り合ったまま『政治家たるもの、いついかなる時に於いても、初心に戻って己の云々』。遂に、病人の方が根負けして手離した」。

【角栄、中曽根の寸評逸話】
 2019/11/30付け田中良紹氏の「中曽根康弘と田中角栄―その裏面史」の興味深い下りを転載しておく。文中、田中角栄と中曽根康弘を比較する寸評逸話が面白い。
 (前略)中曽根氏を総理の地位に押し上げ、さらに大勲位という最高位の勲章を受章させることを考えたのは、ロッキード事件で逮捕され、有罪判決を受けた田中角栄元総理である。二人は47年の初当選同期だが、この世に生を受けたのも同じ1918年5月で、4日に生まれた田中氏が27日に生まれた中曽根氏よりわずかに年長だ。

 (中略)私が注目したのは児玉と最も近い政治家が中曽根氏であったことだ。児玉の秘書である太刀川恒夫氏は中曽根氏の秘書も務めていた。そして中曽根氏は防衛庁長官時代に対潜哨戒機の国産化を主張していたが、国産化は撤回されて日本政府はロッキード社製のP3Cを100機購入することになる。ロッキード社が国産化論者の中曽根氏をターゲットに児玉を通して賄賂を流した可能性はないか。それが当時の私の頭の中にあった。しかし特捜部に突然逮捕されたのは田中角栄前総理で、国民は「総理の犯罪」に大衝撃を受けた。容疑は全日空にトライスターを購入するよう働きかけ、5億円の賄賂を商社丸紅から受け取ったというものである。それまで社会部が原稿を書いてきたロッキード事件は、その日から政治部が書くようになり、田中の金権政治がやり玉に挙げられた。しかし捜査を指揮した法務大臣は中曽根派の稲葉修氏であり、中曽根氏は三木内閣を支える自民党幹事長、そして三木総理は田中角栄にとって最大の政敵であった。私には釈然としないものが残った。

 捜査は田中派の橋本登美三郎と中曽根派の佐藤孝行の二人の議員を起訴して終わり、佐藤氏は有罪判決を受け入れたが、角栄氏は一貫して無罪を主張し、徹底抗戦の構えに出た。私は一審判決が出る直前に「田中角栄の最後を見届けたい」と政治部に転じ、中曽根氏が総理を務める官邸担当の記者となった。

 一審で東京地裁は懲役4年、追徴金5億円の実刑判決を言い渡す。一方、角栄氏は無罪を主張して徹底抗戦を宣言する。国民や野党の中から「議員を辞めろ」の声が上がり、中曽根総理が直接角栄氏に議員辞職を要請することになった。ホテルで行われた二人だけの会談は1時間半に及び、二人で手を取り合って泣いたと言われる。何が話し合われたのかもはや知るすべはないが、ロッキード事件で無罪を勝ち取るために中曽根総理を意のままに操ろうとする角栄氏と、国民の声に応えなければならない中曽根総理の間で真剣勝負が行われたのだろうと想像する。角栄氏は議員辞職をせず自重自戒と称して政治活動を自粛することになった。

 そして角栄氏は中曽根総理に解散・総選挙を迫る。中曽根総理は渋ったが、党内最大派閥を擁する角栄氏に抵抗できない。年末に行われた総選挙で、自民党は過半数を割る大惨敗だったが、角栄氏は史上最高の票を獲得して甦った。この選挙直後に私は田中派担当記者となった。そして角栄氏の早坂茂三秘書から私邸に籠っている角栄氏の「話の聞き役」をやってくれと頼まれ、月に一度目白の私邸で角栄氏の話を聞くことになった。有罪判決を受けながら選挙で甦った角栄氏は次第に政治力を強めていく。「中曽根は絶対に俺の言うことを聞く」という自信にあふれていた。

 そして奇妙なことにロッキード事件で有罪判決を受けた佐藤孝行氏の中曽根派内における力も増していった。派閥の大臣推薦枠の筆頭は必ず佐藤氏である。まるで中曽根総理は佐藤氏に「借り」があるように見えた。その頃、中曽根総理の首席秘書官を務める上和田氏から突然呼び出しを受け、絶対に他の政治部記者に見られないところで秘かに情報交換したいと言われた。「中曽根内閣は角栄の支えがなければ1日も持たない。それで角栄の心中を知ると思える6人に人を張り付けている。ところが6人がみな違うことを言う。角栄は誰にも本心を明かさない。だから君の知っていることを教えてくれ。俺も中曽根の考えを君に教える」と上和田氏は言う。

 それから週に一度総理秘書官と秘かに会うことになった。38年間秘書として中曽根氏に仕えた上和田氏の話には味わいがある。「田中は天才だ」と上和田氏は言った。「ところが田中は天才と言われることを嫌う。努力して這い上がって来たと言われたい。中曽根は天才でなく秀才だ。努力して総理になった。ところが本人は天才と言われたい。秀才と言われると不機嫌になる。二人は何から何まで対照的だ」。

 角栄氏は中曽根総理のことを「富士山」と言った。富士山は遠くから見ると本当に美しい。ところが登ってみるとゴミだらけだと言うのである。そして有罪判決後に米国のキッシンジャー元国務長官が目白の私邸を訪れた時、「中曽根は中将クラスで大将の器ではない」と言った。

 角栄氏は「米国の虎の尾を踏んでロッキード事件に巻き込まれた」という説がある。中曽根氏がジャーナリストの田原総一朗氏にそう語ったためその説が広く流布された。独自の資源外交をやったことで米国に睨まれたというのである。しかしロッキード事件は世界各国で起き日本を狙い撃ちにしたものではない。共通しているのは反共主義者が秘密代理人であることだ。

 そして各国では誰も逮捕されてはいない。日本だけは三木総理が捜査資料を米国に要求し、東京地検特捜部の検事が米国で司法免責の上で得られた供述を基に角栄氏を逮捕した。角栄氏が死んだ後で最高裁はこの供述調書の証拠能力を否定している。

 しかし中曽根氏のリーダーシップを批判しながら角栄氏には中曽根総理を続投させる強い意志があった。大勲位となった今では考えられないが、当時の中曽根総理は小派閥を率いるだけで周囲は敵だらけだった。自民党内の福田赳夫、三木武夫、鈴木善幸氏ら長老は中曽根氏が大嫌い、社会党はもちろんのこと公明党も民社党からも嫌われていた。支持していたのは田中角栄ただひとりである。田中派の中にも何で中曽根を担ぐのかという不満があった。中曽根嫌いが大同団結して田中派の二階堂進氏を総理に担ぎ、中曽根再選を阻もうとしたことがある。二階堂氏は「中曽根は必ずあなたを裏切る」と言って角栄氏に翻意を促したが、角栄氏は中曽根再選を押し通した。

 (中略)上和田氏はダブル選挙の半年前に私にこう言った。「中曽根はダブル選挙を必ずやる。自民党全体が反対してもやる。中曽根は金丸さんとは違って善人でない。他人の傷口に塩をすり込むことのできる男だ。そして叩けばホコリの出る奴が大好きだ。しかし政治家としては凄い男だ。どうやってダブル選挙に持ち込むかよーく見ておけ」。その言葉通り中曽根氏は竹下氏の傷口に塩をすり込むことから始め、自民党全体が反対したダブル選挙を実現させた。その過程で二階堂氏に選挙用の資金が流れたとの噂もあった。そして安倍、竹下、宮沢の3氏に忠誠を誓わせ、竹下氏には消費増税を条件に総理を譲る。その結果、竹下政権が短命に終われば自分が返り咲くことを考えていると私は思った。

 また金丸氏からはこんな話を聞いた。「そもそも田中派は中曽根を総理にすることに反対だった。ところが田中のオヤジがどうしても中曽根だと言う。後藤田が何であんなおんぼろ神輿を担ぐのかと言ったら、オヤジがおんぼろだから担ぐんだと言った。そこで俺がオヤジの言うことが聞けない奴は派閥を出ろと言ったらみんな収まった。

 俺は大の中曽根嫌いで通っていた。その俺が賛成したのだから中曽根は恩義を感じたのだろう。総理になった時に料亭に呼ばれた。中曽根は畳に手をつき深々と頭を下げてあなたを将来幹事長にすると言った」。

 つまり中曽根氏は角栄氏のおかげで総理になれたのだが、その時から田中派の分裂につながる一手を打っていたことになる。それが中曽根再選を巡って自民党内を震撼させた「二階堂擁立劇」になると、金丸氏は中曽根再選に動き、その結果、中曽根総理を操ってロッキード事件の無罪を政治の力で勝ち取ろうとした角栄氏の力を削ぐことになった。

 (中略)田中角栄氏や中曽根康弘氏の政治を見てきた経験から言えば、日本政治もついにここまで来たかという気になるが、私にはどうしてもロッキード事件で田中角栄元総理を逮捕したところから、日本政治の歪みが大きくなり、国民には「タテマエ」だらけの情報しか与えられていない気がする。日本はいつになったらまともな情報国家になれるのだろうか。


【石塚狂ニ氏の中曽根政治批判】
 中曽根ほど悪いやつはいないと思っていたら、同様の観点の方が居られた。「石塚狂ニ氏の中曽根政治批判」がそれである。これは歴史的文書たる資格があると思えるのでこのサイトの内容を以下転載しておく。逐次れんだいこコメントもつけておく。
【中曽根康弘批判】

 中曽根康弘は、今や、政界の重鎮であるが、中曽根は嫌いだと言う者が昔から結構いるのは、中曽根に自己保身性が強く、心が足りないからであると思われる。そして、人も、全く育てない。人を育てない人間というのは、人は利用するだけである。中曽根には、人を育て、人が育ったら自分は一歩退き、その後見人になるという発想がない。その点で、竹下より、ずっと小物である。

(私論.私見)
 中曽根と云い小泉と云いネオ・シオニストのエージェントに共通するのがこの「ひとを育てず利用するだけ」のようである。

 2005.10.15日 れんだいこ拝
 政策面に関しても、中曽根は、極めて大きな失敗を幾つも犯している。経済を知らぬ中曽根は、アメリカの内需拡大要求圧力に負けて、民活路線なるものを敷き、バブルの引き金を引いた。リゾート振興法なるものを作り、日本列島をレジャーランド化しようとした。これは、言うべき言葉もないほどの大失敗である。この国は、今なお、バブルの大崩壊の痛手から立ち直れていないのである。国家と民族の途端の苦しみは、今なお続いている。
(私論.私見)
 ここは大事な視点である。角栄は、道路、河川、住宅、ダム、鉄道という公共的社会資本の充実に注力した。中曽根は対極的にリゾート、レジャーなぞ凡そ実体経済に寄与しない方面に注力した。そのさはあまりにも大きいというべきだろう。

 2005.10.15日 れんだいこ拝
 更に、アメリカの圧力に負けて、金融自由化路線を敷いてしまった。そして、日本の資金がアメリカを支える構造を造ってしまった。日本の資金がアメリカにいいように使われる構造を造ってしまった。これも、極めて大きな失敗の一つである。総じていえば、中曽根は、日本経済を大破壊したのである。
(私論.私見)
 ここも大事な視点である。「金融自由化路線」の是非はともかくも、「日本の資金がアメリカを支える構造を造ってしまった。日本の資金がアメリカにいいように使われる構造を造ってしまった」ことは史実であり、それだけネオ・シオニストの御用聞き政治をしたことになる。今、小泉がこの中曽根政治を継承し更に大胆にアメリカへ貢いでいることになる。

 2005.10.15日 れんだいこ拝
 教育政策においても大失敗をした。教育臨調なるものを作り、「自由化、個性化、ゆとり」などと言い、この国の教育を破壊した。現在の我々の苦労は、その誤りを直すための苦労に他ならない。総じて言えば、中曽根は、わが国の国力の基盤である民族の勤勉精神を大破壊したのである。この勤勉精神の立て直しは、現在のわが国の極めて困難な根本的課題となっている。中曽根に教育問題に付いて発言する資格は全くない。口幅ったいというものである。人を育てる心のない者に、教育を語る資格があるか。
(私論.私見)
 ここも大事な視点である。中曽根の愛国者ぶりはイチジクの葉であり、実態はネオ・シオニストのエージェントである。ネオ・シオニストは、愚民教育を押し付けており、中曽根がその政策を受け入れて以来教育の荒廃が加速度化した。つまり、現下の教育腐敗は政策の産物であることを知らねばならない。

 2005.10.15日 れんだいこ拝

 今なお続くこの十年の国難は、中曽根がもたらしたものである。中曽根は、物心両面にわたり、日本を大破壊したのである。中曽根は、戦後の政治家の中で最大の惨禍を国家と民族に与えたと言い得るであろう。このような男が、どうして、大勲位に値するのであろうか。勲章どころか、大懲罰に値するであろう。内閣府は、最低限のこととして、大勲位の剥奪をしなければならぬ。さもなければ、この国に、義は立たぬ。天と地が、逆さまになってしまう。お天道様が、西から昇ってしまう。賞罰を明らかにし得ない政府は、統治能力を有しないのである。

(私論.私見)
 正論である。

 2005.10.15日 れんだいこ拝
 中曽根は、権力大追求者に過ぎない。その本質は、権力亡者に他ならない。まず、田中角栄に擦り寄り、首相にしてもらい、首相になると、より大きな権力であるアメリカの権力に擦り寄り、国内における権力の地位をより強固にしようとした。かの「不沈空母」発言は、アメリカの権力に対する阿諛追従の象徴であろう。日本国が、アメリカの不沈空母であると、彼は公言したのである。日本国は、アメリカの利益のために存在していると、彼は、言い切ったのである。そして、日本国を、アメリカに売り渡した。売国奴という言葉は、君のためにある。
(私論.私見)
 まさしくその通り。

 2005.10.15日 れんだいこ拝
 そして、今なお、権力を追求している。自らの権力欲を満たすためならば、国家と民族がどうなろうと意に介しない。君に、日本の伝統や文化について発言する資格はない。片腹痛いというものである。彼の口から、日本の伝統と文化の中身を聞いたことがない。わび、さび、もののあはれと、単語を並べるだけである。君は、日本の伝統や文化を、全く理解してはいない。権力亡者に、文化がわかる訳がない。
(私論.私見)
 まさしくその通り。小泉然り。

 2005.10.15日 れんだいこ拝
 君は、自らの権力追求の手段として、日本の伝統や文化という言葉を濫用しているに過ぎない。君にとっては、日本の伝統や文化という言葉は、日本民族を抑え付ける手段に過ぎない。また、彼は、今のこの国の状況を、文明病などと言っているが、決して、文明病などではない。中曽根病である。文明病であるならば、先進国は、みなこの国と同じ状況に陥っていなければならないであろう。そうなっているであろうか。
(私論.私見)
 この観点からの中曽根批判は目新しい。首肯できる。

 2005.10.15日 れんだいこ拝
 中曽根は、角栄より遥かに劣る政治家である。角栄は、オイルショックの痛い経験にかんがみて、日本独自のエネルギールートを開拓しようとして、アメリカの怒りを買い、ロッキード事件の犯罪者に仕立て上げられてしまった。角栄は、経済の動脈であるエネルギールートをアメリカに完全に握られているのでは、日本経済は脆弱であると考えたのである。そして、その考えは、あまりにまっとうな考えであった。角栄は、日本の国益を考えて、行動したのである。
(私論.私見)
 角栄観及びロッキード事件に対する観点も素晴らしい。

 2005.10.15日 れんだいこ拝
 だが、この国の角栄の政敵である政治家やマスコミや法務当局は、角栄を守らなかった。角栄が、死んだその日に私の所にやって来て涙ながらに訴えたかった事は、その事であったのであろう。角栄よ、心配しなくてよい。私は、わかっている。政府は、角栄の名誉回復を行わなければならないであろう。
(私論.私見)
 「角栄の名誉回復」、実にその通りである。

 2005.10.15日 れんだいこ拝
 それに引き換え、中曽根は、アメリカの権力に擦り寄るのみであった。この度の加藤の変を潰した黒幕も、中曽根である。自らの権力基盤が揺らぐことを恐れたのである。実をいうと、中曽根は私と同郷ということもあり、また、内閣府システムを実現過程に入れてくれた事に対する感謝の気持ちもあって、彼の悪い所には目をつむってきた。それどころか、彼にはこれからもできるだけ働いてもらおうとさえ、していた。

 だが、中曽根は、郷土愛など、かけらも持ち合わせていなかった。権力亡者に、郷土愛などある訳がない。日本民族に対する愛情など、ある訳がない。日本文明に対する理解と愛情など、ある訳がない。愛国心など、ある訳がない。私がお人好し過ぎたのである。私の不明の致す所である。私も、情を絡めると、どうしても誤る。しかし、統治から情を完全に消し去ってしまう事はできない。それは、誤りでもある。人の温もりが全く感じられない統治が行われている国には、誰も住みたくはないであろう。難しい所である。この辺りは、手痛い失敗を重ねながら、知と情のバランス感覚を磨いて行くしかないのであろう。
 この問題は、本質的に、人事の問題であることに気が付いた。人事に、完璧ということはあり得ない。いや、人事は、正誤の問題ではない。人事は、本質的に、極めて制約された状況下における選択の問題である。(大の7350000乗発明。2001年1月13日午後10時39分頃。)そして、その不自由な選択が、当たったか外れたかという問題である。何故なら、第一に、人の能力であれ、人間性であれ、見えない部分が非常に多く、その点において、判断基礎が極めて制約されている。それゆえ、ある仕事については当たったが、他のある仕事については外れたということも大いに起こり得るのである。

 また、第二に、その役にぴったりとはまった理想の人材など、いるものではない。その点において、人材の量と質それ自体が、極めて制約されている。高度な仕事になればなるほど、その制約性は大きくなる。人事の理想を持っていたとしても、理想の人材が現実にいなければ、いる者の中から選ぶしかない。そうやるしか、やりようがないのである。

 それゆえ、人事というのは、常に、頭が痛くなる仕事である。人事は、最後は、エイヤーとやるしかないのである。こういう実質的人事をやろうとすると本当に大変なので、多くの役所や会社は、形式的基準による人事に走ってしまうのであろう。(このことは、つい最近、内閣府戦略科学技術研究所の最高幹部人事構想づくりをやって、痛切にわかったことである。)
 中曽根は、内閣府システムについても、私から原案を受け取った事実を消そうとして来た。そして、自分が原案者であるかの如き顔をしようとしていた。まさに、盗人根性猛々しいと言わざるを得ない。そうすることによって、己の権力基盤を強化しようと図って来たのである。そして、最近、この国最大のガンは中曽根であることに、はっきりと気が付いてしまったのである。まざまざと、見せ付けられたのである。

 嗚呼、なんということだ。この国の最大のガンは、中曽根であった。中曽根こそが、アメリカの最大の回し者である。彼が日本の伝統だ文化だというのは、そのカモフラージュに過ぎない。他にもアメリカの回し者がいるが、このように手の込んだことをする者は、一人もいない。中曽根は、悪質である。中曽根康弘よ、君には、直ちに死ぬことを許さん。生き恥をたっぷりとかいてから、死すべし。 

(百点。2000年12月25日。26日、加筆する。2001年月13日、14日、19日、加筆する。

Copyright (C) by 石塚狂ニ 1999〜2001.) 

(私論.私見)
 「中曽根こそが、アメリカの最大の回し者である」、実にその通りである。

 2005.10.15日 れんだいこ拝




(私論.私見)