1984.3月のネミック・ラムダ長岡工場竣工式での角栄の祝辞を書き起こす。非常に為になる角栄節を聞こう。
社長の弁は次の通り。
「君、福島なぞ行かないで長岡へ行ってやれよ」。「君は若いんだから失敗したっていいじゃないか。追い切りやってみろよ。長岡で電子の灯を灯すつもりでやってみろよ」。「従業員は何名になったか」。「渡部君、潰してもらっちゃ困るよ、いいね、潰してもらっちゃ困るよ、潰してもらっちゃ困るよ」。 |
角栄の弁は次の通り。
「まず第一に、渡部社長を中心にした従業員諸君の力添えで、えぇ、創業15年にして今日のこの、おぅ、興業の第一期工場の竣工式を挙げられことに対し、深い敬意を払いますと共にお喜びを申し上げます。又ご参会の皆様には、こうして応援を頂き、当社の将来に対しても重ねてお力添えをいただくことにつきまして、えぇ、私からもお礼を申し上げます。今、渡部社長から述べられた通り、この会社には私も創業からの責任を持っておる者でございます。渡部君はあのぅ、出身は高野山でございます。私の菩提寺もございますので、まっ、この仏様のご紹介と云う事で、で、一つ腰を入れなければいかんと云うことで、おぃ長岡へ工場を造らんか。と云うことだった。でもう既にここに第一の工場ができたじゃないですか。第二の工場が1300億を投資をしながら工場出荷額1600億ないし1800億、4月の1日からオ―ジ―アイには東京三洋の工場が**。工場を始めようではありませんか。それだけじゃありません。同じ**に松下電送の工場が4万5千坪、今、宅地造成を始めているんです。それがいつですかな、起工式あるんです来月の初めですか。6月1日から始めるんです。しかし、それにも来てくれと云うから、いや、まだ返事しないんです。渡部君のとこへ行ってからの話である。(笑) ホントですよ。うん、そういう意味で今日は、この工場に伺った訳ですが、今、渡部君も述べられた通り、故なくして今日ある訳はないのです。
これはあのぅ、雪国というのはまぁ雪国というのに工場来るかなんかと心配する者がありますが、これはあんまり勉強不足なんです。雪国がなければ精密工業基地足りえないのであります。うーん世界には166カ国あるけれども、主要工業十ケ国のアメリカ、カナダ、日本、リべリー、フランス、西ドイツ、イギリス、オランダ、ベルギー、スウェーデン。10ケ国の内の9ケ国の工業地帯は、奇しくも日本の弘前よりも全てが北であります。しかも超精密工業地帯はどこかと云うと、日本がかって領有した樺太よりも北であります。どうしてそんなことが分からんのか。地球儀を回すまでもないことだもの。温かいところには主要工業地帯は地球上には一ケ所もない。ねぇ、ホントです。それがなぜ一体、日本だけが太平洋側に工場ができて、雪の降る所が南方産の稲を育てておるか。これは逆さまであります。うーんこれは千年以来、為政者が太平洋側にだけしか存在しなかったと云う、たった一つの簡単な理由であります。しかし、科学的な、要請される条件を備えておるものが、逆さまのままで永久に行く訳がないんで、重い工業、原材料を海外から輸入しなければならない、そして加工してすぐ輸出しなければならない大規模な工業は全て太平洋岸でありましたが、しかし例外があったんです。非常に精度の高い工場が一つだけ北陸にあったんです。それは何か。それはツガミである。ねっ、長岡のツガミの歴史を見れば日本の工作機械の草分けである。非常に精度の高い技術であり、ツガミの社史を読むまでもなく分かるじゃないですか。地元に居ると分からんだけであります。日本産業史の中でツガミの歴史は燦たる歴史だ。だから一ぺんぐらい潰れたってね、立ち上がるに決まっておるんだ。ホントですよ、うん。
その意味でね。渡部君にね、ツガミがあるんだよと。長岡の歴史というものは必ず君を成功せしめるから。まぁローマは一日にしてならんと云いますが、石橋叩いて必ず渡る。こう云ったらですな、15年間で、渡部君がこれだけのものをつくったじゃないですか。さっき悪口云いましがね。人のうち借りてボロ屋だったとか。何を云うか。(笑) 古色蒼然たるとはいらんことである。こぅ思うけどね、ほんとうですよね。古色蒼然たる中からたった15年で、これだけのものが生まれたじゃないですか。この後、第二次工場3000坪あるんですから。そうでせうっ。私は、潰してはダメだよといったのはね、若い連中ばっかりなんだこの工員が。君はね、経営者だから潰れたっていいよと。ましてや荒道を漕ぐ人は一回や二回倒産の危機にね、頻する、これはやむをえん。しかし、必ずこの仕事はね、日本が求める。日本の代表的産業なんだから潰れる筈がないだぞ。ただ潰すと若い連中が泣くから。やっと結婚した、やっとウチをとにかくつくろう、ローンを借り始めた。社会的混乱起こすから、潰しちゃダメだよ、こう云ったに過ぎないのであります。来るには来るような受け入れ態勢がなくてどうして来ますか。私は、受け入れ体制がなかったけれども渡部君が、ここまで努力した実績に対して本当に深い敬意を払います。今度はまぁ潰すなよなんて云いません。えぇ。今度は大いに発展をする為にお互いに協力する、共同の責任を持って後は保証してやるから、さぁしっかりやってくれ、こういうつもりでおります。どうぞご参会の皆さまも、ただ一つの工場が生まれたいうのではありません。これは長岡の新潟県の工業化の、一つの歴史の一ページ、第一号工場である。この後が続く。
私は、ホント25年間、自分の、責任のように考えてきただけに、こうしてしばらく時間をいただいて事実を申し述べ、皆さまの変わらざると云うよりも、これから本当にこの会社が大きくなるように。この会社がね、うまくいかないようだったら、必ず行きますよ、必ず行くように保証します。これから技術的にも、あらゆる角度から応援体制を整えます。ねっそういうつもりで来たんです。まっ皆さんからも、本当に格段のご支援ご鞭撻ご協力をお願いをいたします。これはもう、本来ならば会長の職にある関**君、だったらもっともっと、強く皆さんにお願いするでせう。私もこの、まっ工場を育てる、立場である責任者として、これからお願い申し上げます。渡部君を中心とした当社の全従業員一丸になっての奮闘努力、精進努力に心から期待をして私のまっ祝辞と云うよりもご挨拶を終えたいと思います」。 |
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