日本列島改造論に対する世評考

 更新日/2020(平成31→5.1栄和元/栄和2).3.15日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、日本列島改造論に対する世評考をものしておく。

 2014.06.12日 れんだいこ拝


【角栄版マニュフェストの政治史的秀逸さ】
 田中角栄/考察・日本列島改造論 」を転載しておく。
 『昭和時代 第2部 第24回 日本列島改造論』(読売新聞)

 田中角栄首相が就任前に内政の重要な課題として揚げた『日本列島改造論』。産業と人口を地方分散させ、過疎と過密を同時に解消する。田中宿願の大構想だった。しかし、これによる列島改造ブームは、地価高騰から物価高を引き起こし、田中への称賛は、やがて怨嗟の声に変わっていく。

 【日本列島改造論の主な内容】
 
一、工業の再配置を全国的に進める。過密する都市部から工業を追い出し、地方に移転・新設させる
 
一、全国に9000㌔・㍍以上のの新幹線、1万㌔・㍍の高速道路などを整備し、「1日行動圏」を拡大する
 
一、人口25万人規模の中核都市を各地につくる
 
一、単年度の財政均衡主義を脱し、長期的視野に立った積極財政と、禁止・誘導税制を活用する
 
一、年率10%の経済成長が続くことを想定
 国づくり 壮大なビジョン
 田中通産省の『日本列島改造論』が出版されたのは、72(昭和47)年6月20日だった。「ポスト佐藤」を選ぶ自民党総裁選を15日後に控えていた。そもそも出版計画は、前年の10月に浮上した。日米繊維交渉を決着させたばかりの田中は、秘書官の小長啓一(のち通産事務次官)に、「自分は、国会議員になってから国土開発に携わってきた。通産省として工業再配置も勉強したので全体系を学んだことになる。来年は、衆院勤続25年で永年表彰されることもあり、この際、全体をまとめてみたい」と語った。
 
 小長は、省内の若手官僚から、後に堺屋太一のペンネームで作家となる池口小太郎ら数人を選んだ。これに田中の政務秘書早坂茂三と日刊工業新聞の記者数人が合流して、10人ほどの執筆陣を決めた。大臣室で田中は、道路、鉄道、河川、住宅、農政などについて、自らの構想を滔々と喋った。1回数時間、3~4回、会合が重ねられた。日刊工業新聞は72年1月10日から「新しい国づくり 日本列島改造論」の連載をスタートさせた。小長と早坂を中心に、単行本『日本列島改造論』の分担執筆も始まった。……
 
 小長は、「前文と結びは、田中さんが書いたものに早坂さんが手を入れたが、本文は、『俺の話に沿って書いてくれれば文句は言わない』と私たちに任された」と、急ピッチの作業を振り返る。前文の「序にかえて」は、田中の主張を次のように簡潔に表している。〈工業の全国的な再配置と知識集約化、全国新幹線と高速自動車道の建設、情報通信網のネットワークの形成などをテコにして、都市と農村、表日本と裏日本の格差をは必なくすことができる〉
 
 東京や大阪などの大都市近郊から工場を追い出し、農村地域に工業基地を移すことで「農工一体化」を推進、日本の産業地図を塗り替える―― こうした構想は、通産省の産業構造審議会が71年5月に答申した「70年代の通商産業政策のあり方」を色濃く反映していた。注目されたのは、工業再配置で育成する「人口25万人規模」の内陸型工業都市の候補地として挙げられた。横手(秋田県)、三条・長岡(新潟県)、都城(宮崎県)などの具体名だった。小長は「地名は立地指導課長だった経験を生かして私が選んだ。筆が走った」と明かす。『日本列島改造論』は、半年で80万部を超えるベストセラーとなった。
 前提の「10%成長」 崩壊
 『日本列島改造論』には、〝原本〟があった。68(昭和43)年5月、田中が会長を務める自民党都市政策調査会が公表した「都市政策大綱」がある。田中は、佐藤政権下の「黒い霧事件」によって幹事長ポストを離れると、67年3月にに同調査会会長という名称を予定していたが、田中の強い意向で変更された。「都市政策」が政治のキーワードになっていた。池田、佐藤両内閣の高度成長路線は、農村から都市へ激しい人口流入を引き起こし、自民党の選挙基盤を縮小させた。逆に、人口が急増した都市では住宅、生活環境が悪化し、住民の自民党政権に対する不満は募るばかりだった。この結果、自民党の衆院選得票率は低下傾向をたどり、「保守の危機」が囁かれる。とくに、67(昭和42)年4月、社会、共産両党推薦の美濃部亮吉が、自民党の推薦候補を破って東京都知事に当選したことは、自民党に衝撃を与えた。田中は、『中央公論』同年6月号に、「自民当の反省」と題した論文を寄せ、都知事選の敗因を、東京の過密化に対応した政策の実施を怠ったためと分析し、〈東京における自民党の敗北が、いずれ全国的に拡大される可能性がある〉と指摘した。……
 
 都市政策対抗づくりは、田中の秘書の麓邦明と早坂が中心となり、経済企画庁幹部の下川辺淳(のち国土事務次官)をはじめ100人以上の官僚たちが参加。自治省にいた武村正義(のち蔵相・「新党さきがけ」初代代表)は、有力メンバーの一人として執筆にあたった。

 【証言】

 武村正義:
 自治省勤務時代に1年半ほど西ドイツに留学し、その成果を1967年、『日本列島における均衡発展の可能性』と題する論文にして発表しました。それが麓国明秘書らの目にとまり、田中角栄さんの前で内容を説明することになったのです。角栄さんは話を聞くと、「ヨシッ、明日からうちに来てくれ」と言い、上司の宮沢弘官房長(のち法相)も「事務連絡に出かけていることにするから行ってくれ」と指示されました。結局、翌日から半年ほど、田中事務所で麓さん、早坂さんと3人で机を並べて働きました。都市政策調査会で党の要人が毎日、顔をそろえるなか、日本中の官僚や学者も総動員され、にぎやかに議論しました。
私も執筆を手伝いました。角栄さんは、たまに我々の部屋に顔を出しましたが、直接の指示はありませんでした。その後、埼玉県の職員に出向していたこともあって、日本列島改造論に執筆には携わっていません。大きな意味で大綱と考え方は変わらないですが、工業政策の割合が大きく、雰囲気も中身も、通産省的な発想かもしれないですね。 
 
 大綱は、ただの都市政策にとどまらず、「日本列島そのものを都市政策の対象として捉え、大都市改造と地方開発を同時に進めることにより、高能率で、均衡の採れた国土を建設する」ことを目標に揚げた。具体的には、高層化による都市再開発のほか、地方開発にも力点を置き、「旭川と鹿児島を結ぶ全長4100㌔の新幹線」の建設などを明記していた。大綱の方針は、「新全国総合開発計画」に盛り込まれた。新聞各紙は、都市政策大綱に盛られた「公益優先」の理念などを高く評価した。神戸学院大法学部の下村太一講師は、「田中は都市政策大綱を取りまとめることで、高度成長に伴う社会変動に対応できる能力と感受性をもった新しい政治家として、自らを演出することに成功した」と指摘する。
 
 内閣発足後間もない72(昭和47)年8月7日、田中は「日本列島改造問題懇親会」の初会合を開いた。さらに、翌月の訪中で日中国交正常化に成功すると、その勢い乗って11月、衆院解散を断行した。選挙戦で田中は列島改造論を強く訴えた。
これに対し野党は、「物価上昇と公害ばらまきの改造論」と厳しく批判した。12月10日投票の結果、自民党の議席は、271(追加公認を含め284)にとどまり、55年の結党以来、最低を記録した。
 
 『日本列島改造論』で名指しされた地域を中心に、将来の値上がりを見込んだ土地の買い占めが起こり、地価が暴騰し始めていた。もともと、71(昭和46)年のドル・ショック後の金融緩和などで企業の手持ち資金がだぶつき、不動産投機が起こりやすい背景もあった。それでも、田中は、73(昭和48)年度の一般会計予算で、当初ベースで前年度を24.6%も上回る大型予算を組む。高速道路や新幹線整備など公共事業関係費が膨らみ、まさしく「列島改造予算」と呼ばれた。これが、物価上昇に拍車をかけた。73年4月の地価公示では、全国の主要都市の地価は、前年比で30.9%も上昇する。地価が上昇すれば、工場移転コストも増す。田中の目玉施策であった、工業再配置を促進する「工業追い出し税」の創設は、自民党支持基盤である大企業などの反対を受けて断念に追い込まれた。73年10月の第1次石油危機で深刻なインフラは決定的になる。列島改造論は、自ら想定した年率10%成長の終焉とともに、その命脈が尽きていく。 
 田中政治の集大成
 田中にとって、国土開発はライフワークだった。「土建屋でも国会議員になれば立法権を行使できる」と語ったように、田中は、新憲法下の国会を最大限活用し、自ら提案者となって議員立法33件を成立させた(早坂茂三『政治家・田中角栄』)。また、政府提案などでも、、官僚をうまく使いこなす〝政治主導〟の下、80件を超える立法を進めた。
 
 議員立法で最初に公布されたのは、建築士を国家資格と定める建築士法だった。田中自から同法に基づき、1級建築士の資格を得た。国土総合開発法は、政府提案だが、田中の構想を核にしていた。法の目的にある「産業立地の適正化」には、列島改造論でも唱える「工業再配置」の概念が早くものぞいている。また、電気の供給力を高める電源開発促進法も、田中が提案者だ。当時、連合国軍総司令部(GHQ)は、再軍備につながる恐れのある産業復興には極めて消極的だった。田中は公職追放をちらつかされながらも踏ん張った。これが佐久間ダムや田子倉ダムなど、数々の水力発電所の建設につながった。
 
 田中は 、道路建設にも力を注いだ。議員提案した道路法は、国道を1級と2級に分け、従来の府県道を2級国道に引き上げて総距離を約2倍に増やし、国費による道路整備臨時措置法は、ガソリン税を道路財源に充て、道路整備5か年計画を策定するというものだった。揮発油税の目的税化には、大蔵省などが「政府の予算編成権を侵す」と反対した。田中は、同法を成立させた後、〈理屈ばかりこね回すことを排して、やらなければならないことをやる、という結論になったことは、大きな進歩〉と記している。目的を素早く達するためには、法改正はもとより、法解釈に奇策を弄することも、田中は辞さなかった
 
 列島改造論は、国土開発にかけた「田中政治」の集大成だった。田中退陣後、実現されたプロジェクトは少なくない。だが一方で、田中が推し進めた、道路公団などの公団方式や、道路特定財源などの仕組みは、ムダな道路づくりや利権構造の温床として批判の的になった。道路関係4公団は05年に民営化され、道路特定財源は09年度から一般財源化されるなど、見直しが進められている。
 
 福田に後事を託す

 田中にとっての痛恨事は、73年11月23日、田中の懐刀として積極財政を推進した蔵相・愛知揆一が急死したことだ。愛知の臨終に立ち会った田中は、大蔵事務次官の相沢英之と目白の田中邸に向かった。相沢が、愛知の後任に、蔵相経験者の水田三喜男らの名前を挙げても、田中は首をひねった。田中が出した名前は、総裁の座を争った、安定成長論者の福田赳夫だった。田中は、地元の群馬にいた福田を急遽、呼び出した。パトカーに先導されて首相官邸に入った福田は、田中から蔵相就任を求められると、「経済の運営は乗馬と同じで、1本の手綱は物価、もう1本は 国際収支だ。今は手綱がめちゃくちゃになってきた。こうなった根源は何だ」と聞いた。田中が「石油ショックだ」と答えると、福田は、「あなたが掲げた日本列島改造論で物価は冒頭に次ぐ暴騰。国際収支が未曾有の大混乱に陥っている。この超高度成長的な考え方を改めない限り、事態の修復はできない」と反論した。田中は一晩考えた末に改造論の撤回を約束して、「経済問題については一切、新蔵相に任せたい」と告げた。看板政策の撤回という無念を抑えつつ、政敵でも力を認めて後事を託す、思い切りのいい決断だった。秘書官の小長は、その時の田中が「当面、断念するが、列島改造の考え方は今後も残るんだ」と言いながら、意外と淡々としていたことを覚えている。福田は25日。蔵相就任会見で、「列島改造は首相の個人的見解であり、私論。政府の構想として決まったものではない」と断言し、列島改造論の終わりを宣言した。

 「日本列島改造論〜田中角栄の時代〜」。
 まず、上の2枚の写真を見てください。左が東京駅前の丸ビル、右が昭和通りで、ともに戦前のものです。一見して思うのが、「なんてがらんどうなんだ!」ってことでしょう? そう、昭和30年代以降にモータリゼーションの波が押し寄せる前は、日本に車なんてほとんどなかったんです。 今ではまったく信じられませんね。昭和27年(1952年)、田中角栄が「道路法」を議員立法します。その第1条には《この法律は、道路網の整備を図るため、道路に関して、路線の指定及び認定、管理、構造、保全、費用の負担区分等に関する事項を定め、もつ交通の発達に寄与し、公共の福祉を増進する ことを目的とする》とあります。当時、年間の道路整備費は約200億円、それが昭和47年(1972年)ごろでは約2兆円。単純計算でいえば、20年間で100倍になったわけです。それから30年後の2002年、ようやく日本道路公団の民営化が論議されましたが、なんの歯止めもないまま無駄な道路を造り続けた道路行政の原点はどこにあるのか? 答えはこれです。
 
 田中角栄は著書『日本列島改造論』(1972年)のなかで、高速道路の効果に関して、いくつもの具体例を挙げています。

 ●かつて工場ひとつない寒村だった滋賀県の栗東町は、名神高速道路ができたおかげで200以上の工場が進出し、新興工業地区へと一変した。●それまでは農業中心の都市で、工業といえば食品、衣服、繊維関係の工場しかなかった愛知県小牧市は、名神、東名両高速道路のおかげで工業都市、流通基地としてにわかに脚光を浴びるようになった。●東名高速道路ができてから東京に入ってくる九州産の豚の量が2〜3倍に増えた。輸送時間が約4分の1となったおかげで子豚の輸送疲れが少なくなり、トラック1台あたり20万円は余計に儲かるようになった。●大阪の青物市場では季節になると東名、名神を突走って福島県岩瀬村のきゅうり、茨城県のピーマン、埼玉県の長十郎梨などさまざまな商品が出回るようになった。そして、こう続けます。 《高速道路ができればできるほど市場が広がる半面、産地どうしの競争も激しくなる。それは貿易の自由化と同じことで、日本経済全体からみれば、適地適産がすすみ、価格が平準化し、生産は合理化する》

 昭和50年までに、アメリカの高速道路の総延長は65970キロ、西ドイツは7000キロ、イタリアは6528キロに達する予定だが、《その時点までに完成する日本の高速道路は1900キロメートルにすぎない。欧米なみの生活水準をめざすという観点からみても、日本の高速道路建設を急がなければならないのは明らかである》。まさに、角栄の『日本列島改造論』こそが、道路行政の始まりでした。



 道路同様、問題が多い新幹線についても触れておきましょう。昭和55年ごろには第2東海道新幹線を建設するのを筆頭に、
 ・奥羽北陸新幹線(青森〜秋田〜新潟〜富山〜大阪)
 ・中国四国新幹線(松江〜岡山〜高松〜高知)
 ・九州四国新幹線(大阪〜四国〜大分〜熊本)
 ・山陰新幹線(大阪〜鳥取〜松江〜山口)
 ・北海道縦貰新幹線(札幌〜旭川〜推内、旭川〜網走)
 ・北海道横断新幹線(札幌〜釧路)

 など必要な路線が目白押しで、 《こうして9000キロメートル以上にわたる全国新幹線鉄道網が実現すれば、日本列島の拠点都市はそれぞれが1〜3時間の圏内にはいり、拠点都市どうしが事実上、一体化する。新潟市内は東京都内と同じになり、富山市内と同様になる。松江市内は高知や岡山などの市内と同様になり大阪市内と同じになる》

 今読むと、ホント強烈なインパクトがありますね。ちなみに角栄が新幹線の線路を地図上に引いたときの状況はこんな感じ。 《東京から新潟へ。まっ先に、赤い線が走った。次は東北に抜けて札幌まで一本。北陸へ、四国へ、赤エンピツは、地図の上を駆けた》(朝日新聞1982年10月28日)
線が九州まで来ると、二階堂進(旧鹿児島3区)のために鹿児島に線を引き、橋本登美三郎(旧茨城1区)のために水戸に線を引いたそうです。そして、実際に着工が始まったのは東北、上越、成田新幹線が最初でした。盛岡は当時自民党総務会長だった鈴木善幸、成田は政調会長の水田三喜男、そしてもちろん新潟は幹事長だった角栄のお膝元でした。自民党三役の地元から工事がスタートするという、素晴らしき政治力を発揮しています。  


計画された新幹線網

 それにしても、この発想の原点は何なのか。角栄は「むすび」にこう書いています。《人口と産業の大都市集中は、繁栄する今日の日本をつくりあげる原動力であった。しかし、この巨大な流れは、同時に、大都会の2間のアパートだけを郷里とする人びとを輩出させ、地方から若者の姿を消し、いなかに年寄りと重労働に苦しむ主婦を取り残す結果となった。このような社会から民族の100年を切りひらくエネルギーは生まれない。かくて私は、工業再配置と交通・情報通信の全国的ネットワークの形成をテコにして、人とカネとものの流れを巨大都市から地方に逆流させる“地方分散”を推進することにした》
。それが実現すれば、《失なわれ、破壊され、衰退しつつある日本人の“郷里”を全国的に再建し、私たちの社会に落着きとうるおいを取戻》せる——。角栄の理想は、石油ショックのせいで停滞を余儀なくされ、結局のところほとんど実現することなく、日本は別な形の土建王国として、悲惨な21世紀を迎えるのでした。

制作:2002年12月8日

<付録> 
 参考資料として、『日本列島改造論』より<戦後国土開発計画の歩み>を転載しておきましょう。現在までの国土開発の、すべてがここにある!

昭和20年 国土計画基本方針
21 復興国土計画要綱
22 国土計画審議会
24 総合国土開発審議会
25 国土総合開発法
  国土総合開発審議会
  港湾法
  北海道開発法
  首都建設法
26 経済自立三カ年計画案発表、自立経済審議会発足
  旧河川法改正
  公営住宅法
27 企業合理化促進法
  国土総合開発法一部改正
  道路法
  道路整備費の財源等に関する臨時措置法
  農地法
  電源開発促進法(電源開発(株)発足)
28 港湾整備促進法
  離島振興法
29 土地区画整理法
30 経済自立五カ年計画
  愛知用水公団
  日本住宅公団
31 道路整備特別措置法
  日本道路公団
  首都圏整備法
  工業用水法
  空港整備法
32 新長期経済計画
  国土開発縦貫自動事道建設法
  高速自動車国道法
  東北開発促進法
  東北開発株式会社
  特定多目的ダム法
33 工業用水道事業法
  道路整備緊急措置法
  首都圏市街地開発区域整備法
  公共用水域の水質の保全に関する法律
  工場排水等の規制に関する法律
34 首都圏の既成市街地における工業等の制限に関する法律
  特定港湾施設整備特別措置法
  九州地方開発促進法
  首都高速道路公団
35 国民所得倍増計画
  治山治水緊急措置法
  四国地方開発促進法
  北陸地方開発促進法
  中国地方開発促進法
  東海道幹線自動車道建設法
36 港湾整備緊急措置法
  後進地域の開発に関する公共事業等に係る国の負担割合の特別に関する法律
  低開発地域工業開発促進法
  産炭地域振興臨時措置法
  水資源開発促進法
37 新産業都市建設促進法
  水資源開発公団
  全国総合開発計画
  豪雪地帯対策特別措置法
38 近畿圏整備法
39 工業整備特別地域整備促進法
  河川法
  日本鉄道建設公団
40 中期経済計画
  山村振興法
41 中部圏開発整備法
  国土開発幹線自動車道建設法
  新東京国際空港公団
42 経済社会発展計画
  公害対策基本法
  外貿埠頭公団
43 都市計画法
  自民党都市政策大綱
44 新全国総合開発計画
  都市再開発法
45 過疎地域対策緊急措置法
  新経済社会発展計画
  本州四国連絡橋公団
  全国新幹線鉄道整備法
46 農村地域工業導入促進法
47 工業再配置促進法

 「『日本列島改造論』田中角栄」。
 十数年前に古本屋で手に入れた本です。出版されたのは、昭和47年(今から40年前)です。家の本棚の奥にしまってあったのを取り出して読んでみたら、なかなか面白いのです。田中角栄という人物を批判的な目で見る人が多くいますが、この本を読んでの印象は、日本の高度成長時代末期に、出るべくして出た人物であると感じました。その当時の田中角栄に罪はなく、田中角栄的なるものをずっと引きずってきた後輩の政治家や官僚たちに罪があるように思いました。日本列島改造論には、田中角栄の理想と夢と予測が、数多く描かれています。40年経って、その理想と夢が実現されて、その予測が当たったのかどうか、「本の一部」ですが、紹介させていただきます。

・都市と農村の人たちがともに住みよく、生きがいのある生活環境の下で、豊かな暮しができる日本社会の建設こそ、一貫して追求してきたテーマ

・土地、人口、水などを総合的に組み合わせた地域別の発展目標を設ける

・明治から一貫してとり続けてきた財政中心主義(財政資金による資源配分で国を運営)は、明らかに改める時期にさしかかっている。これまでの制度は発展途上国の制度

・電力料金は、過密地域と過疎地域との間で料金差を設ける。工業用水道も同じような政策的配慮を加える。住民税も過疎地域のほうが相対的に安くなるような配慮をする

行政の広域化を促進すべく、市町村の第二次合併を積極的にすすめ、適正規模とすることによって、その行政力、財政力を強化する。周辺市との再編をすすめることによって、大都市行政の一元化と広域化をはかることが必要

・新しい広域地方団体を設置できれば、府県事務の3分の2を占めている国の機関委任事務や国の地方出先機関の大半は、この中に吸収、一元化され、激変している経済社会の体制に対応できる

・国際農業に対抗し、食糧の安定した自給度を確保するためには、高能率、高収益の日本農業をつくることが絶対に必要。そのためには、農業の大型機械化、装置化、組織化が大胆にはかられなければならない

・人間は自然と切離しては生きていけない。世界に例をみない超過密社会、巨大な管理社会の中で、心身をすり減らして働く国民のバイタリティーを取り戻すためには、きれいな水と空気、緑あふれる美しい自然にいつでもふれられるように配慮することが緊急に必要

・わが国が今後とるべき対外経済政策の重点は、「1.貿易取引のルール(国際分業)」「2.国際投資のルール(国際企業活動)」「3.援助と受け入れのルール(南北間)」「4.国際通貨体制のルール(国際収支の不均衡調整、通貨準備の量的不足、信用喪失)」

・これまでの生産第一主義、輸出一本ヤリの政策を改め、国民のための福祉を中心にすえて、社会資本ストックの建設、先進国並みの社会保障基水準の向上など、バランスのとれた国民経済の成長をはかること

・「人間の一日の行動半径の拡大に比例して、国民総生産と国民所得は増大する」原則からして、「地球上の人類の総生産の拡大や所得の拡大は、自らの一日の行動半径に比例する」という見方もできる

・今後の産業構造は、経済成長の視点に加えて、わが国を住みよく働きがいのある国にするという視点が必要。つまり、今後の日本経済をリードする産業は、従来の重化学工業ではなく、環境負荷基準労働環境基準という尺度から選び出すことが必要

・将来の産業構造の重心は、人間の知恵や知識をより使う産業=知識集約型産業に移動させなくてはならない。知恵や知識を多用する産業は、生産量に比べて、資源エネルギーの消費が低いので、環境を破壊することも少ないし、知的満足できる職場を提供できる

・知識集約型産業こそ、産業と環境の共存に役立ち、豊かな人間性を回復させるカギを持つ。「知識、技術、アイデアを多用する研究開発集約産業」「高度組立産業」「ファッション産業」「知識、情報を生産し提供する知識産業」などを発展させること

・「都合の悪いものは隣村へ持っていく」ことでは、問題の本質的解決にはならない。住民の生活環境や自然を守りながら開発をすすめることが必要

・これからの内陸型工業団地は、本格的インダストリアルパークにしたい。緑の並木道、噴水のある芝生の広場、整然とした工場の建物、色も明るく落ち着いて、工場団地全体が公園を思わせる外観にし、工業を地域社会に組み込んでいくことも可能

・明治以来、わが国の交通政策は鉄道中心におかれてきた。これは、点と線の交通政策であり、大都市拠点主義はここから出発した。これから必要なのは、点と面の交通政策であり、その新拠点は、道路と鉄道、海運、航空の結節点である

・高速道路ができればできるほど、市場が広がる反面、産地同士の競争も激しくなる。それは、貿易の自由化と同じことで、日本経済全体からみれば、適地適産がすすみ、価格が平準化し、生産は合理化する

・産業道路と切り離して、休日に都市を離れる人々が自然に溶け込むレクリエーション道路の建設を急がねばならない。サイクリング道路や森や神社、史跡を巡る緑の散歩道を大量につくることが必要

・道路政策について当面、重要なことは、通過道路と生活道路を切り離すこと。今は、通過道路をはみだした車が生活道路にまで入り込んで、わがもの顔に走っている。これでは、自分の家のまわりもおちおち歩いていられない

・隅田川、淀川の河口で魚釣りを楽しむところまで河川をきれいにしなければ、日本列島の改造が本当にできたとは言えない

・地方都市の多くは、工場や商店があっても、中枢管理機構や文化、学問の場が乏しい。いわば、胴体や手足は一応揃っているものの、神経中枢が十分でないようなもの。そうした状態では、経済活動の完結性が低くなるから、資金が大都市に吸い上げられてしまう

・行政上の許認可権限は、できるだけ地方自治体におろし、地方自治体が中央と同じ量の情報を駆使する企画を自由に行えるようにすべき、広域ブロック都市には、シンクタンク、コンサルタント、調査研究機関などの情報産業が必要

・当面、東京にある大学を地方に分散することが、都市への人口の過度集中を緩和する一方法である。それと同時に、地方にある大学を、特定の学問分野で世界をリードする特色のある大学に改めていきたい

・限られた土地条件を前提にして、農業で高い生産性と高い所得を確保するためには、少数精鋭による経営の大規模化、機械化が必要。その過程で、農業人口の大幅な減少は避けられない

・都市の立体化は建物の高層化それ自体が目的ではない。高層化によって生じる空間を公共の福祉のために活用するところに最大の目的がある。貴重な都市の空間は、空中も地下もフルに利用しなければならない

・汗と力と知恵と技術を結集すれば、大都市や産業が主人公の社会ではなく、人間が主人公となる時代を迎えることができる。自由で、社会的偏見がなく、創意と努力さえあれば、誰でもひとかどの人物になれる日本は、国際社会でも誠実で尊敬できる友人になれる

 この「日本列島改造論」で、田中角栄が打ち出している政策や戦略(環境政策、格差是正対策、地方分権政策、農業成長戦略、大都市成長戦略、知識集約型産業移行政策、エネルギー政策など)は、今でも新鮮に感じられます。とても、40年前に書かれたものとは思えません。ということは、田中角栄が進んでいたというより、この40年間、日本社会が、ほとんど進歩していないということではないでしょうか。現実面だけに合わせ、お金に執着させる政策を行ってきたツケが今の日本のあわれな姿でないかと思います。田中角栄のような、理想を語り、目標を掲げ、それを強引に推し進めるリーダーシップある人物の登場が、今の日本には必要なのかもしれません。
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 ■日本列島改造論

 1964年(昭和39年)の東京五輪開催に合わせて走り出した東海道新幹線は、今年ちょうど開業から50年の節目を迎えました。その後、主要都市を結ぶ新幹線整備計画は、上越、長野、東北、九州、北陸、北海道へと広がり、建設が続いています。首相の座を目指していた田中は、計画のひな型ともいうべき1972年(昭和47年)発表の政権構想「日本列島改造論」で、高速鉄道網や高速道路網の考え方を述べています。

 構想の骨格はざっと、以下のような考え方です。太平洋沿岸に集中している京浜地区、阪神地区などの工業地帯を全国の拠点都市に分散し、人口30万~40万人の中核都市を各地に育成する。これらの都市を新幹線網と高速道路網で結び、大都市への一極集中を排除して、バランスのとれた国土建設を目指していく。こういうものでした。

 当時はまだ東海道新幹線が運転しているだけで、山陽新幹線が建設中のころでした。鉄道や道路だけでなく、情報通信網を張り巡らせようというアイデアも含まれていました。建設用地を確保するために山を切り開き、河川を改修するような大型の公共事業が長期間にわたって必要になります。あたかも日本列島をコンクリートで埋め尽くすような勢いでした。

 この構想は田中が通産相だったころ、官僚や記者らを執筆陣にして、自分が首相になったら日本列島をこんな風にしていきたいというビジョンを語ってまとめさせたものです。当時としては壮大なスケールの構想でした。私は当時、学生でした。これを読んで大学の課題リポートを提出した記憶があります。政策評価は分かれますが、著書は半年で80万部売れるほどのベストセラーになりました。「そんなに売れているのか。じゃあ俺も読んでみようかな」と田中が言ったという逸話が残っているほどです。

 田中はとにかくアイデアマンで、行動力の人でもありました。たとえば、全国に原子力発電所の建設を進めるために、原発を誘致した地方自治体に国からの交付金がたくさん落ちる仕組みも田中がつくりました。さらに、かつてはガソリン代金の一部が道路整備のために使われる財源の制度も田中によるものでした。戦後日本をインフラ面から築き上げたと言ってもよいでしょう。

 ■庶民宰相と金権政治

 こうしたアイデアを実現した問題意識の根底には、自らが雪国の新潟県出身という生い立ちが大きく影響していると思います。田中は1918年(大正7年)に新潟県の寒村で生まれ、高等小学校を卒業すると上京しました。現在の教育制度でいうと、中学校途中の教育までしか受けていないことになります。建設会社で働きながら夜学に通い、独学して19歳で建設事務所を立ち上げています。現在、建築士の国家資格がありますが、これも田中が法案を実現したことによるものです。

 政治家の道は1947年(昭和22年)の総選挙での初当選から始まります。1972年には54歳という若さで首相に就任します。政治スローガンは「決断と実行」でした。首相になる政治家には東京帝国大学出身者が多かった時代でした。大蔵省(現財務省)など霞が関の官僚の幹部も東京帝大などを卒業した人材ばかりです。当時のマスコミや国民は田中を「庶民宰相」「今太閤」ともてはやしました。またの名を「コンピューター付きブルドーザー」と評され、国民には頼もしいリーダーと映ったのです。

 その一方で、多額の政治資金を集め、派閥をつくり、「数は力」という金権政治をまん延させた面もあります。首相就任の前に自民党総裁選に臨み、福田赳夫、大平正芳、三木武夫の3人と総裁の座を争いました。当時、自民党総裁選では票集めのためにものすごい金額のお金が飛び交うと揶揄(やゆ)された時代です。その真偽はともかく、ある国産メーカーの洋酒の空き箱一箱に収まる札束がちょうど1000万円分だったことから、有力政治家を仲間に取り込むために2箱渡した、3箱渡したとの臆測が流れたほどです。

 田中はお金の配り方が絶妙だったといわれています。ある時、こういう趣旨の発言をしています。「お金は渡し方次第で、人の気持ちを引きつけたり、反発させたりすることがある。何か頼まれごとをしたら、相手からきっと謝礼があるだろうと思っている。ところがそのお礼が、自分が期待している金額よりも少ないと、『なんだ、けちだな』と思ってしまう。それを逆手にとって、想定よりもはるかに多い金額を渡せば、びっくり仰天して、むしろ引け目を感じて、何でも言うことを聞くようになる」というわけです。

 苦労人・田中ならではの気配りは、対立する派閥にも協力者を増やし、首相の座をつかむことになったのです。しかし、裏返せばこうした金権政治の手法は、後の田中の運命を大きく左右することになります。

 ■中国との国交回復に取り組む

 田中が首相時代に取り組んだもう一つの大きな仕事は日中国交正常化です。当時、日本は台湾を中華民国として国家として承認していたので、中国とは国交が結ばれていませんでした。ちょうど、米国のニクソン政権が、日本の頭越しに中国との関係改善に走ったこともあり、日本もいつまでも中国を無視していられないだろうと考えたわけです。

 1972年(昭和47年)7月に首相就任後、9月には北京を訪れ、日中国交正常化を実現させました。この段階ではまだ条約を結んでいませんので国交正常化です。田中は「中国は貧しいが、経済が発展して、1人1本ずつタオルを売ってみろ。数億本のタオルが売れるのだぞ」と言ったそうです。億単位の人口がいることは日本経済にとっては非常にプラスになるということを、彼はあの時点で読み取っていたのです。

 この時、日中戦争の日本の責任が問題になりました。日本は最初、「我が国が中国国民に多大なご迷惑をお掛けしたことについて、私はあらためて深い反省の念を表明するものである」と応じました。中国側は「日中戦争でいったいどれだけの人を殺したのだ。それが『ご迷惑』という言葉でいいのか」と激しく反発しました。

 日本はその後、言い方を変え「日本側は過去において、日本国が戦争を通じて、中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と説明しました。キーワード的には「謝罪」を意味する姿勢が盛り込まれたことで、中国は妥協し、「これでいいだろう」ということになりました。

 戦争の損害賠償も大きなテーマになりました。日本は日中戦争で中国に多大な損害を与えたと認めたわけですが、中国側は、損害賠償請求を放棄するといいました。多額の損害賠償を請求したら、日本の国民の大変な負担になるだろう。そういう政治はすべきではないといって、損害賠償請求を放棄したのです。

 ただ、これには前段があります。そもそも日本が台湾の中華民国と日華平和条約を結んだ時に、当時の蒋介石総統が日本に対して損害賠償を請求しないといって損害賠償請求を放棄しているのです。台湾が損害賠償請求を放棄しているのに、中国としてそれを請求するわけにはいかないという事情もあったようです。

 ■反日・尖閣問題の原点

 それ以降、日本は損害賠償の代わりという意味で中国へ積極的に政府開発援助(ODA)をするようになりました。ところが中国側は当たり前のことだといって受け取り、国民に知らせませんでした。そのことが結局、中国の若者たちの反日運動が起こるたびに、「日本は中国に謝罪をしていない」とか、「損害賠償をしていない」とかいう主張につながってくるわけです。

 この後、1978年(昭和53年)に日中平和友好条約が結ばれました。福田内閣の時です。そもそも田中が日中国交正常化を実現した時に、最も反対していたのが台湾との関係が深かった福田派でした。中国と平和条約を結ぶということは、日華平和条約を破棄して断交することです。

 福田は大変つらい立場でしたが、逆にいえば、福田だから実現できたのだと思います。自民党にも左派、右派があって、田中派が左派、福田が右派でした。台湾派の福田が中国との関係改善に踏み出せば、自民党の右派の人たちが反対できなくなるからです。

 田中が首相として中国と議論したテーマには「尖閣諸島問題」もありました。1972年、中国首相の周恩来との首脳会談の際、田中が突然、尖閣諸島の話を持ち出しました。その直前、国連の調査で、尖閣諸島周辺に石油あるいは天然ガスが埋まっているという調査結果が明らかになった途端、台湾や中国が「ここは自分たちの領土だ」と、突然言い始めていたのです。

 この部分の議事録が公開されています。田中が、周恩来に「尖閣諸島についてどう思うか」と聞きました。尖閣諸島は日本のものであると主張したわけではありません。「尖閣諸島についてどう思うか。私のところにいろいろ言ってくる人がいる」という言い方をしました。すると、周は「今回は話したくない」と言いました。「今、これを話すのはよくない。石油が出るから、これが問題なのだ」という言い方をしたのです。

 それに対し田中が何を言ったのか議事録には残っていません。何も言わずに「うん、そうか」と了承したのか、あるいは何か言ったけれど議事録から削除したのかは分かりません。中国はこの経緯を背景に「日本は尖閣諸島問題の棚上げに同意した」と主張しています。しかし、日本側は「棚上げには同意していない」としています。この文脈で見る限り、「棚上げということでお互い暗黙の了解があったじゃないか」といわれると、日本は弱い立場になる可能性があります。

 ■棚上げ議論の曖昧さ

 その関連で言うと、1978年(昭和53年)に日中平和条約が結ばれ、当時の最高実力者・鄧小平が来日した時の事です。突然、尖閣諸島周辺に中国の漁船およそ500隻が押し寄せてきました。日本はこれに対して厳重に抗議。すると、ある日突然、漁船団は一斉に引き上げました。日本はその漁船と中国本土との通信を傍受し、上海近くの中国の海軍基地から無線指示が漁船に出されていたことをキャッチしていました。つまり中国軍は「尖閣諸島は中国のものだ」ということを当時の中国の首脳、あるいは日本にアピールし、圧力をかけたということなのかもしれません。

 一連の騒動の後、鄧小平は記者会見で「尖閣諸島をどうするかは、われわれには知恵がない。いずれ次の世代にこの解決は任せようじゃないか。次の世代にはいい知恵も出てくるだろう」という言い方をしました。日本政府ではなく記者の質問に答えただけですが、「次の世代に任せよう」と発言し、暗に「棚上げ、先送り」を示唆したのです。

 当時の日本の政府は、「いや、棚上げなんかしない。ここは日本の領土だ」と正式に反論していません。ということは、中国は「先送りにしようと言ったことを日本も暗黙に了解していただろう」と捉えたかもしれません。当時の議論の曖昧さが今日に禍根を残したともいえるのです。尖閣諸島問題は1970年代の日中の国交正常化にも遡ることができることを知っておいてほしいと思います。

 日中国交正常化後、日本では「日本列島改造論」をきっかけにした地価高騰に石油ショックが追い打ちをかけ「狂乱物価」が庶民の暮らしを直撃していました。猛烈なインフレに見舞われ、田中の政策に対する国民の支持にも陰りが見え始めていました。

 そして1974年(昭和49年)10月発売の月刊「文芸春秋」11月号に、田中の政治家生命を揺るがすリポートが掲載されました。当時、新進気鋭のルポライターだった立花隆による「田中角栄研究―その金脈と人脈」です。

 おおまかに説明すると、地方のある地域で公共事業などの開発計画がまとまると、計画公表前に田中の周辺の人物が設立した名前だけのペーパーカンパニーが土地を買い占め、その後売り抜けて莫大な資金を獲得していた手法を暴露したものでした。土地を売った側は「なぜこんな土地をほしがる人がいるのだろう」という反応だったようです。しかも土地の買収や転売に関する手法は見事に違法なものではないことも判明しました。

 ■暗転のロッキード事件

 以前から「田中にはなぜか金がある」とは思われていたけれども、大手マスコミはきちんと調べてきませんでした。その後、田中が講演した外国人特派員協会で、外国人記者から同リポートに関する質問が相次ぎました。日本の記者も、外国人記者が田中の資金集めに関する質問をしたというかたちで初めて報道したのです。ここから一挙に金権政治に対する批判が噴き出し、田中は首相辞意を表明。12月には三木内閣が誕生しました。

 さらに首相を辞任してから2年後の1976年(昭和51年)、有名なロッキード事件が発覚します。米ロッキード社が開発した航空機「トライスター」を、各国の大手航空会社が次期主力航空機として採用してくれるようにはたらきかけてもらうため、有力政治家にお金をばらまいたというものです。米上院の外交委員会で、ロッキード社の副会長が証言しました。実は日本、西ドイツ、フランス、イタリアでも政治工作をしていたことがわかりました。対象には政府高官が含まれていました。

 ここから東京地検特捜部が捜査を始めます。その結果、政府高官とは前首相の田中だったということになって、1976年(昭和51年)7月に逮捕しました。容疑は外国為替管理法違反。きちんと届け出ずに5億円を外国の企業から受けとっていたという容疑です。最終的には外国為替管理法違反プラス受託収賄罪という罪で起訴されました。

 関係者を含めた裁判の過程で、ロッキード社が商社の丸紅を経由して、田中の政治力を使い、全日空にトライスター21機を購入させたという経緯が明らかになりました。東京地方裁判所は田中に懲役4年、追徴金5億円の判決を下しました。東京高裁でも有罪判決が出ます。

 ところが、最高裁判決が出ないうちに、1993年(平成5年)12月に田中が亡くなり、控訴棄却となりました。結局、ロッキード事件に関する判決は確定しませんでした。司法の世界にとって、首相を務めた人物を相手に最高裁が判決を下すということは、極めて重大な決断が必要だったかもしれません。

 ■評価分かれる政治家

 田中は脳梗塞の後遺症で半身不随となり、1989年(平成元年)には政界を引退していました。きっかけは1985年(昭和60年)に田中派から竹下登が自らの派閥を結成して飛び出したことに激怒し、酒量が増えていたことによるものです。田中は裁判を終え、再び首相の座に返り咲こうと狙っていたとも言われています。

 こんなエピソードもありました。1983年(昭和58年)に東京地裁が有罪判決を出した2カ月後、総選挙がありました。有罪判決にもかかわらず田中は地盤の新潟3区から立候補しました。22万票という記録的な得票数を獲得してトップ当選しました。

 つまり、都市部の有権者からみれば有罪判決を受けた田中はとんでもない政治家と受け止められていたのですが、地元の有権者は「先生はわれわれのために努力してくれた。ここで恩返しをしよう」と考えたわけです。日本が高度経済成長を経てもなお格差に直面していた地方と都会の有権者の考え方の違いなのでしょうか。日本の戦後政治にはこういう現実があったのです。

 田中角栄という人物は、毀誉褒貶(ほうへん)がありますが、大変な決断力があり、いろんなことを実現しました。とりわけ、地方の人、貧しい人や、本当に開発から取り残されたような人のためにいろいろなことを実行した政治家だったのです。その一方で、金権にまみれているという不評もある人物だということです。政治家としての評価は功罪の両面あったといえるでしょう。

 死去から20年余りが経過したにもかかわらず、関連書籍がベストセラーになるなど根強い人気を誇っています。東日本大震災直後、「こんな時代に田中角栄がいてくれたら」とその決断と行動力を懐かしむ政財界の信奉者がいたことも事実です。今も人々が愛しているのは、国民を説得する「対話力」と公約を実現する「実行力」を兼ね備えた人間・田中に対する安心感や信頼なのかもしれません。=敬称略

 「早野 透 没後20年目の角栄ブーム―ソフトな保守への郷愁

 没後20年を機に、田中角栄・元首相が再び注目を集めている。番記者として田中角栄を20年あまり取材した元ジャーナリストで桜美林大学教授・早野透氏が、その背景を分析する。

 戦後政治を生きた「今太閤」

 2013年12月で、田中角栄元首相の没後20年となる。それを追悼する公式の催しはなかった。しかし、今なお国民から「角さんがいたらなあ」と何かにつけて引き合いに出される人物である。「没後20年の角栄ブーム」というべきか、それは現代日本政治から失われつつあるように見える「ソフトな保守」への哀惜なのかもしれない。田中角栄は「カクエイ」とか「角さん」とか、いまだに名前や愛称で呼ばれることが多く、民衆から親しまれた政治家である。第2次世界大戦後、日本の復興期から成熟期に至るまで、いわゆる戦後政治の時代に生きた。1918年、日本海側にある新潟県の貧しい村で生まれ、高等小学校を出ただけで上京し、下積みの仕事を転々としながら建設会社を立ち上げて成功。戦後になって衆議院議員となり、ついに総理大臣まで駆け上がって「今太閤」と呼ばれた(太閤とは引退した摂政、関白に対する敬称。特に日本の戦国時代、百姓の身分から出世し天下を取り関白に就いた武将、豊臣秀吉のこと指す)。しかし、その間に膨大な政治資金を集めたことで「金権政治家」とも呼ばれ、航空機輸入に絡むロッキード事件で5億円の収賄の疑いで逮捕・起訴された。1・2審で有罪、なお最高裁で争っている間に75歳で死去した。それが1993年のことだ。そんな汚辱の中で葬られた政治家であるにもかかわらず、今なぜ角栄ブームなのか。

 角栄流「ソフト政治」と安倍流「対決型政治」

 直接のきっかけは、いくつかの「角栄本」が続けて出版されたことにある。角栄の愛人の娘、佐藤あつ子が母を描いた『昭(あき)―田中角栄と生きた女』(講談社)、角栄を至近距離で取材した番記者だった拙著『田中角栄 ― 戦後日本の悲しき自画像』(中公新書)、そして角栄の秘書の回顧談『角栄のお庭番 朝賀昭』(講談社)が毎日新聞記者・中澤雄大氏の聞き書きによって出た。ほかにも森省歩『田中角栄に消えた闇ガネ』(講談社)、大下英治『田中角栄秘録』(イースト新書)と続く。角栄死後20年、一つの歴史として観望できるようになって、この清濁両面のある政治家の記憶を、もう一度書き留めておきたいということだったのだろう。だが、それだけではない。おそらくは安倍晋三首相の率いる日本政治への不満や鬱屈、あるいは抵抗感が「今、角さんがいたらなあ」という人々のつぶやきにも似た郷愁になって現れていると思われる。時代背景の違いはあるけれども、角栄流「ソフト政治」と安倍流「対決型政治」は確かに対比されるべきところがある。

 格差是正を目指した経済政策

 まず「経済」面から比較してみよう。「政治とは生活です」――角栄は選挙演説をこのせりふで始めるのを常とした。角栄の思想は、政治主導で経済を動かし、経済が人々の暮らしを潤すという、いわば「経済=生活」である。演説に熱心に耳を傾ける民衆の住む田舎の道路建設や防災対策を具体的に語った。看板政策の「日本列島改造論」は、全国に新幹線や高速道路を張り巡らせて生活基盤を引き上げ、田舎と都会の「格差是正」を図ろうとしたものにほかならない。だがこれは、土地投機を誘発し、1970年代には石油危機に見舞われて挫折することになる。一方で、高度成長の果実を分配すべく、「福祉元年」を宣言して老人医療費無料化、5万円年金といった施策を断行。義務教育の教員給与を一般公務員より25%引き上げるなど大胆な改革を実行した。20年におよぶデフレ経済からの脱却を狙うアベノミクスは、角栄流の施策とは異なって、いわば「経済=企業」の視点に立つ。金融緩和で円安株高に誘導し、大企業は空前の利益をあげている。そこから従業員のベアを実現、景気の好循環を作ろうというものだが、そんなアベノミクスも自分たちには及んでいないと感じる中小企業や地方企業からは、「角さんだったらなあ」といった角栄待望論が聞こえてくる。角さんだったら、もっと下層に日を当ててくれるだろうというのだ。

 最大の功績、日中国交正常化

 次に「外交」面でも角栄と安倍は対象的である。1972年9月、田中角栄は首相就任2カ月で日中国交正常化を手掛け、中国からの戦争賠償放棄を含む難しい交渉を一気呵成にまとめあげた。中国がソ連と対立して孤立感を深める中、建国のリーダー毛沢東、周恩来が健在なうちに日中戦争の後始末を――という角栄の読みが当たった。もし中国が日本に戦争被害の賠償請求をするならば、それは膨大なものになるだろう。毛沢東、周恩来であればこそ「賠償放棄」を国民に説得できた。交渉の最後には毛沢東が出てきて「けんかはすみましたか」と角栄に語りかけ、歴史的和解を演出した。それ以後、上野動物園にパンダが来て「日中友好」は盛り上がった。貿易も順調に増えた。中国は日本から供与されたODAも全額返せるほどに発展した。中国政府は角栄がロッキード事件で逮捕された後も、日中関係修復に貢献した人々を意味する「井戸を掘った人」として礼遇した。

 いま安倍晋三政権にあって、日中関係、加えて日韓関係における、この険悪な状態はいったいどうしたことだろう。尖閣諸島、竹島などの領土問題がトゲになって、両国との首脳会談開催も困難を極める。南京大虐殺はあったのか否か、従軍慰安婦は強制連行だったのかどうかなど、いわゆる歴史認識の問題はこじれるばかりである。安倍首相の歴史修正的な態度に対し、中韓両国は警戒心を解かない。2013年12月、日本の戦犯を合祀する靖国神社に参拝したことは、被侵略国の中国、韓国を決定的に怒らせた。

 角栄だったら、これにどう対応しただろうか。角栄は、陸軍2等兵として中国東北部に応召した経験がある。しかし、そこでの角栄の思い出は上官から理不尽に殴られたことばかりで、戦前への郷愁はない。あの機略縦横の角栄だったら、中国、韓国の立場も深くのみ込んで、もっと的確に対応したのではないか。歴史認識というものは、重箱の隅をつついて相手を責めたり、いじましい自己弁明をするトリビアリズムではない。各国とも角栄世代が去って、歴史の反省・和解のプロセスが継承されていない。どうしてこんなことになるのか。毛沢東、周恩来と渡り合った角栄の政治的大きさへの追憶が人々から湧くゆえんである。

 金権政治だが護憲政治、その多面性こそが角栄流

 「20年後の角栄ブーム」を反映して、このごろ筆者自身、角栄についての講演を求められることが増えた。そこで私が「角栄はキンケンだったけれども、ゴケンでもあった」と説明すると、参加者がオヤと耳を傾ける。角栄は自民党総裁選に立候補したときの「国民への提言―私の十大基本政策」の中で、「日本は軍事大国を目指すべきでなく、憲法9条を対外政策の根幹にする」と盛り込んでいる。日本の戦後平和思想のシンボルである憲法9条(戦争放棄、戦力および交戦権の否認)を守るという角栄の言明が中国側から評価され、国交正常化につながったのである。自民党は立党以来、「憲法改正」、つまり9条改正による軍の復活を党是としてきた。日本国憲法はマッカーサー占領軍の「押しつけ」によるものというのが理由だった。だが角栄は、例えば「自民党結党25年」の報道番組に出て「占領軍の大前提は、日本の弱体化を図ることだった。だが戦後の諸法規は、日本人の英知によってすべて消化され定着をした」と語っている。実態をいえば、自民党は「建前改憲、実質護憲」で、安全保障投資はほどほどにして、それよりも経済発展に資源を集中してきた。「安保費の節約」が角栄にとっての9条のありがたみであり、角栄の平和思想の根底にある。「戦争はもうこりごりだ。もっと平和で豊かな生活をしたい」という戦後の国民思想は、まさにそれだったのである。

 小さくなった政治家の器量、大きくなる角栄の存在感

 安倍首相はそんな憲法9条の効用を「マインドコントロール」と断じ、国際社会の緊張に立ち向かうために9条の解釈変更で集団的自衛権の行使に進もうとしている。護憲派は、これを「専守防衛」から「海外で戦争のできる国」に転換しようとすることであり、9条の無意味化であると批判する。しかし、安倍首相が説く国際情勢の厳しさとは、多分に安倍首相本人の対決的な政治戦略がもたらしたものである。田中角栄だったら、もう少し近隣と気持ちを合わせながらうまくやっているのではないか。戦後70年になるに及んで政治家の器量が小さくなり、大きな妥協ができないのではないか。

 やはり戦争という苛烈な人生体験が人物を鍛えたのか、戦後体制を作った吉田茂に始まって、岸信介、池田勇人、佐藤栄作らは、明らかに今の政治家よりも大物だった。角栄の同世代には福田赳夫、大平正芳、中曽根康弘などの個性的なライバルがいた。角栄はこれらの群像の一人にすぎないともいえる。ただ角栄という人物はとりわけ「情」に厚く、その人生は人間ドラマとして起伏に満ちており、人々から今なお思い出されるということである。今、田中角栄がそこまでの力を発揮できるかどうかはともかくとして、「没後20年の角栄ブーム」は、「日本政治の今」への根底的な国民の違和感の表れと考えるべきなのである。 

 (2014年3月27日 記)

 早野 透  HAYANO Tōru[ 署名記事数: 1 最終更新日: 2014.05.07 ]

 桜美林大学教授。1945年神奈川県生まれ。1968年東京大学法学部卒業。朝日新聞社で政治部次長、編集委員、コラムニストなどを歴任。2010年より現職。主な著書に『政権ラプソディー―安倍・福田・麻生から鳩山へ』(七つ森書館/2010年)、『田中角栄 - 戦後日本の悲しき自画像』(中公新書/2012年)など。


 「田中角栄の昭和 物質追求・高度経済成長の昭和は私たちに何を残したのか、今こそ問う」(保坂正康著、朝日新書、2010年7月)。
 筆者保坂正康氏はノンフィクション作家で「昭和を語り継ぐ会」を主宰する。「昭和史講座」などの昭和史研究で第52回菊池寛賞を受賞した。昭和という時代には32人が首相のポストに就いたが、なかでも戦争中の軍事主導体制下での軍人出身の東条英機首相と、戦後被占領期の外交官出身の吉田茂首相、そして高度成長期の土建屋出身の田中角栄首相の3人が昭和を代表する首相であったという。性格はあまりにも異なっているが、それはそのときどきの日本社会の性格を反映している。著者はこの3人の首相の評伝を書くことを自らに課してきたが、東条英機首相を昭和57年に、吉田茂首相を平成13年に、2010年に本書でようやく最後の田中角栄を書いたという。この本の性格であるが、立花隆氏の田中金脈批判のようなロッキード事件を扱うアップツーデイトな田中角栄告発の書ではない。なにせ1993年に田中角栄がなくなってから、既に18年がたっている。といっても田中角栄という人物の政治学上の客観的な位置づけ、意味づけが出来るほど時間がたっていない。関係者及び自民党がまだ存在するからである。クレームが入るかもしれないからだ。また著者が政治的な話題を追うジャーナリストであり、自身の立場を明確にしえない制約が有るからだ。すなわち本書は角栄礼賛本でもないし、角栄罵倒本でもない。政治を語らずして政局を語るジャーナルやメディアの体質からして、本書に日本近現代政治史を期待するのは多少むりがあるが、政治話題史としては面白い。田中角栄氏の金脈つくりを一貫して追求してきた立花隆氏の労作である「田中角栄研究」、「淋しき越山会の女王」(1974)などの著作を、本書は最大限に採用している。本書の半分くらいは立花隆氏の成果の引用である。その上に立って本書は田中氏には「犠牲者」の側面があると指摘する。時代の寵児は絶対権力者ではなく、あるときは「学歴のない宰相」、「今太閤」という成功者としてもてはやされたが、時代が変わると「成金日本を体現」とかいわれて悪の権現のような評価をされた。しかし田中角栄氏は戦前は軍国主義体制の資材調達業者として、戦後は経済・物質中心主義のブルドーザーとなって華々しい活躍をした。もちろん彼には政治改革の理想はなく、現状を肯定したうえで最大の個人的利益をあげることに邁進した。高度経済成長が終り諸問題が噴出し、戦後日本社会の構造が解体されてゆくと、その責任を負って最初の犠牲者として葬られたという意味で、著者は角栄氏の歴史的意味つけをしている。若干センチメンタルな見解であるが、「当たらずとも遠からじ」という感がする。

 昭和58年(1983)10月12日、東京地裁でロッキード事件の丸紅ルートの第1審判決が言い渡された。その頃の空気を思い出せば、世論(メディアの事だが)は田中弾劾一色に染まっていた。そして裁判が進行するにつれ昭和56年ごろから田中角栄氏について書かれた書物がうなぎのぼりに増加し、累計106冊の角栄本が発行されている。その書物の性格は次の4つに類型化されるという。?評伝あるいはその政治的歩み、?ロッキード事件への批判と告発、田中金脈批判、?田中角栄を軸とした評論、?田中角栄礼賛、或いは復権を期待するものである。田中角栄氏は昭和46年までは政治家として検証される対象ではなかったが、昭和47年、48年は「日本列島改造論」を田中政治のプラスとして評価する書が多かった。しかし田中氏が首相時代に金脈問題で批判された昭和48年(1973)年以来、政権から追われると同時に田中をプラス評価する書は消えていった。昭和48年から59年までの田中を論じた書は、少なくともロッキード事件までは金脈問題は田中の政治的力と評価され、ロッキード事件後は「角栄が鐘で権力を買い拡大してゆくシステムを暴く書であった。ロッキード事件を分水嶺としてかくもメディアの態度は豹変するのである。田中政治は何も変わっていないが、変わったのはメデイアの評価である。ところで本書は?の評伝と政治的歩みの記述を目指すのであるが、事実関係の大半を?のロッキード事件批判と金脈批判の書に負っている。評伝部分は果たして実証性があるのかというと極めて怪しい。田中は兵士から逃げるために仮病を使ったというのは貶めるためのデマかもしれないし、証拠があるのだろうか。このあたりが変にセンチメンタルで、個人的心象の世界で終っている。天皇に対する態度についても見てきたような話を述べているが、証拠のない推測に過ぎない。したがって仮病説や天皇への態度に関する記述は無視しよう。受け売り的に紹介してもどうも迫力がないのである。

 4) 田中内閣の歴史的功罪

 昭和47年7月6日田中内閣が成立した。田中派、大平派、三木派、中曽根派の「四派実力者内閣」であった。官房長官に二階堂、大平は外務大臣、中曽根は通産大臣、三木は無任所大臣、党幹事長は橋本登美三郎、総務会長に鈴木善幸、政調会長に桜井義雄らとなった。この組閣に参加しなかった福田氏との溝が深まり、昭和50年にかけて「角福戦争」という党内抗争が激しくなった。田中内閣の施政方針は外には「中国との国交回復」であり、内には「列島改造」であった。中華人民共和国の周恩来首相が示した国交回復の三条件とは、?中華人民共和国が中国を代表する唯一の政府であること、?台湾は中国の一部であること、?日本台湾条約の破棄であった。日中外交交渉は社会党の佐々木委員長、公明党の竹入委員長、自民党の古井氏と田川氏の訪中により地ならしがなされ、9月29日には「日中共同声明」が出される(首相就任後84日)というスピーディな展開であった。大平外相と姫鵬飛外相会談、田中首相と周恩来首相との首脳会談をへて、毛沢東首席との会談で合意に達した。頑迷な東西冷戦で利益を得た保守勢力の権力構造を打ち破り、近代日本以来の対中国への清算を果たした田中首相の政治力は歴史に名が残ることに違いない。自民党内の官僚出身の政治家や党人派といわれる政治家達と比べても、田中角栄氏の政治手法は大きく抜きん出ていることが分る。慣例にとらわれず機を見て敏に自ら前面に出て采配し具体的な結果を自らの手で確認することである。政治的行動力が正しい意味で桁が違っていたというべきであろうか。

 日本列島改造論は田中氏の内政の柱であったが、国民に好感を持って迎えられ支持率の高まりを生んだ。田中氏は新25万都市を全国のいたるところにつくり、工場をおかず快適な居住空間を実現すると説いた。しかし工場を作らないというところは産業界の反発を受けて引っ込めた。その代りに出現したのは土地価格の上昇を招いた。企業の過剰流動資本は投機の対象として土地に向けられたのだ。昭和47年度の市街地価格は16%(昭和48年度は24%)も高騰した。過剰流動資本を吸い上げる新税には財界はいい顔をしなかった。物価上昇の不満のなかで昭和47年12月の総選挙が戦われ、田中氏の予想に反して自民党単独の議席は271であった。保守系無所属を入れたやっと過半数を維持した。社会党・共産党が躍進する結果となった。なぜ自民党は敗れたのだろうか。列島改造・地価高騰・物価高騰・公害拡散という意識に変わっていたのである。第2次田中内閣は福田氏を入れて一応挙党内閣とした。第2次田中内閣の昭和48年度予算方針は「福祉拡充」、「インフレ抑制」、「円切り上げ防止」の3つの課題であるとした。1ドル360円の時代は終り、アメリカの貿易赤字のため日本は内需拡大に迫られ大型予算となった。それがまたインフレを助長してゆくのである。現実は田中首相の思惑とは別な方向に動いた。田中内閣の支持率も低迷した。内政の低迷に較べて外交には見るべきものがある。昭和48年9月欧州各国とソ連を訪問し、ブレジネフ会談では「第2次世界大戦のときからの未解決の諸問題」という表現で領土問題の存在を確認させた。田中氏外交面では、日中と日ソという2つの懸案課題を軌道に乗せたという成果は隠せない。

 5) ロッキード事件

 昭和48年第4次中東戦争が起き、それを機にオイルショックが発生した。これは英米のイスラエル保護政策にたいするイスラム社会の反発であり、石油の生産を渋ることで揺さぶりを変えてきたのである。日本1国では対処は難しいことであったが、戦後の日本経済繁栄を根本から揺さぶった。いわゆる国家の非常事態であった。田中首相は三木副総裁を中東に派遣し産油国に援助や借款を申し出て石油確保策に邁進した。内閣に国民生活安定緊急対策本部を設置し、石油需給適正化法など2法案を成立させた。国民の間にはパニックがおこり、昭和49年度には卸売り物価指数が17%、消費者物価指数が12%も跳ね上がりまさに「狂乱物価」という現象が生まれた。田中内閣3年目に拡大路線から一気に縮小路線に急降下した。こういう場合田中氏の政治力・経済政策は弱かった。昭和49年7月の七夕参議院選挙では田中の全国遊説の努力も空しく、「金権選挙」、「企業ぐるみ選挙」の評判がたって、改選前の議席を大きく失い寄せ集めてやっと過半数は維持したものの、田中内閣への不信任が示された状況となった。選挙後田中氏への造反が始まって、三木氏や福田氏が内閣から離れた。

 昭和49年10月「文芸春秋11月号」が店頭に並んだ。立花隆氏の論文「田中角栄研究ーその金脈と人脈」、「淋しき越山会の女王」が掲載してあった。忽ちのうちに雑誌は売り切れ、刷り増しされたという。前著は田中氏が「庶民宰相」といわれるが、その実態はおよそ庶民感覚から遊離した巨額な土地ころがしによる蓄財にあり、後著は私生活における1人の女性が田中の影で資金面を動かしているという告発であった。この書は次第に波紋を広げ自民党内には辞任を求める声が大きくなった。それでも田中首相はニュ−ジランド、オーストラリア訪問を終えて内閣改造をおこなった。米国のフォード大統領の日本訪問が終ると政局は一気に田中辞任に動いた。11月26日田中は竹下官房長官を通じて退陣声明をした。田中氏はまだ56歳であり、再起を期すことも出来ると考えたようだ。田中派は衆議院銀河46名、参議院議員が44名、あわせて90名もいる党内の最大派閥である。田中内閣の後任は椎名裁定によりクリーン三木を選んだ。昭和51年2月4日にワシントンから意外なニュースが飛び込んだ。アメリカ上院のチャーチ委員会がニクソン前大統領の製資金問題を調査していたら、ニクソン大統領から田中がトライスラーの売り込みを受けたのではないかという疑いが出され、ロッキード社の賄賂が児玉と丸紅を通じて日本政府高官の手に流れたらしい。その黒い資金は30億円にのぼり、「ピーナッツ領収書」に日本人イトウのサインもあると云う。これを受けて三木首相はロッキード事件の解明に全力を挙げると宣言し、国会に小佐野、全日空の若狭、渡邊、丸紅の桧山、大久保、伊藤らを呼んで証人喚問が行なわれた。

 田中氏は三木が政権を握っている状況では、灰色高官で公表され逮捕されるかもしれないと危機感をもち、とにかく三木を首相から降ろすか、自らの意の通じる人物を首相にするしかないと考えたようだ。ロッキード社のコーチャン側は証言を拒否していたが、日本の検察側はコーチャンの嘱託尋問を希望し、ロスアンゼルス地裁で6月26日に免責する事を認めて嘱託尋問が行なわれた。7月24日日本の最高裁はコーチャンらの嘱託訊問の刑事免責を発表した。丸紅の大久保専務が田中に5億円を渡すことが明らかにされた。こうして昭和51年7月27日東京地検は田中を逮捕した。かっての「今太閤」、「庶民宰相」が「金権政治、利権政治の権化」という忌まわしいレッテルへ落ちた。8月に田中は外為報違反と受託収賄罪で起訴された。昭和52年から58年第1審判決が出るまで6年9ヶ月法廷闘争が続いた。田中は自らの法定闘争を有利に導くために、国会と内閣を自在に操ることが必要である。法務大臣のポストを常に田中派が握ろうとしていたのはそのためであった。昭和51年12月の総選挙は一般に「ロッキード選挙」といわれ自民党内では三木降ろしとなった。田中は新潟選挙区でトップ当選をしたが、自民党は歴史的大敗を喫した。263議席で辛うじて過半数を超した。三木は退仁陣し、福田赳夫内閣が誕生した。福田内閣では田中は安心できないので、大平と組んで福田に一定の制約を与えるということが田中の戦略であった。

 6) 闇将軍と田中政治の終焉

 昭和50年代の半ばごろには、田中角栄は「闇将軍」とか「キングメーカー」と評された。田中派がどう動くかが政局を支配し、あたかも田中派に決定権があるような状況での総裁選挙が繰り返された。昭和53年12月大平は田中派の大量の票をえて福田を打ち破った。大平の急死を受けてそれ以降の鈴木善幸、中曽根康弘内閣はいずれも田中の票で成立した内閣であった。自民党のリベラリスト政治家宇都宮徳馬氏は田中を評してこういっている。「ロッキード事件は民間航空会社の機種選定に係る汚職という風に言われているが、本当は日本と韓国への戦闘機売り込み問題であり、それは出せないため首相を辞任していた田中氏を狙って周辺の航空機問題でお茶を濁したに過ぎない。そういう意味で田中氏は本当の権力の中枢には居なかったのである。官僚や官僚派歴代首相は決してこの程度のことで、罪になる事はありえない。」 権力の中枢を逮捕することは権力の崩壊につながるので権力者は決して行なわない。田中は権力の中枢にはいなかったという事を言っているのだ。田中氏はスケープゴートに過ぎないという見解もいわれている。評論家田原聡一郎氏は「アメリカの虎の尾を踏んだ田中内閣」という表現をしている。石油ショックのときにアメリカの面前で石油確保のためにアラブ支持政策を打ち出した田中内閣に対するアメリカのしっぺ返しがあったという見解がある。歴代の政治指導者はロッキード社から金を受け取ろうが、CIAから金を受け取ろうが、とにかく軍事兵器や戦闘機の選定に当たってはこれまで多くの金が動いてきた。それも兵器ではなく民間飛行機程度で田中を狙うとはなぜか。それは田中憎しに燃える佐藤・福田らの官僚派政治家のアメリカと組んだ巻き返しではなかろうか。昭和58年10月東京地裁で判決が出た。外為法違反と受託収賄罪で懲役4年、追徴金5億円であった。田中派は直ちに控訴した。

 田中氏は昭和59年に入っても徹底して田中派の拡大と自らの政治的権限の増大に向けて努力していた。田中派は既に130人になっていた。田中の政治信条は「表決政治は1票たらなくても落選は落選」というように数の力がすべてであった。昭和59年密かに官僚派の宮沢喜一が総裁選出馬の了解を取り付けに訪れているし、阿部晋太郎は竹下に総裁選を打診しに来た。田中氏は自分の有力な後継者を作らずに、自らの影響力で睨みを利かしていたことが、若手らに自分が出る機会がないという不満を募らせていた。中曽根の後を狙うニューリーダーとして竹下に次第に声望が集まってきた。昭和60年竹下は「創政会」を旗揚げしたが、田中からはまだ早いという妨害を受けた。竹下は一応田中に従う様子を見せ、派中派という分派活動を既成事実化していった。その頃から田中氏の苛立ちと不安が募り酒量が増えたという。ついに2月田中は脳卒中で倒れた。田中の家族(真紀子氏)の希望によって田中派との結合関係は切れてゆき、昭和61年の総選挙で自民党は304議席を獲得する大勝利をおさめ、田中も断トツ一位で当選したが、次第にその存在は党内では薄れていった。昭和62年竹下派が「経世会」として旗揚げをし、ここに実質的に田中派は消滅した。田中派に殉じる二階堂派は15人程度で、竹下の経世会は113人の大きな派閥となった。田中派は事実上竹下派に乗っ取られた。経世会の結成から3週間後東京高裁の判決は控訴棄却であった。最高裁で争うことになった。同年11月竹下登が首相となった。田中角栄氏は平成元年10月政界引退を発表した。平成4年8月田中氏は日中国交回復20周年記念行事で北京を訪れた。平成5年12月75歳の田中は体調を崩して入院し帰らぬ人となった。

(私論.私見)
 保坂正康氏の政論は、れんだいこのそれとピントが合わない。

 「地理講義」の2014年01月18日付けブログ「129.第2次全国総合開発計画  田中角栄「日本列島改造論」」を検証する。
 田中角栄の政治(総理大臣1972~74年)

 新全総は1969~1977年、佐藤栄作と田中角栄の自民党安定内閣であった。田中角栄は佐藤総理の信頼を得て的支援を得て、1968年に自由民主党幹事長に就任した。当時は高度経済成長のピーク時であり、田中角栄も国民多数も日本の高度経済成長が永遠に続き、新全総がすべて実現するかのような錯覚に陥っていた。角栄ブーム、角栄総理待望論が日本をおおっていた。田中角栄は1972年6月に「日本列島改造論」を出版し、新全総の具体的内容を披瀝した。「日本列島・・・」のゴーストライターは誰かは別として、田中角栄の考えそのものが第2次全国総合開発計画である。1972年7月田中角栄は総理大臣に就任した。
就任当初から、開発用地を計画段階で買い占め、計画公表後の値上がりで大きな益を得た。しかし、土地買い占めは田中角栄だけではなく、明治維新以来、日本の政治家多数が行ってきたことである。
(私論.私見)
 この赤字の一文は余計な記述である。文章全体が検証抜きの駄文であるからである。
 高速道路

 東名高速道路以来、日本の高速道路は有料であり、その収入で次の高速道路を建設した。この有料道路の手法は田中角栄発案といわれる。新幹線(鉄道)は旅客を輸送し、高速道路は大型バス・トラックによる旅客・貨物の輸送が中心になる。本州と四国の間には、鉄道・トラックの通れる巨大架橋が必要になる。高速道路は地価の安い山岳地帯を通り、大都市からの連絡道路とはインターチェンジで結ばれる。
通過予定の山岳地は建設ルート計画公表前にすでに大小のゼネコン・不動産業者に買い占められ、その陰には田中角栄か角栄直系の政治家がいた。地価の上昇による利益、ゼネコンへの工事配分の見返りとしての政治献金が得られ、角栄型(土建型)政治が政治の理想と見られた。田中角栄型の土建屋政治によって巨利を得たい者、巨利を得た者が、日本列島を鉄とコンクリートでおおい尽くす政治に賛同した。
(私論.私見)
 この赤字の一文も余計な記述である。その理由は同様に文章全体が検証抜きの駄文であるからである。
 しかし、鉄とコンクリートの寿命は50年である。50年を経過した高速道路は、大金をかけて手直しするか、新路線に切り替えるか、いずれかである。たとえば東日本高速道路では平均年数が40年以上の部分が20%を越え、改修を急がないと、通行不能になる。高速道路の新規建設が難しくなったが、既設の高速道路の老朽化対策工事と地震対策工事が急増し、ゼネコンは高速道路で生き残ることができた。また、地方高速道路を片側1車線の変則暫定高速道路から、片道2~4車線の高速滝路に拡幅して安全性を向上させる大工事がある。一時は政府・地方自治体の財政難から、ゼネコンは公共事業削減のしわ寄せ受けたが、高速道路の老朽化により、永遠に存続できる体制になった。
 全国新幹線網計画

 田中角栄が「日本列島改造論」(1972年)を出した当時の新幹線は東京~岡山間であった。他の路線建設は選挙地盤を通したい政治家の争いが激しく、建設順番を決めることさえできなかった。田中角栄は新幹線の路線全部を建設することを提唱した。大都市間の路線は当然だが、地方の過疎地域に新幹線を通せば、人口を引き寄せることができると考えた。これは地方政治家の選挙地盤に新幹線を通すことを考慮するとともに、角栄の地盤新潟に新幹線を通す正当性を述べたものであった。新幹線は田中角栄が総理大臣の時には新潟まで、鈴木善幸総理大臣の時には盛岡まで開通した。山形や秋田には、建設コスト削減のため、在来線を活用する特別仕様の新幹線用列車が開発された。また、大宮~上野、上野~東京の建設工事が遅れたので、とりあえず新潟~大宮間(1982年)、盛岡~大宮間(1982年)が開通した。大宮~上野には、新幹線・在来線リレー列車が運行された。大宮~上野の開通は1991年である。日本政府の財政再建を語る場合は、新幹線の建設休止が政治的公約となった。しかし、景気回復の公共事業を増やす場合は、新幹線の建設再開が政治的公約となった。新幹線工事は中断しつつも、全国新幹線網ができつつある。
 むつ小川原(大規模工業基地)

 青森県東部では明治維新による失業士族が農地を開墾、自活をめざしていた。夏の寒冷北東風ヤマセが吹くと、米の収穫量は半減し、自家用米の確保さえできなかった。寒さに強いジャガイモを栽培しても、日本中どこでも栽培可能なジャガイモは価格が安く、農家の現金収入源とはならなかった。1959年、農林省が多額の補助金を出すのでビート栽培(さとう大根)に転換する「国内甘味資源自給力総合対策」を計画した。日本で砂糖をさとうきび(鹿児島)とビート(青森・北海道)で自給100%として、海外の砂糖輸出攻勢に対抗するための政策であった。1962年にはビートの栽培面積が4,000kaになった。しかし、ビート栽培が軌道に乗り始めた1964年、突然砂糖の輸入が自由化された。ビートは値下がりし、フジ製糖工場は赤字で閉鎖された。当時の池田首相が、砂糖業界の利権を握る藤山愛一郎を追い落とすための政治抗争の一つであった。青森県のビート栽培農家は水田を潰していたので、米作に戻ることができず、砂糖輸入自由化の打撃は大きかった。下北地方の豊富な砂鉄を集める[砂鉄原料株式会社]と砂鉄から特殊鋼を製造する[むつ製鉄株式会社]が1963年にむつ市につくられた。しかし、同年に八幡製鉄所が木更津工場で安価な輸入原料を使う特殊鋼の製造を開始したので、むつの特殊鋼は販路を失い、1965年に閉鎖された。
 
 新全総(1969~1985年)は計画当初は、高度経済成長が続いて、鉄鋼・石油化学コンビナートが不足すると考えられた。戦後の農業開拓の行きづまった青森県東部(むつ・小川原地区)に、巨大なアルミ・鉄鋼・石油化学コンビナートを建設する計画が作られた。農地・原野の買収が進められた。ビート、砂鉄で夢を打ち砕かれていた開拓農家は出稼ぎに頼っていたが、新しい工場で働くことができることを喜んだ。しかし、第1次石油危機(1973年)で、国内外の鉄鋼・アルミ・電力・石油などの需要減少が明白になると、むつ・小川原の大規模工業基地に進出を予定していた企業は、すべて計画の凍結あるいは白紙撤回をした。農民から土地を買い占めた不動産業者の多くは、計画の詳細を知る政治家の代理人であり、六カ所村などで5,000haを買い上げた。総まとめは三井不動産であった。開発計画中止になれば、安く買いあさった土地を高値転売できず、三井不動産には大きな痛手であった。なお、三井不動産以外にも青森県の買い上げていた土地が東通り村に5,000haあった。
 1982年、電気事業連合会から青森県知事北村正哉(1979~1994年)に、むつ小川原地域に原子力3事業の施設建設の打診があった。まだ土地を売っていない農家の土地も買い集め、総額1兆円で原子燃料サイクル3施設の建設計画が、すでに原子力関係者では具体化していた。ウラン濃縮、プルトニウム再処理、低レベル放射性廃棄物貯蔵の、巨大施設であった。1984年、電事連から北村知事に申し入れがあった時には、青森県内の政治経済有力者への下工作は終わっていた。1985年には各市町村で了解され、建設工事が始まった。しかし、原子燃料サイクル3施設の建設は技術的に極めて困難であり、日本各地の原発から送られる放射性廃棄物の処理が追いつかず、未処理の放射性廃棄物が貯まる一方である。特にプルトニウムは水爆の原料であり、六カ所村の再処理施設は平和利用施設として国際的合意の上に成り立っている。しかし、六カ所村の再処理工場の建設が進まず、また、プルトニウム型原発もんじゅ(福井県)は1995年の火災事故から再稼働できず、六カ所村には数千トンのプルトニウムが残ったままである。水爆2000発分のプルトニウムである。

 2011年の東日本大震災で東京電力福島第1原子力発電所がメルトダウンをしてからは、全国の原発が停止状態にあって六カ所村の各施設の負担は軽減されている。各地の原発が再稼働した場合、六カ所村の施設建設の遅れがネックとなり、原発の再停止の事態も考えらる。
(私論.私見)
 この赤字の一文は中曽根政権時代の動きにして政策である。国債発行が福田蔵相裁断であったにも拘わらず角栄蔵相時の政策と誤認せしめる記述同様の、臭い記述である。
 新全総は失敗

 1970年、青森県庁に新設された陸奥湾小川原湖開発室(現むつ小川原開発・エネルギー対策室)の参事に就任した千代島辰夫元出納長(79)は「当時、経済問題に詳しかった平野善治郎前副知事のところへ就任あいさつに行ったら、『もう臨海型重工業の時代ではなく、内陸型の先端技術の方向だ』と言われハッとした。確かに流れはそうだった」と悔やむ。石油ショック以前に開発の前提は既に揺らいでいた。にもかかわらず、工業需要予測を国や経団連に頼り切って疑わなかった青森県は、経済情勢の変化を見逃してしまったのである。

 新全総が発表されてから30年。当時、経済企画庁調査官として新全総をまとめ、後に国土事務次官や国土審議会会長などの要職を務めた下河辺淳・東京海上研究所理事長(76)は、国の産業政策の見通しの甘さを認める。「当時は通産省や産業構造審議会の産業政策がめちゃくちゃに元気だった。結果としてみると、石油産業の立地が困難となり、失敗という烙印を押されたが、その限りでは見通しの失敗かも知れない」。新全総は1969年に始まった。新幹線と高速道路の建設開始、TV・電話の全国網の完成により、全国ネットワークのプロジェクトにはめどがついた。
しかし第1次石油危機の影響で、新幹線と高速道路の計画が一時中断したまま、1977年に終了した。
(私論.私見)
 この赤字の一文につき、それを是認しているのか批判しているのか分からない形で記述している。オカシナ書き手である。








(私論.私見)