選挙、世論語録

 更新日/2020(平成31→5.1栄和元/栄和2).9.13日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、田中角栄の選挙語録を採り上げる。今のところ順不同であるが、噛締めて味わいたい。

 2017.4.10日 れんだいこ拝


【議会制民主主義の生命力、選挙について】
 議会制民主主義の生命力、選挙について次のように述べている。
 「(田中の議会制民主主義への認識は)多数決原理と少数意見尊重の二つが柱。その政治が国民多数にとって現実的不利益を招けば、次の総選挙で必ず公正な審判が下る。議会制民主主義の生命力の源はここにある」。

 角栄らしい物言いとして次のような演説がある。
 「私は役人は怖くねーが、あんたら地元の人が一番怖い」、「大学出も、70、80のばあさんも同じ一票」。

【選挙の要諦について】
 選挙の要諦について次のように述べている。
 「地道な選挙運動を行なえ。手を抜くな。徹底的に有権者と接しろ」。
 「有権者の目から君が去れば、有権者の心から君が去る」。
 「選挙民が何を一番望んでいるのか、何に一番困っているのかを、他の誰よりも早くつかまなきゃいかん」。
 「若い君が本当に思っていることを話せばよい。借り物はダメだ。百姓を侮ってはいけない。小理屈で人間は動かないことを知れ」。
 「その集落の区長、ボスのばあさん、かあちゃんの在所はどこか。東京に出た孫娘が与太者にだまされてシクシク泣いていないか。そうしたことを掌(たなごころ)を指すように覚えなさい」。
 「村の鎮守様、寺の由来を頭に叩き込み、ソラで言えるようにする。神社の階段が何段あるかまで、一木一草を知らねばならない。外国ばかりほっつき歩いたり、朝から晩まで東京で演説しているようでは、ろくな政治家にならない」。
 「まず身内を知ることに神経を使え。身内のことも知らないで、一人前の口なんて利いてはいけない。自分のものさしばかりで物を言うなということだ。こういうのは、使いものにならない。黙って汗を流せ。いいところは、人に譲ってやれ。損して得取れだ。そうすれば人に好かれる」。
 「新人候補の時には、公民館で初めて演説会を開いても、5、6人来てくれたら上出来だ。客が少ないからといって手抜きせず真剣にやれ。半年後には同じ場所で満員御礼だ」。
 「辻説法も、毎日、3ヶ月も続ければ、そのうち立ち止まって聞いてくれる人も出てくる。そうしたら、みなと握手して名刺を渡しなさい。流した汗と振り絞った知恵の分だけ結果が出る。選挙に僥倖(ぎょうこう)はない。商売と同じことだ。山の果てを望んでも援軍来たらず。自分でやるしかない。その覚悟なしに、政治などという大それた仕事に黄色いクチバシを入れないでくれ。世の中が混乱する」。
 選挙に挑む新人に必ず送った言葉。「山の向こうを望んでも援軍は来ない 、自力で戦え。勝負は流した汗と涙の数で決まる」。
 「選挙に僥倖(ぎょうこう)などはあり得ない。流した汗と、振り絞った知恵の結果だけが出る。商売と同じことだ。山の果てを望んでも援軍来たらず。自分でやるしかない。その覚悟なしに、政治などという大それた仕事に黄色いクチバシを入れないでくれ。世の中が混乱する」。
 「まず個別訪問3万軒、辻説法5万回。続いて、沢の奥まで行き、30軒、40軒しかない集落にも足を運ぶ。そして心を込めて名刺を差し出す」。
 「俺は節を曲げてまで出世しようとは思わない」。
 「必ず返事を出すんだ。結果が相手の希望通りでなくても「聞いてくれたんだ」となる。大切なことだよ」。

【角栄の戸別訪問3万軒、辻説法5万回論】
 1969(昭和44).12月の総選挙で初当選を果たした弱冠27歳の小沢一郎に対して、角栄が与えたはなむけの言葉。
 「まず身内を知ることに神経を使え。身内のことも知らないで、一人前の口なんて利いてはいけない。自分の物差しばかりで物を言うなということだ。こういうのは、使いものにならない。黙って汗を流せ。いいところは、人に譲ってやれ。損して得取れだ。そうすれば人に好かれる」(小林吉弥「田中角栄処世の奥義」93P)

 角栄は、選挙の要諦について、小沢一郎に次のように述べている。
 概要「『戸別訪問は3万軒、辻説法は5万回やれ』、2万人と握手をして廻れ、靴が何足も履き潰されるほどに雨の日も風の日もやれ。有権者の目から君が去れば、有権者の心から君が去る。親の七光を当てにするな。カネを使えばなくなる。選挙区は1軒ずつしらみ潰しに歩け。3分でも5分でも辻立ちして自分の信念を語れ。それを繰り返せ。それしかない。山の向うを見ても援軍は来ない。

 聴衆の数で手抜きはするな。流した汗と、ふりしぼった知恵だけの結果しか出ない。選挙に僥倖などあるものか。そして、選挙民には口でいって見せるだけでは絶対駄目だということだ。必ず、自分で率先してやってみせろ。政治は結果である。そのためにこそ、選挙区をくまなく歩くことだ。選挙民が何を一番望んでいるのか、何に一番困っているのかを、他の誰よりも早くつかまなきゃいかん。とにかく歩け、歩いて話を聞け。しかし、それで終わったら並みの代議士に過ぎない。それをやった上で、現実のものにしてはじめて政治家というものだ。オレはそれを、最初から一人でやってきた」。

 田中角栄秘書の早坂茂三氏は、「元気が出る言葉渡る 世間の裏話2」(集英社文庫、2001.9.25日初版)の「小沢一郎に伝授した選挙必勝法」で次のように述べている。
 田中角栄さんは自民党の内外で “ 選挙の神様 ” と言われた人です。議会制デモクラシーでは選挙に勝たなければ与党になれない。真実の世論は各級選挙の結果しかありません。昭和四十四年の春、何日だったか忘れましたけど、今、日本じゅうを騒がせている小沢一郎さんが初めて田中幹事長の前に立ったことがあります。彼はもともと弁護士になりたかった。岩手県出身の代議士だったお父さんの佐重喜(さえき)さんは岸元総理の盟友でしたけど、この方が急に亡くなって、結局、長男の一郎さんが、不本意ながら二世政治家の道を歩む結果になった。そして、お母さんの勧めがあり、田中のところへ来たわけです。まだ二十六、七の青年で、かわいい顔をしていた。今のような憎たらしい顔ではなかった(笑)。

 そのときに、田中が小沢一郎さんに言ったことは、『一郎君、親の七光りを当てにするな、カネは使えばなくなる。戸別訪問三万軒、辻説法五万回をやれ。それをやり抜いて、初めて当選の可能性が生まれる。やり終えたら改めて俺のところへ来なさい』。

 あの人は「弟子入りしたい」という若い政治家の卵には誰に対しても判子で押したようにこう言いました。小沢さんは私の親方が言ったことを拳拳服膺(けんけんふくよう、「肝に銘ずる」の意)実行した。あれから二十四年の月日がたちました。彼は当選九回を重ねて、今、日本の政治を右にするか、左にするか、そのカギを握っています。二日前に角栄さんが亡くなって、私は改めて当時の精悼な親方と若かった小沢さんの顔をだぶらせて、懐かしく思い出しています。

 それと世間の人はあまり知らないようですが、角栄さんは戦後日本が生んだ “ 議会政治の申し子 ” でした。人民の海から生まれた政治家だった。衆議院、議会というところは、議員さんたちが集まって、選挙民、つまり国民から「あれをやってくれ」「これやってほしい」と言われたことを自分たちが責任を持って議論して、法律にまとめあげ、実施するのが本来の役目です。だから、立法府と呼ばれる。ところが今、国会に提出される法案の九割九分は霞が関の秀才たちが用意しています。

 私の親方は違った。政治家として七十三の議員立法を手がけました。あの人は昭和二十二年四月、新憲法下第一回の総選挙で当選したんですが、三十九歳で郵政大臣になるまで無名時代の十年間に議員立法を二十二もつくった。焼け跡の日本を再建、復興させ、田舎の人たちの暮らしもよくしなければならない。これにまっしぐらに進んだ。この時代にガソリン税を創設して、今の道路網の財源にしました。今の政治家の皆さんは、役人におんぶに抱っこが目立ち、鼻先であしらわれて、本当は馬鹿にされている。目線が現行法体系を越えられず、あと追い投資に終始する役人に使われるのではなく、角栄さんの実績に学び、議員立法に目を向けてほしい、としみじみ思っています。p-343

(私論.私見)
 小沢一郎は田中角栄の云いつけを守った。これに対し、かの小泉は何と選挙期間中一度も選挙入りしなかったことを自慢している。しかし、その選挙参謀は、広域暴力団「稲川会」の元組員・竹内清はだった。選挙対策本部長を連続10回務めている。何から何まで対比的である。マスコミは、その小泉を名宰相として囃したて、小沢に対しては悪徳政治家の代名詞のレッテルを貼り続けている。何というかほんちゅうかではなかろうか。

 2010.6.13日 れんだいこ拝
 羽田務に次のように述べている。
 「(羽田孜に対して)君の場合はお父さんが大変に苦労しながら築いた地盤だから間違いなく当選する。しかし、当選するだけじゃ駄目だよ。これから三万軒歩け」。
 「君は当選してから本当の仕事をやっていくためにも各地域の実情をしっかり見て来い。君の選挙区は日本の地方の一つの縮図なんだから、そこをキチンと見てくれば日本の国全体をキチンと語ることができるようになる。とにかく歩いて来い」。

【世論】
 「世論と選挙結果」の関係について次のように述べている。(但し、出典不明)
 「世論とは新聞やテレビではない。テレビは世論ではない。新聞も世論ではない。世論とは選挙だ。選挙の結果が世論だ」。

 まことにその通りと云うべきではなかろうか。特に、マスコミが世論操作に一役買っていることが歴然としている昨今においては。

【統計について】
 「過去の統計というものは動かない。僕は経験のほかに、統計というものを重視する」。

【昭和58年総選挙で角栄が22万票の自身最多得票当選考】
 ロッキード選挙と云われた昭和58年の総選挙で角栄は22万票の自身最多得票で当選を飾った。マスコミとその扇動に乗せられた者が日本全国で「大悪人を当選させ続ける新潟県民は民度が低い」と叩き回る合唱が続いた。この時、選挙区の老婆が 「いねしょ(地元ではない人)にはわからね」と一蹴している。

 れんだいこが彼女の言を代弁しておく。角栄先生のお陰で地元・新潟はどれほど恩恵を貰ったか。どれだけ便利になったか。冬になれば身の丈を超えた雪が積もり、男たちは出稼ぎのために故郷をあとにする。病人が出れば雪山を幾つも超え、街に着いた頃には息は途絶えていた…。そんな場所にトンネルを掘り、道路を整備し、東京と直結した新幹線を引いた。私はその恩返しで一票入れた。生活を確実に良くした政治に票を入れてどこがイケネェのか。マスコミもんはどんな勉強したのか知らネェが、勉強して未だに阿呆と云うことは元がよほど阿呆に違いねぇ。





(私論.私見)