諸氏百家の角栄評考その2、戸川猪佐武の角栄論

 更新日/2017(平成29).7.31日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、戸川猪佐武の角栄論を確認しておく。

 2010.12.26日再編集 れんだいこ拝


【戸川猪佐武の履歴】
 「ウィキペディア戸川猪佐武」その他を参照する。

 戸川 猪佐武(とがわ いさむ、1923年12月16日 - 1983年3月19日)は、政治評論家・作家。

 1923.12.16日、神奈川県平塚市出身。父親は小説家で元平塚市市長の戸川貞雄、弟は小説家の菊村到。旧制湘南中学を経て早稲田大学政治経済学部へ入学し、後に陸軍へ召集となるが徴兵検査で病気が発覚し延期。 回復後に再び召集されたが直後に終戦を迎え、早大に復学して卒業する。

 1947年、読売新聞へ入社。政治部記者として活躍し、この頃から数多くの政治家に対し取材を行なって顔を知られるようになる。一時期は特派員としてモスクワにも滞在していた。「戸川は読売新聞記者時代、官邸クラブキャップとして後輩、ナベツネをこき使っていた。保守政界の内幕を描いた実録政治小説『小説吉田学校』はベストセラーになった」(「永田町異聞」)。

 1955年、河野謙三から父親の平塚市長選挙への出馬説得を依頼されたことから、仲介役としての役割を果たし、父親を当選させることに成功している。

 1962年、読売新聞を退社。政治評論家に転じる。評論活動の傍ら同年10月からスタートされたTBSのニュースワイド『JNNニュースコープ』においてメインキャスターを務める。

 1963.11月、第30回衆議院議員総選挙に地元の旧神奈川3区から無所属で立候補し、得票19871で落選、供託金没収の憂き目に遭う。

 その後、作家活動に重点を置くようになり、吉田茂から鈴木善幸に至るまでの保守政界の内幕を描いた実録政治小説『小説吉田学校』全八巻はベストセラーとなって戸川の地位を確立させた。後にこれらを更に掘り下げた『小説吉田茂』と『小説三木武吉』なども執筆している。

 1982年、ホテルニュージャパン火災が発生した時にはホテルに事務所を構えており、集団補償交渉について中心的役割を担った。

 1983..3.18日、映画化された『小説吉田学校』の試写会や竹下登のパーティなどに参加した直後、翌日未明に急逝した(享年59歳)。

 当時の報道によると、事務所を構えていたホテルに戻ったあと急に気分が悪くなり、同室の女性が救急通報を行ない隊員が駆けつけて蘇生措置を行ったが、そのまま回復せず亡くなってしまった。当初、死因は脳出血と伝えられ、後に持病の不整脈が原因による急性心不全と発表されたが、戸川の唯一の弟子といわれた牧太郎によると、戸川は試写会後にホテルで腹上死したのだという。ただし読売新聞会長の渡辺恒雄らはこれを否定している。

 なお戸川の通夜には当時の首相である中曽根康弘が駆けつけ、葬儀には田中角栄なども参加していた。

 政治評論については記者時代の人間関係から、一貫して保守派擁護の言動を貫いている。特に出身地の関係から、同じ地元である河野一郎などの「河野一族」や、政界引退後は大磯在住であった吉田茂とは、関係が深かったことが伺える。また総理大臣となった人物の論評は数多い。 晩年には田中角栄とのつながりが深かった。一方、重光葵・佐藤栄作のような官僚タイプの政治家にはあまり好意的でない描写をしている。


【戸川猪佐武の主な著作 】
1959 昭和現代史 激動する戦後期の記録 , 光文社カッパ・ブックス
1960 戦後風俗史-ろうそくからテレビへ 廃墟から生活革命へ 雪華社
1961 政治資金 政界の地下水道をさぐる 内田老鶴圃
1962 昭和外交史 雪華社
1962 昭和外交五十年 角川文庫
1963 競争に強くなる本 ビジネスマン 実業之日本社
1964 日本を動かすイデオロギー(北岡勲共著) 文教書院
1964 日本の首相 講談社,(ミリオン・ブックス
1965 ビジネスに勝つ19の条件 実業之日本社,
1966 前進する公明党 フェイス出版,
1966 現代の死角永田町 20世紀社
1967 保守を支える人々 民族と政治社
1968 魅力ある政治家 文理書院ドリーム出版
1969 保守人材論 民族と政治社,
1969 首相官邸三十九人の内幕 自由国民社,
1969 人使いアイデア集 ウーム,これはうまい ベストセラーズ
1971 近代政治家伝 日本を築いた人びと(有竹修二,中正雄共著) 永田書房
1971 3年後の日本を見る 政治と経済はどう変っていくか 日本文芸社,
1971 小説吉田学校 流動、のち角川文庫、学陽文庫
1971 燃えつきたスカルノ 濤書房
1971 陥された閣僚 実業之日本社,ホリデー・フィクション
1972 総理田中角栄-この日本をどうする 講談社
1972 田中角栄猛語録 昭文社出版部
1972 総理大臣の椅子 双葉社
1972 政治家 国を左右する人間の虚像と実像 双葉社,
1972 巷談・田中角栄 鶴書房
1972 田中角栄伝-その土着と大衆性の軌跡 鶴書房
1972 小説党人山脈 流動
1972 小説吉田学校 第2部 流動
1972 角栄軍団-その形成過程と組織を点検する サニー出版
1973 昭和外交五十年 学芸書林
1973 自民党の危機-民主連合政権に勝てるか 学芸書林
1973 日の丸と赤い星-日ソ交渉100年の裏面 双葉社,
1974 日本政治の展望ーこれからどうなる!緊急事態に備えて 日本文芸社,
1974 共産党よ、驕るなかれ-仮面に隠された矛盾を衝く サンケイ新聞社出版局
1974 小説吉田学校 第3部 流動
1974 小説自民党対共産党 太陽のち角川文庫
1975 政権争奪 サンケイ新聞社出版局のち角川文庫
1975 小説吉田学校 第4部 流動
1976 河野一族-一郎,謙三,洋平-その反骨の系譜 サンケイ出版
T976−77 政客よ舞え 流動
1976 陰謀の軌跡 昭和の内幕 エルム
1976 現代の新興宗教-信者30,000,000人 太陽
1977 小説吉田小学校 第5部 流動
1978 素顔の昭和 光文社,のち角川文庫
1979 小説吉田学校 第6部 流動出版
1979 悪の社会学-政・財・官界実力者の条件 三天書房のち角川文庫
1980 小説吉田学校 第7部 流動出版,
1980 君は田中角栄になれるか 山手書房
1981 日本の地方銀行 光文社
1981 党人の群れ 第1-3部 角川文庫
1981 小説吉田茂 角川書店のち文庫
1982 小説永田町の争闘 毎日新聞社のち角川文庫
1982 昭和の宰相1-8巻 講談社
1983 小説三木武吉 角川書店のち文庫
1983 新・小説永田町の争闘 毎日新聞社

Re::れんだいこのカンテラ時評876 れんだいこ 2010/12/26
 【戸川猪佐武の政治眼力考】

 れんだいこが戸川猪佐武を確認したくなったのは、2010年現在の政治評論家の余りもな粗脳評論による。政治評論家と云うものがいつの世にもかくも粗脳であったとは思えない。その証として戸川に着目した次第である。

 戸川の概略履歴を確認しておく。1923年、神奈川県平塚市出身。父親は小説家で後に元平塚市市長となる戸川貞雄、弟は小説家の菊村到。旧制湘南中学を経て早稲田大学政治経済学部へ入学。戦時中は徴兵検査で病気が発覚し、 回復後に再召集されたが直後に終戦を迎え、早大に復学して卒業。1947年、読売新聞へ入社。政治部記者として活躍。一時期は特派員としてモスクワにも滞在していた。「戸川は読売新聞記者時代、官邸クラブキャップとして後輩、ナベツネをこき使っていた」(「永田町異聞」)とある。

 1955年、河野謙三から父親の戸川貞雄を平塚市長選挙への出馬説得を依頼され仲介役となり、父親を当選させることに成功している。1962年、読売新聞を退社。政治評論家に転じる。評論活動の傍ら同年10月からスタートされたTBSのニュースワイド「JNNニュースコープ」においてメインキャスターを務める。1963.11月、第30回衆議院議員総選挙に地元の旧神奈川3区から無所属で立候補し、得票19871で落選、供託金没収の憂き目に遭う。その後、作家活動に重点を置くようになる。

 1971年、田中角栄政権誕生と共に次から次へと数多くの田中角栄ものを著作している。主なものに「総理田中角栄-この日本をどうする」(講談社、1972)、「田中角栄伝 その土着と大衆性の軌跡」(鶴書房)、「田中角栄猛語録」(昭文社)、「巷談・田中角栄 」(鶴書房)が確認できる。それは何も今時の官房機密費目当ての御用評論ではなく、戸川政論のメガネに叶う故に角栄政治擁護し抜いたのではなかろうか。

 1976年のロッキード事件が勃発すると、立花隆流、日共流の角栄パッシングが喧伝される中での多くの評論家の臆病さを尻目に、政治訴追包囲網下の田中角栄を擁護し、田中政治の善政ぶりを孤軍奮闘力説した。「君は田中角栄になれるか」(山手書房、1980年)、吉田茂から鈴木善幸に至るまでの戦後自民党史の権力闘争を描いた実録政治小説「小説吉田学校」(全8巻、角川文庫、1980年)を著し、角栄の有能偉才ぶり、角栄政治を称賛している。 「小説吉田学校」はベストセラーとなり戸川の政治評論家としての地位を確立させた。後に「小説吉田茂」、「小説三木武吉」(角川文庫、1983年)を執筆し更に掘り下げている。

 1982年、ホテルニュージャパン火災が発生した時にはホテルに事務所を構えており、集団補償交渉について中心的役割を担った。1983..3.18日、ロッキード事件により政治的絞殺される田中角栄の才能を惜しみ支援活動に勤しんでいた最中、映画化された「小説吉田学校」の試写会や竹下登のパーティなどに参加した直後、翌日未明に急逝した(享年59歳)。戸川の通夜に当時の首相である中曽根康弘が駆けつけている。田中角栄も葬儀に参列し死を惜しんだ。

 死因について憶測がある。当時の報道によると、事務所を構えていたホテルに戻ったあと急に気分が悪くなり、同室の女性が救急通報を行ない隊員が駆けつけて蘇生措置を行ったが、そのまま回復せず亡くなってしまったと伝えられている。当初、死因は脳出血と伝えられ、後に持病の不整脈が原因による急性心不全と発表された。戸川の唯一の弟子といわれた牧太郎氏によると、戸川は試写会後にホテルで腹上死したのだとも云う。仮に腹上死だとするとワナを仕掛けられた可能性も強い。なぜなら、「恥多き死に方の強制」はネオシオニスト特有の政治殺人の際の常套手段であるからである。

 もとへ。れんだいこは、戸川猪佐武亡き後、日本の政治評論家の能力が格段と落ちていることに義噴を覚えている。それと云うのも、今日マスコミに登場する政治評論家の殆どが角栄の政治訴追に加担した連中であり、その系の者ばかりであることによると思われる。この系の者を百人束ねようとも解はお粗末至極な角栄批判駄弁の饒舌パレードにしかならない。れんだいこは、手前の出世の為に大事なものを売る手合いの売文、売弁に食傷し過ぎている。

 戸川猪佐武亡き後、角栄政治を擁護した政治評論家として角栄元秘書の早坂茂三が居た。元全学連闘士にして且つ徳球系の武装闘争派履歴を持つている。卒業後ブンヤであったところ、或る機会に角栄と意気投合し秘書になり長年忠勤した。秘書を辞めて後、数多くの角栄ものを著し、角栄政治の質の高さを称賛し続けた。2004年逝去している。角栄政治を擁護した政治学者として小室直樹が居た。戦後日本秩序を蓮華国家と評する独特の政治論の観点から、その蓮華国家の舵取りに効能を見せ続けた角栄政治の質の高さを評価し続けた。その小室も今年逝去した。他にもそれなりの角栄擁護派の文士が居るが、角栄パッシング政治包囲網下では日の目を見ていない。この流れが、ロッキード事件以来既に30年有余、定式化している。

 この流れがいつ逆転するのか、政治評論界の暗闘は今も続いている。思うに、角栄パッシング政治包囲網派の政治、経済、評論が行き詰まるに反比例して、否応なく角栄政治再評価派の識見が見直されることになるのではなかろうか。問題は何事も時機を失してはいけないことにある。小沢バッシング喧騒下の今、小沢政治の源流たる角栄政治の検証に向かうことが望まれているのではなかろうか。菅政権の小泉以来の堂々たる売国政治、地方切り捨て政治が腐敗を放っている今、かく目線を向けるべきではなかろうか。角栄が大綱を示し凝縮させた「日本列島改造論」は日本政治のバイブルである。今日今なお通用する先見の明が再確認される日が近づきつつあるようにも思われる。

 当時、朝日新聞が珍しく次のように誉めている。今日の朝日の「空いた口が塞がらない士」に煎じ薬で飲ませてみたいとも思う。「産業の構造変化が弊害を引き起こしている。都市の過密と地方の過疎だ。今まではバラバラな対症療法しかなかった。初めて20年後の都市化の姿を描き、問題の解決をただの理論ではなくて政策にまとめた点で、この大綱は高く評価されていい」、「アメリカの未来学者であるハーマン・カーンが官邸を訪れ、『これは、大変立派な計画だ。日本が軍事大国にならずに、むしろ平和大国となるための壮大なビジョンである』と激賞している。もし時代状況がよければ、道路網なり、新幹線網なりの整備が急速に進み、間違いなく地方が活性化されただろう」。

 2010.12.26日 れんだいこ拝

【或る評の評考】
 「閑中忙あり」の「異形の将軍 田中角栄の生涯― 津本陽」を転載し、コメントしておく。
 もうかれこれ30年ほど前になるか、政治記者戸川猪佐武が「小説吉田学校」と言う大部な本を著わした。その初めの方に次のようなことが書かれていたのが印象的であった。

 芦田内閣崩壊後、当時リベラルであったGHQは、ウルトラ・コンサバティブの吉田茂の首相就任を忌避していた。自民党もGHQの意向には逆らえず、大勢止む無しになっていた。そのとき総務会の末席を汚していた若干20歳代の田中角栄が、真っ赤な顔をして、それでは日本はアメリカの属国になってしまうではないですかと大声をあげて反対した。吉田茂もその声に励まされ、総裁に留任、首相になった。ここに五五年体制が確立し、以降長期にわたって自民党が政権を握る事となった。

  田中角栄は金権政治の行き着く果て、自ら身を滅ぼしてしまったが、その後の首相は何れも短命であり、リーダーシップ弱く自ら独自の政策を打ち出さずに次々と交代して行った。サミットでは毎回初めましてと言う事になり、世界中で奇異の目で見られた。そんな中、角栄に関する研究書、伝記が数多く出されるようになった。又日本の理想の指導者を問うアンケートでは角栄は常に上位に顔を出した。そしてごく最近歴史小説家津本陽が「異形の将軍 田中角栄の生涯」と言う本を著わした。面白そうだったので早速読んでみた。

 田中角栄は新潟の片田舎で生まれた。祖父は宮大工で働き者であったが、父は牛馬商を営み大変山っ気の多い人で、次第に競馬にのめりこんでいった。そのため家は大変貧乏で、母親は子育てにとても苦労した。角栄は幼い頃からお金の大切さ、お金の力を身にしみて感じていた。金が全てだ、金は力だ、金は人の心も買える。角栄の哲学は作られていった。角栄は高等小学校を出ると、暫く地元で働いていたが、やがて単身上京した。建築関係の資格をとるために夜学に通いながら働いた。才覚があり骨身を惜しまないので何処でも可愛がられた。やがて応召、北満の地に赴くが、結核を患い除隊となった。角栄は田中土木を起こし、折からの軍需景気に乗って事業を拡大していった。角栄は学校を出ていない悲しさ、学友がいない。そこで積極的に人脈づくりに精を出した。そんななか小佐野と知り合った。利権と金でがっちり結ばれたこのタッグは、角栄の活動に重要な役割を果たすことになる。

 角栄は頭が切れ努力家で行動派であった。その上親分肌で人情家であった。集めた金は惜しみなく人に与えた。28歳で新潟三区より初当選を果たし、翌年早くも法務政務次官になった。自民党内で忽ち頭角を現し、39歳の時史上最年少で郵政大臣に就任した。その後大蔵大臣、通産大臣を歴任した。郵政大臣の時、テレビ放送が始まりその利権に多くの人が群がったが、これを大胆に裁いた。大蔵大臣のときには山一危機が発生し、日銀特融という荒技でこれを切り抜けた。通産大臣の時には日米繊維交渉があり、利害が反する難問を無事切り抜けた。所管ではなかったが、学園紛争激化の中、大学運営臨時措置法を周囲の反対を押し切り強行採決に持っていき、学園紛争にピリオドを打った。

 そして再度にわたる幹事長。自民党の金庫番として長期に及ぶ一党支配に大きく貢献した。角栄は地元では越後交通会長、小佐野の関連では日本電建社長を務め、金脈のルートとして活用した。目白詣でという言葉があるが、利権を求めて人々は集まった。角栄は即断即決依頼者の信頼は厚かった。角栄はまた役所にも目配りを怠らず、その影響力は大きかった。やがて決戦の時がきた。角福戦争の火ぶたが切って落とされた。戸川猪佐武の小説吉田学校にも一巻が割かれている。政治の裏は真にすざましい。金が全てだ。金は人の心も買える。角栄は惜しげもなく金をばら撒いた。角栄は遂に栄光を手にした。人々は角栄を「今太閤」と讃えた。
  
 これより先、角栄は「日本列島改造論」を発表した。農村を都市化しようというものである。新潟の片田舎の貧しい村の生活体験から来ているのだろう。これが火付け役になってとんでもない土地ブームが起こった。不動産の売買を巡り政治がらみのキナ臭い事件があちこちで発生し、巨万の富をうる者が出てきた。その一部が政治に還流した事は言うまでもない。

 人々は次第に角栄の金脈に胡散臭いものを感じ始めた。マスコミも黙っていない。自民党内にも反対派はいる。最後には文春に載った立花隆の「田中角栄研究・その金脈と人脈」と児玉隆也の「淋しき越山会の女王」の二篇が引き金になり、退陣に追い込まれてしまった。田中角栄の在任期間は二年と三ヶ月、その上りつめて行く道程に比べるとあっけなかった。角栄の偉業は何と言っても日中国交回復であろう。そのざっくばらんな性格が周恩来の心を捉えた。そして在任中に起こった石油ショックでは、何とかエネルギーの自由戦略をとろうと関係各国に働きかけた。これがアメリカ・石油メジャーの怒りに触れ、かのロッキード事件に連なったと言う説がある。
  
 この本の下巻の帯にこんなことが書かれている。そしてカリスマの「遺伝子」だけが残った。角栄の地元利益誘導は有名である。トンネルが掘られる。道路が敷かれる。新幹線がやってくる。河川敷が農地になる。地元は大喜び。金と票と利権、選挙民と代議士はがっちり結ばれる。地元だけではない。全国に様々な利益者集団がある。これがやはり金と票と利権で族議員とがっちりと結ばれている。この構造を作り上げるのに角栄は大いに貢献してきた。最近高速道路民営化推進委員会が族議員の抵抗にあってもめた。元はと言えば道路三法は角栄の議員立法になる。巨大な赤字で行き詰まっている住宅金融公庫も角栄の発案である。

 小泉首相がよく敵は内にありと言う。抵抗勢力,族議員は角栄のDNAをがっちり受け継いで揺るぎがない。郵政族・道路族・建設族・・・を打ち破るのは至難の技だ。石原ジュニァーも大変だ。公団に天下る高級官僚も族議員とがっちり手を組んでいる。野党の攻勢をかわすほうがよっぽど楽のようだ。最近元建設大臣中村喜四郎がゼネコン汚職で斡旋収賄罪に問われ、議員辞職に追い込まれた。野党は早速公共工事を受注した会社の政治献金を禁じる法案を提出しようとしている。色々な汚職が起きると取り締まる法律が生まれる。するとすぐさまそれを潜り抜ける方策が開発される。角栄は司法に詳しく、自分は絶対に捕まらないと信じていた。然しロッキードでは敗れてしまった。アメリカ石油メジャーの陰謀とすれば、そこまでは読めなかったであろう。

 田中角栄が首相の座を降りてからも倫理の問題はやかましかった。あまり煩いので中曽根首相はりんりん、りんりん虫が鳴いていると揶揄したものだ。清く、正しく、美しくは首相の必須条件であるが、リーダーシップもポリシーもない首相が次々と盥回しのように生まれるのは如何なものか。さりとて角栄のように清濁併せ呑むと言うタイプは今時流行らない。

 そこで我々は小泉首相に大いなる期待を持った。その支持率も当初非常に高かった。然し角栄のDNAは残っていた。抵抗勢力のパワーは衰えていない。どういうものか世間もマスコミも抵抗勢力をあまり叩くようには見えない。そればかりか構造改革そのものを批判する声が高くなってきている。田中角栄がわが国の政治に及ぼした影響は計り知れない。それは日本の政治の構造を作ってきたからである。いつまでもそのDNAは消えないのであろうか。( 2003.01 )

(私論.私見)

 前段から中段までの評はまだしも、末尾の一節の反角栄論調はいただけない。文意的に見て繋がらないのに不自然な末尾となっている。これはどういうものだろうか。れんだいこ的には、こういう論に遭うと気持ちの治まりがつかない。角栄を批判するなら批判するで文意を通せば良い。擁護するなら擁護するで一貫すれば良い。その中間の立場を採るなら、客観評論すれば良い。然るに、ここではやや擁護的に説き起こしながら結論を真反対に締めている。文章方法としていただけない。れんだいこの気持ちを記しておく。

 2010.12.27日 れんだいこ拝

【政治評論家戸川猪佐武が急変死】
 3月、「小説吉田学校」の著者である政治評論家戸川猪佐武が急変死。「小説吉田学校」の映画化による試写会の帰りに急性心不全で急逝。直後、愛人宅で腹上死したというゴシップが流れ、それを某週刊誌が記事にしようとしたのを戸川の出身である読売新聞の、当時の政治部長だった渡邊恒雄が揉み消したという話がある。ナベツネは自身の回顧録で、先輩や他紙を含めた同僚の政治記者について様々なことを語っているが、にもかかわらず読売の先輩戸川のことについては殆ど何も触れていない。 戸川腹上死につき、政治評論家の故藤原弘達が書いた「角栄、もういい加減にせんかい」の中にハッキリその事が書かれているとのこと。

 小説吉田学校(1983)出演者一覧
吉田 茂   森繁久彌
鳩山一郎 芦田伸介 1999年1月没、享年81
松野鶴平   小沢栄太郎
星島二郎 伊豆 肇
幣原喜重郎 三津田 健 1997年12月没、享年95
林 譲治 土屋嘉男
河野一郎   梅宮辰夫
大野伴睦   田崎 潤 1985年10月没、享年72
広川弘禅 藤岡琢也 2006年10月没、享年76
池田勇人 高橋悦史 1996年5月没、享年60
佐藤栄作 竹脇無我
田中角栄 西郷輝彦
太田一郎 神山 繁
岸 信介   仲谷 昇 2006年11月没、享年77
益谷秀次 稲葉義男
増田甲子七 加藤和夫
中井川隆一郎   鈴木瑞穂
中曽根康弘   勝野 洋
三木武夫 峰岸 徹
麻生太賀吉 村井国夫
浅沼稲次郎 小池朝雄 1985年3月没、享年54
石橋湛山 黒木佐甫郎
宮沢喜一 角野卓造
石田博英   辻 萬長
須永一雄 石田純一
福田赳夫 橋爪 功
西村栄一 小林稔侍
大麻唯男 神田隆 1986年7月没、享年68
斎藤隆夫 佐々木孝丸 1986年12月没、享年88
松野鶴平 小沢栄太郎 1988年4月没、享年79
河野金昇 御木本伸介 2002年8月没、享年71
河本敏夫 成田次穂
福田 一 和崎俊哉
河野金昇 御木本伸介
二階堂 進 山下洵一郎
安倍晋太郎   瀬戸山 功
竹下 登   下塚 誠
海部俊樹 福田勝洋
渡辺美智雄 樋渡紀雄
田中六助   千葉 茂
中川一郎 脇田 茂
マッカーサー RICK JASON
麻生和子 夏目雅子 1985年9月没、享年27
緒方竹虎   池部良
(特別出演)
三木武吉   若山富三郎 1992年4月没、享年62
益谷秀次 稲葉義男
中井川隆一郎
(モデルは山口喜久一郎
鈴木瑞穂
安藤正純 増田順司
一万田尚登 細川俊夫
河上丈太郎 庄司永建
ナレーター   平光淳之助
その他(主に国会議員役)
原作 戸川猪佐武
作品データ
製作年 1983年
製作国 日本
配給 東宝
上映時間 132分
企画協力 角川春樹事務所
監督 森谷司郎
助監督 中田新一
製作 山本又一朗
製作補 橋本利明
製作担当者 桜井勉
脚本 長坂秀佳森谷司郎
撮影 木村大作
美術監督 村木与四郎
美術 育野重一
編集 池田美千子
音楽 川村栄二羽田健太郎
照明 熊谷秀夫
録音 吉田庄太郎
スチール 吉崎治

 戸川 猪佐武(とがわ いさむ、1923年12月16日 - 1983年3月19日)は、日本の政治評論家・作家。神奈川県平塚市出身。父親は小説家で元平塚市市長の戸川貞雄、弟は小説家の菊村到。 来歴・人物 旧制湘南中学を経て早稲田大学政治経済学部へ入学し、後に陸軍へ召集となるが徴兵検査で病気が発覚し延期。 回復後に再び召集されたが直後に終戦を迎え、早大に復学して卒業する。 1947年に読売新聞へ入社。政治部記者として、数多くの政治家に対し取材を行なって顔を知られるようになる。一時期は特派員としてモスクワにも滞在していた。1955年には河野謙三から、父・貞雄の平塚市長選挙への出馬説得を依頼されたことから、仲介役を務め、父親を当選させることに成功している。 1962年に読売新聞を退社して政治評論家に転じる。評論活動の傍ら同年10月にスタートしたTBSのニュースワイド『JNNニュースコープ』においてメインキャスター(1962年10月 - 1964年3月)を務めるようになった。





(私論.私見)