戸川猪佐武の角栄論 |
(最新見直し2010.12.26日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、戸川猪佐武の角栄論を確認しておく。 2010.12.26日再編集 れんだいこ拝 |
【戸川猪佐武の履歴】 | |
「ウィキペディア戸川猪佐武」その他を参照する。
戸川 猪佐武(とがわ いさむ、1923年12月16日 - 1983年3月19日)は、政治評論家・作家。 1923.12.16日、神奈川県平塚市出身。父親は小説家で元平塚市市長の戸川貞雄、弟は小説家の菊村到。旧制湘南中学を経て早稲田大学政治経済学部へ入学し、後に陸軍へ召集となるが徴兵検査で病気が発覚し延期。 回復後に再び召集されたが直後に終戦を迎え、早大に復学して卒業する。 1947年、読売新聞へ入社。政治部記者として活躍し、この頃から数多くの政治家に対し取材を行なって顔を知られるようになる。一時期は特派員としてモスクワにも滞在していた。「戸川は読売新聞記者時代、官邸クラブキャップとして後輩、ナベツネをこき使っていた。保守政界の内幕を描いた実録政治小説『小説吉田学校』はベストセラーになった」(「永田町異聞」)。 1982年、ホテルニュージャパン火災が発生した時にはホテルに事務所を構えており、集団補償交渉について中心的役割を担った。 1983..3.18日、映画化された『小説吉田学校』の試写会や竹下登のパーティなどに参加した直後、翌日未明に急逝した(享年59歳)。 当時の報道によると、事務所を構えていたホテルに戻ったあと急に気分が悪くなり、同室の女性が救急通報を行ない隊員が駆けつけて蘇生措置を行ったが、そのまま回復せず亡くなってしまった。当初、死因は脳出血と伝えられ、後に持病の不整脈が原因による急性心不全と発表されたが、戸川の唯一の弟子といわれた牧太郎によると、戸川は試写会後にホテルで腹上死したのだという。ただし読売新聞会長の渡辺恒雄らはこれを否定している。 なお戸川の通夜には当時の首相である中曽根康弘が駆けつけ、葬儀には田中角栄なども参加していた。 政治評論については記者時代の人間関係から、一貫して保守派擁護の言動を貫いている。特に出身地の関係から、同じ地元である河野一郎などの「河野一族」や、政界引退後は大磯在住であった吉田茂とは、関係が深かったことが伺える。また総理大臣となった人物の論評は数多い。 晩年には田中角栄とのつながりが深かった。一方、重光葵・佐藤栄作のような官僚タイプの政治家にはあまり好意的でない描写をしている。 |
【戸川猪佐武の変死事件考】 | ||||
1983..3.18日、映画化された『小説吉田学校』の試写会や竹下登のパーティなどに参加した直後、翌日未明に急逝した(享年59歳)。 当時の報道によると、事務所を構えていたホテルに戻ったあと急に気分が悪くなり、同室の女性が救急通報を行ない隊員が駆けつけて蘇生措置を行ったが、そのまま回復せず亡くなってしまった。当初、死因は脳出血と伝えられ、後に持病の不整脈が原因による急性心不全と発表されたが、戸川の唯一の弟子といわれた牧太郎によると、戸川は試写会後にホテルで腹上死したのだという。ただし読売新聞会長の渡辺恒雄らはこれを否定している。なお戸川の通夜には当時の首相である中曽根康弘が駆けつけ、葬儀には田中角栄なども参加していた。 1983(昭和58).3.19日、急死。「ウィキペディアの戸川 猪佐武」は次のように記している。
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【戸川猪佐武の主な著作 】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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Re::れんだいこのカンテラ時評876 | れんだいこ | 2010/12/26 |
【戸川猪佐武の政治眼力考】
れんだいこが戸川猪佐武を確認したくなったのは、2010年現在の政治評論家の余りもな粗脳評論による。政治評論家と云うものがいつの世にもかくも粗脳であったとは思えない。その証として戸川に着目した次第である。 戸川の概略履歴を確認しておく。1923年、神奈川県平塚市出身。父親は小説家で後に元平塚市市長となる戸川貞雄、弟は小説家の菊村到。旧制湘南中学を経て早稲田大学政治経済学部へ入学。戦時中は徴兵検査で病気が発覚し、 回復後に再召集されたが直後に終戦を迎え、早大に復学して卒業。1947年、読売新聞へ入社。政治部記者として活躍。一時期は特派員としてモスクワにも滞在していた。「戸川は読売新聞記者時代、官邸クラブキャップとして後輩、ナベツネをこき使っていた」(「永田町異聞」)とある。 1955年、河野謙三から父親の戸川貞雄を平塚市長選挙への出馬説得を依頼され仲介役となり、父親を当選させることに成功している。1962年、読売新聞を退社。政治評論家に転じる。評論活動の傍ら同年10月からスタートされたTBSのニュースワイド「JNNニュースコープ」においてメインキャスターを務める。1963.11月、第30回衆議院議員総選挙に地元の旧神奈川3区から無所属で立候補し、得票19871で落選、供託金没収の憂き目に遭う。その後、作家活動に重点を置くようになる。 1971年、田中角栄政権誕生と共に次から次へと数多くの田中角栄ものを著作している。主なものに「総理田中角栄-この日本をどうする」(講談社、1972)、「田中角栄伝 その土着と大衆性の軌跡」(鶴書房)、「田中角栄猛語録」(昭文社)、「巷談・田中角栄 」(鶴書房)が確認できる。それは何も今時の官房機密費目当ての御用評論ではなく、戸川政論のメガネに叶う故に角栄政治擁護し抜いたのではなかろうか。 1976年のロッキード事件が勃発すると、立花隆流、日共流の角栄パッシングが喧伝される中での多くの評論家の臆病さを尻目に、政治訴追包囲網下の田中角栄を擁護し、田中政治の善政ぶりを孤軍奮闘力説した。「君は田中角栄になれるか」(山手書房、1980年)、吉田茂から鈴木善幸に至るまでの戦後自民党史の権力闘争を描いた実録政治小説「小説吉田学校」(全8巻、角川文庫、1980年)を著し、角栄の有能偉才ぶり、角栄政治を称賛している。 「小説吉田学校」はベストセラーとなり戸川の政治評論家としての地位を確立させた。後に「小説吉田茂」、「小説三木武吉」(角川文庫、1983年)を執筆し更に掘り下げている。 1982年、ホテルニュージャパン火災が発生した時にはホテルに事務所を構えており、集団補償交渉について中心的役割を担った。1983..3.18日、ロッキード事件により政治的絞殺される田中角栄の才能を惜しみ支援活動に勤しんでいた最中、映画化された「小説吉田学校」の試写会や竹下登のパーティなどに参加した直後、翌日未明に急逝した(享年59歳)。戸川の通夜に当時の首相である中曽根康弘が駆けつけている。田中角栄も葬儀に参列し死を惜しんだ。 死因について憶測がある。当時の報道によると、事務所を構えていたホテルに戻ったあと急に気分が悪くなり、同室の女性が救急通報を行ない隊員が駆けつけて蘇生措置を行ったが、そのまま回復せず亡くなってしまったと伝えられている。当初、死因は脳出血と伝えられ、後に持病の不整脈が原因による急性心不全と発表された。戸川の唯一の弟子といわれた牧太郎氏によると、戸川は試写会後にホテルで腹上死したのだとも云う。仮に腹上死だとするとワナを仕掛けられた可能性も強い。なぜなら、「恥多き死に方の強制」はネオシオニスト特有の政治殺人の際の常套手段であるからである。 もとへ。れんだいこは、戸川猪佐武亡き後、日本の政治評論家の能力が格段と落ちていることに義噴を覚えている。それと云うのも、今日マスコミに登場する政治評論家の殆どが角栄の政治訴追に加担した連中であり、その系の者ばかりであることによると思われる。この系の者を百人束ねようとも解はお粗末至極な角栄批判駄弁の饒舌パレードにしかならない。れんだいこは、手前の出世の為に大事なものを売る手合いの売文、売弁に食傷し過ぎている。 戸川猪佐武亡き後、角栄政治を擁護した政治評論家として角栄元秘書の早坂茂三が居た。元全学連闘士にして且つ徳球系の武装闘争派履歴を持つている。卒業後ブンヤであったところ、或る機会に角栄と意気投合し秘書になり長年忠勤した。秘書を辞めて後、数多くの角栄ものを著し、角栄政治の質の高さを称賛し続けた。2004年逝去している。角栄政治を擁護した政治学者として小室直樹が居た。戦後日本秩序を蓮華国家と評する独特の政治論の観点から、その蓮華国家の舵取りに効能を見せ続けた角栄政治の質の高さを評価し続けた。その小室も今年逝去した。他にもそれなりの角栄擁護派の文士が居るが、角栄パッシング政治包囲網下では日の目を見ていない。この流れが、ロッキード事件以来既に30年有余、定式化している。 この流れがいつ逆転するのか、政治評論界の暗闘は今も続いている。思うに、角栄パッシング政治包囲網派の政治、経済、評論が行き詰まるに反比例して、否応なく角栄政治再評価派の識見が見直されることになるのではなかろうか。問題は何事も時機を失してはいけないことにある。小沢バッシング喧騒下の今、小沢政治の源流たる角栄政治の検証に向かうことが望まれているのではなかろうか。菅政権の小泉以来の堂々たる売国政治、地方切り捨て政治が腐敗を放っている今、かく目線を向けるべきではなかろうか。角栄が大綱を示し凝縮させた「日本列島改造論」は日本政治のバイブルである。今日今なお通用する先見の明が再確認される日が近づきつつあるようにも思われる。 当時、朝日新聞が珍しく次のように誉めている。今日の朝日の「空いた口が塞がらない士」に煎じ薬で飲ませてみたいとも思う。「産業の構造変化が弊害を引き起こしている。都市の過密と地方の過疎だ。今まではバラバラな対症療法しかなかった。初めて20年後の都市化の姿を描き、問題の解決をただの理論ではなくて政策にまとめた点で、この大綱は高く評価されていい」、「アメリカの未来学者であるハーマン・カーンが官邸を訪れ、『これは、大変立派な計画だ。日本が軍事大国にならずに、むしろ平和大国となるための壮大なビジョンである』と激賞している。もし時代状況がよければ、道路網なり、新幹線網なりの整備が急速に進み、間違いなく地方が活性化されただろう」。 2010.12.26日 れんだいこ拝 |
【或る評の評考】 | |||
「閑中忙あり」の「異形の将軍 田中角栄の生涯― 津本陽」を転載し、コメントしておく。
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【秋山直紀】 | |
「ウィキペディア秋山 直紀」 を参照する。
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(私論.私見)