【建設省関係】 れんだいこの日本列島改造論考

 更新日/2020(平成31→5.1栄和元/栄和2).9.14日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 角栄の日本列島改造案は、日本のみならず世界に通用する国家百年の国土開発体系の指針書である。しかし、この体系は挫折させられてしまった。いずれ近い将来、必ず見直されねばならない教本であることには変わりない。「俺は新しい国家改造論を作りたい」。角栄のこの心情の吐露に麓邦明が共鳴した。これが「日本列島改造論」の発端であった。「日本列島改造論」は、いわば「角栄型改造式日本革命論」とでも云える内容になっている。こう捉える者が居ないが、れんだいこにはそのように拝することができる。日本左派運動は反体制運動を対置することで革命気どりしてきたが、角栄は「云うだけ」式革命論を弄ばず、あらゆる手練手管を弄して権力を掴まんとし、その前に「我、何を為すか」を明示する政策論として日本列島改造論を世に呈示した。ここに角栄が真の革命家系譜の者にして理想的な革命家でありえたことを見て取ることができよう。

 岩崎定夢氏は、「角さんの功績、真の実力この魅力」の中で次のように述べている。
 「未来を見通してどのように生きるのかビジョンを示し、国民が納得の上でその実現に努力する。その目標を示すのが政治家の最大の務めなのに、そのきっかけになるはずだった日本列島改造論を、寄ってタカって潰してしまった。問題は、潰してしまった者達にはこれっぽっちも反省の気配は無く、むしろ、それで正義を実現したと思い込んでいることだ。悲しいことと云わざるを得ない」。

 れんだいこも同感である。問題は、角栄式日本列島改造案を排斥した連中によりネオシオニズム式日本列島解体案が押し進められつつあるのが昨今の情勢である。これを如何せんか。

 2005.5.25日再編集、2010.10.20日再編集 れんだいこ拝


【角栄版マニュフェストの政治史的秀逸さ】
 1972.6.20日、角栄が首相になる1ヶ月前の通産大臣の時、「日本列島改造論」(日刊工業新聞社)を発表した。この本は国民の間に大きな反響を呼び、政治家の著書としては異例の80万部を超すベストセラーになった(出版科学研究所調べでは発行部数91万部、年間4位)。序文には次のように述べられている。
 「私はことし3月、永年勤続議員として衆議院から表彰を受けた。私はこれを機会に『国土開発・都市問題』と一緒に歩いてきた25年間の道のりを振り返ると共に、新しい視野と角度と立場から日本列島改造の処方箋を書き上げ、世に問うことにした」。
 「日本列島の改造こそは今後の内政の一番重要な課題である。私は産業と文化と自然が融和した地域社会を全国土に押し広め、全ての地域の人々が自分たちの郷里に誇りを持って生活できる日本社会の実現に全力を傾けたい」

 つまり、角栄は総裁・首相のイスを争うに当り、それまでの議員生活を振り返って、「首相になって何をやるのか」という政治姿勢をマニュフェスト化し、事前に総国民に対して明示したことになる。この手法は角栄の政治家としての能力の高さと見識、その質の良さを示して余りある。しかし、この功績は、その後の首相資格者に継承されたとは云い難い。せいぜい茶番的な真似事が為されたきりである。「日本列島改造論」はこうした歴史的栄誉を持っている。れんだいこはそのように評価している。しかるに、立花、不破らは、そういう質の高い角栄政治を根限り批判して正義ヅラしてきた。未だに政界周辺を遊泳している厚顔無恥さは顔を隠して尻を隠さずの例に似ている。

 これを思えば、小泉流「ワンフレーズ・ポリティックス」手法は能力の欠如を示してあまりあると云えよう。れんだいこはそのように批評している。付言すれば、「日本列島の改造こそは今後の内政の一番重要な課題である」と述べているように内治主義を指針させているのも秀逸なところであろう。中曽根ー小泉派の声高な国際責任論に基づくシオニズム拝跪型政治と対極を為していることに気づかされる。

 2004.6.25日、2005.5.25日再編集 れんだいこ拝

「日本列島改造論」の形成過程

 ちなみに、「日本列島改造論」は向こう受けを狙って唐突に出したものではない。1966年に幹事長を辞任した翌年の1967年に就任した自民党都市政策委員長時代に、日本の産業・経済構造を研究し、1968・5月に「都市政策大綱」としてその成果を発表していた。

 それは東京一極集中からいかにしてバランスの良い総合的国土活用ができるかの視点で、6万語に及んで、産業の適正配置と分散、高速道路網の整備、地方単位の快適生活環境都市づくり等を提言していた。その原型は、昭和20年代に始まった角栄の議員立法活動のその中に胚胎していた。「都市政策大綱」は、この成果の上に結実した綱領的文書であり、これが青写真となって「日本列島改造論」が上宰されたという経過を見せている。

 「都市政策大綱」の産出経過は次の通りである。角栄は、1966.12月の内閣改造人事で幹事長を辞め、久しぶりに無役となっていた。1967年の正月の松の内が明けた頃、坂田道太(前衆議院議長)と原田憲(元運輸大臣)がやって来て、早坂秘書と懇談した。坂田が次のように述べている。

 「角さんは無役になった。しかし、遊ばせておくのはもったいない。使おうじゃないか。君らはよく知らんだろうが、角さんは若いときから国土政策に汗を流して来た。大変なオリジナリティの持ち主である。テキパキと仕事をやる。知恵も力もある。都市問題、過密と過疎が厄介なことになってきた。ここらで一つ、角さんを長とした大調査会を作って、何かバンとしたものをやらせようじゃないか」。

 この時、元共同通信の政治部記者で、1960年頃より角栄の政策ブレーン秘書となっていた麓(ふもと)邦明氏を呼んでいた。翌日、角栄に相談したところ、当人も大乗り気になり「おもしろい。よしッやろうじゃないか」となった。

 1967.3.16日、自民党都市政策調査会が発足し、田中角栄が会長に就任した。会長・田中角栄、副会長・坂田道太、原田憲。小川半次、渡海元三郎、丹羽喬四郎、浜野清吾、赤間文三、岸田幸雄、安井謙ら衆参両院の実務者が副会長。衆議員53(79)名、参議員35名、計87(114)名の国会議員メンバーが揃った。派閥を越え、福田派や三木派の中堅幹部クラスまで押しかけていた。東京平河町の全共連ビルで第1回総会が開催された。基本問題分科会(会長・高橋衛、会長代理・倉成正)、大都市問題分科会(会長・吉武恵市、副会長・岡崎英域)、地域問題分科会(会長・原健三郎、副会長・奥野誠亮)、財政金融問題分科会(会長・植木庚子郎、副会長・足立篤郎)の4分科会と競う委員会を設けた。

 他に、自民党政務調査会スタッフとして各官庁から選りすぐりの官僚が結集した自民党初の大調査会となった。判明するメンバーは次の通りである。

氏名  当時のポスト 
 概要履歴
小長啓一  前・通産事務次官、事務秘書官
 1930年生まれの新制岡山大学法文学部卒。在学中に国家公務員上級職(法律職)試験と司法試験に合格していたが通商産業省入省。日本列島改造論」は小長が下書きをしたと囁かれている。角栄が首相時に内閣総理大臣秘書官に抜擢される。地方大学出身者として初めて通産事務次官に就任する。
下河辺淳  経済企画庁総合開発局課長
 大正12年生まれの東大工学部卒、戦災復興院から建設省に移り、課長補佐の時の昭和24年に建設委員会・地方総合開発小委員会委員長の角栄と初顔合わせしている。その後の接触で、「この人は東大法学部的な発想領域を超えている。しゃべりながら知恵が湧いてくるようだ」と感心したとの伝があり、角栄心酔派の一人であった。
武村正義  自治省大臣官房企画室勤務課長
 当時31歳。ヨーロッパの都市政策を論じた「南農北工論」が田中の目にとまり、「都市政策大綱」のまとめ役に指名され、プロジェクトチームの仲間入りとなった。「南農北工論」とは、「欧州は南農北工型である。日本は逆に、南工北農型だから、放っておくと北と南の所得格差が開いてしまう。政策的対処が必要である」とする論調であった。

 こうして目ぼしき官僚の協力も得た。自民党都市政策調査会は角栄の陣頭指揮で、麓秘書が議論の取りまとめ役となり、以降1年2ヶ月の間に70回(総会25回、正副会長会議9回、分科会18回、起草委員会18回)の会議を積み重ねて行った。

 初めての会合の席での角栄の挨拶が残されている。全文は早坂著「政治家田中角栄」に譲ることとして、次のような指摘が為されている。

 概要「我が国の都市問題は今や政治の避けて通れぬところであり、一瞬も放置できない段階に達している。均衡のとれた国土総合開発をまずつくり、過密と過疎問題の同時解決を図る。(従来式の後追い行政ではなく)都市改造、地方開発に当たって、今必要なのは目先のソロバン勘定ではなく、先行投資の考えに立脚した、大きく新しい経済計算である。古い投資効率の概念を捨てて、新しい先行投資の概念を政策の基本に据える」。
 「(そうした政策を推進する為に)国の財政力だけでなく、民間のエネルギーを積極的に活用することである。この都市改造と地方開発のための十分な社会資本は、政府の財政力をはるかに超えている。政府、地方自治体、企業、私人がそれぞれの力を結集して、はじめて実現できる国民的な大事業である。そのためには、民間の資金が進んでこの大事業に参加できるような措置を講ずるべきである」。

 通産省のスタッフ何人かを前にして熱弁を振るった様子が、小長啓一氏(当時通産事務官)によって次のように回顧されている。

 「『自分は代議士に当選以来、国土問題に対しては特別の情熱を注いできた。議員立法もいくつかやったし、この問題に関して自分はどの政治家にも負けない経験と識見を持っているつもりだ。政治生活二十数年、この段階で一度過去を振り返りながら未来を展望するものを何か創りたい』。それから暫くの間、私たちは3時間ぐらいのレクチャーを田中さんから直に4、5回受けることになった。それを私たちが整理し、多少肉付けをしてまとめたのが『日本列島改造案』であった。自らの経験と識見をとうとうと語られるそり語り口は、常人をひきつけて止まない魅力と説得力があったし、一方近づき難い威厳も感じた」。

 会議では、関係官庁(建設省・自治省・通産省・経済企画庁・運輸省・農林省・文部省・厚生省・大蔵省・労働省・警察庁・消防庁・各種公団)、自治体(東京都・全国知事会・市長会等々の代表者)からの現状と見通し及び政策について細大漏らさずの報告を受け、各界有識者(土木学会会長・観光会社社長・交通問題評論家・公衆衛生学専門家・その他大学教授・新聞社論説委員他)からの提言へと広げ、広く意見を集約させている。

 その後テーマ別に四つの分科会を設け、更に議論を掘り下げていった。各分科会でも、関係各省庁、自治体、民間学識経験者を招き、きめの細かい意見聴取、討議に入った。この経過は、それ以前も以降においてもこれだけ精力的に活動した例がない凡そ模範的事例となっている。

 こうして漸く起草委員会(高橋衛委員長)を設置し、1968.2月より体系的な取りまとめの作業に入った。この都市政策大綱づくりに党経費だけでは賄いきれず、田中は数百万円のポケットマネーを投じており、これが事務費や会議費の潤滑油となった。この時角栄は、「田中テーゼ」を貫徹させるために麓と早坂秘書を最終的な責任者とした。二人は小型トラック一台分の資料を東京平河町の田中事務所に持ち込み、63回も草稿を書き直し、眼底出血と血尿に見舞われながら悪戦苦闘している。

 早坂氏の「政治家田中角栄」は次のように述べている。

 「都市政策大綱は角栄が書き上げたものではない。しかし、角栄を抜きにしては策定されなかった」。
 「政治家・田中角栄の見識、情熱と日頃の行政事務にうっぷんを溜めていた若い官僚のエネルギーの爆発、田中を真の政治指導者たらしめんとしたスタッフの合作であったと云えよう。田中は自分の政治的信念を若い官僚や事務所のスタッフにぶつけて、彼等の情熱を燃え上がらせ、その能力を最大限に発揮させて、政策を作り上げる天才であった」。

 1968(昭和43).5.22日、調査会は、総会25回、正副会長会議9回、分科会18回、起草委員会18回を経て総会を開き、6万語に及ぶ「都市政策大綱」(中間報告)を決定した。これが後の日本列島改造論の雛形(ヒナ形)となった。5.24日、自民党の党政務調査会審議会で、5.27日、同総務会で了承した。

 「都市政策大綱」に対する反響は大きく、大綱が発表された翌日、5.28日付けの朝刊で一斉に報道され、概ね好評であった。5.28(26?)日付け朝刊朝日新聞は、次のようにコメントしている。

 「産業構造の変化と、都市化の急激な流れは、都市地域の過密と、地方の過疎による幾多の弊害をもたらし、国民生活に不安と混乱を与えている。ところが、わが国では、これまで政府も政党も、総合的、体系的政策に欠け、その施策は個々バラバラの対症療法として、ほころびをつくろうものばかりであった。それを二十年後の都市化の姿を展望し、問題解決の方向、手法を、単なる理論でなくて、政策ベースに乗せたという意味で、この大綱は高く評価されて良いだろう。

 しかも、『過去二十年にわたる生産第一主義による高度成長が、社会環境の形成に均衡を失い、人間の住むに相応しい社会の建設を足踏みさせた』と反省し、公益優先の基本理念を元に、各種私権を制限し、公害の発生者責任を明確にしたことなど、これまでの自民党のイメージをくつがえらせるほど、素直、大胆な内容を持っている」。

 東京工大教授で都市計画専攻の石原舜介(しゅんすけ)氏は、次のように評価した。

 「自民党が『都市政策大綱』を発表したことは、今まで政党としては見られない快挙であり、双手を挙げて賛意を表したい」。

 政権党の発表文書がこのような取り扱いを受けたこと自体異例であった。

 角栄自身が次のように自負している。

 「新しい国土利用と云うものが何から始まるかといえば、それは交通網の整備と公共投資だ。そこのところを政策として体系的に述べているのが、昭和43年5月に発表された都市政策大綱だ。これは私が自民党の都市政策調査会長として1年2ヶ月かけてまとめたものでね。私の日本列島改造論の原点であると同時に、その後の歴代政権にとって国土政策の基本憲章となったものだ。私はこの都市政策大綱の中で、新しい国土利用のカギは交通網の整備、公共投資、とりわけ先行投資であると指摘した。その後の発展はどうかといえば、37万8千平方キロの日本列島は今や新幹線と高速自動車道路網の整備で、時間距離が革命的に短縮されているじゃないか。こういった交通網の整備が、通信網の整備と合わせて日本経済に活力を与え、国民生活を格段に便利にしてきたということは、まさに事実が示しているんだ。だから私は、新幹線網をさらに全国に広げ、高速道路のネットワークをさらに細かくすべきだと、そう確信している」(早坂茂三「田中角栄回想録」104p)。

【「日本列島改造論の骨子」について】
 1971(昭和46).1月、角栄は、日刊工業新聞の新年企画に応じて、「都市政策大綱」を口述した。これが「日本列島改造論」の下敷きとなり、この時既に田中の元を離れていた麓に代わり、通産相秘書官の小長啓一が通産省のブレーンを使って纏めに当たった。これが「日本列島改造論」となる。

 同書は、「20年先回りして、効率よく、国土を総合的に改造しよう」という田中構想に基づき、資源に乏しいわが国の、狭い国土をフル活用し、国土に活力を持たせて、外圧に耐えうる強靭な日本列島を創造せんとした、いずれの日にか当面する国家的な課題に対する適切な処方箋「国歌百年の大計」となった。明治以来の門閥と閨閥の土台の上にあぐらをかいていた政治的反対派は、この壮大な構想を前にして、理解するだけの能力が無く、田中への畏敬と恐怖を内向させていった。

 日本列島改造論の三大骨子は次の通りである。
【均衡の取れた国土開発】  太平洋ベルト地帯に集中しすぎた工業の地方分散による工業の再配置計画。
【過密と過疎の同時解決】  都市改造と新地方都市(25万都市)の整備。
【新産業基盤の整備】  これらを結ぶ全国的な総合交通のネット・ワーク整備。

 日本列島改造論は、この「三大骨子」をベースにして、1・総合基本政策を「平和と福祉」とし、2・対外政策についてはその基本を、「戦後25年間、一貫してきた平和国家の生き方を堅持し、国際社会との協調、融和の中で発展の道を辿ることである」、3・「国内政策のそれを、「これまでの生産第一主義、輸出至上主義の経済政策を改め、社会資本ストックの充実と先進国並みの社会保障水準のへ向上を目的とした内需拡大策を打ち出す必要性がある」としていた。


 日本列島改造論は、狭義の都市政策ではなく、日本全体を一つの都市圏と考える「国土総合改造大綱」として俯瞰されていた。「5つの重点項目」が唱えられ、次のように観点されている。
【国土開発ビジョン】  新しい国土計画の樹立とその法体系の刷新整備、複雑な現行法体系の改廃、新開発行政体制の改革、国土総合開発研究所の設置。
【都市問題解決策】  大都市の住宅難、交通戦争、公害対策。その為の都市の再開発、受益者負担・原因者負担の原則の確立、責任者制度の確立。
【地方問題解決策】  広域ブロック拠点都市の育成、大工業基地の建設を中心とする新拠点開発による地方開発。産業基盤、生活基盤の整備、産業の適正配置、集約的自給型農業の振興。
【土地問題解決策】  公益優先の基本理念のもとに、無秩序開発を規制しつつ新土地利用計画と手法の確立。土地問題総合対策委員会の設置。
【資金問題解決策】  民間資金の導入による官民共和式資金確保と活用。税制の弾力的措置化。

 「全国一日通勤圏、経済圏構想」が奏でられ、「先行投資」による地方都市整備、その要としての交通・通信ネットワーク網整備、その要として土地政策は次のように具体的に提言されていた。
【土地の有効活用策】  私権の多少の制限は致し方ない。公共の福祉のため、空中と地下を含め、土地を収用する。
【区画整理の推進策】  土地所有者の強力を求め、区画整理を進める。
【土地高騰還元策】  土地値上がりの一部を社会に還元する。
【土地の公的地価評価策】  土地の基準価格を設定し、公的な地価評価の基準とする。
【税制策】  土地の有効利用のため税制を活用する。
【公害防止、環境基準策】  公害の発生源には防除の責任を負わせる。環境基準を明確にする。
【民間活用策策】  民間のエネルギーを活用する。政府・自治体・企業・個人が一体となって、都市国家を作り上げる。

【「日本列島改造論の見出し」について】
 ここで、「日本列島改造論 目次」を確認しておく。目次だけ読んでも為になる。角栄の内治主義者としての面目躍如が窺えるだろう。興味深いことは、内治を能くし得る者は外治にも能力を発揮したと云うことである。逆に云うと、外治の専門家が内治を能く為し得るかは未だ成功事例がないと云うことでもある。辛うじて吉田茂辺りが評価に耐えられる程度である。一事万事と云う法理は、角栄によって内治からは通用することが既に証明されている。

 付言しておけば、日本列島改造論に指針されたマニュフェストは世界各国通用する。一言で云えば、公共事業活用プロジェクト論と云えようが、これに基づく時、その国は成長する。これを反故する時、成長が止まる、と云うか衰退し始める。それが証拠に、公共事業活用プロジェクト論を捨てたその後の日本は次第に凋落し、これを活用した韓国、中国、インドネシア等は昇り竜の勢いを見ることになった。角栄式公共事業活用プロジェクト論を活用して成長した国は今、不思議な顔をして日本を見つめている。
 
 田中角栄著 日本列島改造論 日刊工業新聞社
 序にかえて 
 目次
1、私はこう考える
  国土改造計画の軌跡と新しい方向
イントロ
明治百年は節目
都市政策大綱成る
五つの重点項目
財政との関係
地方自治との関係
農地制度との兼合い
電源開発促進法に取組む
ガソリン税の採用
都市づくり立法
河川法を改正
水資源開発促進法を制定
繁栄のなかの矛盾表面化
工業の発展とネック
都市政策大綱四つのねらい
特に必要な工業再配置
世界の趨勢を考える
平和と福祉に徹しよう
2、明治百年は国土維新
  都市集中のメリットとデメリットが交差
1、近代日本を築いた力
2、戦後経済の三段飛び 
3、人口の32%が国土の1%に住む
4、許容量を超える東京の大気汚染
5、一寸先はやみ、停電のピンチ
6、時速9キロの車社会
7、一人、1平方メートルの公園面積
8、5時間で焼けつくす東京の下町
9、生活を脅かす大都市の地価、物価
10、一人当たり四畳半の住宅
11、不足する労働力
12、過疎と出稼ぎで崩れる地域社会
3、平和と福祉を実現する成長経済
 成長追求型から成長活用型へ
1、経済の成長は可能かつ必要 奇跡ではない日本の成功
今後も成長は可能
福祉は天から降ってこない
物価上昇を押える
2、日本経済の未来像 昭和60年度は300兆円経済
産業構造は知識集約型へ
成長追求型から成長活用型へ
福祉が成長を生む長期積極財政
3、世界のなかの日本 貿易立国は不変の国是
南北問題と我が国の役割
4、人と経済の流れを変える
 日本列島改造の処方箋
工業再配置で描く新産業地図
 1、過密と過疎の同時解決 工業テコに地方開発
開発の余地ある日本の国土
 2、産業地図を塗り変える 巨視的視点から格差是正
基幹資源型産業は北東、西南地域へ
大型化するコンビナート
内陸工業は農村地帯へ
農村工業化の二つのタイプ
豪雪地、寒冷地こそ工業化を
 3、無公害工業基地 環境制御の仕組みを確立
濃度規制から総排出量規制へ
技術開発と緑地帯の活用
これからの電源立地
 4、インダストリアル・パーク 美しく快適な環境を提供する工場団地
標準タイプのインダストリアル・パーク
 5、動き出す工業再配置計画 イントロ
工場移転へ五つの助成策
工場受け入れには三つの助成策
工場追い出し税の実現を期す
工業再配置を支える交通ネットワーク
 1、1兆3200億トンキロをどうさばく イントロ
大量輸送時代の総合交通体系
 2、開幕した新幹線時代 拡大する1日行動圏
国土開発と地方線の再評価
 3、縦貫と輪切りの高速道路 幹線自動車道は1万キロに
緑の遊歩道づくりも国土開発の一環
 4、四国は日本の表玄関 近畿、西日本を一体化する本州四国連絡橋
 5、工業港と流通港の整備 イントロ
大型船時代の工業港
地方に国際貿易港を育てる
流通港とパイプライン
 6、ダム1千ヵ所の建設を イントロ
多雨国の水飢饉
7、ジャンボとSTOL機で結ぶ日本の空 イントロ
貨物空港と工業地帯
5、都市改造と地域開発
 日本列島改造の処方箋2
1、花開く情報化時代 都市機能の再配置
情報列島の再編成
2、新地方都市のビジョン 地方都市の整備
新25万年の建設
インダストリアル・キャピトル(特定産業首都)を育てる
地方拠点都市の衣替え
山紫水明の地に学園を
3、農工一体で蘇る近代農村 農村の利益は都市の利益
総合脳性の意味するもの
経営規模の大型化が必要
高生産性農業のカギは土地基盤整備に
集落再編成と新農山漁村計画
農業の健全な第3次産業化
4、平面都市から立体都市へ 都市改造と地方開発は同義語
都市空間と能率と
都市開発公団構想による都市開発
近郊開発でスプロール防ぐ
立体化した都市の町並みは
6、住宅問題をとくカギ ライフサイクルに合った住宅政策
土地利用は公共優先
土地の賃貸方式も
6、禁止と誘導と
 日本列島改造の処方箋3
1、自動車重量税で得をするのは誰か
2、産業政策の大転換
3、新しい官民協力路線を求めて
7、むすび

【「日本列島改造論の眼目」について】
 日本列島改造論の眼目が次のように語られている。「国際経済時代の舵取りを如何に為すべきか」との視座から論が為されていることが分かる。
 概要「戦後日本は、敗戦直後のその日暮らし的な復興経済(量的拡大、食の時代)から高度成長経済(質の時代、衣の時代)へ、更に国際経済(国際的質の時代、住の時代)へと三段跳びの飛躍をなし遂げ、今日の繁栄を築き上げた。しかし、明治百年を一つの境として繁栄の中の矛盾も急速に表面化してきた。そこで、これまでの考え方を180度転換して、新しい視野と角度と立場から問題を解決する方向を見出していきたい」

 「都市政策」の眼目について、角栄自身が日本列島改造論の「序にかえて」で次のように語っている。
 概要「明治維新から百年余りの間、我が国は工業化と都市化の高まりに比例して力強く発展した。が、明治百年を一つの節目にして、都市集中のメリットは、今明らかにデメリットへ変わった。今後為すべき事は、都市集中の奔流を大胆に転換して、民族の活力と日本経済の逞しい余力を日本列島の全域に向けて展開することである。工業の全国的な再配置と知識集約化、全国新幹線と高速自動車道の建設、情報通信網のネットワークの形成などをテコにして、都市と農村、表日本と裏日本の格差を無くすことである」。
 「今後の開かれた国際経済社会の中で、日本が平和に生き、国際協調の道を歩き続けられるかどうかは、国内の産業構造と地域構造の積極的な改革にかかっている。その意味で、日本列島の改造こそは今後の内政の一番重要な課題と云えよう」。

 こういう語りも遺している(早坂茂三「田中角栄回想録」(小学館、1987年初版)参照)。
 「新しい国土利用というものが何から始まるかといえば、それは交通網の整備と公共投資だ。そこのところを政策として体系的に述べているのが、昭和43年5月に発表された「都市政策大綱」だ。これは私が自民党の都市政策調査会長として1年2ヶ月かけてまとめたものでね、私の「日本列島改造論」の原点であると同時に、その後の歴代政権にとって国土政策の基本憲章となったものだ。

 私はこの「都市政策大綱」のなかで、新しい国土利用のカギは交通網の整備、公共投資、とりわけ先行投資であると指摘した。その後の発展はどうかといえば、37万8000平方キロの日本列島は今や新幹線と高速自動車道路網の整備で、時間距離が革命的に短縮されているじゃないか。こういった交通網の整備が、通信網の整備と合わせて日本経済に活力を与え、国民生活を格段に便利にしてきたということは、まさに事実が示しているんだ。だからわたしは、新幹線網をさらに全国に繰り広げ、高速道路のネットワークをさらに細かくすべきだと、そう確信している」
 「昔はね、田んぼは一反(300坪)150円から300円だった。小学校を出て、炭鉱や工場で30年も働けば、3000円の退職金が貰えた。1500円で、田んぼが一町歩は買える。家を改築して、墓と仏壇を買って750円。まだ、750円は残る。これが昔の農村の、まァ、中級の生活だった。30年まじめに働けば、それだけの財産が得られたんだ。

 じゃぁ今はどうか? 大学を出て、30年働いて、退職金は3000万円くらい。実際は1700万円から2500万円の手取りだが、年金もあるから4、500万円のかさ上げになる。これでどれほどのものが買えるか。高いところでは6000万円も退職金を出すところもある。要するに、全国的に見て、今は富の平準化が行われているということだ。日本ほど完全に富が平準化している国は他に無い。

 だから本来から云えば、3000万円の退職金を貰ったら、1町歩3000坪の土地は買えなくても、せめて100坪の宅地が買えなくてはならない。そして家を建てる。土地は30坪では狭過ぎる。だから100坪。誰でも働いてきた者は100坪の宅地が買えて、持ち家が建つとなれば、団地やマンションに住んで、イライラしている国民の気持ちもガラリと変わるよ、これは。

 それは夢でも何でもない。実現できることなんだ。どうするか? それが難しいというのは、東京を中心に考えているからだ。それじゃあどうするか。全国に10の基幹都市をつくる。それを要にして、100の人口25万都市を造れば良い。その25万都市には大学をおき、基幹産業を一つ立地すればいい。それも重工業ではなく付加価値の高い知識集約産業をね。

 給料も今では全国的に平準化しているんだから、企業としても安定的な労働力が得られれば、地方に立地したほうが得策だよ。知識集約型産業は部品工業になっているから、組立てだけやればいい。今は自動車産業だってそうだし、すべての輸出産業もそうなっている。そうした産業があれば、25万都市はじゅうぶんに生きていけるよ。

 全国に衆議院の選挙区が130ある。この選挙区ごとに、25万都市を一つずつ作れば、全て車で30分以内に通える。仕事が終わったら、豊かな水と緑のある家にさっさと帰って、浴衣に着替えて、冷や奴で一杯やり、女房や子供を連れて、盆踊りに出かける。私の都市政策の目標は、年よりも孫も一緒に、楽しく暮らせる快適な環境をつくることなんだ」。

 佐藤昭子氏の「田中角栄ー私が最後に伝えたいこと」は次のように解説している。
 概要「全国に10の基幹都市をつくる。それを要にして、100の人口25万都市をつくる。25万都市には、大学を置き、基幹産業を一つ立地する。付加価値の高い知識集約産業がいい。仮に全国にある衆議院の選挙区130を基準にして、この選挙区ごとに25万都市を一つずつつくれば、すべて車で30分以内に通えるようになる」。
 「(更に私には噛み砕いてこう話してくれた)仕事が終わったら、豊かな水と緑のある家にさっさと帰って、浴衣に着替えて、冷や飯で一杯やり、女房や子供を連れて、盆踊りに出かける。私の都市政策の目標は、年寄りも孫も一緒に、楽しく暮らせる快適な環境をつくることなんだ」。

 アメリカの未来学者・ハーマン・カーン氏が官邸を訪れ、次のように激賞している。
 「大変立派な計画だ。日本が軍事大国とならずに、平和大国となるための壮大なビジョンである」。

【日本列島改造論の恩師は大河内正敏のの農村工業論/考】
 小林吉弥「新田中角栄名語録」(潟vレジデント、2020.6.17日初版)が次のように記している。
 「田中角栄には三人の人生の恩師というべき人がいた。田中が通っていた新潟県ニ田尋常高等小学校の元校長にして人物これ高潔だった草間進之輔、終戦直後の首相だった幣原喜三郎、そして我が国は角自然科学の総合研究所になる理化学研究所の所長にして理研コンツェルン総帥となつた大河内正敏であった。田中はこの三人を『私の先生』と広言し、たとえば吉田茂、佐藤栄作といった世話になった大物政治家も、決して先生と呼んだことがなかったのだった。(「田中は晩年、『私の‘’政治の師‘’は、幣原喜三郎先生一人である」と語っている) こうした恩師を持つことで、田中は人生の大きなヒントを得ている。

 なかでも、大河内とは、田中は政界入りする前の19歳の頃から理研関連の仕事を請け負う中で、その薫陶、謦咳に接していた。大河内は実業家の一方で、東京帝国大学の工学博士にして科学者、また子爵にして衆院議員、人格者としても知られていた人物でもある。その大河内は、かねてから『農村工業』という構想を持っていた。都市と地方の過密・過疎、そこかおら来る経済格差を是正するため、地方(農村)から都市への人口の流出を防がなくてはならない。そのために働ける場として『工業』を地方に根づかせる必要があるというのが『農村工業』構想の根幹であった。特に、越後と佐渡を合わせた新潟全体が、『農村工業』の地としては最適とした論文も既に発表していたのである。

 そうした大河内の『農村工業』に影響を受けていた田中は、実は政界入りするや、その腹案を自分なりに徐々に膨らませていたのである。昭和47(1972)年、田中は満を持した形で『日本列島改造論』を高々と掲げ、首相のイスに座った。敬愛する大河内がくれた『農村工業』案が、後のこの『日本列島改造論』のヒントになっていたのである。大河内に出会わなければ、田中という政治の世界での鬼才、『日本列島改造論』の出現も、またなかつたかもしれない。

 人は、恩師と呼べる敬愛できる人の前では、正面から向き合い、話を素直に受け止められるものである。恩師という存在は、どこかで必ず役立つと知っておきたい」。

【「道路網の位置づけ」について】
 角栄は、「道路網の位置付け」について次のように述べている。
 「新幹線鉄道が線にそって日本列島の開発を誘導するものだとすれば、道路は面としての地域開発を可能にする。人と貨物の大半を鉄道輸送に依存していた時代は、自動車の登場により基本構造が変わった。自動車と道路の発達は、人や物を駅から戸口へ、戸口から戸口へと運び、広い地域にわたる産業分散を容易にする」。
 「高速道路が工業の地方分散に果たす役割は大きい。高速道路ができればできるほど市場が広がる半面、産地同士の競争も激しくなる。それは貿易の自由化と同じ事で、日本経済全体から見れば、適地適産が進み、価格が平準化し、生産は合理化する」。
 「大量の交通を高速で処理できる高速道路、通過交通を処理する幹線道路、住宅地の中の生活道路という具合に、それぞれの道路の機能をはっきりさせる。新しい道路規格では、片側一車線プラス歩道というように、順次十車線まで十規格をつくる。幹線自動車道路では、最低で片側三車線、普通は片側車線として、重量車両専門車線及び追越用道路を仕切りするなど交通の安全と効率化を図るべきである」。

 こういう語りも遺している(早坂茂三「田中角栄回想録」参照)。

 「日本人は、都市づくりというと、まず家をつくる。外国人はそうじゃない。はじめに道路をつくり、鉄道を敷き、駅をつくり、スーパーと学校を建てるんだ。だから、アッという間に人間が集まってくる。日本人はまず団地をつくる。これは陸の孤島だ。そして200戸も入居したら、医者がいく。300戸になったらパーマネント屋が腰を上げる。500戸になるとバスが入ってくる。それまではどろんこ道か砂利道を、徒歩か自転車かマイカーで遠い駅まで往復するんだね。

 これじゃあダメだ。道路の建設が先決なんだよ。世間はこのごろ、ようやく私を都市計画の専門家と認めるようになったけど、今まで私のいうことを聞かなかったから、ものごとが万事さかさまになっているんだ。これまでのそういう後追い投資をやめて、国民が新天地へいっても生活に不便を感じないところまで、先行投資をすることだ。

 日本人には道路、学校などは全部、公費でやれ、お上がやるべきだというような気持ちが強い。そうだろう。しかし、自分たちに必要なものは地方自治体と一緒になって自分で設計図を書いてみるべきなんだ。民間デベロッパーには、土地をただで提供するから、まずそこに学校をつくってくれ。1000戸以上の住民が住むのだから、この土地の半分はお医者さんに渡す。だからきてくれ。スーパーも真っ先に建てる。こんな具合に、新しい都市づくりを進めたらどうかね。こうしなければ、団地をつくっても誰もいかないんじゃないか。こういった手順、方法に従って、わたしも面白いからひとつ、地域開発を手がけてみたいと思っているんだ」。


【農業政策について】
 角栄は、「農業政策」について次のように述べている(早坂茂三「田中角栄回想録」参照)。

 「今の農村に二次産業を持ち込んで、それで家計収入を拡大するようにする。今の農業理論というのは、農家だけの収入で二次産業や三次産業の平均収入まで平準化させようとしているわけだろう。しかし、それを実現するのはなかなか難しいことだ。だから、たとえば漁村で魚を水揚げして消費地に送るだけでなく、現地に缶詰工場をつくって、取れた魚を缶詰にして売り出せばいい。それなら働き場所が増えるし、漁村全体の収入も増えるわけだ。漁村全体が裕福になれば三次産業も入ってくるよ。それで万事うまくいく。農村地帯にしてもだよ、二割減反をさせておいて、減反地には雑穀だけをつくれ、農産物以外のものをつくってはならんと、そんなふうに縛るのはおかしいんだ。農業に関するものというなら、肥料工場や農機具工場をつくる手だってあるじゃないの。これは二次産業の導入になり、農家の人たちは居ながらにして働き場所を得られるんだ。全体の家計収入も増える。要するに、農業政策というのは、純農政という狭い視野に立つのではなく、広範な総合農政を採用して展開することである。これはもう明らかなことなんだよ」。


 田中角栄の農村政策、農業政策が、日本列島改造論の一村一工場都市計画構想と密接に連動しているのが分かる。都市と農村を結びつける秀逸な発想ではなかったか。

 「日本列島改造案」では次のように述べている。
 「機械工業、エレクトロニクスの大部分、それに医療機器、住宅機器などのシステム産業の多くは内陸型工業である。臨海型の装置工業にくらべると、労働集約的であって用水量はすくなく、付加価値生産性が高い。輸送も鉄道、自動車ですみ大規模な港湾はいらない。その生産物をあげると、カラーテレビ、テープレコーダー、ステレオ、通信機、コンピューター、電卓、事務機、交通信号保安装置、公害防止装置、自動車、オートバイ、耕うん機、田植機、コンバイン、乾燥機、エレベーター、エスカレーター、クレーン、コンベア、工作機械、プラスティック加工機械、食品加工機械、木工機械、建築用金属製品、暖房装置、工業計器、精密測定器、時計、カメラ、レンズ、おもちゃ、運動具など広い範囲にわたっている」。
 「農村工業化は具体的には二つのタイプですすむことになるだろう。その一つは広い地域につながる拠点開発である。これは、ある程度の都市機能の集積を持つ工業団地を作り、まとめた形で工場を配置するいき方である。もう一つは、個々の工場が農村に立地するタイプで、いわば一村一工場といったすすみ方である。過渡的には一村一工場方式も現実的であるが、長期的な地域開発の発展を考えると拠点開発方式を中心にしなければならない。その場合、高速自動車道のインターチェンジ周辺に一定の経済圏、通勤圏をもつ地方都市を整備し、その一角に内陸型工業団地を建設することが考えられる。こうしてつくる地方都市の規模は、人口25万人程度が適度であろう。……しかし、この構想を現実に進める場合、これら地方都市の伝統や社会的、地理的な条件に応じて適当な業種を選択し、地場産業との調和をはかる必要があることはいうまでもない」。

【国鉄の赤字問題について】
 「日本国有鉄道の再建と赤字線の撤去問題」について次のように述べている。
 概要「国鉄の累積赤字は47.3月末で8100億円に達し、採算悪化の一因である地方の赤字線を撤去せよという議論が益々強まっている。しかし、単位会計で見て国鉄が赤字であったとしても、国鉄は採算とは別に大きな使命を持っている。明治4年に僅か9万人に過ぎなかった北海道の人口が現在、520万人と60倍近くに増えたのは、鉄道のお陰である。全ての鉄道が完全に儲かるのならば、民間企業に任せればよい。私企業と同じ物差しで国鉄の赤字を論じ、再建を語るべきではない。

 都市集中を認めてきた時代においては、赤字の地方線を撤去せよという議論は、一応、説得力があった。しかし工業再配置を通じて全国総合開発を行う時代の地方鉄道については、新しい角度から改めて評価し直すべきである。北海道開拓の歴史が示したように鉄道が地域開発に果たす先導的な役割はきわめて大きい。赤字線の撤去によって地域の産業が衰え、人口が都市に流失すれば過密、過疎は一段と激しくなり、その鉄道の赤字額をはるかに越える国家的な損失を招く恐れがある。国民経済学的にどちらの負担が大きいか、私たちはよく考えなくてはならない」。

 早坂茂三「田中角栄回想録」では次のように述べている。

 「北海道の国鉄や全国に散在する赤字線を止めろという意見が、マスコミで繰り返し主張されているがね、しかし、鉄道というものは赤字線からどんどんお客が集まって、最後は東海道新幹線に乗り込むから、新幹線が儲かることになっているんだよ。山のなかの小さな流れがいつのまにか、たくさん合流して、筑後川や富士川、支那に側、利根川ができるのとおんなじだ。利根川はいっぺんにできるわけじゃない。鉄道もしかりである。地方選というのはすべて、艦船の培養線なんだ。地方の赤字線をみんな廃止しちゃったら、東海道新幹線に今のような大勢の客が乗りますか? 乗るはずがないだろう」。

 「国鉄職員の月給は民間よりも安い。にもかかわらず、国鉄は赤字だ。民間鉄道は一割配当しているけれども、国鉄は無配だよ。理由は色々あるが、まず、人間が多すぎるということだな。しかも、労働組合は公労法で手厚く保護され、親方日の丸で、赤字に関係なく、わがままのし放題だ。民鉄のほうは一銭でも黒字を出そうとやっているのに、国鉄はそういう創意、工夫をしない。…

 国鉄の最大の問題は何か。それは兼業を許していないことだ。民鉄はたとえば沿線の宅地開発をしたり、ホテルを経営したりして、鉄道本体の経営を助けているが、国鉄にはこれが許されていない。そういうふうに多角経営を禁じておきながら、国鉄に「赤字を出すな」といったって、たくさんの人間を抱えた国鉄に、それができるわけがない。そうだろう。だから、民営にすべきである」。

 「おやじ(田中角栄)の考えでは、国鉄改革と列島改造は表裏一体なのである。国鉄の分割・民営化は既に関係法規も制定され、62年(1987年)4月には分割・民営の会社が発車することになった。田中は早くから、国鉄の細分化と赤字路線切捨てによる民営化には異論をもっていた。彼は国鉄改革論者であり、民営化論者ではあるけれども、地方住民の夢と期待を考えに入れない国鉄改革には、あくまでも批判の姿勢を崩さない」。
 「今後の激しい国際競争のなかで日本が生きていくためには、貿易立国の政策とともに、内需拡大が必要である。これは当然のことだ。しかし、そのためには均衡のとれた国土の発展を実現し、北海道や東北などの内にフロンティアを求め、確立していかなきゃならない。…国鉄は途方もない広さの敷地を活用することだ。今は海底に高圧線が通っている時代だろう。鉄道の敷地は全部、パイプラインになる。ガスも石油も通信線も、いろんなパイプラインはすべて鉄道の敷地を使って建設すればいいんだ。…とにかく、日本国中どこを探しても、今の鉄道と同じ広さの用地面積がまとまって確保されているところはないんだから。国鉄が民営になれば、経営者は必ず用地の多角利用をやるだろうな。わたしならすぐ始めるよ。そして6、7年で黒字にしてみせる。そのためには、地方開発とタイアップすることが必要だ。つまり、列島改造が一緒になって動き出すことだ。…とにかく、国鉄を国土全体の新しい発展策の中にきちんと位置づける。そして総合的、根本的な改造を工夫することだ。(中略)国鉄再建の至上命令は人減らしである。これがなんとかならない限り、債権の目途はたたんわけだ。…だからやっぱり、国鉄を会社にして兼業も増やし、採算の取れる商売を興して、そこに人を早く出すことだ。人減らしは、これしかない」。

【本四架橋論について】
 角栄は、本四架橋について次のように述べている。
 概要「本州四国連絡三橋は四国の390万人の住民に対してだけ架けるのではない。新幹線鉄道や高速道路とつなぎ、日本列島の三分の一を占める近畿、中国、四国及び九州の経済圏を有機的に結合して、広域経済圏に育て上げるために架橋するのである。『四国は日本の表玄関になりうる』という私の主張は決して誇張では無い。昭和30年から15年間に35万人も減った四国の人口は現在390万人であるが、これらの架橋によって、やがて600万人に増え、800万人に増加しよう。本四連絡橋を三橋とも架けるからといって、過大投資というのは当らない」。

【角栄の卓越した文明観について】
 角栄は、「日本列島改造論」の中で、ユニークな史観を披瀝している。次に記しておく。
 「国民総生産と国民所得の増大は、一次産業人口比率の低下と二、三次産業人口比率の増大及び都市化に比例する」。
 「人間の一日の行動半径の拡大に比例して国民総生産と国民所得は増大する。地球上の人類の総生産の拡大や所得の拡大は、自らの一日の行動半径に比例する」。

 他方、環境問題にも逸早い取組みを指示していた。次のように述べている。
 概要「これまで人類は、自然から資源を得て、これを生産・消費し、廃棄物を自然へ排出するという自然の循環メカニズムの中で生きてきたし、その自浄作用を通じて自然が維持されてきた。ところが、30年代に始まった経済の高度成長の過程で人口、産業の都市集中が進み、自然の浄化作用を越えた環境汚染の問題が発生してきた。大気汚染、水質汚濁対策は喫急の課題となっている」。

【日本列島改造論の史的評価について。ありし日の朝日新聞の称賛記事】

 朝日新聞が珍しく次のように誉めている。

 「産業の構造変化が弊害を引き起こしている。都市の過密と地方の過疎だ。今まではバラバラな対症療法しかなかった。初めて20年後の都市化の姿を描き、問題の解決をただの理論ではなくて政策にまとめた点で、この大綱は高く評価されていい」。
 「アメリカの未来学者であるハーマン・カーンが官邸を訪れ、『これは、大変立派な計画だ。日本が軍事大国にならずに、むしろ平和大国となるための壮大なビジョンである』と激賞している。もし時代状況がよければ、道路網なり、新幹線網なりの整備が急速に進み、間違いなく地方が活性化されただろう」。

【日本列島改造論の思わぬ余波について】

 しかし、この「日本列島改造論」は思わぬ鬼ッ子を生み出していった。「日本列島改造論」関係法案の「工場移転促進地域」と「工場誘導地域」の指定を廻って企業の誘致合戦が発生し、改造論で具体的に名をあげられた開発拠点の候補地周辺の土地買占めが起こり、将来の開発・発展を期待して周辺の地価を急激に上昇させた。三木は「環境破壊」だといい、福田は「インフレを爆発させ、財政上も困難がある」として批判を強めた。

 政治評論家・藤原弘達氏の著書「角栄、もういいかげんにせんかい」には次のように書かれている。

 「その後、『日本列島改造案』は、私が予想した通り、『地価倍増論』以外の何ものでもない空論であることが証明された。田中角栄は、日本の未来よりも、己の権力欲の為に、数々のダミー会社を設立し、土地転がしによる金脈作りに奔走した。その意味では、『日本列島改造論』は田中の金脈作りのバイブルであり、日本国民にとってはまさに『史上空前の悪書』であった」

 2005.5.28日付け日経新聞「私の履歴書」の「加藤寛27」は次のように記している。
 昭和元禄の延長上に有る田中角栄内閣の日本列島改造論の失敗は、経済成長の一時期にしか通用しない経済学を信奉し続けた成れの果てだ。当時「土地政策を持っていない」との表現で私が改造論に反対したのは、過去の成功体験にしがみつく発想の貧困を背後に感じたからである。
(私論.私見) 「加藤寛の日本列島改造案批判について
 「加藤寛の日本列島改造案批判」は、結局のところ批判の為の批判しか展開していない。「過去の成功体験にしがみつく発想の貧困を背後に感じた」と批判しつつ加藤寛らが進めた諸政策は、我が国の経済を根本的に失速せしめるのに寄与したのではないのか。何時の日にかこの検証をせねばならないと思う。

 2005.6.2日 れんだいこ拝

日本列島改造問題懇談会の設置
 1972.7.7日、角栄は第一次田中内閣をスタートさせた。就任後すぐさま首相の私的諮問機関として「日本列島改造問題懇談会」を設置し、8.7日、第一回目の会合が開かれた。委員の数は当初75名であったが、その後90名に増員された。しかし、順調な滑り出しを見せたこの懇談会は思いがけずも座礁することになった。

 1973.4.2日付けの官報は、地価公示価格を発表し、過去1年間に全国平均30.9%、首都圏で平均35.9%の暴騰を明らかにしていた。高騰したのは地価だけでなく、一般物価も凄まじく値上がさせていた。日銀発表によると、1973年卸売物価指数は、1970年を100として1月に前月比1.5%、2月に1.6%、3月に1.9%上昇させていた。消費者物価指数も、1970年を100として1973.4月には120.7%を示し急上昇させていた。

 4.13日、田中内閣は物価対策閣僚協議会を招集して、当面の物価安定7項目を打ち出した。公共事業予算の8%繰り延べも決定した。その他日銀も4月初めから8月末に掛けて公定歩合を4回も引き上げ、金融面から引き締めを図った。しかし、物価、地価の上昇は止まなかった。

 第71回国会で、「日本列島改造論」関係法案のほとんどが継続審議になった直後の10.6日、第4次中東戦争が勃発した。アラブ産油国が石油戦略を打ち出し、石油の供給削減に動いたため原油価格は1バーレル当たり2ドル40セントから一挙に4倍まで急騰した。日本は深刻な石油危機と、折から進展していたインフレが相乗して未曾有の経済危機に突入した。一種のパニック心理まで生み出された。

【愛知蔵相の急死、福田蔵相の登場による総需要抑制政策への転換始まる】
 政府が石油需給適正化法案と国民生活安定緊急措置法案を準備して、対策に追われていた最中の11.23日、角栄が右腕と頼んでいた愛知蔵相が急死した。後任の人事として行政管理庁長官に就任していた福田赳夫を登場せしめるところとなった。福田氏は、列島改造論の対極論者であり、安定成長路線の信奉者であった。就任に当たり、総需要抑制策が全ての政策に優先させることを条件にしていた。田中首相がこけを受け入れたため、福田の蔵相就任をもって「日本列島改造論」は失速せしめられることとなった。

【官僚機構の牙城大蔵省主計局との闘い】
 新野哲也氏は、著書「誰が角栄を殺したか」188Pで、次のように述べている。

 「決定的だったのは総理府の外局・国土庁の新設だった。国土庁は事実上、角栄がつくった新庁で、列島改造論の実行部隊になる予定であった。角栄は、庁を新しくつくるという大胆な発想で大蔵省の予算編成権を侵食した。当時は税収が順調に伸びており、国土庁の新設で他各省の予算が大幅に削られることはなかったものの、角栄のこの強引なやり方に大蔵省は戦慄した。官界に角栄恐るべしの声が広がったのは、実にこの時だった。既に角栄は、与野党最大派閥をひっさげ、官を圧する大勢力になっている。その角栄が大蔵省主計局という官の牙城を切り崩しにきた−危機感が霞ヶ関全体に広がっていた。

 大蔵省主計局といえば、エリート中のエリートである。主計局長だった福田赳夫をはじめ、池田隼人、大平正芳、宮沢喜一らはここから続々と政界入りを果たし、その多くは総理大臣にまでなっている。梶山静官房長官が行政改革の一環として大蔵省に集中する予算編成権を内閣へ移行させる構想を明らかにしたが、これは、角栄の遺言だったといってよい。官導政治の元凶は官による国家予算の独占的な掌握だったのであり、角栄は、この権限を官から奪回することによって戦前から戦後に亘って長く日本を支配してきた旧体制を打破しようとしたのである。これはほとんど革命といってよいほどの大きなシステム変更である」

 「もしそれが成功していれば、日本の社会には、現在とは比較にならないほど自由主義的な気分と政治のエネルギーに溢れていたろう」。




(私論.私見)