1974年時の田中角栄演説 |
(最新見直し2009.12.09日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
1974年時の角栄演説を収録しておくことにする。 |
【1974.1.7日、マルコス・フィリピン大統領主催晩餐会における首相スピーチ】 |
「データベース『世界と日本』」(東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室 )所収の左枠「国会外の演説・文書 総理大臣」より転載する。 |
大統領閣下,マルコス令夫人,並びにご列席の皆様
大統領よりただいま暖い歓迎のお言葉をいたたき厚くお礼申し上げます。 このたびこの美しいフィリピンを訪問し,大統領および才色兼備の令夫人にお目にかかれたことは,私の最も欣快とするところであります。また,本日,最高の栄誉であるラジャ・シカツナ勲章を拝受し,光栄これにすぐるものはありません。 私は,マニラに参ります機上から西太平洋の海岸を眺めつつ,この海洋が民族的にも文化的にも日比両国を結ぶ回廊であつたことに改めて思いを馳せました。有効な交通の手段のなかつた時代には,この海洋は,両国民交流の前に立ちはだかる大きな障害物でした。それでもなお,既に有史以前にフィリピンはじめ南アジアの民族が黒潮に乗つて日本列島にたどり着き,定着したと信じられております。御朱印船貿易が最盛期に達した17世紀の初頭,即ちわが国が3百年に亘る鎖国政策に入る直前のころには,マニラの日本人街には約3千名もの日本人が居住していたと記録されております。その中には有名なキリシタン大名高山右近およびその一族が含まれており,彼は,フィリピンの人々の暖かいもてなしの中に,この地において晩年を過したことは,よく知られているところであります。 貴国は大統領の卓越した指導の下に,社会正義の実現を目的とする新社会の建設に邁進しておられ,政治,経済,社会の各分野で顕著な成果を挙げておられます。私が今般大統領のご招待をうけて貴国を訪問しましたのも,かかる貴国民の努力と成果をまのあたりにするとともに,貴国民とわが国民との間に,平和と繁栄とを分ち合う良き隣人同志の関係を育成強化しようとのわが国の熱望を大統領にお伝えしたかつたからであります。 近年日比両国間の人的,経済的交流が急速に増大し,友好親善関係が益々拡大・強化されております。とくに一昨年秋から昨年春にかけての旧日本兵捜索への比国官民の御協力,昨年3月のカラリヤにおける「比島戦没者慰霊碑」建立の際の御好意,更には昨年12月末の日比友好通商航海条例の批准等は両国の友好協力関係を重視されている大統領の御卓見と特別の御尽力によるところ大であり,日本国民に代つて深く敬意を表します。 私は,日本と貴国が友情をかちとるための地道な努力をおしむものでなければ,日比両国の将来について大いに楽観できると信じて疑いません。問題は,地球が狭くなり,諸民族を結ぶ距離が著しく短縮されるにつれ,われわれは最早「日比両国の関係さえよければ」と安住できなくなつていることであります。 今日の世界は,あらゆる分野において深刻な変動・変革の時期に直面しております。たとえば中東紛争の未解決と,第4次中東戦争に端を発した世界的な石油危機は,貴国と日本のみならず,アジア諸国全体の経済活動に大きな影響を及ぼしつつあり,わが国としても世界の平和と繁栄のために一刻も早く公正且つ恒久的な解決が中東戦争にもたらされることを希求しております。こうした困難な事態の下に,私は大統領とひろく国際情勢について率直に意見を交換し,貴国そして他の東南アジア諸国との友好親善関係を従来よりも一層堅固なものにしたいと念願しております。 私は日比両国の間のあらゆる分野,あらゆるレベルでの交流がますます増進されるべきであると確信しております。とくに次の世代を担う青少年の間に相互理解を深めることは,極めて望ましく,かつ必要なことであると思います。わが国からこのような目的で既に「青年の船」が貴国を訪問しております。私はこの計画を更に発展させ,今後毎年貴国はじめ東南アジアの青年をわが国に招待し,わが国の青年と親しく交歓することを目的とした「東南アジア青年の船」の計画を始める考えであることを申し上げます。 次の世代を担うこれ等諸国の青年が同じ船の上で起居をともにしながら語り合い,友情と相互理解を深めることにより,相互の信頼と協力の精神を養う機会を提供し,次の世代へのささやかな贈り物としたいと考える次第であります。 今回の私の貴国訪問は甚だ短時間ではありますが,私は大統領をはじめ皆様方との率直な対話を通じ,すでに日比両国間に存在している緊密な友好関係を一層深めることができるものと信じて疑いません。 ここで私は,御列席の皆様とともに杯を挙げて大統領閣下御夫妻の御健康,フィリピン共和国の繁栄,日比両国の友好,そしてアジアと世界の平和のために乾杯したいと存じます。マブハイ |
【1974.1.9日、サンヤー・タイ首相主催晩餐会における首相スピーチ】 |
「データベース『世界と日本』」(東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室 )所収の左枠「国会外の演説・文書 総理大臣」より転載する。 |
サンヤー総理大臣閣下,令夫人,並びに御列席の皆様 サンヤー総理大臣より暖かい歓迎のお言葉をいただき,心からお礼申し上げます。タイ国政府の御招待により,この度念願の貴国を訪れることができましたことは,私の深くよろこびとするところであります。また本日最高の栄誉である貴国の白象大綬章を拝受し,光栄これに優るものはありません。 貴国とわが国はお互いに有史以来の数少ないアジアの独立国として,また,ともに国民に敬愛された皇室をいただく国として,三世紀半以上にもわたつて友好の絆を維持してまいりました。 私は貴国が,英明な国王陛下のもとで,貴総理大臣の卓越した指導と貴国民各層の協力によつて,この変動しつつある国際情勢に賢明に対処されつつ,新しい体制のもとに国民福祉の向上と国家の繁栄を目指して力強く前進している姿に,深い感銘をおぼえるものであります。私は長い歴史と輝かしい自主独立の伝統を有する貴国が,この崇高な目的を実現されることを心から念願し,また,必ずや成功されるものと確信するものであります。 20世紀の今日,地球は益々狭くなり,日・タイ両国は更に身近かな隣人となりました。現在アジアをとりまく国際環境は急速に変化しています。加えてわれわれが直面する問題は一層複雑化するとともに,政治,経済,文化すべての分野に亘る世界大の広がりとつながりを持つに到つております。 このことは最近の石油危機の影響について申し上げるまでもなく,皆様よく御存知のとおりであります。また,私は日・タイ両国間の経済関係の緊密化に伴い,種々の摩擦が生じ,とくにわが国の経済的プレゼンスに対する危惧の念が存することも,よく承知しております。国家間の関係が緊密化の度合を深めるにつれて,友邦の間においても調整すべきいくつかの問題が生ずることは,ある意味ではやむを得ないでありましよう。 本日貴国の次代を担う学生諸君の歓迎を受けましたが,直接彼等学生諸君の不満に接したことは私自からが問題の重大性を把握するうえで意味があると考えております。私は彼等の不満に対し何らの幻想を抱いておりません。問題を放置することも許されないのであります。重要なことは,これらを契機として,双方が相互理解と問題解決のための努力を重ねることであり,このような地道な努力を通じ,諺にありますように,雨降つて地固まることを念願するものであります。私はこの機会に,わが国政府と国民が日・タイ両国間の永遠の友好関係を築きあげていくために,あらゆる努力を惜しむものでないことを確信いたします。 この様な観点から私は,古き友邦である日・タイ両国の間にあらゆる分野,あらゆるレベルでの交流がますます増進されることを強く希望いたしております。とくに,次の世代を担う学生,青年の間に相互理解を深めることは,極めて望ましく,かつ,必要なことであると考えます。わが国からこの様な目的で毎年「青年の船」が貴国を訪問しており,昨年10月には貴総理大臣にも親しくお会いいただく光栄を得ております。私は,この考えを更に発展させ,今後毎年貴国はじめ東南アジアの青年をわが国に招待し,わが国の青年と親しく交歓することを目的とした「東南アジア青年の船」の計画を新たに始める考えであることを申し上げます。私は,次の世代を担うアジアの青年が同じ船の上で語り合い,また起居をともにしながら友情と相互理解を深めることにより,相互の信頼と協力の精神を養う機会を提供し,次の世代へのささやかな贈物としたいと考えます。 サンヤー総理大臣閣下 今回の私の貴国訪問は甚だ短時間ではありますが,私は貴総理をはじめ貴国の皆様方との忌憚のない意見の交換を通じ,すでに日・タイ両国間に存在している緊密な友好関係をさらに深めることができるものと信じて疑いません。 この御挨拶を終えるに当り,私は列席の皆様とともに杯を挙げ,サンヤー総理大臣および令夫人の御健康,貴国の御繁栄,そして日・タイ両国の友好のために乾杯したいと存じます。 |
【1974.1.11日、リー・クァン・ユー・シンガポール首相主催晩餐会における首相スピーチ】 |
「データベース『世界と日本』」(東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室 )所収の左枠「国会外の演説・文書 総理大臣」より転載する。 |
リー・クァン・ユー総理閣下,令夫人並びに御列席の皆様。 この度リー総理の御招待を受け,念願のシンガポールを訪れることができましたことは私の深く喜びとするところであります。本夕はかくも盛大な晩餐会を催し頂き,深く感謝しております。 本日,「ガーデン・シティ」の名のとおり,緑の多い清潔な街並みと,繁栄しているシンガポールを眼のあたりにし,豊かな環境の中にダイナミックに躍進しつつあるその姿に深く感銘を受けました。 リー総理は,1959年に35才の若さで衆望を担つて首相に就任され,以来15年間シンガポールの工業開発,国民の生活水準の向上に尽され,今日の如き繁栄をもたらされましたことは誠に敬服にたえません。 シンガポール政府がジュロン地区に造られた日本庭園「星和園」は,外国における日本庭園として最大のものであり,その池には,奇しくも私の郷里の新潟から送られてきた5千匹の錦鯉が育まれていると聞いております。これらの錦鯉は,シンガポールの鯉の専門家の御世話により,シンガポールの気候風土によくなじみ,日本におけるよりも早く,立派に成長し,今日では日本庭園を訪れるお客の目を楽しませているとのことであります。この日本庭園が,東南アジアでは最大の規模と活況をほこるジュロン工業団地内に造られていることは,自然と工業開発とを巧みに調和しようとしておられるシンガポール政府の御努力の証左であり,敬意を表します。 私が今般貴国政府の御招待をうけ,貴国を訪問しましたのは,貴国民とわが国民との間に,平和と繁栄を分ち合う良き隣人同志の関係を一層育成強化したいとのわが国の熱望を自ら総理にお伝えしたいと念願したためであります。 シンガポールとわが国は,工業化を通じ国民の福祉増進を図ることを基本とし,また,共に経済の存立を貿易に依存するという面で共通の基盤に立つています。従つて,日・シ関係は,良きパートナーとして今後とも協力と発展が大いに期待しうると信じて疑いません。 しかしながら,今日の世界は単に二国間の友好関係の増進を希求するだけでは済まされない程に,他の地域で生ずる事柄が,直ちに広く世界各国に影響を及ぼす実情にあります。例えば,中東紛争の未解決と第四次中東戦争に端を発した世界的な石油危機は貴国と日本のみならず,アジア諸国全体の経済活動に大きな影響を及ぼしつつあり,わが国としても世界の平和と繁栄のために一刻も早く公正且つ恒久的な解決が中東紛争にもたらされることを希求しております。 このような困難な時期に高邁な英知と識見,そして深い洞察力を有しておられるリー総理と再度会談の機会を得て,世界およびアジアが現在直面する多くの問題について率直かつ忌憚のない意見の交換を行なうことが出来ましたことは,私にとつて極めて有益でありました。 私は,日シ両国間のあらゆる分野,あらゆるレベルでの交流がますます増進されるべきであると確信しております。特に,次の世代を担う青年の間に相互理解を深めることは望ましく,また必要なことであると思います。わが国は,この様な目的でこれまで「青年の船」を度々貴国に派遣し,貴国民の歓待を受けております。私は,この計画を更に発展させ,貴国はじめ東南アジアおよび日本の青少年が親しく交歓することを目的とした「東南アジア青年の船」の計画をリー総理にもおはかりし,同総理の御賛同を得ました。次の世代を担う青年が同じ船の上で語り合い,また,起居を共にしながら友情と相互理解を深めることにより,相互の信頼と協力の精神を養う機会を提供し,われわれ世代の次の世代へのささやかな贈物としたいと考える次第であります。 今日の私の貴国訪問は甚だ短時間ではありますが,私はリー総理をはじめ皆様方との率直な対話を通じ,すでに日・シ両国間に存在している緊密な友好関係を一層深めることができるものと信じて疑いません。 この挨拶を終えるにあたり,私は各位と共に杯をあげてリー総理閣下御夫妻の御健康と御幸福を祈念し,シンガポール国民のひきつづいての繁栄と幸福のために乾杯したいと存じます。 |
【1974.1.12日、ラザク・マレイシア首相主催晩餐会における首相スピーチ】 |
「データベース『世界と日本』」(東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室 )所収の左枠「国会外の演説・文書 総理大臣」より転載する。 |
ラザク首相閣下並びに御列席の皆様。 このたび,ラザク首相の御招待を受け,念願のマレイシアを訪れることができましたことは,私の深く喜びとするところであります。本夕,ここにかくも暖かい晩餐会を催していただきましたことに厚くお礼申し上げます。 私はかねてより貴国が民族の統一と調和,貧困の撲滅による社会正義の実現を目標として,着実な社会,経済的発展の成果を挙げておられることに対し,深い敬意を払つておりましたが,昨年東京において貴首相およびフセイン・オン副首相におめにかかり,その抱負の一端に接する機会を得,感銘を深くした次第であります。貴首相が「新経済政策」の中で唱導しておられる経済発展の果実の公正な分配,環境と調和した形での工業化の推進および国民の自助努力と自己犠牲の要請等は,同じく政治に携わる者として,私の強く共鳴するところであります。現下のごとき激動する国際経済環境下にあつても,貴国が着実な経済発展を進めておられるのは,かかる賢明な指導によつて始めて可能であると考えます{前13字目ママ}。 今日の世界は,あらゆる分野において深刻な変動,変革の時期にあり,アジアもその例外ではあり得ません。このような時に,貴首相が既に1970年に唱導された東南アジア中立化構想がASEANのクアラルンプール宣言として結実したことは,本地域における平和と安定を希求する洞察に富んだ試みとして,国際的に高い評価が与えられているのであります。 今回私が貴首相の御招待により貴国を訪問しましたのも,平和と繁栄を分ち合う良き隣人としての貴国とわが国の関係を一層育成強化したいとのわが国民の熱望を貴国民にお伝えするとともに,昨年に引続き貴首相と広範な問題について腹蔵ない意見の交換を行うことを念願したからであります。 御列席の皆様がよく御承知のように,日本とマレイシアとの関係は近年益々その緊密の度を加えつつあります。しかしながら関係の密接化に伴い新たに調整を要する問題が生じて来ることもまた事実であります。私どもこの席に集う者が今後とも本夕の如きなごやかな雰囲気の下にうちとけて胸襟を相開いていくならば,両国間の諸問題の調整ははかられ,両国関係は更に前進していくものと信じて疑いません。 このような観点から,私は日・マ両国の如き友邦間には,あらゆる分野,あらゆるレベルでの交流がますます増進されるべきであると痛感しております。とくに,次の世代を担う青年の間に相互理解を深めることは,極めて望ましいのみならず,必要なことであると思います。わが国から同様の目的で度々「青年の船」が貴国を訪問しており,貴国民の暖かい歓迎を受けて参りました。私は,この計画を更に発展させ,今後毎年貴国はじめ東南アジアの青年をわが国に招待し,わが国の青年と親しく交歓することを目的とした「東南アジア青年の船」の計画をラザク首相に提案申し上げましたが,同首相の御賛同を得たことを喜ぶものであります。次の世代を担うこれ等諸国の青年が同じ船上で語り合い,また起居をともにしながら友情と相互理解を深めることにより,相互の信頼と協力の精神を養う機会を提供し,次の世代へのささやかな贈物にしたいと考えたのでありやす{前2字目ママ}。 終りにあたつて,私は今回の訪問が貴首相との間の個人的接触を通じて,相互理解を深め,日・マ両国の現存する友好関係が一層堅固なものとなることを祈念いたします。 ここで,私は御列席の皆様とともに杯を挙げ,ラザク首相閣下の御健康,マレイシアの繁楽{前1字ママ},日・マ両国の友好,そしてアジアと世界の平和のために乾杯したいと存じます。 |
【1974.1.15日、スハルト・インドネシア大統領主催晩餐会における首相スピーチ】 |
「データベース『世界と日本』」(東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室 )の「国会外の演説・文書 総理大臣」より転載する。 |
スハルト大統領閣下,令夫人,ハメンクブオノ副大統領閣下並びに御列席の皆様。 この度スハルト大統領の御招待を受け,念願のインドネシア共和国を訪れることができましたことは,私の深く喜びとするところであります。本日はここにかくも盛大な晩餐会を催していただき,心暖まる思いであり,厚く御礼申し上げます。 かねてから,私は,明るい太陽の下,豊かな水と濃き緑に恵まれた大自然の中で,国造りに励んでおられるインドネシアを胸に描いて参りました。今回貴国を訪問し,スハルト大統領の卓抜せる指導と国民の協力の下に,貴国があらゆる分野において力強く前進されている姿を目のあたりにし,深い感銘を覚えた次第であります。東西5,000キロ,南北1,600キロの広大な海域に散在する1万数千の島々からなる貴国において,インドネシア国民が,民族のモットーである「多様性の中の統一」に象徴されているとおり,それぞれの伝統的な資質を守りながらも,全体として見事に調和した社会を造りあげておられることにも多大の敬意を表せざるを得ません。私は,このような貴国の姿の中に,民族の将来のあるべき姿を見る思いを致しております。 今日の世界は,あらゆる分野において深刻な変動,変革の時代にあり,アジアもその例外ではあり得ません。このような国際情勢の下で,貴国は,一方では太平洋とインド洋,他方においてはアジア大陸と大洋州とを結ぶ枢要な場所に位置され,好むと好まざるとにかかわらずアジアの平和と繁栄のために重要な役割を果すべき運命を担つておられます。今日貴国が達成された政治的,経済的安定を基礎に,アジアの平和と安定のために積極的に貢献しておられることは,同じアジアの友邦として,まことに心強い限りであります。 1億3千千万の国民を擁し{前8字目ママ},未来を約束されたインドネシアとの協力を深めることは,永続するアジアの平和と繁栄を希求するわが国外交にとつて一つの重要な柱なのであります。わが国は,これまでも貴国との政治的,経済的,文化的相互協力の増進のため一生懸命に努力して参りました。日・イ両国間の人物交流は国民各層にわたつて近年とみに厚みを増しており,両国間の貿易も昨年は20億ドルの大台に乗せて余りあるところまで拡大しました。すなわち,日・イ両国は将来にわたつて,おたがいに間口もひろく,奥行きも深い必要欠くべからざるパートナーなのであります。しかしながら,かように国家間の関係が濃密の度合を深めるにつれ,友邦の間においても,見直すべき幾つかの問題がたえず生ずることは,ある意味ではやむを得ないでありましよう。私は,日・イ両国間関係の深まりにつれ,種々の摩擦が生じ,貴国の一部において,わが国との協力関係のあり方に対する批判が生じてきていることもよく承知しております。重要なことはこれらを契機として,双方が互に相手の立場を尊重しながら対話と相互理解の努力を重ねることであり,それによつてこそ両国間の友好協力関係がより強化されるものと信じます。 私が今般スハルト大統領の御招待を受けて貴国を訪問しましたのも貴国とわが国との間に,平和と繁栄を分ち合う真の良き隣人関係を一層強固にしたいとのわれわれの熱望を自ら大統領にお伝えしたいと念願したからであります。 本日1年半振りに大統領との会談の機会を得,われわれの間の深い信頼関係を再確認し得たことは,洵にきん快であります。このような心と心の触れ合いを国造りの情熱に燃える貴国をはじめとする東南アジア諸国の青年およびわが国の青年の間に広めて行くことは,われわれの次代に対する責務であると考えます。私はこの目的のため,共同生活の体験に根ざした交流の場を提供する意味で「東南アジア青年の船」計画を始めたいと考えております。かかる計画を含め,われわれは,日・イ両国間および東南アジア諸国間の悠久の友好協力関係を築き上げて行くべく凡ゆる努力を傾けて行きたいと思います。 私は,本日の会談を通じて,貴大統領がリーダーシップをとつておられなかつたならば,インドネシアの繁栄,ひいては東南アジアの安寧の途は,今日よりも遥かに険しいものであつたのではないかとの認識を深くしたのであります。私は貴国訪問を最後に東南アジア諸国親善歴訪の旅を終えるのでありますが,今日改めて貴大統領をはじめ,諸国の指導者の卓見,抱負に接し得たことは,私にとつて貴重この上ない経験でありました。私は,この席をお借りしまして,私ども日本国民が,これから迎えんとする20世紀最後の4半世紀を,皆様のためにも,われわれのためにも,平和で住みよい,心の豊かさを失わない立派なものにしようとする固い決意であることを披瀝したいと存じます。 この御挨拶を終えるに当り,私は御列席の皆様とともに杯を挙げて,スハルト大統領閣下御夫妻の御健康,インドネシア共和国の繁栄,日・イ両国の友好,そしてアジアと世界の平和のために乾杯したいと思います。 |
【1974.5.13日、「田中総理を励ます県人の集い」における首相挨拶】 | ||||||
「データベース『世界と日本』」(東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室 )所収の左枠「国会外の演説・文書 総理大臣」より転載する。 | ||||||
新潟県人の皆さん!! すっかりご無沙汰しております。日頃から、私の為にご支援ご鞭撻いただいている皆さんが、このような形で私を励ましてくださることは、本当にありがたいことであります。私がこんなに晴れがましい席で、公の形での激励を賜わることは、今から35年前、それは昭和14年春ッ、私が現役兵として入営したとき以来、初めてのことであります。私は、心暖まるふるさとの心に接し、しみじみたる思いであります。 私が皆さんの支持を得て、内閣を組織いたしましてから、二年間の月日が経とうとしております。内閣総理大臣に就任した際、「前線に向かう一兵卒のような気持ちだ」と言ったことがありますが、それはつい昨日のような気がいたします。そしてその時の心境は二年後の今日も全く変わっておりません。国民の皆さんと手を携えて歩み、国民の為の政策を勇断をもって実行していくことには、極めて重い責任を伴うのであります。私は、過ぎ来し方を顧(かえり)みながら、その重みを改めて心に刻みつつ、前進を続けて参る決意であります。 この二年間は、人類悠久の歴史の中にあっては、まばたきするほどの時間に過ぎません。しかしッ、世界が新たな転換の時代を迎えているときだけに、かつて私共が経験したことのない激動が、相次いで起こった長い二年間であったともいえるのであります。世界は、緊張緩和の方向に進みながら、一方で新しい国際秩序の確立に、いわば産みの苦しみを味わっております。西欧先進工業国はいずれも転換期の困難に直面していますが、わが国も例外ではなく、物価、公害、エネルギーなどの諸問題の解決を迫られていることはご承知の通りであります。 いかに難しい問題にぶつかろうとも、いますぐに「新潟へ帰りたい」などと泣き言は申しません。現在新潟県に在住する者240万人ッ、全国に私と同じく出稼ぎに出ておられる方々260万人ッ、合計500万人もの皆さんが、私と共にあることに勇気づけられて、新たな問題に精力的に取り組んで参ります。そして、私は、理想の旗を高々と掲げつつ、当面する問題を一つ一つ現実的に解決し、国民皆さんの負託に応えて参る決意であります。 しかし、経済社会をとりまく諸条件は大きく変化いたしました。今後は成長のみを追求するのではなく、成長によって拡大した経済力と成長の果実を、国民福祉の充実と国際平和の推進に積極的に活用してゆくことが強く要請されているのであります。即ち公害の防除、土地、水、資源の有限性に対する配慮、労働時間の短縮、定年延長、社会保障費用等福祉コストの負担、省資源・省エネルギー化の促進、消費者主権の尊重、経済協力の推進など、国民の量質ともに高度化した社会的ニーズにこたえて各般の施策を展開してゆかねばならないのであります。私は、これまでの成長追求型の路線追求をやめて、「福祉と平和」を軸とする経済社会の運営方式に切りかえて参ります。これまでは、私たちの前には、先進諸国に追いつくという目標が厳然と存在していたのであります。ようやくにして先進諸国群の一角にたどりついた今日、私たちは、自らの目標を樹立し、それに向かって挑戦しなければならない地位に立たされております。いわば、日本民族が独自の実験を行なうべきときが来ているわけであります。私は、日本民族のもてるエネルギーを活用し、潜在的エネルギーを引き出し、これを有効に組織化し、誘導すれば、必ずやこの実験に成功できると信じて疑わないのであります。 私的消費から社会的消費へ、フローからストックへ、量か質へ、物から心へ、効率から・バランスへ等……転換を求める声は各方面に高いのであります。私の「日本列島改造論」をきっかけにして、わが国が内政の時代を迎えたといわれるのは、私にとって望外の幸せでありました。私が、国土改造に取り組み実現しようと願っているのは、失われ、破壊され、衰退しつつある日本人の“ふるさと”を全国的に再建して、私たちの社会に落着きと潤いを取り戻すことであります。今日の日本を築いた私たちのエネルギーは、地方に生まれ、都市に生まれた違いはあったにせよ、共に愛すべき“ふるさと”のなかに不滅の源泉があったのであります。 このため、2000年までを展望した長期にわたる国土改造のビジョンを樹立するとともに、それに沿って国土改造の十カ年計画を早急にスタートしていきたいと考えております。この新しい計画は、人口、食糧、水などの長期展望のうえに、美しい自然に恵まれ、人間性の豊かな“新しいふるさと”=高度福祉社会を建設してゆくプログラムを明らかにするものであります。これは、難しいことを言っているのではなく、ふるさとに住む親のところへ息子達、娘達をかえし、都会に出稼ぎしている人達をふるさとで暮らせるようにすることなのです。産業構造は、資源やエネルギーをたくさん使う重化学工業から、人間の知恵や知識をより多く使う産業、つまり知識集約産業へと産業のウエートを移してゆくこととなります。他方、農業およびそれが営まれている農村は、福祉社会形成の基盤ともいうべき根本的な役割を担うこととなります。第一に、食糧を安定的に供給いたします。第二に太陽と緑のある快適な生活空間を提供いたします。第三に自然を保存し管理いたします。従って、農工両全のバランスのとれた開発をすすめてゆく場合には、町にも、村にも、工場の周辺にも豊かな空間と色こい緑地を設け、新しい鎮守の森を復活させてゆきたいと考えます。 ふるさとには、家族や隣人を愛する心が残っております。戦後、封建的な村落社会や伝統的な家族制度から解き放たれた人間性は、いま都市化と工業化の流れのなかで再び失われようとしているのであります。カサカサした現代社会を救うのは、正しい自己意識の上に立脚した温かい連帯感であります。私は、ふるさとに温存されている連帯意識の輪を広げて、新しい地域社会や職場環境を形成してゆくべきものと考えます。“ふるさと”を愛し、“ふるさと”を豊かにする運動を新潟から広げてゆこうではありませんか。日本列島全体を、人間と太陽と緑が主人公となる人間復権の新しい文明社会をつくりかえ、心のふるさとをよみがえらすことが、私の政治目標であります。 「民族の魂」、「国家の顔」ともいうべき最も重要な国政の課題は、教育の問題であります。既に学制百年を過ぎ、戦後あしかけ三十年を迎えた現在、今の教育制度は定着してきました。しかし、新しい時代と社会の要請に対応して、常に“教育の原点”に立ち返って反省するとともに、改善の努力を続けていかねばなりません。その意味で、とくに最近、私が強く感じるのは、徳育、知育、体育が三位一体となったバランスのとれた教育の必要性であります。確かに知育と体育の点では、戦前と比較にならないほど高水準に達し、四人に一人は大学に進む状態となっております。しかし、その半面、いまの教育は、知育偏重のきらいがあり、いわば「知恵が太っている」割りには「徳がやせている」青少年を育てる教育風土が定着していると考えられます。両親を大切にし、兄弟は仲よく、共同生活の中にあっては、市民として、日本国民として、アジアの一員として、人類の一員として自分中心の考えでなく、常に相手の立場に立って考える。−−そういった基本的な「教育」は戦前、戦後を問わず、また資本主義とか社会主義とかの体制の違いを越えた普遍的な原理だと思います。 私自身のことを振り返ってみても、人生を処する考え方は、いずれも初等教育段階に身にしみこんだものであります。当時、私の通学した西山小学校の校訓「至誠の人、真の勇者」は、いまだに脳裏に鮮やかであります。学校にあっては、先生の、家庭にあっては母の教えが、まさに私に対する「徳育」であったと思われます。そこで、私は、「五つの大切」「十の反省」をあえて提唱したいと思います。義務教育段階における子供たちの生活規範として、例えば「人間を大切にしよう」、「自然を大切にしよう」、「時間を大切にしよう」、「モノを大切にしよう」、「国、社会を大切にしよう」という「五つの大切」を教えようというわけです。そして毎日の生活のなかで、「友達と仲良くしただろうか」、「お年寄に親切だったろうか」等々と自省する「十の反省」を設定してはどうでしょうか。 次に大切なのは、義務教育をしっかりやる「先生」の問題であります。教師、教育者という仕事は、他の職業と違って、育ち盛りの子供を親や世間に代わって正しい人生観をもつ、しっかりとした人間に育てあげる大きな使命と責任をもっているのであります。それだけに、小・中学校には、最も優秀な人材、教職意識に燃えた情熱的な人物を必要といたします。そのためには、身分や報酬なども他の公務員より安定し、かつ手厚いものでなければなりません。同時に、先生は、子供の先生としてだけではなく、親達や社会の先生として尊敬されるような存在でなければなりません。社会全体から尊敬されるためには、先生の教育に対する真摯な情熱もまた求められてしかるべきものと考えます。その意味で、今回「教員人材確保法」が成立したのであります。また、教育の資質向上のため教員養成大学の設置、身分の確保、待遇改善についての施策等を一層拡充推進して参ります。 次に、大学の運営に関する臨時措置法について一言いたします。この法律は、今年の八月で期限切れになりますが、私は本来ならあのような法律はいらないと思っております。罰則規定はないとはいえ、大学を対象にあんな法律があるということ自体日本の教育行政の恥部をさらけ出しております。しかし、大学の中で、たとえ一件でも白昼堂々と殺し合いか行われている状態が続いている限りは、政府として何らかの責任を持たなければなりません。学校の管理にあたって、学問の自由と学園の自治が確保されなければならないことは言うをまちません。しかし大学が教師だけのものでないことは当然でありますし、また学生だけのものでもありません。国民全体のものなのであります。その意味で、次代の望ましい国民を教育するためにふさわしい大学はどうあるべきかを、真剣に考える必要があると考えます。その一環として、地方の高等教育機関の充実は、国土改造の文化的な核ともいうべきものであります。これからは、大都市における大学の新増設の抑制と地方における大学の拡充によって全国的に均衡のとれた大学の配置を行なって参ります。同時に諸外国の大学にみられるように、地方の環境のよい都市に大学を整備し、あるいは、全く新しい視野と角度から環境のよい湖畔、山麓など山紫水明の地に広大な敷地を確保して新学園を建設して参りたいと考えます。このほか医学部未設置県の解消、新構想の教員大学院大学、放送大学などの創設も促進して参ります。次代をになう日本人を育成する教育の任務は重かつ大であります。それだけに、私は、教育問題をタブー視することなく、全国民的立場から問題を提起し、広く国民の声を聞きながら真正面から取り組んでまいる決意であります。 私は、内閣を組織して以来、アメリカ、中国、西ヨーロッパ、ソ連、そして東南アジア諸国を歴訪し、各国首脳とキタンのない意見交換をして参りました。そして、わが国にとって最も重要な盟友であるアメリカとの関係の調整を行ないました。また極東の安定にとって不可欠な日中の国交正常化を実現しました。さらに、疎遠であった欧州との緊密化をはかり、また忘れることのできない隣国ソ連との関係改善のための第一石を投じたのであります。また本年初めには、東南アジア諸国を訪問して、これらの国々の国造りに貢献することを改めて約束して参りました。今後さらに大洋州や中南米カナダを訪問する予定にしております。 現下の国際情勢は一層多様化の度を加え、わが国をとりまく情勢は、戦後かつてないほどに複雑かつ厳しいものとなっております。米ソは、依然軍事超大国ではあるもののその影響力は相対的に低下してきております。自由陣営を支えるものとしては、米国のほかに、ヨーロッパ共同体、それに日本が台頭して参ったのであります。社会主義圏においては、中ソの激しい対立が解消をみないまま、分極化は恒久化しようとしております。これに加えてアラブ世界は、石油を外交戦略の武器として立ちあがりました。社会主義圏における農業の不振は、食糧危機として世間を騒がせました。戦後の国際経済を支えてきたドルの地位の下落は、世界経済の先行きに不安をなげかけています。開発途上国の国造りは遅々として進まず、人口、食糧などの悩みは深刻であります。これらの問題は、いずれも「自分さえよければ」という利己的な態度では決して解決できません。すべての国は、新しい連帯感に立った裾野の広い協力・協調関係を打ち立てることが必要であります。特に、資源に乏しく狭い国土に一億一千万人をかかえるわが国は、四方の海をこえて資源を輸入し、それに付加価値を加え、製品として海路をわたって輸出するという貿易形態をとっております。海洋国家日本は、世界の平和なくして生きていけないし、日本経済は、自由な国際経済環境のもとでのみ発展することができるのであります。その意味で私たちは永続的な世界平和の創造と新しい世界経済秩序の再建のために、積極的な国際協力を推進してゆかねばなりません。 ところが、ここで私が強調したいのは、これらのことが理屈ではわかっていても、肌ではまだわかっていないということであります。特定の国に個人的な親近感をもち関心を有することは、好ましいことですし、また必要でもありましょう。しかしながらそれが万事であとは一切まかりならないというのでは、健全な外交にならないのであります。物ごとを一面的、近視眼的にとらえることなく、最善を尽しながらも次善、三善の策を考究することが必要です。白か黒か、南か北か、戦争か平和かという単純な思考方式は、もはやできないのであります。私は、観念的な独善を戒め、国際経験の未熟に由来する極論を排しつつ、国民的基盤に立って根気強く、きめ細かく、誠実に、国際協力の実をあげて参りたいと考えます。 私は、先頃56歳の誕生日を迎えました。会社でいえば定年を過ぎたわけですが、定年なんて言ってはいられない。国と国民のために果たすべき責務は、内政、外交両面にわたって数多く残されているのであります。しかし、高い理想をかかげ、しかもあくまで現実に立脚し、勇気をもってことの処理にあたれば、政治の理想は実現できるのであります。しかし政治は、一政府一政党のものではありません。国民全体のものであります。当面するどの課題をとってみても、国民の参加と協力なくして解決できるものはありません。 私たちは、後代の日本人のために、あしたの日本のために、親が私たちのためにかいた汗以上のものをかこうではありませんか。皆さん、私たちの生活は、忽然として今日ここに存在するのではありません。何十万年、何万年の歴史の上に今日があることを知らねばなりません。同時に私たちの今日を一コマとして未来永劫に日本人の生命は続くのであります。私たちの祖先が日本人の歴史の一コマを切らなかったように私たちも、これから未来に続く民族の一コマを切ってはならないのであります。私は、そういう意味で、その責任を果たさねばならないと考えているのであります。新潟の“ふるさと”も、次第に青葉をまし緑濃くなっておりませう。鮮やかな新芽が柳色を新たにするように、私は、日々決意と希望を新たにしつつ、国政に取り組んで参ります。私は、私に与えられた公の責任を果たすため全力投球いたします。最後に、重ねてご参集の県人のみなさんのご好意、ご声援に心から感謝しつつ、みなさんのご自愛ご健勝をお祈りして私の挨拶を終わります。 |
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小林吉弥の「田中角栄 侠の処世」bT8は、「演説が終わると、武道館は割れんばかりの拍手に包まれた」と記している。 | ||||||
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【1974.5.24日、経団連第三十五回定時総会における首相挨拶】 |
「データベース『世界と日本』」(東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室 )所収の左枠「国会外の演説・文書 総理大臣」より転載する。 |
経団連第三十五回定時総会にあたり私の所信の一端を申しのべたいと存じます。
これまでの日本は、先進諸国に追いつくことを目標に、「成長が成長を呼ぶ」という成長追求型の経済運営を行なってまいりました。政府の政策も、重化学工業化を中心に経済成長の維持と拡大に重点をおき、企業も経営の規模拡大をおもな目標としてきました。この結果、わが国経済は、世界有数の実カを持つにいたり、企業は、経営基盤を拡大し強化することに成功し、国民の所得はふえ、生活水準も向上しました。これまでのわが国経済の歩みは、疑いもなく成功の歴史であったのであります。これは、何よりも、国民各位の努力と英知のたまものであり、ご同慶のいたりであります。 しかし、その結果、東京、大阪などの太平洋ベルト地帯へ人口、産業か過度に集中し、世界に類例をみない高密度社会を形成するに至りました。巨大都市は、過密のルツボで病み、公害、土地、住宅、ゴミ、物価などの問題を抱えております。他方、農山漁村では、若者が減って高年齢化が進み、進歩のエネルギーが失われようとしております。 しかも、わが国人口は、昭和六十年までに一千五百万人程度増える見通しであります。大都市の人口集中をこのまま放置すればそのときまでに、東京圏で新設の必要な教育施設は、幼稚園三千五百九十、小学校二千六百七十、中学校千九百、高等学校九百五十となります。さらに、発生する廃棄物を処理するためには、トラックを延べ千三百四十万台、清掃工場を新たに六十ヵ所必要といたします。また、六十年時点における野菜の需要量五百四十五万トンに対し、三百八十八万トンは、東京圏外から供給をうけなければならなくなります。また、利根川、淀川に代表される大都市地域では、水不足が一般化しており、それ以外の地域では、年間約百億トンの余力があるのであります。 このような数字からみても、これ以上の都市集中は、都市機能の破壊につながるのであります。しかも、大都市だけを改造すればその便利さを求めて、地方からさらに人口が集まり、都市人口は、とめどもなくふえ続けることとなります。だからこそ、都市集中の奔流を大胆に転換して、失われ、破壊され、衰退しつつある日本人の“ふるさと”を全国的に再建して、地方も大都市も、ともに人間らしい生活が送れる状態につくりかえることが必要なのであります。 経済政策も、成長のみを追求するのではなく、成長によって拡大した経済力と成長の果実を、国民福祉の充実と国際平和の推進に積極的に活用していくことが強く要請されているのであります。 このため、このたび土地政策の基本法ともいうべき国土利用計画法案か成立する運びとなったのを契機として、二十一世紀を展望した長期にわたる国土改造のビジョンを樹立するとともに、それに沿って昭和五十一年度を初年度とする国土改造の十カ年計画の策定に着手してまいりたいと考えます。国土総合開発審議会等の場における検討を通じて、国民各層の意見を十分聞いてまいりますが、この新しい計画は、人口、食糧、水、土地、環境などの長期展望のうえに、美しい自然に恵まれ、人間性の豊かな“新しいふるさと”を建設していくプログラムを明らかにするものであります。とくに、新しいふるさとの文化的な核ともいうべきものは、高等教育機関の充実であります。そのため大都市における大学の新増設の抑制と地方における大学の拡充によって全国的に均衡のとれた大学の配置を行なってまいります。同時に諸外国の大学にみられるように、地方の環境のよい都市に大学を整備し、あるいは、全く新しい視野と角度から環境のよい湖畔、山麓など山紫水明の地に広大な敷地を確保して新学園を建設してまいりたいと考えます。また、“新しいふるさと”づくりのなかで、私のかねてからの主張である住宅・宅地一千万戸構想も、国民の財産づくりの一環として具体化していきたいと考えております。 産業構造は、資源をたくさん使う重化学工業から人間の知恵や知識をより多く使う産業つまり、より働きがいがあり、労働環境もより安全で清潔な産業へウエイトを移してゆくこととなります。他方、農業およびそれが営まれている農村は、福祉社会形成の基盤ともいうべき根本的な役割をになうこととなります。そして、農業と工業のバランスのとれた発展をはかり、町にも村にも工場の周辺にも豊かな空間と色こい緑地を設け、インダストリアル・パークなど新しい鎮守の森を復活させてゆきたいのであります。 しかも、ふるさとには、家族や隣人を愛する心が残っております。戦後、封建的な村落社会や伝統的な家族制度から解き放たれた人間性は、いま都市化と工業化の流れのなかで再び失われようとしているのであります。カサカサした現代社会を救うのは、正しい自己意識に立脚した温かい連帯感であります。私は、ふるさとに温存されている連帯意識の輪を広げて、新しい地域社会や職場環境を形成していくべきものと考えます。 各位に申しあげるまでもなく、今日の日本を築いた私たちのエネルギーは、地方に生まれ、都市に生まれた違いはあったにせよ、ともに愛すべき誇るべき“ふるさと”のなかに不滅の源泉があったのではないでしょうか。今こそ、“ふるさと”を愛し、“ふるさと”を豊かにする新しいふるさと運動を全国的にくり広げていく時機を迎えております。私は、少なくとも各県に一力所ずつの新しいふるさと−二十五万人単位の生活圏をそれぞれの地域の特性を生かしつつ、つくりあげてゆくべきものと考えます。ふるさとの創造は、なによりもまず、それぞれの地域社会の発意のうえに推進することが必要であります。企業および企業経営者も、狭い企業内の経済計算に固執することなく、新しい視野と立場と角度から、事務所および事業所の全国的再配置を検討していただきたい。政府も、公園、上下水道などの生活環境の整備、道路、鉄道、港湾等の建設、整備の面で積極的に協力してまいりたいと考えます。 このように、“ふるさと”を創造し、高度福祉社会を建設してゆくことは、緊急の課題でありますが、インフレを起こしたのでは、その目的は達せられません。こういう大事業は、国家百年の大計という長期的展望に立って総需要の動向などを勘案しながら、適度なテンポで着実にことを進めていくことが肝要であります。 次に、当面する物価問題について一言いたします。 中東紛争を契機とする石油の供給削減と価格の大幅引上げによって加速された物価の上昇は、総需要の抑制をはじめとする官民あげての努力により、沈静化の兆を見せております。しかし、物価の抑制は第二段階にはいっております。コストの問題がそれであります。石油製品価格の引上げに続く電力料金の値上げによって、わが国経済と国民生活は、高価格エネルギー時代を迎えることとなりました。しかも、今次春闘では、三〇%をこえる超大幅の賃上げが行なわれました。 春闘による賃上げのコストプッシュ要因は卸売物価について九・五%、消費者物価で一〇%程度という試算もあります。また、今回の電力料金の改訂は、卸売物価について一%程度の上昇要因になるといわれております。 これらの新しいコスト要因を安易に価格に転嫁することなく、できる限りこれを吸収することが産業界の当面する緊要な課題であります。 従来、わが国の卸売物価が西欧先進国に比べ優れて安定してきたのは、高度成長経済の過程でわが国の企業がたゆまぬ技術革新と設備投資によって生産性を高め、コスト要因を吸収してきたからにほかなりません。資源問題、環境問題等の制約によって従来のような高度成長が許されない現在、企業経営者は、自由経済のヴァイタリティと創意工夫によって、コスト要因の吸収に全力を傾けてほしいのであります。また、企業に働く者も生産性向上があってこそ、はじめて賃金が実質的に上昇するという自明の理を自覚することをのぞみたいのであります。 政府としても、物価と賃金の悪循環を断ち切り、賃金問題と国民経済全体との調和をはかってゆくために、国民の衆知を結集して経済成長、物価、賃金、生産性等の諸関係について研究を深めてまいりたいと考えます。 政府は、適正な需給バランスを維持し、需要面からの物価上昇要因を抑えるため、引き続き総需要抑制策を堅持してまいります。とくに金融面については、引締め政策を継続するとともに、選別融資、中小企業金融に配慮してまいりたいと考えております。 また、生産性の向上を刺戟し、最も効果的に進めるための条件は競争の促進であります。「市場の力」により、自由な競争を通じて価格形成が行なわれることが望ましいことは言うまでもありません。いやしくも管理価格の批判を招かぬよう、競争促進政策を重視してまいります。 このような基本的な物価対策を臨時的に補完する形で政府は、基礎物資や日常生活に大きな影響をもつ一部の物資の価格について標準価格を設けたり、行政指導による価格の抑制を行なっております。しかし、これは、あくまで緊急の事態に対処するための例外的な措置であり、物価動向を十分見極めながら徐々に撤廃してゆくべきものと考えます。 自由主義経済体制の下において、企業は、自発的な創造力と節度ある企業家精神を発揮することが基本であり、これが福祉国家日本を支える経済的な基盤であります。企業及び企業経営者は、深い洞察と的確な判断力に基づいて企業レベル、産業レベル、地域レベル、国家レベルのそれぞれの領域において、物価問題はもとより、労使問題、“新しいふるさと”問題、国民福祉、国際協調の問題など広い分野の問題について、積極的に対応することを求められております。 本日ご参集の経営者各位は、その責任の重大さを自覚して当面の問題に対処されるとともに、長期的には、国土全体を人間と太陽と緑が主人公となる人間復権の新しい文明社会につくりかえ、心のふるさとをよみがえらせることに協力されることを心から期待いたします。最後に、各位のご健闘をお祈りして私の挨拶といたします。 |
【1974.9.25日、トロント大学名誉学位授与式における首相スピーチ】 |
「データベース『世界と日本』」(東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室 )所収の左枠「国会外の演説・文書 総理大臣」より転載する。 |
マクドナルド総長,エヴァンズ学長並びに御列席の皆様 私は,3年前第6回日加閣僚委員会に出席のためトロントの地をふみ,「豊沃な土地」という名にふさわしい当地の風物に深い感銘を覚えて以来,再び当地を訪れることを切望してきました。本日この夢が果され,加えて由緒あるこのトロント大学より名誉法学博士号の栄誉を受けたことは,望外の喜びとするところであります。 エヴァンズ学長ほか大学関係者の方々に,深甚なる謝意を表したいと思います。 私は,過去3回のカナダ訪問を通じ,北極圏から温帯に至る広大な土地,多様な人種と文化が渾然として一体をなし,調和のとれた発展を示しているカナダの歴史に大きな興味を持つてまいりました。カナダ建国以来脈々として流れる旺盛なパイオニア精神に深い共感を覚えてまいりました。今回トルドー首相ほかカナダ各界の指導者及び国民各層と親しくお話しする機会をえて,厳しい自然環境の中に生き,これを克服し,さらには人間の生活向上のために自然を利用して行く雄々しい活力がカナダを支えていることを痛感しました。 今日,私はトロント大学を訪れ,この学問の府が優れたバイタリティーを持つカナダ国民に未来への道を示し,知識の糧を与える役割を果してきたことを実感いたしました。「ときのうつりかわりとともに成長する木のごとく」国民生活に根をはつている本大学は,将来とも多くの実を結び続けてゆくでありましよう。 いずれの国においても,その歴史と文化に根ざした独自性を確立し,国民にとつて最良の生活を実現しようと努めるにあたり,その物的資源を利用するばかりでなく,国民の資質と知的資源を最大限に活用して行くことが必要であります。このため日加両国とも,よりよき明日の世界を築く青少年を育てるにあたつて教育の果す役割を非常に重視しております。 世界第2の広さを誇り,あふれるばかりの水と資源に恵まれたカナダにおいても,また,オンタリオ州の3分の1ほどの狭い国土に,1億1,000万の人口を擁し,資源のほとんどを海外に依存する日本においても,次の世代は自己の能力を存分に開発し,可能性の地平線を広げてゆく意気に燃えております。私は,日加関係の将来をかかる気慨をもつて展望しなければならないと思つているのであります。 過去10年間に日加間の貿易量が4.4億ドルから約30億ドルへと7倍にも増大したことは,日加関係のめざましい発展を示すものであります。しかしながら,国家間の関係がかかる物的側面のみに限られるものでないことはいうまでもありません。日加両国が共通の運命を確認し,将来のあるべき世界のヴィジョンを持つて,その実現のために力をあわせてゆくことが必要となつているのであります。 日加両国民の最大の願望は,平和な世界を実現し,これを永続させることであります。そのためには軍事大国間の相互抑制のみでは不十分であります。大国間の緊張緩和への動きを促し,同時に世界各地に内在する紛争の芽を摘んでゆくには,国力や発展段階の異なつた世界の諸国の意識的努力が必要であります。 日本もカナダも,軍事力によらないで広く政治,経済面での国際協調により,平和に貢献するため堅実な努力を続けております。かかる両国の役割は,地味なものではあるとしても,その重要性は増大するばかりであります。 日加両国は,自国の政策として核兵器保有国になることを排し,すべての核実験の停止を追求し,核軍縮を含む軍縮の促進にそれぞれ独自のイニシァティヴをとつております。さらに,両国は,人類が核の脅威にさらされることのない世界を作るため,不断の努力を行つており,また,将来にわたりこの分野での貢献を続けて行くでありましよう。私は,カナダが世界の各地において果されてきた平和維持活動の貴重な役割に対し深い敬意を払うとともに,わが国もまた,世界各地の平和の確保に地道な貢献をしてゆきたいとの決意をもつていることをここに明らかにしたいと思います。 経済の分野では,昨年秋以来の諸事態の進展に伴い,多くの国はインフレの昂進,経済成長の大幅な落ちこみ,国際収支の悪化等多くの問題に直面しております。そのうちでも,インフレの解決は多くの国にとつて最大の課題となつており,わが国においても,目下インフレ抑制に最重点をおきつつ,同時に国民の福祉の一層の向上をはかるべく諸施策を進めております。 しかしながら,今日のごとくこれらの問題が相互に密接に関連し,しかも各国間の経済交流が緊密になつている状況にあつては,これらの問題について一国のみで有効に対処できる余地は限られております。各国が国内的観点のみに立つて政策を進める場合には,結果として世界経済全体に深刻な困難を招来しかねません。 われわれが現在必要としているのは,世界経済が縮小均衡の道を歩むことのないよう,各国政府間で今までにも増して緊密な協調を保つことであります。世界経済の秩序を再建し,安定と発展をもたらすために,今日ほどわれわれの英知と協力を必要としている時代はないと考えます。 世界の投げかけるこのような諸問題に対する共通の認識に立つて,日加関係の幅と深みを増す方途を探究するために,私はカナダを訪れたのであります。 日加両国は,おかれた立場を異にし,経済的,歴史的,文化的背景も異なるので,個々の具体的問題に対するアプローチは,必ずしも一致していないのであります。しかし,両国国民の強固な意思とたゆまない努力をもつてすれば,個々の相違を克服した新しいダイナミックな協力関係と創造的補完関係を必ず確立してゆくことができるものと信じます。ここでわれわれは,まず両国間の関係を拡充し,深化してゆく意思と努力をお互いに確認し合おうではありませんか。 そして,日加関係を,政治,経済,文化,科学技術等多岐にわたる諸分野で拡充強化し,太平洋を結ぶ新しく大きいかけ橋を構築してゆこうではありませんか。これは,日加関係の新時代の幕あけを象徴するものであります。このかけ橋は,やがて太平洋を囲み共通の利益を有する諸国にまで延長され,環太平洋国家間の新しい協力関係が形成されてゆくこととなります。その中で日加両国は,世界の安定と繁栄を支える強固な鎖の一環となりうるものと信じて疑いません。 この度の日加首脳会談においては,文化の分野で両国の一層の歩みよりをはかることが重要な話題となり,そのための具体的措置についても合意をみたのであります。このようなとき,カナダにおける日本研究の重要な拠点であり,両国間の相互理解の増進のため一層の貢献を期待しうるトロント大学を訪問できたのは,私にとり貴重な体験であります。 私は青年時代にトロント大学のごとき立派なところで教育を受ける機会にめぐまれませんでした。それだけに学問の尊さを人一倍感じて,絶えず学問と取り組んでまいりました。人生の旅路,56才にして貴大学の卒業生のひとりに加えていただき感慨新たなものがあります。 学問の道は,人類の将来にとつて無限の地平線を切り拓いてゆく長い旅であり,強じんな意志と,創造性と忍耐力を要するものであります。 私は,日加両国関係の将来も,同様に強じんな意志と,創造性と忍耐力をもつて切り拓いてゆくべき無限の可能性を秘めていると信じます。 この価値ある旅路にトロント大学が将来にわたり明るい光を投げかけ続けることを祈つて私の挨拶を終ります。 |
【1974.10.22日、外国特派員協会における首相スピーチ】 |
「データベース『世界と日本』」(東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室 )所収の左枠「国会外の演説・文書 総理大臣」より転載する。 |
エリアス会長、御列席の皆様 本日は、日本の発展と相共に、ますます声望を高めつつあるこの外国特派員協会において、皆様に御目にかかれることを嬉しく思っております。 私がこの協会の行事に出席したのは、今から二年前、日本外交史上画期的な日中国交正常化が実現された直後のことでありました。それから二年間、世界は、通貨、インフレ、食糧、エネルギー問題等、さまざまな困難に直面して来ました。わが国もまた、その例外ではありませんでした。 国際通貨の問題一つをとって見ても、スミソニヤソ体制が小康を得てから一年を出ずして通貨不安が再燃し、基軸通貨としてのドルの切下げを契機として、わが国を含む西欧先進諸国が変動相場制に移行するのであります。昭和四十八年度予算において、国民福祉と物価安定と国際収支の均衡という三つの課題(トリレンマ)を掲げ、国際通貨問題の処理に東奔西走した愛知大蔵大臣が死去されたのは、石油問題が発生して間もない時期でありました。 昨年の秋、中東紛争に端を発した石油危機によって、世界の主要エネルギー源たる石油の価格が四倍もはねあがるという、戦後、世界経済が経験したこともない最大級の試練に直面するのであります。各国のインフレは昂進し、これを抑制するための引締め政策の結果、厳しい不況に直面している国もあります。一九二九年に世界を襲ったパニックにも匹敵する不況という者もあります。しかし、人類の経験と英知と、緊密な国際協調によって、この不幸な事態を最小限に抑えることが可能であると確信しております。 私は、社会主義体制下の経済が沈滞から容易に脱却できないでいるのと同様に、資本主義社会が若干の撞着に遭遇しているものと考えざるをえません。しかしながら、人類に自由を付与する体制こそが、個人に責任と自覚を促がし、逞しい飛躍を約束する原動力になることを信じて疑いません。したがって、はかばかしくない今年の経済も、明年は、一層の国際間の協力を通じ、諸困難を克服し、より明るいものへと着実な歩みをとげろものと思います。 この二年間、日中国交正常化のあと、私は、EC諸国を訪問し、ヨーロッパとわが国との距離を克服するように努力しました。その後、ソ連を訪問し、十七年間も事実上放置されてきた北方領土の問題を正面からとりあげたのであります。 わが国にとり、重要なことは、東南アジア諸国との友好親善関係の強化であり、近く訪問するビルマを含め、わが国は今後とも、これら諸国との隔意ない相互理解をはかってまいらなければなりません。更に、東南アジアの安定と繁栄の実現のためには、ASEAN諸国との協力に加え、大洋州諸国との連帯強化が肝要であり、私は、きたるニュー・ジーラソド、豪州訪問に大きな希望を託しております。 わが国経済力の発展に伴い、わが国としては、その外交の地平をひろげていかなければなりません。メキシコ、ブラジル、カナダ首脳との話合いも、かかる観点から行われたものであり、今後ともこれら諸国との関係を一層大切にしてまいらなければなりません。太平洋を文字どおり、平和と繁栄の湖にすべく、フォード大統領はじめ環太平洋諸国の指導者との協力関係を推進してまいります。 私は、わが国をとりまく国際環境の厳しさ、世界経済の直面する諸困難についてなんらの幻想もいだいておりません。また、わが国の一部には、島国に由来する相手の立場を無視した一人よがりの主張が横行し、わが国の正しい歩みの妨げになっていることも承知しております。しかしながら、わが国の長い歴史をひもとくまでもなく幾多の困難をのりこえてきた日本人にこの程度の問題が解決できないはずがありません。日本民族のもてるエネルギーを活用し潜在的エネルギーをひきだし、これを有効に組織化し、誘導することこそが必要なのであります。私は、国民多数の支持と理解をえて、時代の要請にこたえ「より豊かな日本への道」を前進いたします。御静聴ありがとうございました。 |
【1974.11.19日、フォード大統領歓迎午餐会に於ける首相スピーチ】 |
1974年11月19日、「フォード米大統領歓迎午餐会における田中内閣総理大臣のスピーチ 」(田中内閣総理大臣演説集,572−574頁)。 |
フォード大統領閣下,並びに御列席の皆様
本日ここに,フォード大統領,並びにキッシンジャー国務長官ほか,御一行の歓迎の宴を開くことが出来ましたことは,私の最も欣快とするところであります。 アメリカ合衆国が,その源である欧州に目をむけがちであることは,容易に理解できるところであります。しかしながら,今日の大を築きあげ,世界の政治経済に決定的な影響力を持つに至った貴国が,太平洋の側からも平和を志向するのでなければ,世界の平和を有効に維持することはできないのであります。大西洋の彼方に対する郷愁と,太平洋の彼方に対する意欲とが相まってこそ,世界の繁栄へむけての米国の貢献が全うされると思います。 そのようなとき,貴大統領が,就任後最初の公式訪問国として,アジア太平洋の平和の礎たらんとしているわが国を訪れられたことは,まことに時宜を得た決定であります。また,貴大統領が日米関係の重要性を身をもって実証されたものとして,日本国民を代表して敬意を表する次第であります。 ただ一つだけ残念なことは,私が妻と共に,貴大統領御夫妻をお迎えすることを楽しみにしておりましたところ,夫人が思いがけない御病気のため,訪日を断念されたことであります。この試錬を勇気をもって克服された夫人が,あらためて訪日の機会を持たれることを心からお祈りいたします。 私は,今朝のうちとけた会談において,日米修好史のひとつの挿話を想い起こしました。万延元年に日米修好通商条約の批准書交換のため,幕府より米国に派遣された使節団は,米国議会を訪れた際,江戸城内の荘重な評定と全く対照的に活発な審議ぶりに,驚愕したと伝えられています。一行の副使村垣淡路守は,その様子を「わが日本橋の魚市のさまによく似たり」と日記に記しております。 その後百十余年の変遷を経て,かつて魚市場にたとえられた議会制度は,わが国の土壌にだんだんと根を下ろすに至りました。青年期より四半世紀以上にわたり議会政治の実際に携って来た貴大統領と私は,今日,日米両国が自由と民主主義の共通の理念によりしっかり結びつけられていることを確認し合っているのであります。 貴大統領の出身地グランド・ラピッズは,一八七六年にフィラデルフィアで開かれた,アメリカ合衆国建国百年祭において,「米国の家具の都」として広く全米に名をはせるに至りました。二年後のアメリカ合衆国建国二百年祭のときは,グランド・ラピッズと,それが輩出した偉大な政治家フォード氏とが,広く世界に確たる名声を築かれているものと,私は確信しております。 今日,世界に占める日米両国の国民総生産の大きさ,日米間の貿易の規模をみるまでもなく,日米両国の結びつきは,国民生活のすみずみにまで浸透しており,海をこえた二国間の関係では歴史上例をみないほどの広がりと深みを有しております。両国の間に横たわる太平洋は,もはや制御することのできない荒海ではなく,両国間の人と物と知識のよどみなき流れを保つ堅固な回廊であり,ゆるぎない信頼と友情の架け橋なのであります。私は,日米の緊密なつながりを,それぞれ外交政策の主要な柱とする両国の努力を通じて,この回廊と架け橋を広く他の環太平洋諸国にまで延長し,太平洋をその名の通り永続的な平和と安定の大海原とすることを念願してやみません。 世界は,一方では物価の高騰,他方では景気の後退,さらにエネルギー,食糧等と解決の極めて困難な問題に直面しております。日米両国は,国際社会において占める重大な責任を認識しつつ,貴大統領がフットボールの名選手として体得されたチームプレーの精神に立ち,これらの難問解決のため協力対処して行かなければなりません。 今回の貴大統領との会談は大変みのり多いものであります。私は,貴大統領の訪日が日米修交史に輝かしい足跡を残し,日米友好関係に新たな一ページを加えるものとして満足にたえません。 最後に,フォード大統領の御健康とアメリカ合衆国国民の繁栄を祈って皆様と共に乾杯致したいと存じます。 |
【1974.11.20日、田中総理大臣とフォード大統領との間の共同声明】 |
1974.11.20日、「田中総理大臣とフォード大統領との間の共同声明」(外交青書19号,99−101頁)。 |
フォード大統領閣下,並びに御列席の皆様
本日ここに,フォード大統領,並びにキッシンジャー国務長官ほか,御一行の歓迎の宴を開くことが出来ましたことは,私の最も欣快とするところであります。 アメリカ合衆国が,その源である欧州に目をむけがちであることは,容易に理解できるところであります。しかしながら,今日の大を築きあげ,世界の政治経済に決定的な影響力を持つに至った貴国が,太平洋の側からも平和を志向するのでなければ,世界の平和を有効に維持することはできないのであります。大西洋の彼方に対する郷愁と,太平洋の彼方に対する意欲とが相まってこそ,世界の繁栄へむけての米国の貢献が全うされると思います。 そのようなとき,貴大統領が,就任後最初の公式訪問国として,アジア太平洋の平和の礎たらんとしているわが国を訪れられたことは,まことに時宜を得た決定であります。また,貴大統領が日米関係の重要性を身をもって実証されたものとして,日本国民を代表して敬意を表する次第であります。 ただ一つだけ残念なことは,私が妻と共に,貴大統領御夫妻をお迎えすることを楽しみにしておりましたところ,夫人が思いがけない御病気のため,訪日を断念されたことであります。この試錬を勇気をもって克服された夫人が,あらためて訪日の機会を持たれることを心からお祈りいたします。 私は,今朝のうちとけた会談において,日米修好史のひとつの挿話を想い起こしました。万延元年に日米修好通商条約の批准書交換のため,幕府より米国に派遣された使節団は,米国議会を訪れた際,江戸城内の荘重な評定と全く対照的に活発な審議ぶりに,驚愕したと伝えられています。一行の副使村垣淡路守は,その様子を「わが日本橋の魚市のさまによく似たり」と日記に記しております。 その後百十余年の変遷を経て,かつて魚市場にたとえられた議会制度は,わが国の土壌にだんだんと根を下ろすに至りました。青年期より四半世紀以上にわたり議会政治の実際に携って来た貴大統領と私は,今日,日米両国が自由と民主主義の共通の理念によりしっかり結びつけられていることを確認し合っているのであります。 貴大統領の出身地グランド・ラピッズは,一八七六年にフィラデルフィアで開かれた,アメリカ合衆国建国百年祭において,「米国の家具の都」として広く全米に名をはせるに至りました。二年後のアメリカ合衆国建国二百年祭のときは,グランド・ラピッズと,それが輩出した偉大な政治家フォード氏とが,広く世界に確たる名声を築かれているものと,私は確信しております。 今日,世界に占める日米両国の国民総生産の大きさ,日米間の貿易の規模をみるまでもなく,日米両国の結びつきは,国民生活のすみずみにまで浸透しており,海をこえた二国間の関係では歴史上例をみないほどの広がりと深みを有しております。両国の間に横たわる太平洋は,もはや制御することのできない荒海ではなく,両国間の人と物と知識のよどみなき流れを保つ堅固な回廊であり,ゆるぎない信頼と友情の架け橋なのであります。私は,日米の緊密なつながりを,それぞれ外交政策の主要な柱とする両国の努力を通じて,この回廊と架け橋を広く他の環太平洋諸国にまで延長し,太平洋をその名の通り永続的な平和と安定の大海原とすることを念願してやみません。 世界は,一方では物価の高騰,他方では景気の後退,さらにエネルギー,食糧等と解決の極めて困難な問題に直面しております。日米両国は,国際社会において占める重大な責任を認識しつつ,貴大統領がフットボールの名選手として体得されたチームプレーの精神に立ち,これらの難問解決のため協力対処して行かなければなりません。 今回の貴大統領との会談は大変みのり多いものであります。私は,貴大統領の訪日が日米修交史に輝かしい足跡を残し,日米友好関係に新たな一ページを加えるものとして満足にたえません。 最後に,フォード大統領の御健康とアメリカ合衆国国民の繁栄を祈って皆様と共に乾杯致したいと存じます。 |
【1974.11.26日、「退陣に当って」】 |
片岡憲男著「田中角栄邸書生日記」(日経BP企画、2002.4.30日初版)の付録に「田中角栄総理大臣 主要演説」の該当箇所より転載する。 |
【1974.12.3日、「安保条約問題(総理発言案)」】 | |
1974.12.3日、「安保条約問題(総理発言案)」(外務省,いわゆる「密約」問題に関する調査結果報告対象文書(1.1960年1月の安保条約改定時の核持込みに関する「密約」問題関連),文書1-12
)。
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(私論.私見)