(エセ)不偏不党的角栄論」系

 (最新見直し2006.4.20日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 毎日新聞の論説委員岩見隆夫氏は、論評シリーズ「近聞遠見」で、時々角栄物を書き付ける。これを転載しておく。

 2006.4.20日 れんだいこ拝


【近聞遠見 岩見隆夫のホームページ 毎日の視点 「政倫審」と田中角栄
  「近聞遠見 岩見隆夫のホームページ 毎日の視点 「政倫審」と田中角栄」を転載する。
 「毎年、倫理、倫理と国会で騒ぎ、あげくの果てに解散にもっていかれたら迷惑するのは国民だ。それで、この問題をこの国会で決着させようと思っている」 と金丸信自民党幹事長が遊説先の盛岡市でぶったのは、16年前、1985年のちょうどいまごろだ。リンリ・リンリ、という言い回しが不評を買ったが、金丸自身も今回の村上正邦前参院議員会長と同様、東京佐川急便疑惑で議員辞職に追い込まれ、失脚した。

 ところで、金丸が<この問題>と言ったのは、政治倫理審査会の設置問題だった。76年のロッキード事件以来、国会のたびに与野党の最大の争点になり、83年10月、田中角栄元首相に1審実刑判決が下ったのをきっかけに大詰めを迎えていた。

 当時、与野党折衝の舞台は衆院政治倫理協議会(議長の諮問機関)、座長は金丸直系の小沢一郎衆院議運委員長である。折衝は政倫審の性格をめぐって、もめ抜いた。野党は田中元首相を念頭に、「審査対象には有罪議員を含めるべきだ」 と主張し、自民党はこれに抵抗して平行線をたどる。金丸は社会党の田辺誠書記長に、 「政治倫理で攻めてもらっても構わない。おれは弁慶になって、野党からの矢を全部受け止めるからな」と電話したと伝えられた。竹下登蔵相の新派閥<創政会>旗揚げの直後で、竹下の後見役である金丸と田中の間が冷え込んでいた時期だ。田中をかばうのは関係修復のためか、などと憶測を呼んだりした。

 実際は、水面下でどんな展開になっていたのか――。 <平野日記>が残っている。衆院事務局委員部の平野貞夫副部長(現参院議員・自由党)は議運担当としてこの問題にかかわった。折衝大詰めの85年2月27日付の<日記>には、<小沢座長が金丸幹事長に渡すメモを大至急つくるよう、事務総長から指示を受ける。問題点は(1)有罪議員対象(2)議員辞職勧告(3)国政調査権(証人喚問)の3つだが、指示によって(3)については妥協するものの、他の2点はきびしい態度のメモを作成、了承を取る。小沢座長に説明して渡す>とある。翌28日の幹事長・書記長会談で、金丸が読み上げる予定のメモだった。

 この段階では、政倫審で証人喚問ができる内容になっていた。ところが、くしくも同日、田中は自宅で脳卒中で倒れ、東京逓信病院に運び込まれる。翌28日付の<平野日記>。<田中元首相が脳卒中で入院とのこと。政局に影響出よう。これからは柔軟な対応をせざるをえなくなるだろう、…………これも神の仕組みかもしれない>

 3月1日付。 <午後3時から小沢座長と与党委員、事務総長の極秘会議が開かれる。小沢座長が田中議員の病状を「昏睡(こんすい)状態」と説明し、政倫協の進め方について時間をかけたいと要望し協力を求めたとのこと>

 3月6日付。<政倫協代表会議でも、自民の回答延期に野党側特に反発せず、急速に冷却してきた。田中問題のない政治倫理に、冷静な対応の構え……>

 以上の記述から読み取れるように、煮つまりかけていた政倫審設置問題が、田中の入院ショックで一時宙に浮く。結局、この年の暮れ、国会法を改正して衆参両院に政倫審が設置されたが、骨抜きに近いゆるい制度になった。

 その後、ロ事件の<灰色高官>といわれた議員たちから、名誉回復のため<不当な疑惑を受けた議員>の審査ができるように、と要求があり、92年追加改正。 「あのころは自民党もまだしっかりしていた。証人喚問ができるところまできていたのだが、角さんが倒れてパーになった。野党も狙いは角さんだったから」 と平野はいま、振り返る。政倫審設置が議論されだして約20年、田中角栄という重い標的が消えると、倫理問題にけじめをつける姿勢も薄れてしまった、という印象なのだ。道遠し、である。

 その衆院政倫審に26日、KSD疑惑の額賀福志郎前経済財政担当相が出席する。(敬称略)

(毎日新聞2001年2月24日東京本社版朝刊から)

【近聞遠見 岩見隆夫のホームページ 毎日の視点 鳩山由紀夫と田中角栄】 
 「近聞遠見 岩見隆夫のホームページ 毎日の視点 鳩山由紀夫と田中角栄」を転載する。

 鳩山由紀夫が学究の徒から政界入りを決意した時、父親の故威一郎(元外相・参院議員)は困惑し、所属派閥の田中角栄に相談を持ちかけた。さすがの田中も 「うーん」 とうなったという。いかに名門とはいえ、弟の邦夫(元文相)と親子3人が同時に国会議員、というのは聞いたことがなかったからだ。約16年前のことである。

 一時期、田中は威一郎に派閥を譲ろうと考えたらしい。当然、<威一郎首相>を念頭に置いていた。それは果たされなかったが、田中と鳩山家はなにかと因縁深く、異質でもある。田中が首相の座についた時、母親のウメが、「総理大臣がなんぼ偉かろうが、あれは出稼ぎでござんしてね」と言ったのは有名な話で、今太閤ブームのもとにもなった。鳩山一族はその対極にある。

 さて、田中が首相に上りつめたのは54歳、いま鳩山が53歳。この2人を比べてみたい衝動にかられる。首相の適格性とは何か。森喜朗首相は先の総選挙で、野党から<首相の資質>を問われたが、野党第1党党首の鳩山も、<首相候補>として吟味されだした。それだけ政権が近づいたからでもある。

 民主党は来月の党大会で鳩山代表の無投票再選を決めるが、対抗馬がいないのは、さびしいことだ。田中が自民党総裁に選ばれた時は、福田赳夫、大平正芳、三木武夫の3人が立ち、争った。田中は、しゃにむに多数派工作を進めて勝ち残り、敗れた対抗馬の福田は、のちに、 <私は、総理・総裁というポストは天下の大勢の赴くところ、水の低きにつくが如く話し合いで決まるのが理想であって、ましてや金銭の力でもぎ取るようなことは断じてあってはならない、と信じていた。争うべきではなく、推されてなるものと心していたからだ。しかし、当時、私は67歳だった。戦わざるをえない状況になっていた>(著書『回顧九十年』)と振り返っている。福田の表現は古風だが、いまの鳩山をみていると、田中型というよりは福田型に近い。

 田中のがむしゃらさが鳩山には乏しい。国民はリーダーの個性を闘いぶりのなかにみる。角栄ブームは起きたが、福田は終始地味に映り、人気も鈍かった。どちらがリーダーにふさわしいかは、時代、時代の求めや好みもあって、一概にいえない。田中の盟友、大平正芳は、「角はせっかちだから失敗した。路傍によけることを知らないんだから」と田中の失脚後に悔やんだが、そういう面もある。

 ところで、民主党は女性の支持が低い。なぜか、と同党幹部に問うたところ、「それは、鳩山さんにセックスアピールがないからでしょ」と答えた。セックスアピールは、政治指導者の場合、個人の色気とか女性好みの雰囲気だけでなく、強さ、頼りがいのほうが大きいと思われる。

 最近の鳩山発言を聞いていると、反省癖ばかりが目立つ。「鳩山らしさが全然ない、弱々しい、と言われ、強さを強調しなければと思って、強い言葉を使ったり、厳しい顔をしてみたが、そんなうわべのことではいけない。自分らしさを取り戻さないと大変なことになるぞと思っている。かつて『政治は愛だ』と言って仰天されたが、やはり原点に戻る勇気が大事だ」(27日朝の民放テレビで)などと言う。

 率直さは買うが、自分の<らしさ>とか、パフォーマンスの悩みを語られても、国民の側はしらけるのではないか。弱々しく映る。映像の時代、リーダーにとって演出は大切だ。しかし、それはすべて結果次第であって、内側をさらすことはない。さらすとアピール度が激減する。親しみは持てても、頼もしくない。リーダーにはなにがしかの神秘性も求められるのである。

 鳩山だけではない。自民党の実力者群をみていると、機関車のような田中の迫力がなつかしい。田中は20世紀型で、鳩山は21世紀型のようにも思えるが、<強いリーダー>への願望は、時代を超えているのではないか。(敬称略)

 (毎日新聞東京本社版2000年8月29日朝刊から)





(私論.私見)