政策語録

 更新日/2020(平成31→5.1栄和元/栄和2).9.13日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、田中角栄の政策語録を採り上げる。今のところ順不同であるが、噛締めて味わいたい。下手にマルクス、レーニンに被れるよりよほど値打ちがあるのではないかと思っている。

 2010.04.30日 れんだいこ拝


【政府の予算案づくりに関わってきたとの自負】
 ある時、角栄は次のように豪語した。
 「私は、吉田内閣以来、政府の予算案づくりには全部関わってきた」。
(私論.私見) 角栄の予算案目通しについて

 「私は、吉田内閣以来、政府の予算案づくりには全部関わってきた」は見過ごされがちで有るが、相当重要なメッセージをしているように思える。それは、角栄の時代までは、赤字国債の発行と軍事費の偏重を抑制した健全財政下に有ったからである。今日、デマゴギーにより、今日の累積国家債務の責任を角栄に求める観点が流布されている。

 それは全くのウソデタラメで、福田、三木、中曽根により仕掛けられ今日に至っているという観点を持つ必要が有る。れんだいこは、覚束ないまでも「
国債論」で論証している。

 2005.9.6日 れんだいこ拝


 角栄の予算編成目通しは本当の話であり、次のような逸話で裏付けられる。
 「大野伴睦が威勢を振るっていた吉田内閣か、岸内閣の頃のこと。ある年の予算編成で、要求が入れられなかった大野は、大蔵大臣室に怒鳴り込んだ。そしてひょいと大臣室の奥の小部屋を覗くと、チョビヒゲをはやした若い男が、そろばんを片手に、ワイシャツの袖をまくりあげて、数字をいじくっている。「なんだァ、こいつは」と怒鳴りつけると、「俺は田中角栄だァ」という怒鳴り声が跳ね返ってきた。後年、池田内閣で、田中が政調会長、大蔵大臣に抜擢された時、大野は「ああ、あの時一生懸命そろばんをはじていた男か」とつぶやいた云々」。

【政策研修制度の確立について】
 角栄は、「責任政治を目指した」。その為に、日頃から政策研修を怠らなかった。次のように述べている。
 「勉強せよ、専門知識をもて、議員立法せよ」。
 「政治家たるるもの、国会で国政に携わる者は、全てのことは無理にしても、一つや二つ、誰にも負けない専門分野を持たなくては、国家国民のための政治家にはなれん!」
 「馬鹿も休み休み言え。総理が政治で動いてたまるか。そんな心配する前に、お前等はまず国家にとって人材となることを考えろ。政策の勉強をする方が先だろう」。

 という考えから、党の各委員会、小委員会、分会の「勉強会」以外に、田中派内にも各分野の勉強会を連日開かせ、一人一人に専門分野の知識を、その道の専門家と丁丁発止で討論ができるように育てていった。これが、後に、田中派が「総合デパート」と云われるようになる下地となった。ちなみに、勉強会の費用を飲食代まで全て派閥事務所が負担した。「勉強会」は、「同じ釜の飯を食った仲間意識」の醸成にも役立つこととなった。

 このことにつき、浜田幸一氏が「日本をダメにした9人の政治家」の中で次のように裏付けている。
 「自民党には部会制度があって、火曜日から金曜日まで、約20の部会で朝の8時から法律作成のための議論が行われている。一つの法律案をつくるにも、3年も4年もかけて勉強を重ね、あらゆる角度から検討し、質疑応答を繰り返している。ここまでしている政党は、他にはない。日本では自民党だけである。こうして部会でつくられた法律案が、政務調査会、総務会、党三役などの議を経て、その間にも修正されたり、検討のやり直しをさせられたりし、最終的に総裁がOKしてはじめて提出法案となるのである。これまで自民党が提出してきた、年間90本なり百本の法律案はみな、こうした地道な積み重ねから出てきたものなのだ。こういうことが、意外と一般には知られていない。自民党はといえば、いつでも派閥抗争ばかりしている党のように思われている」。
 概要「野党側は、法案を通す見返りに、まず、自分達も何かをしたのだという『証拠』を残すために付帯条件をつけさせ、さらに、ここが最大の問題なのだが、その裏で金銭の遣り取りが行われる」、「これが、自民党政権時代に行われてきた国対政治の実態なのである」。

【政策の基本論】
 
 「皆さんッ。人間必ずお世話になるものを整備するのが、政策の基本ということであります」(1981年夏、新潟県長岡市の演説会で)。
 「池田や田中の高度成長論がケシカランと云う奴がいるが、本当にそうだと思いますか。私が30年前から考え続けてきた政策の方向ッ、ものの考え方ッ、決して誤りではなかったのであります」(1978年6月、三島郡全越山会大会で)。
 「ロッキードは、もういいッ。今、田中に、もっと経済政策をやらせろという声がホウハイとしてある。そのことなんです。このままでは潰れる。潰れたら大変なんですよ。人が死んでから医者が来てどうなりますか。皆さんッ。重症にならぬうちに、危篤にならぬうちに、社会的混乱を起こさぬうちに政策を行うのが、政治の責任でなくて、一体なんでありましょうか」。
 「皆さんッ。政策を決めたら、待ったなしに行わなければならんのであります」。

【財源政策論】
 「私は土建業をやっていた当時、設計図を引くときは、いつとも初めからブッ書き、実線を引いてしまう。よく昔の書家の名人が木の看板に向かうとき、一気に書いてしまって、もし下の方に木が余ってしまったら、その部分を切ってしまうという話があるが、私も全くそれ式だ。まぁガリバー的発想ということだ。物事を常に俯瞰的、鳥瞰的に見る、苦しい財政の中でも、頭を絞れば財源は幾らでも見つかるということです。道路問題一つ取っても、専門家は色々云うが結論はなかなか出ないね。簡単なことです。道路がどれだけの広さが必要かをはじき出すには、実際に車やオートバイを置いてみりゃいい。下水道分を取ってみりゃいいことだ。建物を2階建てから6階建てにすれば、地下は3分の1に下がる。10階建てなら5分の1に下がる。簡単なことです。どんな本を読み、議論してもダメだ。一番の早道は何か。それが分かっていない。発想の転換ということだ。逆に考えてみればいいんです」(小林吉弥「田中角栄 侠(おとこ)の処世」第38回、週刊実話2016.10.13号)。
 「金はねえ、必要とあらばつくれるんです! しかし、金をつくって積極政策をすれば、勢い物価は跳ね上がり、景気を刺激する! これは日本の経済にとっても、国民生活に取っても、今は困ることなんであります! となれば、現在の予算枠の中で、財源を生み出し、効率的二使うしかないんじゃねえですか。世間では生産者米価を上げろ! 消費者米価は上げるな! しかし、減税はしなさい!と。まえねぇ、小学校の算数にはこんな計算はないっ! これをねえ、高等数学で解くのが、大蔵大臣の務めと、こう思っているのですが、いかんせん難しい! 財布を持つ母親の苦労いかなるやと、密かに思う今日この頃であります」(赤塚行雄「田中角栄の実践心理術」)。

【財政政策論】
 「いくら財政再建を叫んでも、石頭ばっかり揃っていたのでは、いつまでたっても財政再建は出来ない」。
 大蔵省主計局とのやり取りの場での「所得減税(タマゴ)と企業減税(ニワトリ)の優先問答」。「タマゴをそのまま食ってしまうか、それともこれを一度かえしてニワトリにし、タマゴの拡大再生産といくか、どっちが賢いやり方かは子供でも分かる。国の経済全体を進ませなきゃならんのだ。それにはまず、タマゴをニワトリにかえさんといかん」。
 「目先の握り飯もさることながら、柿のタネをまき、木が育てば、おいしい果実はおのずから食べられる」。

【規制緩和論】
 「規制をとっぱらってみな株式会社にする。医療も学校もみな株式会社でいいんです。皆さん。役人に任せると井の中の蛙(かわず)になるが、規制をとっぱらうと民間のカネが流れて競争原理が働き、不活発な分野もどんどん良くなる。日本は自由主義の国ということを忘れちゃなりません」(新野哲也「角栄なら日本をどう変えるか」より)。
 但し、出典を明示していない。れんだいこの臭いとしては、角栄の発言趣旨の曲解部分もあると思うが、規制緩和必要論に立っていたことを証する発言として引用しておく)。

【経済政策論】
 1965(昭和40)年の地元紙「新潟日報」のインタビュー記事。
 「これまでの経済政策は東京、大阪へカネを注ぎ込むことが一番効率的だという考え方だったが、実は、これは効率的ではないんです。元は効率的だったが、今は効率的ではない。なぜか。人口が、産業が、そして文化が集中し過ぎて、とにかく地下鉄工事一つをやっても最低キロ当り45億円もかかるんだ。ところが、オリンピック高速道路1本にかけたカネを九州へ持っていくと、九州中の道路が全部舗装、改良できる。すると、東京の1本の道路よる経済指数より、南九州の道路整備による工業化の方が効率が良いと云う指数が弾かれる。沼田ダムを造ると、東京の水の状態は確かに良くなるが、それだけのカネを四国四県に投資すれば、四国四県の所得が20倍にハネ上がるんです。僕はね、今は明治以来百年続いた財政政策の転換期だと思うんです。予算の額は少ないかもしれんが、とにかく、地域開発重視の方向を初めて取り入れたんです。鉄道、道路、港湾などの公共事業長期計画をもう一度検討して、集中投資をやろうと決めたのであります。

 また、新潟県のこれからということでは、とにかく東京の電車を新潟県民が動かしている。(新潟の雪、水で電力を供給しているの裏意味) 例えば、県民が米の出荷をストップさせたらどうなるんだ。これ一つ考えたって、他県にない新潟県の特性だ。水も豊富でしょ。一定の距離を置いて、東京都結びついているんだ。私は新潟の新産業都市は、全国13地区のうち岡山県南地区と共に一番大きくなると思っていますよ。国道17、18号線の改良、上越線の複線化、越後線の急行化、富山と長岡間の電化など、いずれここ2、3年くらいまでにはできるようにした。そうなると、県にとって不要な通貨貨物のハケ方が早くなる。これによって県の工業化が10倍になっても輸送力はオーケーという状態になるんです。まぁ、ねぇ、関越自動車道は私の次の大蔵大臣の問題ですな。ここまで考えて、なおかつ新潟県は発展するかどうかと疑問を持つ人があれば、これは石橋をたたいても渡らん人ということになるんです」(1965.1.1日、新潟日報。週間実話2016.9.22号の「田中角栄 侠の処世」№35より)。
(私論.私見)
 後の日本列島改造論を髣髴とさせるダイナミックな経済政策論であろう。

【北方領土論】
 「北方領土は、いっぺん向こうが取ったものだから、簡単に返せというだけじゃ返すものか。買えばいい。お金だよ。シベリア開発にこっちが注ぎ込んで、その見返りで取り返せばいい」。

【自由主義市場論】
 「保護貿易主義にあぐらをかいては駄目。工業製品は全て自由化する。関税は思い切って引き下げる。日本は自由化に十分対応できる」

【国家有為人材形成論】
 「馬鹿も休み休み言え。総理が政治で動いてたまるか。そんな心配する前に、お前等はまず国家にとって人材となることを考えろ。政策の勉強をする方が先だろう」。

【教育論、教師論】

 「大学の教授より、むしろ小学生の先生を大事にしなければいけない。小学校の先生が白紙の子供を教えるのだから」。
 「世界の国々の中で、わが国だけが教育の目標、基本、基準をはっきりとさせていない。最大の問題だ。特に、教育に政治を持ち込み、混同させた」。
 「教員は一般公務員に比べて待遇をよくすべきだと思っている。子供というのは、本質的には小さな猛獣なんだ。小さいときからアメとムチでしっかりと訓練して、しつけなければだめだ。先生たちはそういう子供を、親の手の届かない学校で、親に代わって仕込んでくれるんだから、待遇をよくして当然なんだ」。
 「どうですか、皆さんッ。学校の先生がデモで道をジグザグに歩いておって、子供にだけ真っすぐ歩けよなんていって、これ聞くもんじゃないねェ。そうでしょ。校長の云うことは聞かないッ。校長が首をくくるところまで追い込む。そして、我々は労働者でござあーいとくる。そんなバカなこと許されますかッ。教育は民族悠久の生命なのであります」。
 「私が考えているのは、勉強したい人には、幾らでも勉強できるような環境をつくってやることだ。やる意欲が有りながら、環境故に、その人の力が発揮できないという社会は打破しなければならない。それだけが、ただ一つの願いなのだ」(戸川猪佐武「田中角栄猛語録」)。
 昭和53年7月、田中の、新潟県長岡市での越山会の婦人部総会でのスピーチ。
 「皆さんっ、今東京では週休二日制をやってはどうかと言っている。私は反対だねぇ。これを止めてだ、夏か冬にまとめて休ませた方がいいんです。都会の狭い鳥かごみたいな家に、大きなお父さんが土曜もゴロゴロしていたら、おっかさんはこれは堪ったもんじゃないねぇ。(笑)それに、小学校や中学校まで週休二日制にしろなんていう奴がいるんだ。この上、子供まで土曜、日曜とまとわりつかれたら、おっかさんは生きていられなくなってしまうわねぇ。(笑) 私は、子供の週休二日制なんて絶対反対だ。子供は、毎日教え込まないとダメなんです。サーカスの動物だって、一日ムチをやらないと一から出直しどころか、訓練そのものがパーになっちまうんです。子供も同じ。一週間に二日も休んだら、元に戻ってしまうんだ。

 子供の教育は、本当は土曜日も普段と同じようにみっちりやった方がいいんです。そして、休む時は夏、冬、各45日ぐらいずつ休ませる。この間、子供は田舎に寄こせばいいんだ。おじいちゃん、おばあちゃんと遊んで、自然の昆虫や動物に接して、本当の自然教育を実体験で行うんだ。今ねぇ、東京の子供に『バッタはどこにおるんだ』と聞いてみなさい。『三越』だと云うね。そんなバカなことがあるかッ。(爆笑)教育というものを間違えてはいかん。子供のときの教育が人間を作るんです」。

【「五つの大切、十の反省」】
 1974(昭和49).5月、田中角栄が首相在任中に打ち出した児童教育指針。
 五つの大切
人間を大切にしよう
自然を大切にしょう
時間を大切にしよう
モノを大切にしよう
社会を大切にしよう
十の反省
友達と仲良くしただろうか
お年よりに親切だったろうか
弱いものいじめをしなかったろうか
生き物や草花を大事にしただろうか
約束は守っただろうか
交通ルールは守っただろうか
親や先生など、ひとの意見をよく聞いただろうか
食べ物に好き嫌いを言わなかっただろうか
ひとに迷惑をかけなかっただろうか
10 正しいことに勇気をもって行動しただろうか

【福祉充実論】
 「日本列島改造論」の中で次のように述べている。
 概要「高度成長政策と福祉の充実を天秤にかけて「成長か福祉か」、「産業か国民生活か」という二者択一式の考え方は誤りである。福祉は天から降ってくるものではなく、日本人自身が自らのバイタリティーをもって経済を発展させ、その経済力によって築き上げるほかに必要な資金の出所は無いのである」。
 概要「過密と公害を克服し、住み良く豊かな社会をつくるためには、工業の再配置、過密都市の再開発、道路、下水道など社会資本の充実、公害絶滅技術の早期開発などが必要である。これらに要する莫大な資金は、低い経済成長のもとでは捻出できない。従って、適当に高い経済成長ができる体制を前提としない限り、日本経済が当面している多くの問題を解決することは困難である」。
 概要「日本経済の成長の可能性は『両刃の剣』であり、使い方によっては善ともなり、悪ともなる。このような富を何に、どのようにして使うかが、私たちに与えられている選択だと思う」、「今後は成長を追及するだけでなく、成長によって拡大した経済力を、国民の福祉や国家間の協調などに積極的に活用してゆくことが強く要請されている。私たちは、これまでの『成長追求型』の経済運営を止めて『成長活用型』の経済運営に切り替えるべき時を迎えている」。
 概要「国民に住み良く、生き甲斐のある日本を提供するために、社会資本の充実、社会保障の大幅な引き上げを急がなくてはならない。国民の教育、健康に対する配慮も肝要である。成長した経済力を積極的に活用してゆくことによってのみ、国民生活の向上と社会福祉の充実を図ることができるし、同時に新しい好循環の経済成長を達成する道も拓けてくるのである。『福祉が成長を生み、成長が福祉を約束する』という好循環が望ましい」。

【政治家定年論】
 「政治家には定年があってもいいな。俺は55歳説をとっていた。が、今度は60歳にしたよ。それまでに、為すべき事をして引退だ」、「その後、俺は頼まれて、越後から米つきに来た男だから、故郷に帰って、好きな小説を書きたいね」(戸川猪佐武「田中角栄猛語録」)。

 「これからは東京から新潟へ出稼ぎに行く時代が来る」。

 「俺の目標は、年寄りも孫も一緒に、楽しく暮らせる世の中をつくることなんだ」。

 
 「田中は政治家ではなく、土方だと言われる。ナニを抜かすかだッ。でも、こう言われるとここ(新潟)の人は怒るわねぇ。そうでしょう、皆さんッ(拍手)田中は入広瀬(北魚沼郡)の村長と組んで、ここばかり公共投資するとも言われた。ナニをほざくか、こう言いたいよなぁ。当たり前のことだッ。東京には水がない。その水をこっちがくれてやっている。そういうところに公共投資をしてナニが悪い(大拍手)皆さんッ、この100年は太平洋側の100年だった。しかし、これからの100年は日本海側の100年です。どんどん生活が良くなる。私はねぇ、新潟に20ヶ所のダムを持ってきている。なぜだか、分かりますか。関東が水不足になるからであります。しかし、こっちには水があるわねぇ。雪は水になり、水は力なのであります。東京の大企業は、どんどんやってくる。それが国道17号線であり、上越新幹線なのであります。もっとも、新幹線ができると、この辺の土地は値上がりするねぇ。そのときは皆さんッ、あんまり土地で儲けちゃいかんよ(大爆笑)」(1976.12月、立会演説会)。
 「野党はいつも何だかんだ言っておるが、気にしなくてもいいですよ。まぁ、アレは三味線みたいなもんだ。子供が一人、二人ならいいけど、3人、4人おると、中にはうるさいのもいるもんですよ。ねぇ、おっかさん。そうでしょう(*笑)」(1978.10月、立会演説会)。
 「皆さんッ、昭和60年になると、今、トン当たり60円の水が100円以上になる。東京では400円ぐれぇになるのではないですか。三越デパートの岡田茂社長は私の友人だが、この岡田君が『デパートではお客の1割が物を買ってくれればいいんだ』と言っておった。ところが、『この頃はどうも困った』と言うんです。岡田君に聞くと、『1万人の女性がデパートに入って1000人は買い物をしても、残る9000人は化粧室に入りに来る』と言うんだな。『一人当たり25円も損をしてしまう。90000人に同じことをされたら、儲けなんかフッとんでしまう』とこぼしておった(爆笑)。皆さんッ、笑っておってはダメです。いや、笑いの中に真実があるッ。いいですか。新潟には雪がある! 雪は水だ! 私の言いたいのは水ッ。水はそれだけ大事なんです。生活の基本だ。皆さんッ、雪は資源、いや財産ということなんだッ」(1980.3月、越山会総決起大会)。
 「私が総理のときですがね。東京都議会で自民党が3分の1ではマズイと思ったんです。暑かったが、頑張りましたよ。田中を、アイツは選挙が大好きなんだという奴がいるが、冗談じゃないねぇ。たんぼの草取りみたいに頭下げて、ゴマすって歩くのを誰が好きかッ。まぁ、美濃部都政を倒そうと思っただけです。ところが、マゴマゴしているうちに、田中の方がひっくり返ったッ(注、タンがのどに詰まって一時、呼吸困難に陥ったこと)。戦争に負けて35年ッ。東京の道路整備は遅れた。交通マヒで物価も上がった。『物価のミノベ』た? 冗談言うんじゃねぇ! 皆さんッ、評判悪くても自民党がずっとやっているのはなぜか。まぁ、酒癖は悪いが、働き者だから亭主を代えないと思うおっかさんの気持ちと同じだねぇ」(1980.9月、越山会大会)。

【法律論】
 「法律と云うのは、これ、実に面白い生き物だよ。使いようによっては変幻自在に姿を変える。法律を知らん人にとっては面白くもない一行、一句、一語が実は大変な意味を持ち、すごい力を持っているんだ。壮大なドラマが法律の一行一句に込められていると言ってもいい。法律を活殺自在に使いこなすには、法律に熟知していることが必要だけれども、それが法律学者的な逐条解釈に立った知識じゃダメだ。その一行、その一語が生まれた背後のドラマ、葛藤、熾烈な戦い、そういうものを知っていて、その一行や一語に込められた意味が分かっていなければならない。そこが肝心なところだな。私はそうした物差しで戦後から今日に至るまでの我が国の法律や制度を見ているんだ。

 今の法律や制度、仕組みと云うものはね、戦後これだけ長く経った今なお、占領軍時代に作られたままのものが多いんだ。だから、そうした法律が制定された当時の背景や目的が分かっていないと、法律の運用を間違う。一つ一つの法律を、文面だけからの解釈で改正しようといってみても、議論が百出してまとまるもんじゃない。この法律は日本政府の原案ではこういうものであった、それが占領軍メモが届いてこう変わった、その間にこういう事態が起きたので現行法に修正されたと。もって如何となす、となれば議論の土台がきっちりして、コンセンサスを得られる条件が満たされると、私は思っているんだがね。

 ともかく占領軍は、我が国を弱体化し細分化し、非戦力化するために現行憲法や多くの法律を作って、日本政府に呑ませたんだ。にも拘らず、戦後、幾星霜を経て、我が国は世界でも指折りの経済大国に発展した。これはね、日本人が強い同族意識を持ち、英知と努力によって現行憲法や占領軍時代に作られた諸制度、諸法規を消化して、我が国の風土に定着させたからなんだ」(早坂茂三「田中角栄回想録」44p)。
 「マッカーサー改革と云うのは、日本が第二次大戦に敗れて、アメリカを主力とした占領軍の支配下にあった時代のことだ。これは占領軍が我が国に対する占領目的を達成する為に、我が国の制度の変革を求めたものであってね、そこに作られたものは、日本人が日本人の為に作った制度じゃなかった。この点が、前二者(大化の改新、明治維新)とマッカーサー改革が決定的に違うところだ。全く違うんだよ、これは。

 占領軍政策は敗戦の日から昭和27年4月、我が国が名実ともに独立を回復する日まで続けられた訳だけれども、その政策に流れていたのは、宗主国が自分の支配した国や領土に求めたものと同じ思想なんだ。占領政策の目的として、日本の自由化、民主化と云う綺麗ごとを並べ立てているが、真の目的や基本政策と云うのは、我が国の徹底的な武装解除であり、非軍事化であり、弱体化、細分化であった。そうであったことはね、占領軍の総司令官であったマッカーサー元帥のいわゆる『マッカーサーメモ』に明らかだ。

 要するにアメリカ占領軍は、日本が再び立ち上がって戦争を仕掛けることができないようにする為に、戦前の諸制度や諸法規は何にでもかんでも改めてしまおうと、そういう考えに立っていたんだ。連合軍、特にアメリカはこう考えたんだろう。『第三次世界大戦が起こるとすれば、その火付け役になるのはやはり日本とドイツとイタリアであろう。この枢軸三国はこれからまた何をしでかすか分からない』とね。そこで枢軸三国の国家体制を徹底的に打破し、細分化して、戦争のタネを根こそぎ取り除いておくことが必要、という訳だな。但し、連合軍は第一次世界大戦の後、ドイツに天文学的な賠償金を賦課し、苛めて、それが逆にヒトラーから報復されるきっかけとなった苦い経験を持っている。そこで今度は、戦いに勝っても勝者としての権利は放棄し、敗戦国をぎりぎりの土壇場まで追い詰めることはしないようにした。賠償金を免除する訳じゃないけれども、敗戦国が自立経済を達成するまで待つという方針を取ったんだ。その代わり、民主化、自由化の名に於いて、敗戦国の非戦力化政策を入念に実施した。これが実に狡猾なやり方だよ。

 勿論、私は、占領軍の政策が日本にとって全てマイナスだったと言いたいわけじゃない。主権在民への転換、農地解放、婦人参政権、労働基本権の確立---こういうものなんかは、良かったことの例だ。こういった措置がね、戦後の日本を再建して、今日の繁栄を築き上げた日本のエネルギーを全面的に解き放ったんだから、それは確かだ。

 にも拘らず、占領軍の目標が、この措置によって日本の弱体化を図るという点にあったことは、これまた間違いない。占領軍は婦人に参政権を与え、戦前は30歳でなければ立候補できなかったものを25歳に引き下げ、投票権も20歳で行使できるようにした。お陰で田中角栄は28歳で代議士になれた訳だ。なぜ占領軍はそんなようにしたかと云うと、例えば婦人、かっての日本では一家の主人が『右向け、右』と云ったら、みんな右を向くから戦争になるんだ。でも婦人と云うものは本能的に戦争が嫌いだから----今は違うけどね、婦人の方が争いが好きな面もあるけど、とにかく婦人に参政権を与えれば、簡単に戦争賛成とはいうまいと、占領軍はそう考えたわけなんだな。若い者も投票権を持てば、オヤジの命令に全部が全部、従うとは限らんだろうと。それが日本の民主化、非戦力化に繋がると、占領軍は考えた訳だ。

 私は自民党の諸君に言ったことがある。日本も戦争に負けていい国になった。昔はね、働けど働けど我が暮らし楽にならざり、と云う国であり、女工哀史が語られる国であったと。それが何もかも吹っ飛んじまって、日本は居ながらにして自由主義、民主主義の国になった。勤労者の諸君は労働三法を貰って、『我が世の春』を謳い、天皇陛下を『彼』と呼び捨てにしている。人の悪口もいいたい放題だ。戦前は第一次産業、第二次産業、第三次産業しかなかったのに、マッカーサーは第四次産業まで作ってくれた。アゴばかり達者で、人の悪口を言っていればメシが食える産業ができたんだ。これは笑いごとじゃないんだよ。これも占領軍が我が国に押しつけた現行憲法によって作られた社会制度である、とね。そういうことなんだ」(早坂茂三「田中角栄回想録」52p)。
 「行政改革を断行するには先ず、現行の法律を半分に減らすことだ。大体ね、役人が法律を作っていると、立法の精神が途中で曲げられて、法学士が国民を押さえつけるのに都合が良いようなものになってしまうんだ。国民の権利を束縛する場合は、どんな小さいことでも法律によらなければいけない。この憲法の精神なんかは、どっかへ吹っ飛ばされてしまう。役人に任せておいたら、国民の権利が縛られる法律ばかりができて、それが山のようにたまっちまった。これが今のありさまなんだ。だからね、法律を半分に減らす。つまり、役人も法律も半分にするというのを行政改革の大目標にすべきなんだ」(早坂茂三「田中角栄回想録」134p)。

【石原慎太郎問答】
 1968(昭和43)年の参院選全国区で、作家として人気絶頂だった石原慎太郎がトップ当選し、初当選の挨拶で、自民党本部の幹事長室を訪れた。石原は、時の幹事長だった田中角栄に「自由新報(自民党の機関紙)の編集も含めて、自民党の広報はなっていない。党本部の職員は削減すべきでせう」と啖呵を吐いた。これに対し、角栄が次のように言い放っている。
 「君の話は分かった。しかし、人間は木の股から生まれてくるものではない。人には歴史がある。簡単に削減とはいかん」。




(私論.私見)