田中角栄の政治論政策論

 (最新見直し2011.9.14日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、田中角栄の政治政策論を一括しておくことにする。れんだいこツイッターに「田中のような利益誘導型政治の歴史は古く(以下、削除され不明)」なるツイートが寄せられ、これにコチンと来たれんだいこが、「田中のような利益誘導型政治の歴史は古く」とあるが、。どこがどう利益誘導型政治なのか説明して下さいとリツイートしたところ、返答の代わりに「推薦文書の読書の薦め」なるものをいただいた。こんなのありかよ。

 未だに返事がない。この御仁に悪意はないのだろうが臭い。おまけに、いつのまにか当該ツイートが消されていると云うお粗末なことになった。この御仁を仮に「推薦文書の読書の薦め氏」(略して「推薦氏」)と命名する。「推薦氏」よ、れんだいこは「推薦氏」が憎いのではない、そこは分かってほしい。質問に答える代りに読書を薦める自称インテリが多過ぎるので、そういう傾向の右代表としてバッシングしているに過ぎない。とんだ被害者であろうが、今時珍しいそういう作法の矯正師としてのれんだいこを拝せ。

 せっかくのついでに、転んでもタダでは起きぬれんだいこは、この機会に「田中角栄の政治論政策論」をサイト化し「れんだいこの角栄論」に追加しておくことにする。ネット検索したところ、「ふじむら掲示板」のバード氏の投稿文を目にした。早坂茂三氏の「田中角栄回想録」(小学館:1987年)を書き写し(その労を謝したい)、これに秀逸なコメントを付している。これを転載させていただく(多少編集替えした)。これにれんだいこの私見私論を加えた。味わってほしいと思う。

 2011.9.14日 れんだいこ拝


 [6008] 田中角栄の基本思想 投稿者:バード 投稿日:2007/10/28

● 経済についての基本思想
角栄

 まず、今の経済をわたしがどう見ているか、それからしゃべっておこうや。これからの日本経済、産業構造、これをどうするかといえば、とにかく二次産業の比率をもっと上げることだ。……二次産業の比率をもっと高める一方で、三次産業の比率をなんとか50%に抑える。これが必要だよ。つまり、一次と二次を合わせて50%、三次が50%、それがわが国の産業の構造のあるべき限界だ。一次産業と二次産業の合計が50パーセントを割るとね、これは相当、物価に響いてくる。当然だ。物をつくらない人の方が多いんだから。ただ、これからは産業構造が急ピッチで変わってくるから、今後はね、量的な拡大をめざす産業は難しい経営を迫られてくるということはあるよ。それでもしかし、一次産業と二次産業を合わせて50%を割らないようにもっていく。これが西暦2000年までの目標だ。(p.79-80)(早坂茂三『田中角栄回想録』小学館:1987年)

バード

 田中角栄によれば、第三次産業は50パーセント以下に抑えること、という。では、現状はどうかと調べてみると、2005年現在では、15歳以上就業者数(6151万人)を産業3部門別にみると,第1次産業は315万人(15歳以上就業者数の5.1%)、第2次産業は1592万人(同25.9%)、第3次産業は4138万人(同67.3%)
 http://www.stat.go.jp/data/kokusei/2005/sokuhou/03.htm
となっている。角栄構想からすれば、第2次産業比率が、非常に少なくなっていると言える。現状は、欧米の先進国並みである。現状がいいのか、角栄構想の方がいいのか。欧米先進国の経済は、格差拡大の経済であり、停滞した脆弱(ぜいじゃく、もろくて弱いこと)な経済であり、決してよいとは思わない。日本はそれを真似るべきではないと思う。

 第2次産業比率低下は、プラザ合意(1985年9月)以降(中曽根内閣時代)から進んだ「産業の空洞化」が大きく影響している。このプラザ合意は、中曽根首相、竹下登大蔵大臣のときで、田中派クーデター、角栄が病に倒れた年である。プラザ合意によって、円高基調となり、景気刺激理論の出現によって信用創造の増大、公定歩合の抑制が行なわれる。これによって、・金融資産の国外(アメリカへの)逃避。・輸出製造業の国外(アジアへの)逃避。がおこる。中曽根内閣以降、第2次産業比率の低下、空洞化に歯止めがかかっていない。中曽根政権は意図的ではないにしても、産業の空洞化を急速に促進したのだ。

れん  角栄のこの「一次二次産業人口50%維持論」は極めてまともな論だ。問題は、この論が金融、証券等に寄生する国際金融資本帝国主義派には具合が悪い論になっていることにある。ここでは就業人口を述べているが、同じ論法で所得分配論へと向かうことになる。国際金融資本帝国主義派は、これを恐れる。そういう具合の危険性を秘めた角栄の正論であることを見抜かねばなるまい。(2011.9.16日 れんだいこ拝)

● 国土総合開発についての基本構想 
角栄

 新しい国土利用というものが何から始まるかといえば、それは交通網の整備と公共投資だ。そこのところを政策として体系的に述べているのが、昭和43年5月に発表された「都市政策大綱」だ。これは私が自民党の都市政策調査会長として1年2ヶ月かけてまとめたものでね、私の「日本列島改造論」の原点であると同時に、その後の歴代政権にとって国土政策の基本憲章となったものだ。私はこの「都市政策大綱」のなかで、新しい国土利用のカギは交通網の整備、公共投資、とりわけ先行投資であると指摘した。その後の発展はどうかといえば、37万8000平方キロの日本列島は今や新幹線と高速自動車道路網の整備で、時間距離が革命的に短縮されているじゃないか。こういった交通網の整備が、通信網の整備と合わせて日本経済に活力を与え、国民生活を格段に便利にしてきたということは、まさに事実が示しているんだ。だからわたしは、新幹線網をさらに全国に繰り広げ、高速道路のネットワークをさらに細かくすべきだと、そう確信している。(p.102)(早坂茂三『田中角栄回想録』小学館:1987年)

 昔はね、全国平均でも田んぼは一反150円から300円だった。一反というのは300坪だ。昔は小学校を出てから30年、工夫をしたり工場で働いたりすると、3000円の退職金がもらえた。そうすると、1反150円の田んぼが1町歩は買える<1町は10反のこと>。これで1500円だ。次に、家を立て直すか修理する。ついでに墓と仏壇を買っても、全部で750円から1000円で済む。つまり田んぼを買って、家を新築しても、最低500円から750円は残るわけだな。それが昔の農村における、まァ中級の生活だったんだよ。30年まじめに働けば、それだけの財産が得られたんだ。(p.103)(早坂茂三『田中角栄回想録』小学館:1987年)
 じゃあ、今はどうか。今大学を出て30年働いて、退職金は2000万円から3000万円くらいだな。実際は1700万から2500万の手取りだが、年金もあるから4、500万円のかさ上げになるかもしれない。しかし、これでどれほどのものが買えるかね? 高いところでは6000万も退職金を出すところもあるが、これにしたって昔と比べてけっして高くはない。ということは、要するに、全国的に見て、今は富の平準化が行われているということだ。日本ほど完全に富が平準化している国は他にない。だから本来からいえば、3000万円の退職金をもらったら、1町歩、3000坪の土地は買えなくても、せめて100坪の宅地が買えなくてはならない。100坪というと、坪10万で1000万円だ。そして家を建てる。土地は30坪では狭すぎる。だから100坪。誰でも働いてきた者は100坪の宅地が買えて、持ち家が建つとなれば、団地やマンションに住んでイライラしている国民の気持ちもガラリと変わるよ、これは。それは夢でもなんでもない。実現できることなんだ。それが難しいというのは、東京を中心にして考えているからだ。それじゃどうするか。全国に10の基幹都市をつくり、それを要にして、さらに100の人口25万都市をつくればできることなんだ。その25万都市に、大学を置き、基幹産業を一つ立地すればいい。それも重工業ではなく、付加価値の高い知識集約型産業をね。給料も今では全国的に平準化しているんだから、企業としても安定的な労働力が得られれば、地方に立地したほうが得策だよ。知識集約型産業は部品工業になっているから、組立てだけやればいい。今は自動車産業だってそうだし、すべての輸出産業もそうなっている。そうした産業があれば、25万都市はじゅうぶんに生きていけるよ。(p.103-104)(早坂茂三『田中角栄回想録』小学館:1987年)
バード  田中角栄には、国民はみんな、100坪の宅地に家を建てて住もうじゃないか、という基本思想があった。角栄の構想は、大動脈、大静脈、毛細血管のように、鉄道と道路を整備した時、その毛細血管にも知識集約産業(部品工業)によって人々が住んでいる、このような国土にしようというものだ。これでJR(国鉄)赤字路線問題は大幅に解消されることになる。

 福田首相の第80回国会の施政方針演説(1977年1月31日)は、「農林漁業者が誇りと働きがいを持って農林漁業にいそしめるよう、その体質の強化を進め、食糧自給力の向上を図ることを長期にわたる国政の基本方針として、生産基盤および生活環境の整備、需要に即応した生産の増大、生産の担い手と後継者の確保等、農林水産施策の拡充に努める所存であります。(中略) 政府は地方公共団体の行財政が適切に運営されるように、明年度予算でその財源確保などの措置を採りました。地方公共団体におかれましては、新しい転換の時代に対応して、自主的な責任でその行政を合理化し、効率的な運営をされるよう期待します。(中略) 住宅の量的拡大もさることながら、今後はその質的向上に目標をおき、住宅金融の充実、公的住宅の供給の確保などに努力し、また地価の安定、宅地供給の促進等対策に困難を伴うものについても、一層真剣に取り組んでいきたいと思います」と言っている。(福田赳夫『回顧九十年』岩波書店、1995年、p.359-360)。ただ漫然と地方行政の適切化、住宅の高級化を言っているだけであり、地方を積極的に開発する視点がほとんど皆無である。実際、相も変わらず大都市および大都市周辺に建てられたのであり、宅地の広さは満足できる広さではなかった。鉄道と道路の整備に連動することはなかった。

 中曽根内閣の87年6月には総合保養地域整備法(リゾート法)が成立し、全国の鄙(ひな)びた農村や漁村が、こぞって高級別荘地やテニスクラブやゴルフ場、ヨットハーバーに姿をかえようとしていた。ほとんどの日本人が、薔薇色の未来を信じていた。経済は右肩上がりで、どこまでも発展していくかのように思えた。(宮崎、前掲書p.18) しかしこのようなリゾート開発は経済的な波及効果が少なく、開発で生み出される資産は価値が小さいものだった。これらは日本経済の資産を大きく増やすことにならないし、鉄道や道路など既存の資産価値を維持発展させる力もない。

れん  この下りの角栄節は角栄以外には誰もできない。まさに政治と経済と生活が如実に結び付いているサマを見て取ることができる。実学政治の祖たる角栄を拝するべきだろう。こういう蘊蓄は西欧学を学んでもなかなか見出せまい。国際金融資本帝国主義派のテキストには皆無の学問である。戦後の学者は国際金融資本帝国主義派のテキストばかり学び箔をつけるので、学んだ結果がバカになる。そういう手合いばかりである。それに比べて、角栄のこの生き生きとした政治論はどうだ。感嘆する以外あるまい。(2011.9.16日 れんだいこ拝)

● 農村政策についての基本思想
角栄

 今の農村に二次産業を持ち込んで、それで家計収入を拡大するようにする。今の農業理論というのは、農家だけの収入で二次産業や三次産業の平均収入まで平準化させようとしているわけだろう。しかし、それを実現するのはなかなか難しいことだ。だから、たとえば漁村で魚を水揚げして消費地に送るだけでなく、現地に缶詰工場をつくって、取れた魚を缶詰にして売り出せばいい。それなら働き場所が増えるし、漁村全体の収入も増えるわけだ。漁村全体が裕福になれば三次産業も入ってくるよ。それで万事うまくいく。農村地帯にしてもだよ、二割減反をさせておいて、減反地には雑穀だけをつくれ、農産物以外のものをつくってはならんと、そんなふうに縛るのはおかしいんだ。農業に関するものというなら、肥料工場や農機具工場をつくる手だってあるじゃないの。これは二次産業の導入になり、農家の人たちは居ながらにして働き場所を得られるんだ。全体の家計収入も増える。要するに、農業政策というのは、純農政という狭い視野に立つのではなく、広範な総合農政を採用して展開することである。これはもう明らかなことなんだよ。(p.175-176)(早坂茂三『田中角栄回想録』小学館:1987年)

バード

 田中角栄の農村政策、農業政策は、『列島改造論』の一村一工場などと密接に連動しているのが分かる。そして角栄の思想によれば、そのなかから都市化するに至る農村がでてくるのである。先週、NHKで農家・農業自立問題として討論番組があったが、案の定、農業だけでどうすべきかという観点で議論していた。それで大農経営者が威張っていた。農業だけで家計が成り立たないなら、廃業しろという勢いだった。田中角栄の思想はもう忘れられていた(もしくは初めから伝わっていなかった)。

れん  実学政治の祖たる角栄は、第一次産業の農業論、漁業論、林業論から積み上げて土木論、工業論、産業論、通商論その他各界の論へと政治を構築している。そしてそれぞれの来るべき時代に適合する論をぶっていることになる。拝聴せよ拝聴せよだろう。(2011.9.16日 れんだいこ拝)

● 都市政策についての基本思想
角栄

 日本人は、都市づくりというと、まず家をつくる。外国人はそうじゃない。はじめに道路をつくり、鉄道を敷き、駅をつくり、スーパーと学校を建てるんだ。だから、アッという間に人間が集まってくる。日本人はまず団地をつくる。これは陸の孤島だ。そして200戸も入居したら、医者がいく。300戸になったらパーマネント屋が腰を上げる。500戸になるとバスが入ってくる。それまではどろんこ道か砂利道を、徒歩か自転車かマイカーで遠い駅まで往復するんだね。これじゃあダメだ。道路の建設が先決なんだよ。世間はこのごろ、ようやくわたしを都市計画の専門家と認めるようになったけど、今までわたしのいうことを聞かなかったから、ものごとが万事さかさまになっているんだ。これまでのそういう後追い投資をやめて、国民が新天地へいっても生活に不便を感じないところまで、先行投資をすることだ。

 日本人には道路、学校などは全部、公費でやれ、お上がやるべきだというような気持ちが強い。そうだろう。しかし、自分たちに必要なものは地方自治体と一緒になって自分で設計図を書いてみるべきなんだ。民間デベロッパーには、土地をただで提供するから、まずそこに学校をつくってくれ。1000個以上の住民が住むのだから、この土地の半分はお医者さんに渡す。だからきてくれ。スーパーも真っ先に建てる。こんな具合に、新しい都市づくりを進めたらどうかね。こうしなければ、団地をつくっても誰もいかないんじゃないか。こういった手順、方法に従って、わたしも面白いからひとつ、地域開発を手がけてみたいと思っているんだ。(p.115)(早坂茂三『田中角栄回想録』小学館:1987年)

バード  これが角栄の思想である。このような都市開発はほとんど行なわれたことはないであろう。これが角栄の思想であるが、この実現には、官民の徹底した話し合いと強い合意が必要だと思う。官民一体でなければ、不可能なことであった。だからマスコミがこれを妨害すれば、官民、つまり日本国民がよほどしっかりしなければ、このような開発は進まなくなり、話し合いすらも進まなくなってしまう。マスコミは「角栄は金権政治家で、汚れた金脈にまみれている」と書き立てて官民を分断し、角栄の考えが国民に伝わらないように妨害したのである。(もちろんマスコミは、アメリカを乗っ取り、世界を乗っ取ろうとするエスタブリッシュメントの意向(命令)に沿ったまでのことである。) このマスコミによる妨害は結局、成功したのだ。(了)
れん  角栄の社会人第一歩の職業が土木であり、角栄はこの元一日の就業世界から社会眼力を磨きに磨いた。「都市政策大綱」、「日本列島改造論」はその精華だった。角栄が政治家にならず建築士、建設業の世界のままに歩んでいたら日本一のゼネコン企業にしていた可能性が大いにある。とはいえ政治の壁に阻まれたかも知れない。(2011.9.16日 れんだいこ拝)


 [6003] 田中角栄の「行政改革」論 投稿者:バード 投稿日:2007/10/24(Wed) 21:45:19◆ 日本にはもう希望はないのかも

 連日、「税制改革」が論議されているらしい。このところ毎年の恒例行事になった感すらある。これが今後も毎年、延々と続くのだろう。先の大東亜戦争の敗因は、一言でいえば日本の指導者の無能であった。現代も同じく指導者の無能によって、日本経済(日本の暮らし)はどこまでも崩れていくのだろう。経済をゼロサムとしか考えられない、あわれな人たちだ。小室直樹氏に一言、相談すればいいものを。

(転載貼り付けはじめ:NIKKEI NET より)
(10/6)ふるさと納税、研究会が報告書提出
(10/7)自民の伊吹幹事長「消費税率引き上げ、将来の課題」
(10/10)法人二税見直しを確認――自民特命委、11月めど具体案
(10/10)配当課税、税率軽減で年3000億円減収・財務相が試算
(10/11)政府・与党、格差是正へ法人2税の配分見直しを検討
(10/12)増田総務相「乱暴な議論好ましくない」、法人2税配分法見直し
(10/12)公益法人、寄付優遇を拡充・政府税調
(10/14)増田総務相「消費税の地方分を2%に」
(10/15)税収格差対応へ「消費税上げを」・分権委で石原都知事
(10/16)中小の相続税8割軽減――非上場株事業承継、雇用維持など条件
(10/17)社会保障の給付額維持、消費税率10%台が必要・25年度、内閣府試算
(10/18)消費税最大2.5%上げ必要、諮問会議が内閣府試算を了承
(10/19)自民財革研、消費税含め歳入構造見直し
(10/19)年金法案、25日にも審議入り・参院議院運営委員会
(10/21)法人2税再配分、宮城など5知事が「反対」
(10/24)自民内の税財政論争、成長重視派巻き返し
(10/24)基礎年金全額税負担で、消費税5―7%上げ必要・諮問会議試算
(転載貼り付けおわり:NIKKEI NET より)

● 田中角栄の「行政改革」論  早坂茂三『田中角栄回想録』(小学館:1987年)を読むと、角栄の「行政改革」は次の四項目であると思われる。
角栄

① 自民党や役所の上のほうで大きな方針や対策を決め、それを各行政機関(省庁)の政策として採用させること。(早坂茂三『田中角栄回顧録』P.129-132)

 自民党(与党)や大臣や次官、局長など、上で政策を決め、各省庁にそれをやらせる。それでもし省庁で反対だというなら、対案を出させて、上で改めて取捨選択をするようにする。このようにすれば、役人の数は今の十分の一で済む。そして、役所の明確な責任体制ができる。そのためには、公務員の総定員を今の半分に減らして、逆に局長を今の三倍にも五倍にも増やすのがいいんだ。これが角栄の考えだ。そうすべきだが現状はどうかというと、上のほうでは、大臣は一年で代わるし、次官、局長も一年そこそこ。ところが“窓口天皇”は何年もそこにいる。いちばん権限の小さいものを役所の窓口に配し、しかも人を変えない。官庁では、実際に仕事をやっているのは下のほうの連中だ。大臣はポカをやると国会で首を切られるだけで、仕事のうえの実際的な責任を負う体制になっていない。

 毎年8月31日に、財政法によって次年度予算の概算要求書を出すときにも、各省庁の下の連中が徹夜して仕事をやり、それが大蔵省主計局の総務課長のところでまとめられ、次に主計局次長まで上がってくるときは、もう大半の予算が固まっている。だから予算の本番になって、自民党(与党)があれこれ要求しても、もう「認められません」と断ってくる。大臣はその断り役をさせられているにすぎない。これでは大臣は責任のとりようがない。

 役所の責任体制を確立するには、次官や局長、課長は少なくとも三年ぐらいはひとつの仕事をやらなければだめだ。ところが、次官や局長や課長は、一年そこそこしかいないから、その課の仕事を全部は覚えきれず、実際の権限を持ち、仕事の切盛りをしているのは万年係長の“窓口天皇”なんだ。だから、予算編成の仕事も、下の連中がすることになる。それで、非能率で、責任の所在が不明の体制になっているのだ。これにメスを入れなければ、役所の欠陥はいつまでたっても直らんよ。戦後、アメリカ占領軍が、民主化、自由化の名のもとに今の制度に変えたわけだ。なんでも下からすることになった。それで行政機構が、大きくなりすぎた。行政機構が肥大化しすぎると、国民の方がそれを背負いきれない。そこで行政改革の必要が出てきたわけだ。

② 極力民間の能力を活用すること。(早坂茂三『田中角栄回顧録』P.133)

 現在のわが国くらいに(民間レベルが高く)なれば、国防と治安と教育と、国家政策の基本方針だけは国に税金でやってもらい、あとは全部、民間でやることだよ。官僚機構がすべてを取り仕切るなんていうのは、社会主義化発展途上国の考え方だ。国家予算でも、一般会計の仕事をできるだけ財政投融資にもっていく。財政投融資の仕事はなるべく民間に譲る。銀行行政の仕事は証券行政に移行させ、最後には税制を上手に運用していく。民間企業活動の誘導は税制の運用で行ない,直接規制はできるだけ政府はやらない。このようにしないと、行政機構の権限の縮小ということはやれないよ。これが先進国の理想の姿なんだ。そこまでもっていく行政機構の改革は、最低でも十年はかかるとみなけりゃならんだろうが、要は民間の活力、能力を十分に認識して、すべての面で民間を対象にしていくということだ。

③ 現行の法律を半分に減らすこと。(早坂茂三『田中角栄回顧録』P.133-134)

 行政改革を断行するには、現行の法律を半分に減らすことが必要だ。だいたい、役人が法律をつくっていると律法の精神が途中で曲げられて、法学士が国民を押さえつけるのに都合がいいようなものになってしまうんだ。国民の権利を束縛する場合は、どんな小さなことでも法律によらなければいけない。この憲法の精神なんかは、どっかへ吹っとばされてしまう。役人に任せておいたら、国民の権利が縛られる法律ばかりができて、それが山のようにたまっちまった。これが今のありさまなんだ。だからね、法律を半分に減らす。つまり、役人も法律も半分にするというのを行政改革の大目標にすべきなんだ。

④ 行政の実態を国民にわかりやすくして、陳情を国民の憲法上の大権(権利)と受け止め歓迎すること。(早坂茂三『田中角栄回顧録』P.134-135)

 現代は、陳情の時代なんだよ。陳情といういい方が悪ければ、主権者の提言といってもいい。マスコミは陳情政治がいけないようにいうが、そういうものさしこそ旧憲法思想なんだ。ものの見方が逆立ちしている。国民が立法府や行政府に対して、あれをしてくれ、これをしてほしいと陳情するのは、株主が取締役会に対して累積投票権を要求するのと同じ。主権者の請願、陳情権は憲法上の大権といっていいんだ。ところが、主権者がいざ陳情権を行使するとなっても、どこの役所へいってどうすればいいのか、なかなかわからない。たとえば、総理府はいったい何を統轄するのか、総理大臣と防衛庁長官のあいだに総理府総務長官が立っているのかどうか。国民の目から見て、その辺がどうもハッキリしない。要するに、行政改革を進めるには、行政の実態をまず国民にわかりやすくすることだ。そして主権者が陳情や許認可を受けにきたとき、どこどこを回らなけりゃダメだ式のタライ回しをさせられないようにする。…だから行政機構だって、どこかの役所の窓口へ行って内容証明をぶつけたら、返事が一カ月以内に自動的に届くようにしなければいけない。とにかく、役人が民には知らしめず、依らしむべしなんて思い上がり、生意気になっている行政ではだめなんだ。彼らが国民のために、まじめに能率的に仕事をするようにするためにも、行政の簡素化が絶対に必要なんだよ。

れん  一芸に秀でる者は万芸に通ずると云う。角栄の「行政改革論」然りで秀逸さを見て取ることができる。これを逆に云えば、凡庸、ボンクラ者が「行政改革」すれば滅茶苦茶にしかし得ないという恐い話になる。実際には恐い話ばかりだ。(2011.9.16日 れんだいこ拝)
バード

 以上が、角栄の「行政改革」論である。非常に明確であるし、また重厚な思想を持ったものである。ここまで考えている政治家は、日本には中々いないのではなかろうか。

● 実際の行政改革はどうだったか

 《行政改革》 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 行政改革(ぎょうせいかいかく)とは、政府や地方自治体の行政機関において組織や機能を改革することである。略称は行革(ぎょうかく)。

1 歴史
1962年 臨時行政調査会(第1次臨調)が、設置される。
1981年 第二次臨時行政調査会(第2次臨調)が、設置される。
1983年 第1次臨時行政改革推進審議会(第1次行革審)が、設置される。
1987年 第2次臨時行政改革推進審議会(第2次行革審)が、設置される。
1990年 第3次臨時行政改革推進審議会(第3次行革審)が、設置される。
1994年 行政改革委員会が、設置される。
1996年 行政改革会議が、設置される。
1997年(平成9年)全閣僚による「公共工事コスト縮減対策関係閣僚会議」(以下、関係閣僚会議)が設置される。
1997年(平成9年)「公共工事のコスト縮減対策に関する行動指針」が、関係閣僚会議で策定される。対象期間は平成9年度から11年度末まで。
1998年(平成10年)中央省庁等改革基本法が、成立する。
1999年(平成11年)「行政コスト削減に関する取組方針」が、閣議決定される。目標は10年間で行政コストを3割削減。
2000年(平成12年)「行政改革大綱」が、閣議決定される。
2000年(平成12年)「公共工事コスト縮減対策に関する新行動指針」が、関係閣僚会議で策定される。対象期間は平成12年度から20年度末まで。
2001年(平成13年)中央省庁等改革基本法に基づき、中央省庁再編が行われ1府12省庁に移行される。
2004年(平成16年)「今後の行政改革の方針」が、閣議決定される。
2006年(平成18年)簡素で効率的な政府を実現するための行政改革の推進に関する法律(行政改革推進法)が成立する。

 御覧のように、わけのわからない結果になっている。だらだらと税金をいたずらに浪費していることが分かる。ビジョンがないからである。田中角栄のようなビジョンを持った政治家がいないからである。三流のバカ政治家やれば、このように税金のムダ使いに終わってしまう。これは日本経済にとって相当の痛手なのである。なかでも中曽根康弘は、鈴木善幸(すずきぜんこう)内閣(1980年7月17日)で、行政管理庁長官になっている。だから、1981年の第二次臨時行政調査会(第2次臨調)(会長の土光敏夫の他に瀬島龍三、加藤寛、屋山太郎などがメンバー)を指揮したはずである。1983年の第1次臨時行政改革推進審議会(第1次行革審)も首相として関わっている。合計すると6年も関わっている。にもかかわらず、その後十年以上もまとまっていない。むしろ、この流れは頓挫しているようだ。

 中曽根康弘『自省録・歴史法廷の被告として』(新潮社:2004年)では、「行政改革」とは、三公社(国鉄、日本専売公社、日本電信電話公社)の民営化の話にすり替わっている。(この最中(1985年2月)に、角栄がクーデターを受け、病に倒れた。国鉄の分割された会社は1987年4月1日に発足した。)その民営化も民営化自体が目的化していて、なんのビジョンもない。今から見て、見るべきものはない。なのにご本人は成功したと思い、満足しているから、どうしようもない。

 とにかく、中曽根の「行政改革」はビジョンが貧困で、相当に酷かったのだろう。この歴史は、中曽根康弘が無能政治家だったことを示すのだと思う。「行政改革」も、国民が地方で豊かに暮らせるようにする地域開発、すなわち列島改造論のような国家プロジェクトと連動しない限り、そのビジョンは開けてこないのである。この中曽根行革ビジョンの貧弱さをマスコミは指摘しなかった。そして世界乗っ取り支配層(エスタブリッシュメント)つながりで、グルになって、中曽根をかばった。その外からの力(プロパガンダ)に支えられたので、中曽根政権は長期政権となった。実力のゆえではなかったのである。(事実、調べれば調べるほど、この中曽根政権というのは奇妙奇怪、奇妙きてれつな政権である。)

 ともかくこのように、天才政治家の言葉や考えに触れると、無能政治家の無能さがよく見えてきます。国民も非常につまらなくバカなテレビ・ラジオを視聴するひまがあれば、田中角栄のような天才の言葉を読んだり聞いたりする方が身のためです。バカな話やおかしな話ばかりを聞いていると、本当にバカになります。(了)


 [6002] 田中角栄の国鉄改革 投稿者:バード 投稿日:2007/10/22(Mon) 21:45:47

 田中角栄は生前、政治をやっていなければ、自分は財閥になっているだろうと言っている。
角栄  わたしは社長を30年もしてきたからね、政治をやっていなけりゃあ今じゃ相当な財閥になっているはずだ。(p.115)(早坂茂三『田中角栄回想録』小学館:1987年)
バード  田中角栄が政治家をしないで、私財の増殖に励んでいれば、田中財閥をつくっていただろう。しかし角栄はその道を捨て、国民のための政治家を続けたのである。国民を見捨てられなかったのだろう。日米のエスタブリッシュメントをはじめ、マスコミやそれに乗せられたわれわれ一部国民は、角栄にしてみれば僅かばかりのカネで、その彼を「大悪人」呼ばわりをして、罪人にしようとしてきたのである。日本のマスコミやエスタブリッシュメントは、このままで済むのか、ということです。
れん  角栄金権政治元凶論を唱える者は、この言を噛みしめねばならない。金もうけの為だけなら角栄は政治家にならず経営者で全うした方が得だったしロッキード事件の被害に巻き込まれることもなかった。これを逆に云えば、角栄政治は金権政治ではないことを証左している。この程度の推理は容易である。(2011.9.16日 れんだいこ拝)

 以下、田中角栄の国鉄改革論です。中曽根康弘が行った味も素っ気もない国鉄改革とは、全く違います。

● 地方の赤字線は廃止すべきではない
角栄

 …北海道の国鉄や全国に散在する赤字線を止めろという意見が、マスコミで繰り返し主張されているがね、しかし、鉄道というものは赤字線からどんどんお客が集まって、最後は東海道新幹線に乗り込むから、新幹線が儲かることになっているんだよ。山のなかの小さな流れがいつのまにか、たくさん合流して、筑後川や富士川、信濃川、利根川ができるのとおんなじだ。利根川はいっぺんにできるわけじゃない。鉄道もしかりである。地方線というのはすべて、艦船の培養線なんだ。地方の赤字線をみんな廃止しちゃったら、東海道新幹線に今のような大勢の客が乗りますか? 乗るはずがないだろう。(p.119)(早坂茂三『田中角栄回想録』小学館:1987年)

バード  田中角栄の考え方は、鉄道は人体でいえば毛細血管のように、全国の隅々に敷かれていなければならないという。もっともである。では、赤字線はどうすればよいのか。そのままでいいのか。もちろん、赤字線はなんとかしなければならない。田中角栄の考えでは、鉄道会社の多角経営と、農村(僻村)開発(列島改造)が必要ということだろう。
れん  角栄の発想は常に東洋医学的生体論であり、ボンクラ政治家のそれは西洋医学的対症療法論である。角栄の凄さは、東洋医学的生体論に立って西洋医学的対症療法論をも的確に駆使するところにある。もって範とすべきで批判すべきではなかろう。(2011.9.16日 れんだいこ拝)

● 国鉄は、多角経営を許して民営化すべき
角栄  …国鉄職員の月給は民間よりも安い。にもかかわらず、国鉄は赤字だ。民間鉄道は一割配当しているけれども、国鉄は無配だよ。理由は色々あるが、まず、人間が多すぎるということだな。しかも、労働組合は公労法で手厚く保護され、親方日の丸で、赤字に関係なく、わがままのし放題だ。民鉄のほうは一銭でも黒字を出そうとやっているのに、国鉄はそういう創意、工夫をしない。…国鉄の最大の問題は何か。それは兼業を許していないことだ。民鉄はたとえば沿線の宅地開発をしたり、ホテルを経営したりして、鉄道本体の経営を助けているが、国鉄にはこれが許されていない。そういうふうに多角経営を禁じておきながら、国鉄に「赤字を出すな」といったって、たくさんの人間を抱えた国鉄に、それができるわけがない。そうだろう。だから、民営にすべきである。(p.118-119)(早坂茂三『田中角栄回想録』小学館:1987年)
バード  多角経営を許して民営化せよ、ということだ。
れん  この下りの末尾の「だから、民営にすべきである」は中曽根式民営化論肯定ではない。国鉄公営化論の上に立っており、且つ国鉄赤字の病巣を捉えて、その打開の為の一部民営化論を論じていると解するべきだろう。(2011.9.16日 れんだいこ拝)

● 国鉄再生には、地域、農村、僻村開発(列島改造)をすべき

 国土の有効利用のためには、すなわち過疎の農村に人々が住めるためには、農村地域に工業を導入する必要がある、ということだ。
角栄 …機械工業、エレクトロニクスの大部分、それに医療機器、住宅機器などのシステム産業の多くは内陸型工業である。臨海型の装置工業にくらべると、労働集約的であって用水量はすくなく、付加価値生産性が高い。輸送も鉄道、自動車ですみ大規模な港湾はいらない。その生産物をあげると、カラーテレビ、テープレコーダー、ステレオ、通信機、コンピューター、電卓、事務機、交通信号保安装置、公害防止装置、自動車、オートバイ、耕うん機、田植機、コンバイン、乾燥機、エレベーター、エスカレーター、クレーン、コンベア、工作機械、プラスティック加工機械、食品加工機械、木工機械、建築用金属製品、暖房装置、工業計器、精密測定器、時計、カメラ、レンズ、おもちゃ、運動具など広い範囲にわたっている。(p.88-89)(田中角栄『日本列島改造論』日刊工業新聞社:1972年)
 農村工業化は具体的には二つのタイプですすむことになるだろう。その一つは広い地域につながる拠点開発である。これは、ある程度の都市機能の集積を持つ工業団地を作り、まとめた形で工場を配置するいき方である。もう一つは、個々の工場が農村に立地するタイプで、いわば一村一工場といったすすみ方である。過渡的には一村一工場方式も現実的であるが、長期的な地域開発の発展を考えると拠点開発方式を中心にしなければならない。その場合、高速自動車道のインターチェンジ周辺に一定の経済圏、通勤圏をもつ地方都市を整備し、その一角に内陸型工業団地を建設することが考えられる。こうしてつくる地方都市の規模は、人口25万人程度が適度であろう。……しかし、この構想を現実に進める場合、これら地方都市の伝統や社会的、地理的な条件に応じて適当な業種を選択し、地場産業との調和をはかる必要があることはいうまでもない。(p.91-92)(田中角栄『日本列島改造論』日刊工業新聞社:1972年)
バード  『日本列島改造論』は、いかにすれば人々が安心して地方に住めるようになるか、そのような政策をします、と訴えた本である。全国新幹線網、高速道路網、三つの本四架橋など、気負いが過ぎる欠点があるものの、基本的な思想と方針、政策は、目を見張るものがある。テンポさえ速すぎたり遅すぎたりしなければ、政府全体がまじめに取り組めば、そして国民が協力的であれば、失敗しなかったであろう。農村工業を進めれば、その地域の人口は増えることになる。それによって、赤字線解消の道が開けてくる。このように、多角経営化と農村工業化を進めるのが、田中角栄の国鉄改革の基本思想だ。
れん  「日本列島改造論」を読まずして批判する手合いが殆どである。日本の国家百年の大計を指針したバイブルであり日本再生の必須本と位置付けるべきであろう。(2011.9.16日 れんだいこ拝)

● 分離は北海道と四国のふたつとし、それ以外をひとつの会社とする

 田中角栄の構想では、北海道は人口が1000万人を超えないと黒字にはならないので、民営にはできない、したがって北海道鉄道公社にすべきということだ。四国も、どうせ毎日赤字を出すので、公営鉄道にするか、民間業者に売るとかして、分離する。しかし、それ以外の本州全体と九州だけは一つの会社にすべきだ、という。(早坂茂三、前掲書p.118-p.122)

● 国鉄改革と列島改造は一体

 結局、国鉄改革は列島改造の一環でもある。
角栄  …おやじ(田中角栄)の考えでは、国鉄改革と列島改造は表裏一体なのである。国鉄の分割・民営化は既に関係法規も制定され、62年(1987年)4月には分割・民営の会社が発車することになった。田中は早くから、国鉄の細分化と赤字路線切捨てによる民営化には異論をもっていた。彼は国鉄改革論者であり、民営化論者ではあるけれども、地方住民の夢と期待を考えに入れない国鉄改革には、あくまでも批判の姿勢を崩さない。(p.117)(早坂茂三『田中角栄回想録』小学館:1987年)
れん  早坂のここの下りの「彼は国鉄改革論者であり、民営化論者ではあるけれども、地方住民の夢と期待を考えに入れない国鉄改革には、あくまでも批判の姿勢を崩さない」は早坂らしい捻じ曲げである。こう書くべきであろう。「彼は国鉄存続論者であり、民営化論を排斥している。けれども、国鉄改革の必要を前提としており、その為の処方箋も呈示している。それは地方住民の夢と期待を考えに入れない中曽根式民営化論とは全く別物で、中曽根式民営化論を鋭く批判している」。(2011.9.16日 れんだいこ拝)

● 国鉄改革は列島改造に連動し、さらに内需拡大にも連動
角栄  今後の激しい国際競争のなかで日本が生きていくためには、貿易立国の政策とともに、内需拡大が必要である。これは当然のことだ。しかし、そのためには均衡のとれた国土の発展を実現し、北海道や東北などの内にフロンティアを求め、確立していかなきゃならない。…国鉄は途方もない広さの敷地を活用することだ。今は海底に高圧線が通っている時代だろう。鉄道の敷地は全部、パイプラインになる。ガスも石油も通信線も、いろんなパイプラインはすべて鉄道の敷地を使って建設すればいいんだ。…とにかく、日本国中どこを探しても、今の鉄道と同じ広さの用地面積がまとまって確保されているところはないんだから。国鉄が民営になれば、経営者は必ず用地の多角利用をやるだろうな。わたしならすぐ始めるよ。そして6、7年で黒字にしてみせる。そのためには、地方開発とタイアップすることが必要だ。つまり、列島改造が一緒になって動き出すことだ。…とにかく、国鉄を国土全体の新しい発展策の中にきちんと位置づける。そして総合的、根本的な改造を工夫することだ。(中略) 国鉄再建の至上命令は人減らしである。これがなんとかならない限り、債権の目途はたたんわけだ。…だからやっぱり、国鉄を会社にして兼業も増やし、採算の取れる商売を興して、そこに人を早く出すことだ。人減らしは、これしかない。…(p.123-124)(早坂茂三『田中角栄回想録』小学館:1987年)
バード  国鉄改革を地域・地方開発の一環と捉えれば、角栄の言うように、それは大きな「内需の拡大」にもなるだろう。
れん  この下りも早坂式捻じ曲げである。角栄は国鉄改革の必要を唱えて中曽根式民営化論を激しく批判している。ここを説かずに角栄も民営化賛成論者であったように説くのは早坂の日和見主義的性格の為せる業である。(2011.9.16日 れんだいこ拝)

● 実際の国鉄改革はどうだったか。
バード  国鉄改革は中曽根政権のときに行なわれた。下記の「転載貼り付け」の通りである。目的は、巨額債務の解消と国労の解体である、という。つまり、都市から地方へ人口移動のための地域開発も、内需拡大も、視野に入っていない、さみしいものである。経営者も労働者も、各自、自己責任で、勝手にやりなさいという、自由市場至上主義のスタンスでしかない。何の芸も、能もない。こんな政府は存在価値がゼロに等しい。考えることが「小さな政府」なのだから、そうなる。だったら、辞任して本当に「小さな政府」にすればいいのに、これがまた絶対に辞めようとはしない。「勝手にやりなさい」という思想は、田中角栄の思想とはほど遠い思想である。世界を支配する欧米の政財界支配勢力の思想である。国全体の発展を阻害する思想である。ここでも、中曽根政権が無能であり、かつ欧米の支配勢力の意を汲んだ政権であることが明確である。
れん  バード氏の指摘「世界を支配する欧米の政財界支配勢力の思想である。国全体の発展を阻害する思想である。ここでも、中曽根政権が無能であり、かつ欧米の支配勢力の意を汲んだ政権であることが明確である」は本質を衝いている。この観点から見通せば全てが解ける。(2011.9.16日 れんだいこ拝)

 「国鉄分割民営化」 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 

 国鉄分割民営化(こくてつぶんかつみんえいか)とは、中曽根康弘内閣が実施した政治改革。 日本国有鉄道(国鉄)をJRとして6つの地域別の旅客鉄道会社(JR東日本・JR東海・JR西日本・JR北海道・JR四国・JR九州)と1つの貨物鉄道会社(JR貨物)などに分割し民営化するものである。これらの会社は1987年4月1日に発足した。中曽根内閣は、それ以外に憲法改正や教育改革にも取り組もうとしたが、実現したのはこれだけだった。電電公社や日本専売公社、のちの日本道路公団や日本郵政公社民営化など、自由民主党による一連の民営化政策の目玉である。なお、分割・民営化に現場で辣腕を振るったのは、運輸大臣の三塚博だった。

 1 目的

 1.1 巨額債務の解消

 東海道新幹線の建設費に端を発し、赤字ローカル線建設などによって膨れ上がった国鉄の長期債務は金利負担などによってもはや自力では返済不可能なほどに膨らんでおり、さらに東北新幹線及び上越新幹線などが建設されるに至り、国鉄にとって相当の負担となっていた。1982年8月2日の運輸省の1983年度概算要求の中で、債務補填の見返りとして職員の新規採用停止等が確認された(ただし1985年のみ「民営化後の幹部候補生」として大卒者のみ採用、翌年は再び大卒を含め採用中止)。一方、経営改善を理由に行なわれた度重なる国鉄の運賃値上げが乗客の「国鉄離れ」を進ませる結果となっていたことから、国民に対しては債務解消を国鉄分割民営化の最大の目的であると説明していた。

 1.2 国労の解体

 国鉄労働組合(国労)の解体。国鉄とJRは別会社とし、JRに国鉄職員の採用義務はないものとして、国労組合員をJRから意図的に排除した。当時の国労は10万人以上の組合員を抱える日本最大の労働組合であり、野党として大きな力を持っていた日本社会党(現社会民主党)の主要な支持母体である総評の中心的な存在でもあった。その一方、過激派セクトが組織に入り込み、一部セクトは公然と社会主義革命を主張する状態であった。しかも国労は彼らを自力で排除できなかった。国労を解体することで国労内部に入り込んだ過激派を排除するとともに、総評を弱体化させ、それによって左右両派の微妙な力関係の上に立つ社会党のバランスを崩し、左右対立に持ち込ませて組織を疲弊させることが国鉄分割民営化の一つの目的だったとされる。

 国労は、サービス低下を理由に国民に分割・民営化反対を訴えたが、本音はヤミ休暇・ヤミ休憩などに代表される民間企業ではあり得ない怠惰な労働環境の維持であり 、日頃国労組合員の横柄な態度に辟易していた国民からの賛意は全く得られなかった。また、動労と内々に交わしたスト戦術の放棄すら大会で決められないなど組織内の路線対立が顕著で当時の国労は意思統一が困難な状態に陥っていた。逆に国労や動労が中心となって起こした順法闘争は国鉄のサービスの低下につながり国民の怒りを買い、利用者の「国鉄離れ」が進んだ。当初反対の立場を取っていた動労は末期に「雇用の確保」を理由として突然賛成に廻り、これが反対運動に止めを刺したと言われている。

 別会社にしたのは、国労潰しだけではなく、配置転換を円滑に進める目的があった。国鉄のままでは、労働者の了解を取らない配転は違法になる。そこで、新会社11社への再就職という形を取り、応じなければ国鉄を引き継ぐ国鉄清算事業団に送られてしまうようにした。形式上新規採用なので、国鉄での配置は関係ないという理屈であった。

 2 経過

 革マル派を除く左翼陣営が結束して反対。 1985年11月29日には中核派が国電同時多発ゲリラ事件を起こして首都圏ほかの国電を1日麻痺状態に置いたが、中曽根内閣の決意は変わらなかったばかりか、国民世論は国鉄の分割・民営化を強く支持する結果となってしまった。公明党・民社党は自民党案に賛成し、社会党は分割に反対、日本共産党は分割・民営化そのものに反対した。

 国労も、雇用確保のためにはやむなしと、執行部提案で条件付で分割・民営化を認める動議を提出。しかし当局側は、国労が各地で行っていた、地方労働委員会への不当労働行為申立ての取り下げ要求など、国労の全面降伏を求めたため、国労内の強硬派の反発が強く否決された。穏健派の執行部は総退陣(修善寺大会)し、分割・民営化容認派は国労を大挙して脱退。組織内対立が激しく組合としての意思統一すらできなくなっていた国労はついに自壊した形となった。国労は最後の機会を逸したと中曽根首相は高笑いしたという。国労が全面降伏すればそれでよし、拒否するなら容赦なく潰す方針だった。なお、国労を脱退した者はほぼ全員が採用され、国労にとどまった者は、能力に関係なく優先して排除された。

 また、国労組合員を余剰人員であるとして「人材活用センター」(人活)に隔離した。「人材活用」という名称とは裏腹に「教育」と称してまともに仕事もさせず飼い殺しにするという実体(廃レールでの文鎮作りや草むしりなど)が社会問題化したため、のちに「要員機動センター」と改称したが、このときの手法などが日勤教育に取り入れられたといわれる。

 赤字路線の廃止も進められた。1981年より、3次にわたって廃止対象となる特定地方交通線の選定が進められ、最終的に83線が選定された。沿線住民などの反対があったが、1983年の白糠線を皮切りに、45路線が廃止(バス転換)、36路線が第三セクター化、2路線が私鉄に譲渡され鉄道として存続した。民営化後の1990年、宮津線の第三セクター・北近畿タンゴ鉄道への転換、鍛冶屋線、大社線の廃止を最後に、各路線の処遇は決着した。かつての「赤字83線」廃止に比べると、かなり順調に廃止が進んだと言える。しかし、当時からほとんどの優等列車が経由していた伊勢線(現伊勢鉄道)が第三セクターへ転換されたりした一方、これらよりも利用率が低いにも関わらず独立した路線名を持っていない(他の線区の支線であった)がために廃止を免れる区間があったりと、廃止路線の選定については当時から「実態に一致しない」との声もあった。なお、私鉄に譲渡された2路線(下北交通大畑線、弘南鉄道黒石線)はその後赤字の増加などで廃止された。第三セクター化路線もふるさと銀河線は2006年4月で、神岡鉄道は2006年11月をもってそれぞれ全線廃止、のと鉄道は路線の大半を廃止している。一方、北近畿タンゴ鉄道のように電化したり、土佐くろしお鉄道のように新たに新線を開業させたりと、逆に成長した鉄道もある。

 このほかに、上記した赤字路線の廃止などで余剰職員を多く抱え、なおかつ地域経済の衰退で雇用の機会に乏しい北海道・九州では職員配置の適正化を目的に、余剰職員を本州三大都市圏の電車区、駅、工場などに異動させる広域異動(後に東北・中国・四国も対象)が1986年5月~12月に行われ、さらに新会社発足前後には本州3社による広域採用が行われた。特に北海道の場合は、家族を含めて6000人以上が鉄道マン生活を維持していくために離道を余儀なくされた。この煽りを受け、1990年の国勢調査で北海道の総人口は、1920年の調査制度開始以来、初めて減少に転じてしまった。名寄市、音威子府村、追分町(現・安平町)、長万部町など国鉄を基幹産業としていた市町村で人口が大幅に減ったのはもちろん、旭川市、函館市、岩見沢市、稚内市など支庁を持つ中核都市までもが、道外異動による人口減の影響を受けている。(後略)(了)







(私論.私見)