増田悦佐氏の逆さ読み角栄考

 更新日/2021(平成31.5.1栄和元/栄和3).8.22日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、増田悦佐なる御仁の角栄批判を確認しておく。かなり粗脳かオツムがヤラレていることが分かろう。

 2010.10.25日  れんだいこ拝


【「増田悦佐氏の逆さ読み角栄考」】
 株式日誌と経済展望の2004.12.17日付け『自民党の社会主義者、田中角栄は戦後日本政治の中で唯一政権奪取に成功した革命家なのだ』」「増田悦佐『高度経済成長は復活できる』を紹介している。れんだいこがこれにコメント付けるが、論旨が非常に屈折している為、順不同で拾い出してスッキリさせる。

 れんだいこは、増田悦佐(以下、単に「悦佐」と表記する)氏の「高度経済成長は復活できる」を読んでいない。実は、あまりの痴愚ぶりに読む気がしないというのが実際のところである。従って、「株式日誌と経済展望」の該当文から学ぶ以外ない。それによると、「悦佐」は次のように云い為しているとのことである。
 「田中角栄は経済成長を敵視する社会主義革命家にして積極財政、拡大志向、そして利権政治の親玉として、社会主義的な思想信条とは対極に位置するように見える田中角栄」。
(私論.私見) 
 そんな馬鹿な言い方があるだろうか。角栄を社会主義革命家と云いなしていると思いきや「社会主義的な思想信条とは対極に位置するように見える田中角栄」とも云う。云っていることのロジックが合っていないではないか。おまけにご丁寧にも社会主義革命家の前に「経済成長を敵視する」という修飾句を付けている。

 この御仁は、言語能力がかなりイカレていることが分かる。且つ史実を歪曲させて恥じないようである。且つその社会主義観も根本的に狂っている。「経済成長を敵視する社会主義革命家」なる社会主義革命家が居ると考える頭脳がお粗末過ぎよう。「積極財政、拡大志向、そして利権政治の親玉」という「諸悪の元凶角栄説」も陳腐だ。れんだいこは、こういう手合いがインテリ面することが許し難い。

 「悦佐」は更に次のように云う。
 「なぜ、田中角栄の経済政策は、『積極的な国土開発』を謳いながら徹底した反成長思想に貫かれたものだったのか。なぜ田中角栄の作った政治、経済、社会をおおう諸制度が奇蹟とまで賞賛された日本経済の成長率をその後三〇年間に及ぶ長期的な衰退に導いたのか。そして、なぜ田中角栄は失脚しても、利権社会主義の弊害が延々と日本国民を苦しめつづけているのか」。
(私論.私見)
 このトゲトゲシイ批判は何なんだ。角栄を高度経済成長路線を敷き成功させたハト派の総帥とみるのではなく、「日本経済の成長率をその後三〇年間に及ぶ長期的な衰退に導いた」犯人と勝手に措定しているが、何の根拠でそったらことを云うのか。三木、福田、中曽根政治を論うことなく、全ての悪を角栄に帰せしめるこの論法の不純さこそ許し難い。「なぜ田中角栄は失脚しても、利権社会主義の弊害が延々と日本国民を苦しめつづけているのか」と問うているが、「利権社会主義の弊害」とは何なんだ。無茶苦茶なことを云う御仁だ。三木、福田、中曽根政治批判に向かうべきところを角栄批判にすり替えているが、どうせ雇われで云っているのだろう。

 
そういう観点を見せながら、「悦佐」は唐突に次のようにも云う。
 「田中角栄は、単なる保守党政治家ではなく、体制内革命を成就した革命家だった。佐藤内閣をできるだけ長持ちさせ、クラウンプリンス福田赴夫の首相就任を阻止しながら行われた党中党建設、派中派建設は、革共同・革マル派もうらやむ手際の良さだった」。
(私論.私見) 
 そういう悪の代名詞の栄誉に与る角栄は、「単なる保守党政治家ではなく、体制内革命を成就した革命家だった」、「党中党建設、派中派建設は、革共同・革マル派もうらやむ手際の良さだった」と云う。「悦佐」は一体何が云いたいのだろう。角栄を社会主義者として見ようとしているのかいないのか、はっきりせんかい。「革共同・革マル派もうらやむ手際の良さ」という文言の挿入もイカガワシイ。何の絡みがあるというのだ。何も分からぬ手合いが知ったかぶりをして書きつけているが、よほどアホであることが分かる。わざわざ「革共同・革マル派」としているところも臭い。

 
その癖、次のようなところに着目している。ここの記述がまま受けるから、れんだいこは採りあげている。
 「都会の有権者は争点次第で投票行動も違ってくるが、いったんつかんだ地方の有権者は本人が大都市圏に移住しない限りずっと支持基盤になる。ここに眼をつけた、『地方から攻め上って都市を包囲する』選挙戦略は、毛沢東もうらやむ辺境革命理論の実践だった。一言で言えば、田中角栄は戦後日本政治の中で唯一政権奪取に成功した革命家なのだ。彼は政治手法を自民党の先輩代議士たちからではなく、三宅正一や小林進などの社会党の農民運動指導者から学んだと言われている」。
(私論.私見)
 そういう面はあるが、それがいけないことなのか評すべきことなのかお前の態度をはっきりさせんかい。同じ情報を得て、れんだいことこうも違う観点に至る「悦佐」とは何者なのだろう。

 続いて次のようにも述べている。
 「初当選のころの田中は、有権者との付き合い方を〃日農〃を指導していた当時の三宅正一社会党代議士から伝授されたと言います。"田中君、一票が欲しければまずそこの家に上がってお茶をごちそうになることだ。そのうえで、お茶代を置いてくるんだ"と。有権者とのスキンシップですね。それを、若き日の田中はそのまま実行した」。
 「地下タビに脚絆、昼メシどきになると握りメシを抱えて農家の縁先を借りる。"すいません。ちょっとここでメシを食わせてもらってもいいですか"。"……まア、家に入りなさい"ということになる。家に上がればしめたもので、持論を訴え、聞いてもらうことで"一票"を手にしていくことになる」(小林吉弥、「高橋是清と田中角栄-日本を救った巨人の知恵」、光文杜知恵の森文庫、2002年初版)。
 「つまり、田中角栄の政治手法は必然的に政治理念をも社会党系の急進農民運動の理念に変えて行ったのだ。そして、田中角栄は、地方の農民たちが抱いている大都市圏に対する劣等感と羨望の念、そしてその裏側にある『われわれは、もともと都会人に比べると非常に不利な立場にあるのだから、都会人に一泡吹かせるためなら、多少は汚い手を使ったとしても許されるはずだ』という意識を完全に共有していた」。
(私論.私見)
 ここも同様である。角栄のそういう親労農大衆ぶりに対して、お前はどう評しているのか態度をはっきりさせんかい。

 「しかし、田中角栄は陣笠代議士時代から議員立法を駆使して『社会的弱者』のための利権連合を着々と作り、支持基盤を拡大していった。ニクソン大統領の強硬な要求で繊維製品の対米輸出を自主規制させられた事件が、いい例だろう。佐藤内閣の通産大臣だった田中角栄は、どうころんでも憎まれ役にしかなりそうもない交渉でアメリカ側の要求をほぼ全面的に受け入れながら、独断で札束で頬をひっぱたくような巨額の補償を繊維業界にばら撒いた。結局、この交渉を通じて中小零細企業の味方のイメージを確立してしまった」。
(私論.私見) 
 ほんにお前はヌエのようなやっちゃ。角栄の日米繊維交渉で見せた能力を評しているのか、貶しているのか、態度をはっきりさせんかい。いつも両見解を並べて見せるだけの玉虫色論に過ぎない。気持ち悪い御仁である。

 「もうひとつ、田中角栄が自民党内で革命を起こそうとしていることが、なかなか周囲に感づかれなかった理由がある。自分の政権奪取能力、政策遂行能力、利害調整能力に絶大な自信を持っていた田中は、政治理念を宣伝して同志を募るという過程を省略し、たったひとりで革命[を成し遂げた。田中角栄の秘書であり越山会の統括責任者であった佐藤昭が述べているように、『毛首席には周恩来同志がいましたが、田中には周恩来さんがいなかった』(新潟日報報道部、「宰相田中角栄の真実」、講談社刊、1994年初版)のだ」。
(私論.私見)
 ここも同じだ。この記述は、角栄を評価しているのか、貶しているのか、態度をはっきりさせんかい。

 「角栄政権のプラスのほうに眼を転じれば、首相在任中にやってのけた功績がふたつある。日中国交回復と、ソ連共産党書記長ブレジネフに『日ソ間には北方領土という未解決の問題が存在する』と認めさせたことだ。どちらも、社会主義政権相手の仕事だった」。
(私論.私見)
 角栄政権の功績として、日中国交回復と日ソ交渉を挙げている。しかし、オチをつけなければ気が済まないらしく、「どちらも、社会主義政権相手の仕事だった」と付け加えている。それがどうしたと云うのだろうか、手前の見解は示さない。卑怯な御仁である。

 「世界中にたったひとりだったかもしれないが、一九七二年という早い時期から田中角栄政権誕生の本質を『革命家』による政権奪取と見抜いていた社会主義国指導者がいた。彼は、岩波書店の総合誌『世界』に掲載されたインタビューで以下のように答えている。『日本人民の闘争が強まったために佐藤反動政府は追い出され、田中政府がこれにかわりました。これは日本人民の闘争の結果だといえます。われわれは日本人民の闘争を高く評価し、それを全面的に支持します』(坪内祐三、「一九七二-『はじまりのおわり』と『おわりのはじまり』」、2003年の文塾春秋刊より引用)。当時の北朝鮮国家元首、金日成だ。まさに、『英雄、英雄を知る』と言うべき洞察力だ」。
(私論.私見) 
 この記述の下りは面白い。金日成の角栄観は初めて教えてもらった。そういう意味で感謝申し上げよう。もっとも、お前は、これを否定的に採りあげているようだが。れんだいこは、これを「角栄の左派資質」の例証に採り入れようと思う。

 以下、総評。「悦佐」はいろいろ毒づいているが、それを割り引いて読み取れば、新たな角栄像が見えてくる。その面で、「悦佐」の「高度経済成長は復活できる」にはそれなりの意味がある。しかし、角栄を社会主義者として持ち上げたり貶したりケッタイな御仁ではある。

 「株式日誌と経済展望」管理人は、「私のコメント」で次のように述べている。
 「むしろ、田中角栄こそ日本における社会主義革命に成功した唯一の人物としてみる論こそ、今までになかった田中角栄論である。なぜ、アメリカの共和党政権が田中角栄を失脚させたのかは、もっぱら独自のエネルギー戦略を展開したからロックフェラーの逆鱗に触れたという説が有力ですが、むしろ田中角栄が日本で社会主義革命を成功させたからだと言うほうが、説得力があると思う」。
 「自民党内にこのような大派閥を形成できたのも、日本の農家などからの支持を集めたからであり、それが大都市を包囲して一気に革命へ持ってゆく手法は毛沢東の革命戦術であり、だからこそ中国やソ連も日本こそ社会主義国家の仲間としてみる要素になったのだろう。それに対して危機感を持ったからアメリカのキッシンジャーは角栄を失脚させたのだ」。
(私論.私見) 
 「株式日誌と経済展望」管理人は、れんだいこ同様に、「悦佐」の毒づきを割り引いて指摘された内容そのものを吟味し、角栄の左派資質を見ようとしている。それは正解だろう。但し、もっと思い切って、角栄を日本史上稀有な土着左派人士と見立て、彼の業績そのものを虚心坦懐に振り返るべきだろう。昨今、市場性社会主義論が云々され始めているが、その目で見れば、戦後日本とははまさに市場性社会主義体制であったのではなかろうか。実際は、政府与党を自民党が掌握し、その自民党はハト派、タカ派の混交政党であった訳だが、池田ー佐藤ー角栄ー大平ー鈴木政権時代とは、ハト派がタカ派を上手に日本をお守りしていた時代であったのかも知れない。失われてこそ見えてくる世界ではある。

 2005.2.17日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評その18 れんだいこ 2005/02/19
 【再びれんだいこの角栄論、増田悦佐氏の角栄批判を批判する】

 
れんだいこは、「れんだいこのカンテラ時評その17」で、増田悦佐氏の著書「高度経済成長は復活できる」の田中角栄観に付き「論旨が非常に屈折している」と評した。しかし、この観点では云い足りないためもう少し言及する。

 増田悦佐(マスダエツサ)のプロフィールは次の通り。「経済人 1950. HSBC証券シニア・アナリスト。建設・不動産分野に強いアナリスト。ニューヨーク州立大助教授を経てアナリストに、一橋大卒」。

 れんだいこと同じ年生まれの、角栄を廻ってまったく反対の観点の持主ということになる。れんだいこに云わせれば、その観点は、シオニズム受け狙いのお調子もんでしかない。まっそうだからもてはやされようとしているのだろう。「高度経済成長は復活できる」の発行元は「文春新書」である。ということは、立花二世として育成されつつあるということか。

 その内容たるや、「日本経済はどこで間違ってしまったか」→「誰が高度成長経済を殺したのか」→「実行犯は田中角栄」→「『弱者』をふやしたがる『黒幕』たち」→「『弱者』のための利権連合がつくった世界」→「高度成長は復活できる」という論旨展開になっているらしい。思うに、高度成長経済路線を好評価しつつ、角栄の日本列島改造案思想を真っ向から否定し、高度成長経済路線を殺したのは角栄なりとして、「立花流『諸悪の元凶角栄』史観」をリバイバルさせようとしている。

 しかし、それは全く転倒錯綜した史観でしかなかろう。今我々が為すべきは、立花流ないしは日共流に歪められた「諸悪の元凶角栄」史観から抜け出し、「角栄の日本列島改造案思想」を再度学ぶことである。そういう意味で、下手糞ゲテモノ本を読むよりは角栄の「日本列島改造論」そのものを読み直すほうが良い。どっかの社が再販すればよい。必ずベストセラーになるだろう。「政治圧力」なしにそれができるかどうか、それが問題だ。

 ところで、同書紹介の「アマゾン・コム」に載っている書評がこれまたひどい。いわゆるヤラセになっている。角栄批判、「朝日新聞をはじめとする進歩的なマスコミ」批判、官僚批判という定食メニューを書き付けている。そしてしまいにはこうなる。
 「悲劇的なのは,田中社会主体革命が温存され今日も続いているという事実である.なぜ日本だけ,バブル崩壊後 13年も低成長を続けているのか? なぜ日本だけ,GNP の倍にも上る公的債務を抱え込むことになったのか? なぜ都会のサラリーマンの生活は豊かになれないのか? こうした疑問を持つ全ての読者に必読の書である」。

 つまり、日本の現在の過膨張公的債務路線の敷設者が角栄であったと決めつけている。れんだいこは、れんだいこ論文集の「国債論」の中で、そのウソを暴いている。戦後初の国債の発行者は佐藤内閣時の福田蔵相であり、三木が推進し、中曽根が加速させ、以降とめどない垂れ流しのまま今日まで迎えている。この間いわゆる真性ハト派の角栄、大平、鈴木の三代に限り赤字国債発行体質を止めさせようとして懸命に漕いだ、という史実こそが確認されねばならない。付け足せば、佐藤の前の池田時代は国債を頑として発行していない。この時、角栄は大蔵大臣の任にあった。

 それが史実なのに、なぜ逆さに描くのだろうか。立花然り、この増田然り。角栄を叩くが、角栄が地下で暗闘したタカ派、それもネオシオニズムに取り込まれた国際主義派=国債主義派に対しては大甘という構図になっている。それはペテンの類の論法だ。

 滑稽なことに、増田史観は、角栄を叩くあまりに角栄=体制内革命推進革命家論を展開しており、こっちの方の見解が好評という皮肉なことになっている。

 それにしても、「クラウンプリンス福田赴夫の首相就任を阻止しながら行われた党中党建設、派中派建設は、革共同・革マル派もうらやむ手際の良さだった」と記しているとのことだが、何でここに「革共同・革マル派」が出てくるのだろう。いかにも唐突だ。胡散臭い。

 
角栄と〃日農〃を指導していた当時の三宅正一社会党代議士との関わり、つまり社会党系急進農民運動との関わりを指摘している。案外知られていないがその通りである。ちなみに、角栄歿後、後援会の「越山会」票がどこに流れたのか追跡調査したところ、何と社会党へ向かっていたとのリサーチが為されている。これについては「角栄の左派資質と傾向について」tmの【「角栄票はどこに流れたのか」追跡調査考】に記した。
 kakuei/zinnmiyaku_sahakisitu.h

 田中角栄の秘書であり越山会の統括責任者であった佐藤昭の弁「毛首席には周恩来同志がいましたが、田中には周恩来さんがいなかった」(新潟日報報道部、「宰相田中角栄の真実」、講談社刊、1994年初版)の指摘も興味深い。二階堂がその任にあったが役不足だった。しかし、二階堂はこれまた良い政治家だった。

 これは初耳だが、当時の北朝鮮国家元首・金日成が、「世界中にたったひとりだったかもしれないが、一九七二年という早い時期から田中角栄政権誕生の本質を『革命家』による政権奪取と見抜いていた社会主義国指導者がいた」との指摘は面白い。

 増田氏の著書「高度経済成長は復活できる」はこういうところの記述にのみ値打ちがある。思えば、皮肉なことである。しかし、読めば読むほど頭がヤラレルこういういかがわしい観点が次から次へと量産されていることになる。これに抗する逆攻勢をかけねばならぬ。どこの出版社がやってくれるのだろうか。

 2005.2.19日 れんだいこ拝

【増田悦佐の知能狂人論法考】
 「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK98」の韃靼人氏の2010.10.24日付け投稿「当時当代一の文芸批評家であった小林秀雄が政治家田中角栄の文を絶賛!「角栄の文章能力評」 れんだいこのカンテラ時評833」のコメントに次のような一文が寄せられている。
 評価にはもう少し時間が必要だろう。政治改革が実効しはじめ経済も安定してからでないと。

 (増田悦佐『高度経済成長は復活できる』によれば) 「地方の住民、農民、中小企業を「弱者」に仕立て上げ、「弱者保護」の名のもとに利権政治を集大成した田中角栄元首相こそ、高度成長の終焉をもたらした実行犯である」 (岩田規久男『日本経済を学ぶ』ちくま新書 36ページ)


 ネット検索で出くわした「田中角栄って・・・」にも次のような一文がある。
 「高度経済成長は復活できる」(増田悦佐・文春新書)を読めば田中角栄による地方へのバラマキと弱者保護政策が高度経済成長を終焉させたのが判ります。田中自身は素朴な平等論者だったようだが、都市に人口が流入する事で経済が活性化していた日本を地域の活性化と称してバラマキやったせいで人口過少地に予算がばら撒かれ経済効率が悪化した訳です」。

 これにコメントしておく。れんだいこの知らないところで、増田悦佐の反角栄論が受けているらしい。手前の頭で判断できない者に限って増田氏の「高度経済成長は復活できる」を頼りに相変わらずの反角栄論で悦に入っている様子が分かる。しかしながら、れんだいこがこれから述べるように増田氏が狂人だったとしたらどうなるか。狂人説をまともに受け入れている者は恥じるのだろうか、狂人同士でウマが合うのだろうか。

 増田氏の狂人ぶりがどこで分かるか。それは、恥ずかしげもなく著作をものにしているぐらいだから、それなりの知識と教養があるだろうことは推測できる。しかしながら、知識とか教養は物事を正しく見る為に必要なものであって、逆に見るのに資するものではない。知識とか教養を増して本来の結論に至らないどころかますます遠ざかるとしたら尋常ではない。知識と教養を備え然る後に物事を逆さに見る名人となると知能狂人でしかないと云うべきではなかろうか。では、どこが知能狂人なのか。これに答えておく。

 角栄は、実は戦後復興期から屋台骨を背負って立った稀有な戦後政治家であった。その流れで池田政権以来の高度経済成長をも支え抜いた。「コンピュータ付きブルドーザー」とあだ名されたが、この時代の獅子奮迅の働きを例えている。高度経済成長時代は池田政権から佐藤政権へと続く。角栄は、この時代の名リーダーであった。ところが、佐藤政権時代、佐藤栄作首相「佐藤無策」と形容されるほど「待ちの政治」に徹し、新時代への展望を欠いていた。角栄は、この時代を継承し、佐藤政権下での淀みに対して内治、外治両面にわたって果敢に局面打開に向かった。内治は日本列島改造論で、外治は日中国交回復で切り開いた。高度経済成長政策のツケであったインフレの波、オイルショックの波を被りながらも、懸命賢明に「国家百年の大計」を敷きつつあった。その最中、国際金融資本帝国主義仕込みの金権訴追運動のゴングが鳴った。立花隆の「田中角栄−その金脈と人脈」、児玉隆也の「寂しき越山会の女王」が掲載された「文芸春秋1974.11月号」が狼煙となった。続く「外人記者クラブでの執拗な金権追及会見」が後押しした。田中政権は退陣を余儀なくされ、追ってロッキード事件でハガイジメされ、かの世界史的見ても有能な角栄頭脳を宝の持ち腐れにさせてしまうことになる。

 この日本政治の痛恨事に対して、これを逆さに描き、角栄が居なければ日本の高度経済成長はなお続いていたと云わんばかりの角栄をして「高度経済成長の終焉者」と描くのが増田悦佐史観である。マスコミメディアに巣くう自称インテリらは、立花隆史観、増田悦佐史観を好むが、れんだいこに云わせれば白を黒と云い含める典型的な詐術詭弁である。この連中は特殊なイデオロギーに被れた共同幻覚者達である。これぐらい断じても一向に差し支えないと思う。

 この詐術詭弁をそうと知りながら身すぎ世過ぎの為に売文売弁するのならともかくも、増田悦佐なる者は本気で転倒理論を唱えている節がある。角栄を知れば知るほどあらゆる兆候が角栄の有能過ぎる社会主義者ぶりを示す。それに気づかないのならともかくも、気づいて然る後に角栄が有能な社会主義者故に断固として批判すると云う芸当はとてもマトモではない。それを著作にしてまで熱心に説くとしたら狂人以外に有り得ないのではなかろうか。れんだいこが、知能狂人と断ずる所以である。こう書いた以上、この立論の確かさを確認する為に読みたくもない「高度経済成長は復活できる」を読まねばなるまいか。他にも読むのがたくさんあるので先になりそうだが。

 最後に。「都市に人口が流入する事で経済が活性化していた日本を 地域の活性化と称してバラマキやったせいで人口過少地に予算がばら撒かれ経済効率が悪化した訳です」なる論を平気で開陳して違和感を持たない者に告ぐ。「都市に人口が流入する事で経済が活性化していた日本」なる言が正しければ、過密過疎を押し進めれば良いと云うことになる。頭は確かか。「人口過少地に予算がばら撒かれ経済効率が悪化した」なる論を平気で開陳して違和感を持たない者に告ぐ。人口過少地に予算を回さなければ経済効率が良くなると云うことになる。気は確かか。

 2010.10.25日 れんだいこ拝

【増田悦佐並の知能狂人論法考】
 「日本を守るのに右も左もない」の2013年02月05日付けブログ「米国の圧力と戦後日本史16〜「角栄=反米」という幻想からの脱却!」が、増田悦佐式の知能狂人ぶりで角栄を論評している。こういうものが通説にされると困るので叩いておく。
 基軸通貨ドルの限界に直面して米国の方針が大きく転換し、日本の役割を「防波堤」から「資金源」へと転換させていく。その中で実現したのが沖縄返還であり、それはニクソンショックの緩衝材を担うという代償が条件だったことが明らかになった。その後、首相についた田中角栄は、独自外交を進めるが、米国に葬り去られてしまう。今回は、角栄が葬り去られた背景と、現在の私達に及ぼしている影響について探ってみる。
(私論.私見)
 ここはまぁ良い。
  「田中降ろし」の流れ

 ニクソンショックの裏で取り交わされた密約だが、これを反故にした佐藤首相とニクソン大統領の間に亀裂が走り、関係が悪化していく。そして、辞任した佐藤の後に首相となったのが当時の通産大臣であった田中角栄である。田中は、戦後復興によって生まれた都市と地方の格差解消のため、「日本列島改造論」を打ち出した。これは、日本列島を高速交通網で結び、地方の工業化を促進し、過疎と過密や、公害の問題を同時に解決する、というものであった。そして、田中の代名詞とも言われる金権政治という政治手法をとり、土地や公共事業を利用した自前の政治資金作りが彼の基盤だった。後に、これが大きな批判の的となり、田中降ろしがスタートする。
 
 田中降ろしのスタートは、立花隆氏の「田中角栄研究 その金脈と人脈」でどのように政治を利用して巨大な資産・資金を作りあげたかを構造的に分析した記事であった。しかし、すぐに田中政権がぐらつくわけではなかった。その後にあった日本外国特派員協会の講演でその記事の問題がアメリカ人記者によって追求された。そして、このことを朝日新聞、読売新聞が翌日に取り上げ、反田中の国会議員が足並みをそろえ、攻撃を始めることになる。(岸首相の排斥の時とまったく同じ構図!!)1974年11月26日に田中は、責任を取って首相を辞任。しかし、田中派の力は健在で、その勢力が衰えることはなかった。 
(私論.私見)
 ここはまぁ良い。
  三木首相は、どうやって田中元首相を有罪に貶めていったのか
 
 田中の次の首相は、弱小派閥の長で、汚職に縁のない「クリーン」なイメージがある三木武夫だった。三木は、「武器輸出三原則」を確立し、対米自主路線の政治家と言われているが、田中首相の退陣とロッキード事件での容疑が謀略によるものだとすると、評価は180度違うものになる。三木と米国の関係は、戦前にさかのぼる。三木は、明治大学を卒業後、南カリフォルニア大学に入学。1940年ころには、「日米同志会」を結成し、対米戦争反対の論陣を張っていた。占領時代は、マッカーサーから首相にならないかという誘いを受けている。(三木武夫の妻、三木睦子氏著「信なくば立たず」より) この三木が首相となって1年3ヵ月後にロッキード事件が起こる。
(私論.私見)
 「田中首相の退陣とロッキード事件での容疑が謀略によるものだとすると、評価は180度違うものになる。三木と米国の関係は、戦前にさかのぼる。三木は、明治大学を卒業後、南カリフォルニア大学に入学。1940年ころには、「日米同志会」を結成し、対米戦争反対の論陣を張っていた。占領時代は、マッカーサーから首相にならないかという誘いを受けている。(三木武夫の妻、三木睦子氏著「信なくば立たず」より)」のところが秀逸である。三木が戦前よりの国際ユダ屋エージェントであったことになる。
 「ロッキード事件」とは、ロッキード社から各国政府関係者に巨額の賄賂がばら撒かれた事件で、その受け取りの疑いが田中角栄にも及んだ。(別のところに行くべき書類が米国議会の多国籍企業小委員会に誤送され判明)最初は、その受取人についての情報は、米国の友好国の要人が失脚することを恐れ、開示されていなかった。三木首相は、フォード大統領に未公開資料の提供を直接要請する。日本では採用されない嘱託尋問が行われ、証言に本人が日本の法律に違反した内容が含まれていても、罪を問わないという約束をした。これは「司法取引」と言われるもので、この制度は日本にはない。そして、この仕組まれたような嘱託尋問が証拠となり、田中首相は有罪になり、政治生命が絶たれることになる。
(私論.私見)
 ここの文章は秀逸。
  米国が政治的に葬った政治家代表の田中角栄、その真相は?
 
 田中が精力的に推し進めていたのは、北海油田開発に日独で資金提供を行おうとしたり、イラクと政府間の石油契約を結んだり、ソ連のチュメニ油田原油を買おうとするなど、エネルギーの自立戦略である。これに対し、キッシンジャーやオイル・メジャー(米国の巨大石油会社)が強く反発したと言われている。また、他にも米国を刺激した動きがある。中国との国交回復などの独自外交である。田中角栄氏の金庫番だった秘書の佐藤昭氏(女性)の「私の角栄日記」で日本外国特派員協会での講演について下記の通り記述している。「田中は『気が進まない。行きたくない』といいながらも、外人記者クラブで講演すべく出かける。外人記者クラブでは、金脈問題に火をつけたとか。日中国交回復のつけがまわってきたのか」。
(私論.私見)
 「私の角栄日記」の一説は読み落としていたので、いただくことにする。
 当時、キッシンジャーは、ニクソン訪中を実現したものの、中国との国交樹立がなかなか実現できずにいた。そんな中、1972年に田中角栄が日中国交正常化を実現し、ニクソン訪中の果実を横取りした形となる。キッシンジャーは、田中角栄の別荘があった軽井沢まで出かけ、『日中国交正常化を延期してほしい』と頼んだが、田中に一蹴されてしまう。そのときのキッシンジャーは怒り心頭だった。「キッシンジャー国務長官は、同じ時期に、米中外交の道がひらけたことで、アジアにおける日本の役割は変わりつつあって、身のほど知らずの背のびは同盟国の秩序を乱す、という意味のことを語り、日本がアメリカに対して対等外交から従属へ転換すべきだと示唆しているという」(「アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄」より)。

 「石油利権」と「中国との国交回復」の2つが米国の逆鱗触れてしまった。しかも、田中はマスコミへの影響力を強め(リンク)、新しいエネルギー源(核)をフランスに求めるなど(リンク)、米国を無視した動きを次々ととっていった。田中は、私権を基盤にした共認形成力によって圧倒的な国民の支持を獲得し、独自外交の“シンボル”として認知されていたため、自主独立の結集軸になりかねないという米国にとっての脅威となった。そして、キングメーカーとして影響力を持ち続けた田中を放っておけなくなった米国は、田中を政治的に消すことにした。 

(私論.私見)
 ここはまぁ良いとしよう。
  「角栄」幻想からの脱却
 
 ここまで見てきたように、田中角栄という人物は、日本国民全体の私権獲得を使命としてきたという意味で国民的な政治家ということはできるが、決して戦略的に「対米自主」を目指していた訳ではなかった。むしろ、徹底的な私権追求の果てに、アメリカの虎の尾を数多く踏んでしまったに過ぎないと言える。そして、ロッキード事件によって、ダーティなイメージと共に葬り去られることになった。

(私論.私見)

 ここの部分の記述が無茶。「徹底的な私権追求の果てに、アメリカの虎の尾を数多く踏んでしまったに過ぎない」などと評するのは毒舌レベル以下でしかない。

 2014.6.29日 れんだいこ拝
 その田中角栄が再び脚光を浴び始めたのは、2001年小泉政権以降のことである。すなわち、2001年以降、小泉政権の下で、アメリカ支配の圧力が強まり続ける中にあって(ex.郵政民営化)、脱米・反米意識が高まり、脱米自主の一つの象徴として田中角栄に注目が集まるようになる。しかし、田中角栄は「脱米自主」を戦略的に志向し、実現しようとしていた訳ではない。よって、角栄をいくら研究しても脱米自主の実現基盤は発掘できないばかりか、CIAの暗躍によって葬り去られるという事実が発見されるだけである。つまり、角栄に着目すればするほど、絶望的とも言える事実しか発見できないのである。これは、見方を変えれば、2001年以降に作られた「脱アメリカを目指した田中角栄」という「幻想」が、反米・脱米意識の捌け口となると同時に、その気運を減速させる『装置』として機能していたことを意味している。脱米の気運は、「角栄幻想」に絡め取られ、出口を失っていった。必要なのは、過去の政治家に自己の願望を投影して「幻想」を作り上げることではない。今こそ、作り上げられた「幻想」から脱却し、この現実の中から、新しい日本の実現基盤を発掘する必要がある。
(私論.私見)
 ここも同じである。このブロガーは本気で「田中角栄は「脱米自主」を戦略的に志向し、実現しようとしていた訳ではない。よって、角栄をいくら研究しても脱米自主の実現基盤は発掘できないばかりか、CIAの暗躍によって葬り去られるという事実が発見されるだけである」と云っているのであろうが、れんだいこの所論とは対極である。どちらの説に真ありか、適当な折に決着つけておかねばなるまい。それにしても手を替え品を替え、「増田悦佐風の者」が登場していることになる。

 2014.6.29日 れんだいこ拝





(私論.私見)