『昭和時代 第2部 第24回 日本列島改造論』(読売新聞)
田中角栄首相が就任前に内政の重要な課題として揚げた『日本列島改造論』。産業と人口を地方分散させ、過疎と過密を同時に解消する。田中宿願の大構想だった。しかし、これによる列島改造ブームは、地価高騰から物価高を引き起こし、田中への称賛は、やがて怨嗟の声に変わっていく。
【日本列島改造論の主な内容】
一、工業の再配置を全国的に進める。過密する都市部から工業を追い出し、地方に移転・新設させる
一、全国に9000㌔・㍍以上のの新幹線、1万㌔・㍍の高速道路などを整備し、「1日行動圏」を拡大する
一、人口25万人規模の中核都市を各地につくる
一、単年度の財政均衡主義を脱し、長期的視野に立った積極財政と、禁止・誘導税制を活用する
一、年率10%の経済成長が続くことを想定
国づくり 壮大なビジョン
田中通産省の『日本列島改造論』が出版されたのは、72(昭和47)年6月20日だった。「ポスト佐藤」を選ぶ自民党総裁選を15日後に控えていた。そもそも出版計画は、前年の10月に浮上した。日米繊維交渉を決着させたばかりの田中は、秘書官の小長啓一(のち通産事務次官)に、「自分は、国会議員になってから国土開発に携わってきた。通産省として工業再配置も勉強したので全体系を学んだことになる。来年は、衆院勤続25年で永年表彰されることもあり、この際、全体をまとめてみたい」と語った。
小長は、省内の若手官僚から、後に堺屋太一のペンネームで作家となる池口小太郎ら数人を選んだ。これに田中の政務秘書早坂茂三と日刊工業新聞の記者数人が合流して、10人ほどの執筆陣を決めた。大臣室で田中は、道路、鉄道、河川、住宅、農政などについて、自らの構想を滔々と喋った。1回数時間、3~4回、会合が重ねられた。日刊工業新聞は72年1月10日から「新しい国づくり 日本列島改造論」の連載をスタートさせた。小長と早坂を中心に、単行本『日本列島改造論』の分担執筆も始まった。……
小長は、「前文と結びは、田中さんが書いたものに早坂さんが手を入れたが、本文は、『俺の話に沿って書いてくれれば文句は言わない』と私たちに任された」と、急ピッチの作業を振り返る。前文の「序にかえて」は、田中の主張を次のように簡潔に表している。〈工業の全国的な再配置と知識集約化、全国新幹線と高速自動車道の建設、情報通信網のネットワークの形成などをテコにして、都市と農村、表日本と裏日本の格差をは必なくすことができる〉
東京や大阪などの大都市近郊から工場を追い出し、農村地域に工業基地を移すことで「農工一体化」を推進、日本の産業地図を塗り替える―― こうした構想は、通産省の産業構造審議会が71年5月に答申した「70年代の通商産業政策のあり方」を色濃く反映していた。注目されたのは、工業再配置で育成する「人口25万人規模」の内陸型工業都市の候補地として挙げられた。横手(秋田県)、三条・長岡(新潟県)、都城(宮崎県)などの具体名だった。小長は「地名は立地指導課長だった経験を生かして私が選んだ。筆が走った」と明かす。『日本列島改造論』は、半年で80万部を超えるベストセラーとなった。
前提の「10%成長」 崩壊
『日本列島改造論』には、〝原本〟があった。68(昭和43)年5月、田中が会長を務める自民党都市政策調査会が公表した「都市政策大綱」がある。田中は、佐藤政権下の「黒い霧事件」によって幹事長ポストを離れると、67年3月にに同調査会会長という名称を予定していたが、田中の強い意向で変更された。「都市政策」が政治のキーワードになっていた。池田、佐藤両内閣の高度成長路線は、農村から都市へ激しい人口流入を引き起こし、自民党の選挙基盤を縮小させた。逆に、人口が急増した都市では住宅、生活環境が悪化し、住民の自民党政権に対する不満は募るばかりだった。この結果、自民党の衆院選得票率は低下傾向をたどり、「保守の危機」が囁かれる。とくに、67(昭和42)年4月、社会、共産両党推薦の美濃部亮吉が、自民党の推薦候補を破って東京都知事に当選したことは、自民党に衝撃を与えた。田中は、『中央公論』同年6月号に、「自民当の反省」と題した論文を寄せ、都知事選の敗因を、東京の過密化に対応した政策の実施を怠ったためと分析し、〈東京における自民党の敗北が、いずれ全国的に拡大される可能性がある〉と指摘した。……
都市政策対抗づくりは、田中の秘書の麓邦明と早坂が中心となり、経済企画庁幹部の下川辺淳(のち国土事務次官)をはじめ100人以上の官僚たちが参加。自治省にいた武村正義(のち蔵相・「新党さきがけ」初代代表)は、有力メンバーの一人として執筆にあたった。
【証言】
武村正義:
自治省勤務時代に1年半ほど西ドイツに留学し、その成果を1967年、『日本列島における均衡発展の可能性』と題する論文にして発表しました。それが麓国明秘書らの目にとまり、田中角栄さんの前で内容を説明することになったのです。角栄さんは話を聞くと、「ヨシッ、明日からうちに来てくれ」と言い、上司の宮沢弘官房長(のち法相)も「事務連絡に出かけていることにするから行ってくれ」と指示されました。結局、翌日から半年ほど、田中事務所で麓さん、早坂さんと3人で机を並べて働きました。都市政策調査会で党の要人が毎日、顔をそろえるなか、日本中の官僚や学者も総動員され、にぎやかに議論しました。
私も執筆を手伝いました。角栄さんは、たまに我々の部屋に顔を出しましたが、直接の指示はありませんでした。その後、埼玉県の職員に出向していたこともあって、日本列島改造論に執筆には携わっていません。大きな意味で大綱と考え方は変わらないですが、工業政策の割合が大きく、雰囲気も中身も、通産省的な発想かもしれないですね。
大綱は、ただの都市政策にとどまらず、「日本列島そのものを都市政策の対象として捉え、大都市改造と地方開発を同時に進めることにより、高能率で、均衡の採れた国土を建設する」ことを目標に揚げた。具体的には、高層化による都市再開発のほか、地方開発にも力点を置き、「旭川と鹿児島を結ぶ全長4100㌔の新幹線」の建設などを明記していた。大綱の方針は、「新全国総合開発計画」に盛り込まれた。新聞各紙は、都市政策大綱に盛られた「公益優先」の理念などを高く評価した。神戸学院大法学部の下村太一講師は、「田中は都市政策大綱を取りまとめることで、高度成長に伴う社会変動に対応できる能力と感受性をもった新しい政治家として、自らを演出することに成功した」と指摘する。
内閣発足後間もない72(昭和47)年8月7日、田中は「日本列島改造問題懇親会」の初会合を開いた。さらに、翌月の訪中で日中国交正常化に成功すると、その勢い乗って11月、衆院解散を断行した。選挙戦で田中は列島改造論を強く訴えた。
これに対し野党は、「物価上昇と公害ばらまきの改造論」と厳しく批判した。12月10日投票の結果、自民党の議席は、271(追加公認を含め284)にとどまり、55年の結党以来、最低を記録した。
『日本列島改造論』で名指しされた地域を中心に、将来の値上がりを見込んだ土地の買い占めが起こり、地価が暴騰し始めていた。もともと、71(昭和46)年のドル・ショック後の金融緩和などで企業の手持ち資金がだぶつき、不動産投機が起こりやすい背景もあった。それでも、田中は、73(昭和48)年度の一般会計予算で、当初ベースで前年度を24.6%も上回る大型予算を組む。高速道路や新幹線整備など公共事業関係費が膨らみ、まさしく「列島改造予算」と呼ばれた。これが、物価上昇に拍車をかけた。73年4月の地価公示では、全国の主要都市の地価は、前年比で30.9%も上昇する。地価が上昇すれば、工場移転コストも増す。田中の目玉施策であった、工業再配置を促進する「工業追い出し税」の創設は、自民党支持基盤である大企業などの反対を受けて断念に追い込まれた。73年10月の第1次石油危機で深刻なインフラは決定的になる。列島改造論は、自ら想定した年率10%成長の終焉とともに、その命脈が尽きていく。
田中政治の集大成
田中にとって、国土開発はライフワークだった。「土建屋でも国会議員になれば立法権を行使できる」と語ったように、田中は、新憲法下の国会を最大限活用し、自ら提案者となって議員立法33件を成立させた(早坂茂三『政治家・田中角栄』)。また、政府提案などでも、、官僚をうまく使いこなす〝政治主導〟の下、80件を超える立法を進めた。
議員立法で最初に公布されたのは、建築士を国家資格と定める建築士法だった。田中自から同法に基づき、1級建築士の資格を得た。国土総合開発法は、政府提案だが、田中の構想を核にしていた。法の目的にある「産業立地の適正化」には、列島改造論でも唱える「工業再配置」の概念が早くものぞいている。また、電気の供給力を高める電源開発促進法も、田中が提案者だ。当時、連合国軍総司令部(GHQ)は、再軍備につながる恐れのある産業復興には極めて消極的だった。田中は公職追放をちらつかされながらも踏ん張った。これが佐久間ダムや田子倉ダムなど、数々の水力発電所の建設につながった。
田中は 、道路建設にも力を注いだ。議員提案した道路法は、国道を1級と2級に分け、従来の府県道を2級国道に引き上げて総距離を約2倍に増やし、国費による道路整備臨時措置法は、ガソリン税を道路財源に充て、道路整備5か年計画を策定するというものだった。揮発油税の目的税化には、大蔵省などが「政府の予算編成権を侵す」と反対した。田中は、同法を成立させた後、〈理屈ばかりこね回すことを排して、やらなければならないことをやる、という結論になったことは、大きな進歩〉と記している。目的を素早く達するためには、法改正はもとより、法解釈に奇策を弄することも、田中は辞さなかった。
列島改造論は、国土開発にかけた「田中政治」の集大成だった。田中退陣後、実現されたプロジェクトは少なくない。だが一方で、田中が推し進めた、道路公団などの公団方式や、道路特定財源などの仕組みは、ムダな道路づくりや利権構造の温床として批判の的になった。道路関係4公団は05年に民営化され、道路特定財源は09年度から一般財源化されるなど、見直しが進められている。
福田に後事を託す
田中にとっての痛恨事は、73年11月23日、田中の懐刀として積極財政を推進した蔵相・愛知揆一が急死したことだ。愛知の臨終に立ち会った田中は、大蔵事務次官の相沢英之と目白の田中邸に向かった。相沢が、愛知の後任に、蔵相経験者の水田三喜男らの名前を挙げても、田中は首をひねった。田中が出した名前は、総裁の座を争った、安定成長論者の福田赳夫だった。田中は、地元の群馬にいた福田を急遽、呼び出した。パトカーに先導されて首相官邸に入った福田は、田中から蔵相就任を求められると、「経済の運営は乗馬と同じで、1本の手綱は物価、もう1本は 国際収支だ。今は手綱がめちゃくちゃになってきた。こうなった根源は何だ」と聞いた。田中が「石油ショックだ」と答えると、福田は、「あなたが掲げた日本列島改造論で物価は冒頭に次ぐ暴騰。国際収支が未曾有の大混乱に陥っている。この超高度成長的な考え方を改めない限り、事態の修復はできない」と反論した。田中は一晩考えた末に改造論の撤回を約束して、「経済問題については一切、新蔵相に任せたい」と告げた。看板政策の撤回という無念を抑えつつ、政敵でも力を認めて後事を託す、思い切りのいい決断だった。秘書官の小長は、その時の田中が「当面、断念するが、列島改造の考え方は今後も残るんだ」と言いながら、意外と淡々としていたことを覚えている。福田は25日。蔵相就任会見で、「列島改造は首相の個人的見解であり、私論。政府の構想として決まったものではない」と断言し、列島改造論の終わりを宣言した。