れんだいこのマルクスのユダヤ人問題論考

祝せ、れんだいこ訳マルクス著「ユダヤ人問題について」 れんだいこ 2004/04/24
 2004.4.24日、マルクス著「ユダヤ人問題について」のれんだいこ訳が一応完成した。
 marxismco/marxism_genriron_gensyo_yudayazinmondaico.htm

 この快挙に「自分で自分を褒めてやりたい」。参照したのは、ネット上に公開されている英文と大月書店「マルクス・エンゲルス選集補巻4」所収の「ユダヤ人問題について」である。英文の的確さは分からないが原書の独文に当たる事は気の遠くなる話だから仕方ない。

 大月書店訳についてはもはや毎度のことながら先人による参考本的意味しか持たない。意図してか意図せざるかの真偽は不明ながら恐るべき誤訳がここでも随所で確認された。これを思えば、従来の左翼者とは如何に頭が良いのかが分かる。眼光紙背で真意を読み取っていたのだろう。しかし、もはやそういう苦労はいらなくなった。以降は、こたびのれんだいこ訳が叩き台になるであろう。いずれもう一度目を通し、論点が浮き彫りになるような訳出に切り替えたいと思う。

 れんだいこがこの時期なぜ「ユダヤ人問題について」の訳出に向かったのか。それは現代一級の理論課題となっているシオニズムを知る為である。マルクスがこれにどう対応しようとしていたのか、本書にキーワードが隠されていないか知る為であった。

 今、仮訳してみて、相変わらず不明のような気がするが、マルクス在世中において「ユダヤ人問題について」がかなり重要な論点になっていたことは分かった。ユダヤ人問題がマルクス解放理論の原点になっているような気もする。

 ユダヤ人問題をユダヤ人問題として設定した上で、そのような設定の仕方を否定するバウワーと、そのような設定の仕方を揚棄させようとするマルクスの態度の違いが分かった。

 しかして、この両者の見解のどちらが正しかったのかについては今もって不明な気がしないでもない。なぜなら、その後のいわゆるシオニズムの台頭に対してバウワーの舌鋒の方が鋭い気がしないでもないからである。マルクスは、今日のネオコン式シオニズムに対してあまりにも態度が鷹揚な気がしないでもないからである。

 そんなこんなを気づかされた「ユダヤ人問題について」の訳出旅であった。誰かが為さねばならず、にも拘らず為されていない故にれんだいこが慣れない手つきで挑んだ労作となった。まずは一応の波止場に着いたことを祝せ。誰も祝さないなられんだいこ一人でも祝す。

 2004.4.24日 れんだいこ拝


【マルクスのユダヤ人問題考の視座考】
 「ユダヤ人問題について」は、マルクス・エンゲルスの著作の中でかなり重要な地位を占めている割にはさほど検討されていない。れんだいこの知る限り「ユダヤ人問題について」はサイトアップされていないし、出版物としての和訳本があるにはあるものの単行本としては出版されていないようである。

 その理由はひとえに内容が難しいことにあるように思われる。内容のどこがどう難しいのか。それは、恐らくかなり高度な政治的見解の遣り取りになっており、しかも当時の「ユダヤ人問題」に対する状況、つまり何がどう争われ対立していたのかという時代の状況背景が踏まえられないとさっぱり分からない仕掛けになっていることにあるのではなかろうか。

 加えて、文体そのものの難しさがある。一文章がかなり長文化しているところもあり為に読みにくさを倍化させている。しかも、東洋の我々にとっては、ユダヤ−キリスト教圏の遣り取りという歴史的風土の違いからくる難しさがあり、宗教的基盤を共有していない東洋圏にあってこれを理解するにはかなりの素養が要求されるだろう。

 そして最後に最大の難点がある。つまり、現在の訳本が、れんだいこの手元にあるのは大月書店刊行のマルクス・エンゲルス選集補巻4の「ユダヤ人問題によせて」であるが、訳があまりに稚拙であり、意味が通じない。他に、訳本が何種類あるのか知らないが、「共産主義者の宣言」訳で判明したように似たり寄ったりの水準でしかないのではなかろうか。この間多くの学者が居るというのに、そしてマルクス主義の駄弁にうつつを抜かした長大な時間があるというのに、彼ら自称インテリ達は生産的な仕事をしていないことが、この一事でもっても分かる。

 かってれんだいこは、どこの出版で誰の訳本か失念したが「ユダヤ人問題について」を読み進めようとして早々と退散した覚えがある。今になって思うに、これは当たり前だったのだ。既成の訳本ではさっぱり分からない。マルクス・エンゲルス選集補巻4所収の訳本の場合は、意図的故意の誤訳か訳者自身の能力問題か不明ではあるが、とても評価に耐えない代物でしかない。しかしとはいえ、これもないよりは随分ましでこたびのれんだいこの訳出に役立った。

 今、れんだいこは、れんだいこ和訳本に向かっているが、「共産主義者の宣言」同様に、以降はこのテキストによらずんば読んだ事にはならない、という程度のものに仕上げようと思う。とにかく、既成の特に日共系のものは信用ならない。従って、日本左派運動は、彼らの版権の紐を緩めて貰おうなどという根性から決別し、自前のものを創り出して行くべきだろう。その為に共同的に協働せねばなるまい。皆様方に、参考になるサイト、訳文の紹介を頼む所以がここにある。

 さてそれから、要するに「ユダヤ人問題によせて」で何が問われ、マルクスはどう解析し、今日からみてこの論考が如何なる点で意義が認められるのか、あるいは欠陥も認められるのか等々について明らかにしようと思う。今はその段階ではない。

 もう一つ関心がある。マルクス研究上いわゆる陰謀史観に出くわす事がある。それによれば、マルクス主義なるものは、「シオンの議定書」で漏洩されたユダヤ人による世界支配計画の環の中に位置するものであり、労農大衆の解放理論とはならない云々というものである。その昔のれんだいこは、そういう観点に同意しなかった。しかし最近になって思うことは、マルクスのマルクス主義はそのようなものではなかったにせよ、マルクス自身をして「私はマルクス主義者ではない」と云わしめた俗流マルクス主義はかなりシオニズムに御せられた主義思潮であると思うようになった。この観点については今後更に磨きをかけていくつもりである。

 そういうところから急遽、マルクスの「ユダヤ人問題考」、「シオニズム考」を知りたくなった。マルクス著「ユダヤ人問題について」がこれに正面から応えているのかどうかは別にして一端でも窺い知れるのではないか、ならば読了せずんばなるまい、と思うようになった。そこでれんだいこ訳に挑戦したというのが経緯となって本サイトが生まれた。その読了成果を以下に書き記しておこうと思う。 

 2004.2.17日 れんだいこ拝


 ところで、本書では何が問われているのだろうか。これを解説してみたい。(以下、略)




(私論.私見)