田中角栄の行政改革論

 (最新見直し2008.3.18日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、田中角栄の行政改革論を一括しておくことにする。「田中角栄語録」で政治論、官僚論をも述べているので、これをも組み込むことにする。

 2008.3.19日 れんだいこ拝


【角栄の行政改革論】
 角栄の行政改革論は次の通り。「その1、官僚論」として次のように述べている。

 角栄は、官僚の優秀さを認めたうえでその限界も知り、官僚に使われるのではなく、使いきろうとした。次のように述べている。

 概要「大蔵省の役人というのはそりゃ優秀です。正しいデータさえ入れればちゃんとした結論を出してくる」(1981年「月刊ペン」)
 「官僚には、もとより優秀な人材が多い。こちら(政治家)がうまく理解させられれば、相当の仕事をしてくれる。理解してもらうには、三つの要素がある。まず、こちらのほうに相手(官僚)を説得させるだけの能力があるか否か。次に、仕事の話にこちらの野心、私心というものがないか否か。もう一つは、彼ら(官僚)が納得するまで、徹底的な議論をやる勇気と努力、能力があるか否かだ。これが出来る政治家なら、官僚たちは理解し、ついてきてくれる」。

 1964年、44才で大蔵大臣に就任した角栄は、時間、局長以下、大蔵省の幹部を前に次のような挨拶をしている。

 「私はご承知のようにし、小学校の高等部しか出ていない。しかし、世の中の経験は、多少積んでいるつもりである。まぁ、諸君は財政、金融の政治家だ。これからは、もし私に会いたいときは、いちいち上司を通して来ることは無い。こう思う、これはおかしい、これを考えてくれなんてことがあれば、遠慮せずに来てくれ。そして、国家有事の現在、諸君は思い切って仕事をしてくれ。これは局長も課長も同じだッ。私はできることはやる。できないことはやらない。事の成否はともかく、結果の責任は、全て大臣であるこの田中がとる。今日から、大臣室のドアは取っぱずす!以上」。

 マックスウェーバーの言に、「フランスやアメリカの腐敗した官吏制度、イギリスの非常に侮辱されている夜警統治、部分的には腐敗した官吏制度をもって民主的に統治されている国は、高度に道徳的な官僚制よりはるかに大きな成功をおさめてきた」というのがあるが、まさにマックスウェーバーの言を地で行ったのが角栄政治であった。
 
 次のように評されている。

 「田中は、官僚をつかった。が官僚の言いなりになどなりっこない。優秀な官僚の知識を利用するが、最終的には自分が上のほうから政治的に判断する。それが、本来の政治家の在り方だと思う。今でこそ政治は官僚指導と言われているが、田中の時代は、短い期間ではあったが政治家主導でなしえた」。
 「官僚の使い方がうまかった。田中は、官僚の話を聞くのがうまかった。それも、事務次官や局長など上のクラスの人だけではない。必要とあらば、例え一課長とも気軽に会った。官僚は、自分の担当については頭で整理できている。その考えを上手に聞き出し、時には政策などに活かした。その意味で、官僚の使い方がうまかった」。

 角栄の秘書の一人早坂茂三氏は、「宝石・平成元年12月号」の「」の中で次のように評している。

 「彼は役人をよく知っていた。自分が組む相手がどういう属性をもっているか。このメリット、デメリットは何か。役人をどう使っていけば、給料の10倍も20倍も働くか。どうすれば裏切らないか。これを良く知っていれば、役人の力をフルに引き出すことが出来る。これが、頭領の器というものでしょう。田中は、『役人は生きたコンピューターた』と、よく僕にいつていた。『役人にはハッキリした方向を示して、ガイドラインをせいかくに与えてることだ。インプットする情報、数字、ファクトが間違っていなければ、コンピューターは正確に機能して、何万人分もの能力を一瞬のうちにやってのける』と」。

 大蔵大臣就任早々の頃の大蔵大臣室での、田中角栄と藤原弘達の会話。
 「角さん、大蔵省というところは、一高−東大−大蔵省人脈といってね、大体頭のいい奴が集まるところなんだ。福田なんてその最たるもんだな。そういうところに、あんたのような西山町の馬喰(ばくろう)のせがれで、尋常高等小学校出が大臣になって、上から抑えようったって、到底まともにいうことはきかんぜ。どうやってやるつもりかね」。田中はニヤッと笑って、平然と答えた。「なに、たいしたことはないさ」。「どうして?」。「役人という奴は、要するに、エライ地位につきたい動物なんだ。自分のことを考えんで、日本全体のことを考えているやつなんて、本省の課長までさ。部長から局長、次官になるにつれて、大臣から何か言われて、それに反対するのは出てこれないね。だから、ちょっとお小遣いをやるとか、ちょっと出世させてやる、いいとこ連れて行ってやる。選挙に出たいといったら世話してやる---。そんな具合に、面倒見て大事にしてやれば、ちゃんと従うもんさ。角栄流の人間操縦術というのは、大蔵大臣になったって、同じだよ」。大蔵官僚の監視の中で、そのようなことを平然というものだから、さすがの私もいささか驚いてしまった---(角栄、もうええかげんにせんかい)。

 つまり、官僚の能力を評価した上で、賢く使うのが政治家の役目としていることになる。

 「その2、政策論」として次のように述べている。早坂茂三「田中角栄回顧録」その他を参照する。

 自民党(与党)や大臣や次官、局長など、上で政策を決め、各省庁にそれをやらせる。それでもし省庁で反対だというなら、対案を出させて、上で改めて取捨選択をするようにする。このようにすれば、役人の数は今の十分の一で済む。そして、役所の明確な責任体制ができる。そのためには、公務員の総定員を今の半分に減らして、逆に局長を今の三倍にも五倍にも増やすのがいいんだ。

 現状はどうかというと、上のほうでは、大臣は一年で代わるし、次官、局長も一年そこそこ。ところが“窓口天皇”は何年もそこにいる。いちばん権限の小さいものを役所の窓口に配し、しかも人を変えない。官庁では、実際に仕事をやっているのは下のほうの連中だ。大臣はポカをやると国会で首を切られるだけで、仕事のうえの実際的な責任を負う体制になっていない。

 毎年8月31日に、財政法によって次年度予算の概算要求書を出すときにも、各省庁の下の連中が徹夜して仕事をやり、それが大蔵省主計局の総務課長のところでまとめられ、次に主計局次長まで上がってくるときは、もう大半の予算が固まっている。だから予算の本番になって、自民党(与党)があれこれ要求しても、もう「認められません」と断ってくる。大臣はその断り役をさせられているにすぎない。これでは大臣は責任のとりようがない。

 役所の責任体制を確立するには、次官や局長、課長は少なくとも三年ぐらいはひとつの仕事をやらなければだめだ。ところが、次官や局長や課長は、一年そこそこしかいないから、その課の仕事を全部は覚えきれず、実際の権限を持ち、仕事の切盛りをしているのは万年係長の“窓口天皇”なんだ。

 だから、予算編成の仕事も、下の連中がすることになる。それで、非能率で、責任の所在が不明の体制になっているのだ。これにメスを入れなければ、役所の欠陥はいつまでたっても直らんよ。

 戦後、アメリカ占領軍が、民主化、自由化の名のもとに今の制度に変えたわけだ。なんでも下からすることになった。それで行政機構が、大きくなりすぎた。行政機構が肥大化しすぎると、国民の方がそれを背負いきれない。そこで行政改革の必要が出てきたわけだ。


 つまり、役所の非能率、無責任体制にメスを入れようとしていることが分かる。  

 「その3、行政機構論」として次のように述べている。早坂茂三「田中角栄回顧録」その他を参照する。

 

 現在のわが国くらいに(民間レベルが高く)なれば、国防と治安と教育と、国家政策の基本方針だけは国に税金でやってもらい、あとは全部、民間でやることだよ。官僚機構がすべてを取り仕切るなんていうのは、社会主義化発展途上国の考え方だ。

 国家予算でも、一般会計の仕事をできるだけ財政投融資にもっていく。財政投融資の仕事はなるべく民間に譲る。銀行行政の仕事は証券行政に移行させ、最後には税制を上手に運用していく。民間企業活動の誘導は税制の運用で行ない,直接規制はできるだけ政府はやらない。このようにしないと、行政機構の権限の縮小ということはやれないよ。これが先進国の理想の姿なんだ。そこまでもっていく行政機構の改革は、最低でも十年はかかるとみなけりゃならんだろうが、要は民間の活力、能力を十分に認識して、すべての面で民間を対象にしていくということだ。


 つまり、「国防と治安と教育」を除いて、民間能力の活用による役所の権限の縮小を指摘している。

 「その4、法律論」として次のように述べている。早坂茂三「田中角栄回顧録」その他を参照する。


 行政改革を断行するには、現行の法律を半分に減らすことが必要だ。だいたい、役人が法律をつくっていると律法の精神が途中で曲げられて、法学士が国民を押さえつけるのに都合がいいようなものになってしまうんだ。国民の権利を束縛する場合は、どんな小さなことでも法律によらなければいけない。この憲法の精神なんかは、どっかへ吹っとばされてしまう。役人に任せておいたら、国民の権利が縛られる法律ばかりができて、それが山のようにたまっちまった。これが今のありさまなんだ。だからね、法律を半分に減らす。つまり、役人も法律も半分にするというのを行政改革の大目標にすべきなんだ。


 つまり、規制強化系法律、役人数を半分に減らすよう指示している。

 「その5、陳情論」として次のように述べている。
田中角栄は、若いころはもちろん闇将軍となってからも、日に100件、およそ300人の陳情をさばいていたという。陳情について田中はある新聞でこう語っている。
 「必ず返事を出すんだ。結果が相手の希望通りでなくても『聞いてくれたんだ』となる。大切なことだよ」。
 「陳情は、現代の議会制民主主義制度下にあっては必要不可欠な主権者の権利行使ですよ。提言とも云うべきものじゃあねえですか。国民が、立法府、あるいは行政府に対して、社会生活上の様々な問題を持ち込むというのは、もっとも至極当然なことじゃあないんですか。マスコミは、癒着の温床だとか、賄賂だ、利権だとか云いますがねえ、何を云うか!だ。株主総会で、株主が意見するのと同じ! 取締役会に累積投票権を要求するのと同じなんだ! 選挙民だから、投票されたこちらとしてはね、請願、陳情は、いつでも聞く耳を持たなきゃなりませんよ。国民に取っても、それが憲法でちゃんと認められた大権なんだから」。

 以下、早坂茂三「田中角栄回顧録」その他を参照する。

 現代は、陳情の時代なんだよ。陳情といういい方が悪ければ、主権者の提言といってもいい。マスコミは陳情政治がいけないようにいうが、そういうものさしこそ旧憲法思想なんだ。ものの見方が逆立ちしている。国民が立法府や行政府に対して、あれをしてくれ、これをしてほしいと陳情するのは、株主が取締役会に対して累積投票権を要求するのと同じ。主権者の請願、陳情権は憲法上の大権といっていいんだ。

 ところが、主権者がいざ陳情権を行使するとなっても、どこの役所へいってどうすればいいのか、なかなかわからない。たとえば、総理府はいったい何を統轄するのか、総理大臣と防衛庁長官のあいだに総理府総務長官が立っているのかどうか。国民の目から見て、その辺がどうもハッキリしない。

 要するに、行政改革を進めるには、行政の実態をまず国民にわかりやすくすることだ。そして主権者が陳情や許認可を受けにきたとき、どこどこを回らなけりゃダメだ式のタライ回しをさせられないようにする。…だから行政機構だって、どこかの役所の窓口へ行って内容証明をぶつけたら、返事が一カ月以内に自動的に届くようにしなければいけない。とにかく、役人が民には知らしめず、依らしむべしなんて思い上がり、生意気になっている行政ではだめなんだ。彼らが国民のために、まじめに能率的に仕事をするようにするためにも、行政の簡素化が絶対に必要なんだよ。


 つまり、陳情政治を是認し、返す刀で行政の簡素化を指示している。

【角栄の行政改革論考】
 角栄の行政改革論を整理すると次のようになる。
「その1、官僚論」  官僚の能力を評価した上で、賢く使うのが政治家の役目である。
「その2、政策論」  役所の非能率、無責任体制にメスを入れよ。
「その3、行政機構論」  「国防と治安と教育」を除いて、民間能力の活用による役所の権限を縮小せよ。
「その4、法律論」  規制強化系法律、役人数を半分に減らせ。
「その5、陳情論」  陳情政治の是認、行政を簡素化せよ。
「その6、反民営化論」





(私論.私見)