ちなみに、「日本列島改造論」は向こう受けを狙って唐突に出したものではない。1966年に幹事長を辞任した翌年の1967年に就任した自民党都市政策委員長時代に、日本の産業・経済構造を研究し、1968・5月に「都市政策大綱」としてその成果を発表していた。
それは東京一極集中からいかにしてバランスの良い総合的国土活用ができるかの視点で、6万語に及んで、産業の適正配置と分散、高速道路網の整備、地方単位の快適生活環境都市づくり等を提言していた。その原型は、昭和20年代に始まった角栄の議員立法活動のその中に胚胎していた。「都市政策大綱」は、この成果の上に結実した綱領的文書であり、これが青写真となって「日本列島改造論」が上宰されたという経過を見せている。
「都市政策大綱」の産出経過は次の通りである。角栄は、1966.12月の内閣改造人事で幹事長を辞め、久しぶりに無役となっていた。1967年の正月の松の内が明けた頃、坂田道太(前衆議院議長)と原田憲(元運輸大臣)がやって来て、早坂秘書と懇談した。坂田が次のように述べている。
「角さんは無役になった。しかし、遊ばせておくのはもったいない。使おうじゃないか。君らはよく知らんだろうが、角さんは若いときから国土政策に汗を流して来た。大変なオリジナリティの持ち主である。テキパキと仕事をやる。知恵も力もある。都市問題、過密と過疎が厄介なことになってきた。ここらで一つ、角さんを長とした大調査会を作って、何かバンとしたものをやらせようじゃないか」。 |
この時、元共同通信の政治部記者で、1960年頃より角栄の政策ブレーン秘書となっていた麓(ふもと)邦明氏を呼んでいた。翌日、角栄に相談したところ、当人も大乗り気になり「おもしろい。よしッやろうじゃないか」となった。
1967.3.16日、自民党都市政策調査会が発足し、田中角栄が会長に就任した。会長・田中角栄、副会長・坂田道太、原田憲。小川半次、渡海元三郎、丹羽喬四郎、浜野清吾、赤間文三、岸田幸雄、安井謙ら衆参両院の実務者が副会長。衆議員53(79)名、参議員35名、計87(114)名の国会議員メンバーが揃った。派閥を越え、福田派や三木派の中堅幹部クラスまで押しかけていた。東京平河町の全共連ビルで第1回総会が開催された。基本問題分科会(会長・高橋衛、会長代理・倉成正)、大都市問題分科会(会長・吉武恵市、副会長・岡崎英域)、地域問題分科会(会長・原健三郎、副会長・奥野誠亮)、財政金融問題分科会(会長・植木庚子郎、副会長・足立篤郎)の4分科会と競う委員会を設けた。
他に、自民党政務調査会スタッフとして各官庁から選りすぐりの官僚が結集した自民党初の大調査会となった。判明するメンバーは次の通りである。
氏名 |
当時のポスト |
概要履歴 |
小長啓一 |
前・通産事務次官、事務秘書官 |
1930年生まれの新制岡山大学法文学部卒。在学中に国家公務員上級職(法律職)試験と司法試験に合格していたが通商産業省入省。日本列島改造論」は小長が下書きをしたと囁かれている。角栄が首相時に内閣総理大臣秘書官に抜擢される。地方大学出身者として初めて通産事務次官に就任する。 |
下河辺淳 |
経済企画庁総合開発局課長 |
大正12年生まれの東大工学部卒、戦災復興院から建設省に移り、課長補佐の時の昭和24年に建設委員会・地方総合開発小委員会委員長の角栄と初顔合わせしている。その後の接触で、「この人は東大法学部的な発想領域を超えている。しゃべりながら知恵が湧いてくるようだ」と感心したとの伝があり、角栄心酔派の一人であった。 |
武村正義 |
自治省大臣官房企画室勤務課長 |
当時31歳。ヨーロッパの都市政策を論じた「南農北工論」が田中の目にとまり、「都市政策大綱」のまとめ役に指名され、プロジェクトチームの仲間入りとなった。「南農北工論」とは、「欧州は南農北工型である。日本は逆に、南工北農型だから、放っておくと北と南の所得格差が開いてしまう。政策的対処が必要である」とする論調であった。 |
こうして目ぼしき官僚の協力も得た。自民党都市政策調査会は角栄の陣頭指揮で、麓秘書が議論の取りまとめ役となり、以降1年2ヶ月の間に70回(総会25回、正副会長会議9回、分科会18回、起草委員会18回)の会議を積み重ねて行った。
初めての会合の席での角栄の挨拶が残されている。全文は早坂著「政治家田中角栄」に譲ることとして、次のような指摘が為されている。
概要「我が国の都市問題は今や政治の避けて通れぬところであり、一瞬も放置できない段階に達している。均衡のとれた国土総合開発をまずつくり、過密と過疎問題の同時解決を図る。(従来式の後追い行政ではなく)都市改造、地方開発に当たって、今必要なのは目先のソロバン勘定ではなく、先行投資の考えに立脚した、大きく新しい経済計算である。古い投資効率の概念を捨てて、新しい先行投資の概念を政策の基本に据える」。 |
「(そうした政策を推進する為に)国の財政力だけでなく、民間のエネルギーを積極的に活用することである。この都市改造と地方開発のための十分な社会資本は、政府の財政力をはるかに超えている。政府、地方自治体、企業、私人がそれぞれの力を結集して、はじめて実現できる国民的な大事業である。そのためには、民間の資金が進んでこの大事業に参加できるような措置を講ずるべきである」。 |
通産省のスタッフ何人かを前にして熱弁を振るった様子が、小長啓一氏(当時通産事務官)によって次のように回顧されている。
「『自分は代議士に当選以来、国土問題に対しては特別の情熱を注いできた。議員立法もいくつかやったし、この問題に関して自分はどの政治家にも負けない経験と識見を持っているつもりだ。政治生活二十数年、この段階で一度過去を振り返りながら未来を展望するものを何か創りたい』。それから暫くの間、私たちは3時間ぐらいのレクチャーを田中さんから直に4、5回受けることになった。それを私たちが整理し、多少肉付けをしてまとめたのが『日本列島改造案』であった。自らの経験と識見をとうとうと語られるそり語り口は、常人をひきつけて止まない魅力と説得力があったし、一方近づき難い威厳も感じた」。
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会議では、関係官庁(建設省・自治省・通産省・経済企画庁・運輸省・農林省・文部省・厚生省・大蔵省・労働省・警察庁・消防庁・各種公団)、自治体(東京都・全国知事会・市長会等々の代表者)からの現状と見通し及び政策について細大漏らさずの報告を受け、各界有識者(土木学会会長・観光会社社長・交通問題評論家・公衆衛生学専門家・その他大学教授・新聞社論説委員他)からの提言へと広げ、広く意見を集約させている。
その後テーマ別に四つの分科会を設け、更に議論を掘り下げていった。各分科会でも、関係各省庁、自治体、民間学識経験者を招き、きめの細かい意見聴取、討議に入った。この経過は、それ以前も以降においてもこれだけ精力的に活動した例がない凡そ模範的事例となっている。
こうして漸く起草委員会(高橋衛委員長)を設置し、1968.2月より体系的な取りまとめの作業に入った。この都市政策大綱づくりに党経費だけでは賄いきれず、田中は数百万円のポケットマネーを投じており、これが事務費や会議費の潤滑油となった。この時角栄は、「田中テーゼ」を貫徹させるために麓と早坂秘書を最終的な責任者とした。二人は小型トラック一台分の資料を東京平河町の田中事務所に持ち込み、63回も草稿を書き直し、眼底出血と血尿に見舞われながら悪戦苦闘している。
早坂氏の「政治家田中角栄」は次のように述べている。
「都市政策大綱は角栄が書き上げたものではない。しかし、角栄を抜きにしては策定されなかった」。 |
「政治家・田中角栄の見識、情熱と日頃の行政事務にうっぷんを溜めていた若い官僚のエネルギーの爆発、田中を真の政治指導者たらしめんとしたスタッフの合作であったと云えよう。田中は自分の政治的信念を若い官僚や事務所のスタッフにぶつけて、彼等の情熱を燃え上がらせ、その能力を最大限に発揮させて、政策を作り上げる天才であった」。 |
1968(昭和43).5.22日、調査会は、総会25回、正副会長会議9回、分科会18回、起草委員会18回を経て総会を開き、6万語に及ぶ「都市政策大綱」(中間報告)を決定した。これが後の日本列島改造論の雛形(ヒナ形)となった。5.24日、自民党の党政務調査会審議会で、5.27日、同総務会で了承した。
「都市政策大綱」に対する反響は大きく、大綱が発表された翌日、5.28日付けの朝刊で一斉に報道され、概ね好評であった。5.28(26?)日付け朝刊朝日新聞は、次のようにコメントしている。
「産業構造の変化と、都市化の急激な流れは、都市地域の過密と、地方の過疎による幾多の弊害をもたらし、国民生活に不安と混乱を与えている。ところが、わが国では、これまで政府も政党も、総合的、体系的政策に欠け、その施策は個々バラバラの対症療法として、ほころびをつくろうものばかりであった。それを二十年後の都市化の姿を展望し、問題解決の方向、手法を、単なる理論でなくて、政策ベースに乗せたという意味で、この大綱は高く評価されて良いだろう。
しかも、『過去二十年にわたる生産第一主義による高度成長が、社会環境の形成に均衡を失い、人間の住むに相応しい社会の建設を足踏みさせた』と反省し、公益優先の基本理念を元に、各種私権を制限し、公害の発生者責任を明確にしたことなど、これまでの自民党のイメージをくつがえらせるほど、素直、大胆な内容を持っている」。 |
東京工大教授で都市計画専攻の石原舜介(しゅんすけ)氏は、次のように評価した。
「自民党が『都市政策大綱』を発表したことは、今まで政党としては見られない快挙であり、双手を挙げて賛意を表したい」。 |
政権党の発表文書がこのような取り扱いを受けたこと自体異例であった。
角栄自身が次のように自負している。
「新しい国土利用と云うものが何から始まるかといえば、それは交通網の整備と公共投資だ。そこのところを政策として体系的に述べているのが、昭和43年5月に発表された都市政策大綱だ。これは私が自民党の都市政策調査会長として1年2ヶ月かけてまとめたものでね。私の日本列島改造論の原点であると同時に、その後の歴代政権にとって国土政策の基本憲章となったものだ。私はこの都市政策大綱の中で、新しい国土利用のカギは交通網の整備、公共投資、とりわけ先行投資であると指摘した。その後の発展はどうかといえば、37万8千平方キロの日本列島は今や新幹線と高速自動車道路網の整備で、時間距離が革命的に短縮されているじゃないか。こういった交通網の整備が、通信網の整備と合わせて日本経済に活力を与え、国民生活を格段に便利にしてきたということは、まさに事実が示しているんだ。だから私は、新幹線網をさらに全国に広げ、高速道路のネットワークをさらに細かくすべきだと、そう確信している」(早坂茂三「田中角栄回想録」104p)。 |
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