パレスチナ問題を解くための歴史 11、現代史篇その4、1980、90年代

1980  イスラエルのエルサレム恒久首都化宣言。占領地入植を強化。
1980  【イスラエルとエジプトが国交回復】エジプトとイス ラエルが国交樹立。イスラエル軍がシナイ半島より撤退開始。

 1980年、レバノン各地でシリア軍とLFが衝突した。LFは東ベイルートとベッカー高原を結ぶ軍事道路を構築しており、シリアはLFの陣地に攻撃を仕掛けると、LFはイスラエル軍に対して救難を要請し、イスラエル空軍の戦闘機がシリア空軍のヘリコプターを撃墜した。シリアはこの報復としてレッドライン協定に反して地対空ミサイルをベッカー高原に配備した。協定は有名無実になりつつあり、一触即発の事態に陥った。1981年、アメリカの仲介によって、シリアとイスラエルの衝突を回避した。

【イラン・イラク戦争勃発】
 1980.9.17日、宗教抗争やイラン・イラク間の国境線対立に不満を持っていたイラクのサダム・フセイン大統領が、欧米やアラブ保守国の援助を受けて隣国イランに武力侵攻。その後両国の泥沼戦争は9年続くことになった。欧米や保守的アラブ産油国(サウジアラビア)は、1979年のイラン・イスラム革命以来、他国にもイスラム革命が波及することを恐れ、イラクのサダム・フセイン大統領に対イラン戦争をけしかけた、と云われている。

 1988.7.18日に停戦したが、 イラクはこれらの国々からの援助によりアラブ最大の軍事大国となり、フセインの野望は後の湾岸戦争へとつながることになる。

 イスラエル国会、東西エルサレム首都宣言可決。
1981  【エジプトのサダト大統領暗殺される】サダトの中東和平化路線が「イスラム原理主義者」の怒りをかい、暗殺された。イスラム急進派「ジハード」のテロリストの犯行であった。サダトの左翼勢力を押さえつけるためのイスラム教推奨政策が、かえって仇となった。後任に副大統領のホスニ・ムバラクが就任。
 ファハド国王(サウジ)、八項目提案。
1981  教皇ヨハネ・パウロ二世、来日。イスラエル、イラクのオシラク原子炉を空爆・破壊。
1982  イスラエル軍シナイ半島から完全撤退、返還される。但し、イスラエルは、ゴラン高原、東エルサレムを併合した。
1982.6.3  ロンドンで駐英イスラエル大使がパレスチナゲリラに狙撃され、重傷を負う事件が発生。イスラエルは報復として、ベイルート及び南レバノンのPLOの拠点を攻撃。

【イスラエル軍機甲部隊がレバノン領内に電撃的侵攻】
 1982.6.6日、駐英大使に対するPLOのテロへの報復と、PLOの攻撃がイスラエル北部のガラリア地方の安全を脅かすという口実で、隣国イスラエルが越境して侵攻北上し首都ベイルートへ進軍し、 PLOとシリア軍を包囲した。イスラエル軍はLFやアマルと組んでレバノンに駐留するシリア軍を壊滅させた。この際、国産戦車メルカバを初めて実戦投入し、当時ソ連の最新鋭戦車であったシリア軍のT-72を多数撃破する戦果を挙げている。イスラエル軍のこの包囲は2カ月間続いた。サブラとシャ ティーラ難民キャンプでパレスチナ人の大量虐殺発生(サブラ・シャティーラの大虐殺)(ガリラヤの平和作戦、第一次レバノン戦争)。

 PLOはやむなくベイルートから撤退し、チュニスへ移動した。このイスラエルの動きに欧米だけでなく、他のアラブ諸国までも黙認した。アラブ諸国の保守的な支配層は、イスラエルとの対立を先鋭化することで欧米諸国との関係を悪化させたくなかったという事情から黙過した。エジプトはイスラエルとの和平交渉を行っていた。 6.11日の停戦時、エジプトは、ガザ地区とシナイ半島を、ヨルダンは西岸地区全域を、シリアは、オラン高原をイスラエルに奪われた。6.13日、西ベイルートへ突入。国際的非難を受けながらもベイルートの包囲を続ける。

 8.9日、国連安全保障理事会がイスラエルの非難決議を採択。但し、ソ連が提出した対イスラエル制裁決議案は、アメリカの反対によって否決された。

 8.18日、イスラエルの要求に基づいて、PLOとレバノン政府の政治交渉が続けられ、ハビブ米国特使の根回しにより、PLO勢力のベイルート退去問題に関する最終調停案が締結された。

 8.21日、徹底抗戦していたPLOが停戦に応じ、8.30日、アラファト率いるPLO指導部および主力部隊がチュニジアへ追放された。ここでアメリカ合衆国、イギリス、フランス、イタリアなどはPLO部隊撤退後のパレスチナ難民に対する安全保障という名目で、レバノンに多国籍軍を派遣した。

【レバノンのパレスチナ難民キャンプで大虐殺発生】
 1982.9.16日、この時、2000人から3000人に及ぶパレスチナ人が虐殺されたと云われている。ベイル-トを本拠地としていたPLOはベイルート撤退。これにつき、「★阿修羅♪ > ホロコースト6」の西岡昌紀氏の2012.9.19日付け投稿「サブラ・シャティーラ大虐殺(1982年)を忘れた日本のマスコミへ 西岡昌紀」を転載する。
 http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/5927911.html
 http://mixi.jp/view_diary.pl?owner_id=6445842&id=1871572323

 イスラエルのレバノン侵攻(1982年)の際、ベイルートの難民​キャンプで、イスラエル軍に協力したレバノンのファランジストた​ちが、多数の難民をナイフなどを使って殺戮した大事件から、昨日​(9月18日)で30年が経ちました。昨日のテレビのニュースで​も、今朝のネット上の新聞記事でも、あの大虐殺事件を取り上げた​報道が見つからない事に、私は、失望して居ます。30年前のあの事件(私は、「ベイルート大虐殺」と呼びます)を取り上げない日本のマスコミへの抗議として、ロジェ・ガロディー著・木村愛二訳「偽イスラエル政治神話」​(れんが書房新社)の一節を引用します。

 ガロディー氏は、第二次大戦中レジスタンスに参加し、戦後は、フランス共産党の理論的指導者であった左翼系の哲学者ですが、1968年、ソ連軍がチェコスロヴァキアに侵攻した際、ソ連を支持したフランス共産党を批判して、フランス共産党と袂を分かった人物です。ガロディー氏は、その後、イスラム教徒に改宗し、更には、「ホロコースト」に関する言論規制に抗議した事で知られます。以下に引用するのは、そのガロディー氏が、1982年、イスラエルのレバノン侵攻を批判した直後、フランス国内で受けた圧迫についての回想です。

 西暦2012年9月19日(水)

 http://www.jca.apc.org/​~altmedka/nise-27.html

 ロジェ・ガロディ著、木村愛二訳 『偽イスラエル政治神話』 第3章:神話の政治的利用 第2節:フランスのイスラエル=シオニスト・ロビー

 http://www.jca.apc.org/​~altmedka/nise-27.html

 [中略] 一九八二年に至るまで、私は、テレヴィ、ラディオ、新聞などの最も大きい報道機関を通じて、自由に意見を発表することができた。 レバノンへの侵略と虐殺が起きた時には、日刊紙、『ル・モンド』の編集長、ジャック・フォーヴェから、一九八二年六月一七日号に有料で、丸々一頁の意見広告記事を載せる権利を獲得し、ミシェル・ルロング神父、パストゥール・マッチオと一緒に、《レバノンでの虐殺とイスラエルの侵略が意味するもの》と題する見解を発表した。 われわれは、あの侵略行為が、決して一時的なやり過ぎといったものではなくて、イスラエル国家創建の基礎をなす政治的シオニズムの、内的な論理にもとづく行為なのだということを説明した。その後、私は、匿名の手紙と電話で、合計九回の殺しの脅迫を受けた。LICRAは、われわれを相手にして、“反ユダヤ宣伝と人種差別の挑発”を理由とする民事訴訟を提起した。『ル・モンド』の編集長、ジャック・フォーヴェの弁護士は、何度も繰返して、その信仰までも含むユダヤ人社会と、イスラエル国家とを混同するべきではないし、イスラエルがレバノンで行なった不当行為に関しては、マンデス・フランスやナフム・ゴールドマンのような高名なユダヤ人も告発していると主張した。われわれ、ミシェル・ルロング神父、パストゥール・マッチオと私自身の弁護は、聖書の原典そのものから発した。われわれは、われわれの生命がユダヤの予言者の誓約の賜物であると、何度も繰返して主張した。ところが、政治的シオニズムは、イスラエルの神の代わりに、イスラエル国家を置き換えているのである。レバノンに対しての、そしてパレスチナにおけるイスラエルの振舞いは、憎悪を煽り立てるのみであり、世間の目の前でユダヤ教の面目を汚すものである。われわれの政治的シオニズムに対する戦いは、それゆえに、われわれの反ユダヤ主義に対する戦いと不可分なのである。[後略]


【ハマス(ムスリム同胞団が母体、PLOの対抗勢力)創設】
 1982年、アメリカの調停により、PLO本部はチュニジアの首都チュニスへ、約7000名のゲリラは各アラブ諸国へ移動した。レバノンでシーア派テロ組織ヒズボラが結成される。設立時の活動目的は、レバノンにおけるシーア派主導のイスラム国家樹立及びイスラエルの滅亡。主な活動地域はレバノン南部のジャバル・アメル地域、ベッカー高原及び同国首都ベイルート南郊。戦闘員は最大4万5,000人とされ、そのうち2万1,000人が常勤、約5,000人がシリアで活動している。

1982  イスラエル軍に対するレジスタンスが活発になる。その中心を親シリアのシーア派民兵組織「アマル」が担った。
1983  ヘブロンでユダヤ人入植者がパレスチナ人4 人射殺。
1983  PLO、内部対立激化。
1984.2月  2月、ヒズボラの大規模自爆テロの衝撃からアメリカ海兵隊の撤退を皮切りに多国籍軍は撤退を余儀なくされる。サブラ・シャティーラ事件の国際的な非難のなか、イスラエルもまたレバノンから撤退した。レバノン左派勢力がベイルートを奪回した。イスラエル侵攻後、半ば撤退していたシリア軍は治安維持を名目に再進出し、PLOも多くがレバノンに舞い戻ってきた。但し、南部国境地帯は半占領下に置かれたままであった。逆にアマルやドルーズ派はシューフ山地の奪還に成功し、ついには西ベイルートからも国軍を放逐。再建された国軍は再び瓦解し、東ベイルートに閉じ込められることとなった。
1984.3月  3月、シリア主催でローザンヌにおいて民兵組織指導者を集めて「国民和解会議」が開かれる。
1984.9月  9月、レバノン憲法起草委員会を召集して改憲案を提出させるが、いずれもレバノン政府の存在を無視したこと、現実的な利権を無視したことなどから成功しなかった。
 イスラエルでリクードと労働党連立内閣発足。
1985.1  イスラエル政府がレレバノンからの一方的撤退を決定。
1985  レバノンのキャンプ戦争。占領地での弾圧と 入植地建設強化。
1986  イスラエル国民および東エルサレム在住のパ レスチナ人のPLOとの接触を禁じる法律制定。
1986  チェルノブイリ原発事故。旧ソ連圏のユダヤ人がイスラエルに帰還する遠因に。
1987  PLO、再統一。レバノンのキャンプ戦争深刻化。
 イスラエルでシャミル政権発足。
1987  ガザ暴動。イスラエルへ出稼ぎに行ったパレスチナ人労働者が乗ったバンがイスラエル軍のトラックと衝突し、労働者4人が死亡したことを契機に、その後6年間にわたるインティファーダ(パレスチナ民衆蜂起)としてイスラエル軍への投石が始まり拡大した。
1987  新共同訳聖書発行。
1987.12  シーク・アーメド・ヤシンによってハマスが創設された。ヤシンはムスリム同胞団の一員としてパレスチナで活動していた人物で、ガザにおける同胞団の責任者。シン・ベト(イスラエルの治安機関)の監視下、彼はムジャマ・アル・イスラミヤ(イスラム・センター)を1973年に創設、76年にはイスラム協会を設立している。

第一次インティファーダ」闘争始まる】
 1987.12.8日、スラエルによるガザ地区とヨルダン川西岸地区の占領下、ガザ地区で、イスラエルのトラックとパレスチナ人労働者を乗せた2台のバンが衝突し4人のパレスチナ人が死亡した交通事故をきっかけにガザ地区とヨルダン川西岸で、パレスチナ人によるイスラエルに対する全面的な民衆蜂起(第一次インティファーダ)が発生した。「インティファーダ」とはアラビア語で大衆蜂起を意味する。パレスチナ人とイスラエル軍が衝突し、パレスチナ人は石や火炎ビンでイスラエル軍に立ち向かい、多数の負傷者や逮捕者を出した。以降、ゼネストも頻繁に行われるようになる。抗議行動はヨルダン川西岸地区にも急速に広がり、若いパレスチナ人がイスラエル軍の戦車や兵士に投石した。インティファーダは主に若者たちによって実行され、イスラエルによる占領を終わらせ、パレスチナの独立を確立することにコミットしたパレスチナの政治派閥の連合体である蜂起統一民族指導部によって指揮された。インティファーダの特徴は、民衆の動員、大規模な抗議行動、市民的不服従、組織化されたストライキ、共同組合である。イスラエルの人権団体B’Tselemによると、インティファーダ中、イスラエル軍によって1,070人のパレスチナ人が殺害され、その中には237人の子どもも含まれていた。逮捕されたパレスチナ人は17万5千人以上にのぼる。インティファーダはまた、国際社会に紛争の解決策を模索するよう促した。

 イスラエル軍の強硬な対応は、当時のイツハク・ラビン国防相が提唱した「彼らの骨を折る」政策に集約されている。即刻の殺害、大学の閉鎖、活動家の国外追放、家屋の破壊などである。

【ハマス(ムスリム同胞団が母体、PLOの対抗勢力)創設】
 1987年、 ハマス(ムスリム同胞団が母体、PLOの対抗勢力)がシーク・アーメド・ヤシンによって創設された。ヤシンはムスリム同胞団の一員としてパレスチナで活動していた人物で、ガザにおける同胞団の責任者。シン・ベト(イスラエルの治安機関)の監視下、彼はムジャマ・アル・イスラミヤ(イスラム・センター)を1973年に創設、76年にはイスラム協会を設立、77年の選挙で軍事強硬派のリクードが勝利するとイスラエル政府はイスラム協会を人道的団体として承認した。。イスラエルがハマスを後押しした理由はヤセル・アラファトが率いるPLO(パレスチナ解放機構)のファタハを弱体化させることにあった。アラファトのライバルを育て、内部対立させることで運動を弱体化させようとした。ハマスは教育や医療活動を通じてパレスチナ人の貧困層に支持を広げた。ハマスは次第にイスラム協会の軍事部門化して行く。

1988  ヨルダン川西岸およびガザ地区の統治権放棄をヨルダンが宣言。
 アラブ連盟はPLOをパレスチナ人の唯一の代表として承認した。
 1988年、アミン・ジェマイエル大統領の任期が終了となったが、元来イスラム教のポストである首相にはマロン派であるアウンを任命していた。この直後に、アミンはレバノンから亡命同然にアメリカへ移住した。レバノンは一時的に大統領が空位となる異例の事態となった。シリアは、反シリアであるアウンの首相就任を拒絶し、伝統的に首相を輩出しているスンニ派からホスを首相に就任させた。そして、シリア支配地域であるベッカー高原のラヤクにある事実上の休眠状態に陥っていた空軍基地に国会議員を召集させ、名望家出身の伝統的政治家であるムアワドを大統領に就任させた。この結果、反シリアのアウン軍事政権と、ターイフ合意を旗印としたムアワド大統領の政権の二つがレバノン国内に存在する事態となった。しかし、後者は影響力が少なく、バーブダの大統領府はアウン「首相」が占有しており、ベッカー高原を出る事すらままならない弱体ぶりであり、かつ11月21日に暗殺されてしまう。後継にはエリアス・ハラウィが就任し、シリアのバックアップの下、アウン派と対峙していくことになる。

 アウン派政府軍はキリスト教徒に徹底抗戦を呼びかけた。しかし、イラクはクウェート占領を経て湾岸戦争に突入して途絶。さらにLFを含めた民兵組織の解体を目論むアウンとLF主導のマロン派国家樹立を目指すジャアジャアとは対立し、連合軍は決裂した。この結果、元来戦闘の少なかった東ベイルートやジュニエにおいてもマロン派同士の戦闘が発生した。アメリカは、湾岸戦争へのシリア出兵の見返りとして、シリアに内戦終結を一任する事となった。アメリカの後ろ盾を得たシリアは、イラクの影響力排除も目論んで最も大規模な軍事作戦を行う事となった。この一方で、和平を求める動きも見られ、サウジアラビアの仲介で内戦を終結し国家再建を目指すターイフ合意(名称はサウジアラビアの都市名に因む)が国会議員団によって1989年に採択される。当初この合意への調印に各派民兵組織指導者とシリアは消極的であったが、サウジアラビアの説得によりシリアは賛成に周り、民兵組織もヒズボラ、親イスラエルの南レバノン軍、アウン派などを除いて、多くの組織が承諾。その後、ヒズボラは消極的賛成にまわり、南レバノン軍は合意そのものを黙殺。そして、アウン将軍派はこの合意への同意を頑なに拒否した。追い詰められたアウン派はシリア軍と対決した。この戦争は「解放戦争」と呼ばれ、レバノン戦争を別とすれば、戦車や長距離砲、ロケット砲を用いたもっとも規模の大きな戦闘となった。アウンは一時、占領者からレバノンを守る英雄として、マロン派ばかりでなくイスラム教徒にさえ支持者があらわれた。しかし、アウン派は支援も途絶え、シリアの猛攻の前に敗北。立てこもっているベイルート東南のバーブダにある大統領府へのシリア空軍の爆撃が始まると、アウンはフランス大使館に逃亡し、亡命を申請した。この総攻撃はレッドライン協定違反だったが、イスラエルはアメリカの懐柔により、シリアへの非難を控えた。この結果、1990年にシリアがアウン派政府軍を制圧する。この際、多数のアウン派政府軍将兵が処刑されるか、シリアに連行されたといわれる。親シリアでアウンと対立的であった海軍将校のハラウィを中心に、キリスト教徒・イスラム教徒両派の民兵組織指導者が閣僚に就任した挙国一致内閣が樹立した。東ベイルート、ジュニエといったマロン派の本拠地に進駐したシリアは、段階的に民兵組織を武装解除して内戦を終結させた。

1988  【PNCがパレスチナ国家独立宣言】 
 
アルジェでPNC(パレスチナ民族評議会・PLOの国会)が開催され、パレスチナ国家独立を宣言した。そしてアラファト議長は、テロの放棄、イスラエルの生存権の承認、国連安保理決議242、338の受諾を表明した。アメリカ、PLOとの対話を正式に決定した。この独立宣言はパレスチナ全領土の解放よりも、ミニ・パレスチナ国家の現実的な枠組みを主張したという事でイスラエルとの交渉を持つ妥協点となった。こうしたことからP LOの内部対立が激化した。
 イランのホメイニ師は国連の停戦決議を受諾せざるを得なかった。これに対してフセイン大統領は、イラン革命をアラブに波及させなかったことで一躍アラブの盟主となった。
 インティファーダを指導する「民族蜂起統合司令部」が結成された。ヨルダン、西岸地区との関係を断絶すると宣言。
1988
 「リビングプレイズ」シリーズ発売開始。「ミクタム・プレイズ&ワーシップ」シリーズ発売開始。
1989  旧ソ連のユダヤ人移民急増。
 アルアクサ・モスクでのパレスチナ人21人の虐殺という事態を契機にして、インティファーダの中での自爆決起が開始された。
 東西ドイツ間のベルリンの壁が崩壊する。(共産主義国家の解体開始)
1990  米国がPLOとの直接対話中断。イス ラエルで右翼連立内閣成立。
1990  パレスチナ人グループによるテロ未遂事件。アメリカはこれを機にPLOとの対話停止発表。「湾岸危機」始まる。

【イラクのクウェート侵攻】
 1990.8.2日、サダム・フセイン大統領の指揮するイラク軍のクウェート侵攻が始まった。この背景の一つに、石油生産枠調整に対する対立があった。イラクは、1990.7月に開かれたオペック総会での生産枠を守らせようとし、クウェートがアラブ首長国連邦と共に増産したことで対立が深まった。フセイン大統領には、イランの脅威からサウジ、クウェートを守る為に血を流して戦ったという自負があり、そのクウェートが石油価格の引き下げに繋がる増産で、イラク経済に打撃を与えることを「恩知らず」と罵倒した。クウェート侵攻は、「恩知らずへの報復」であった。とはいえ、真意は、クウェートは元々イラク領土という認識に拠っており、地政学的に貴重なペルシャ湾への出口を求めたことにあった。

 8.6日、国連の安全保障理事会は緊急に会議を開きイラクを非難するとともに速やかにクウェートから撤退するよう強く勧告。国連安保理は、イラクに対し決議660で撤退を要求したのを手初めに、決議661で経済制裁、決議678条で対イラク期限付最後通牒(クウェート支援国に武力行使権限付与)で撤退を迫った。イラクは撤退せず、国連の軍事的強制行動として多国籍軍が編成されていくことになった。

 8.8日イラクは、パレスチナ解放のためのクウェート制圧であると声明しクウェートの併合を宣言した。国際世論は認めなかったが、パレスチナ問題を浮上させたことと、産油国に対する反感から、パレスチナでのサダム・フセインの人気は高まった。
レバノン、シリアの実質的支配下に置かれ、内戦終結。

 嘆きの壁発砲事件で国連安保理 がイスラエル非難決議。シリア軍レバノンへ軍事侵攻。国連安保理「適当な時期に 適切な構成で中東和平会議を開催する」を決議。
1990.10  東エルサレムテンプル山でパレス チナ人22人を射殺(10月)。
1991.  安全保障理事会がイスラエルのパレスチナ人追放の非難決議採択。

【「湾岸戦争(the gulf war)」始まる】

 1991.1.17日、国連は1991.1.15日までの撤退を改めて決議したが、期限切れとなるやアメ リカのブッシュ大統領が攻撃を決断し、派遣されていたアメリカを核とする多国籍軍が、国連の決定のないままイラク軍への攻撃を開始した。この作戦全体を指揮したのはアメリカのノーマン・シュワルツコフ陸軍大将 とコリン・パウエル統合参謀本部議長(現・国務長官)である。こうして湾岸戦争が勃発した。この戦争の真因は、中東の支配権を廻るフセィンの野望と米英イスラエル連合の思惑との衝突にあった。当初はイラク軍と軍事施設へのミサイルや航空機による大規模な攻撃であったが次第にエスカレートし、雨あられのミサイルがイラクの首都バグダッドに投下されるようになった。この時の砲爆は、軍事施設非軍事施設の識別を問わない無差別なものであったこと、テレビゲーム戦争とも呼ばれる最新軍事兵器の実験場となったこと等々によりいくつもの課題を残した。

 2.24日、地上戦へ突入、フセイン大統領が徹底抗戦を呼びかけたが2.26日、イラク軍撤退宣言、クウェートの併合無効と賠償責任請求の2決議受け入れを国連に通告した。2.27日、米大統領が勝利宣言。3.3日、停戦協定が締結される結果となった。米国などでは、フセイン政権打倒まで攻撃を加えるべきという意見もあったが、周辺諸国とのバランスなども考慮され、フセイン政権は維持された。停戦の合意の効力が発した時、イラクの死傷者は市民を含めて10万人を超えた。特に、イラク南部では、米英の部隊が劣化ウランによる放射性武器を使用したとされている。其の為に子供を含めた市民達は白血病やその他関連した障害の為に命を失ったといわれている。米英は否定。しかし、米国の部隊の退役軍人にも放射能後遺症が認められ、多くの日本のジャーナリストがイラク市民特に子供のウラン後遺症を検証している。イラクでは湾岸戦争終結10年を迎え自国民の劣化ウラン爆弾による被害を国際世論に切手で訴えている。

 4.3日、安保理は休戦条件の決議687を発し、侵略者イラクにその受諾を迫った。イラクは4月11日、国連事務総長と安保理にその受諾を通告して来た。この休戦条件により、対イラク軍事的強制行動参加国とイラクとの間に正式の休戦が成立した。クウェートの領土保全は回復された。世界的集団安全保障機構国連の軍事活動の成果として記録された。この時の休戦条件で、イラクの核・非核大量破壊兵器(射程150キロ以上のミサイルを含む)の破壊、将来にわたる不保持が規定され、それを確実ならしめるための国連特別(査察)委員会の主体的一方的広範な査察が規定されている。イラクは国連査察に条件をつけたり拒んだりできる立場にはないが、その後の査察は容易には進展せず、折に触れ米英軍が空爆を繰り返しており現代史の火薬庫になっている。 
 湾岸戦争終結後、日本政府は海上自衛隊掃海部隊をペルシャ湾へ派遣し、国際的責務を果した。但し、湾岸戦争の戦費調達に約150億ドル(1兆3千億円)もの血税を支出している割には、「日本は血を流さず金だけ出す」等と言われ、貢献度が評価されず、その後の軍事協力化への道が敷かれることになった。

 国連総会が1975年のシオニズム決議 撤廃決議を採択。イスラエル入植地建設に着手。
1991.1月  ジョージ・H・W・ブッシュ政権がイラクを攻撃した。アメリカ政府の罠に引っかかり、サダム・フセイン政権はクウェートへ軍事侵攻、その報復という名目だった。ネオコンはそのままフセイン体制を破壊するつもりだったが、イラクをペルシャ湾岸産油国の防波堤と考えていたブッシュ大統領はフセインを排除しないまま停戦、ネオコンは激怒した。ブッシュが再選されなかった理由のひとつはここにある。
1991.5月  国防総省を訪れたウェズリー・クラーク元欧州連合軍(現在のNATO作戦連合軍)最高司令官は国防次官だったネオコンのポール・ウォルフォウィッツから、シリア、イラン、イラクを5年から10年で殲滅すると聞かされたという。2001年9月11日から10日ほど後に統合参謀本部で攻撃予定国のリストが存在していたともいう。そのリストにはイラク、シリア、レバノン、リビア、ソマリア、スーダン、そしてイランが載っていた。
1991   エチオピアのメンギスツ政権崩壊に伴い、エチオピアのユダヤ人(ファラシャ)大勢をイスラエルに空輸。(ソロモン作戦)
1991.10.30  【マドリードで中東和平国際会議開かれる】 アメリカのベーカー国務長官が和平仲介を主導、シャトル外交を推進。PNCが中東和平会議参加を決定。アメリカとロシア(形式的に)の主導でイスラエル、ヨルダン、レバノン、シリア、そしてパレスチナ代表団とともにスペインのマドリードで中東和平会議が開催された。
1991.12月  ソ連解体、消滅。以降、旧共産圏でキリスト教復興。また、旧ソ連圏からイスラエルへのユダヤ人帰還進む。

 
アメリカの外交や軍事はネオコンが主導権を握り、旧ソ連圏の解体工作をはじめ、ユーゴスラビアを軍事攻撃いた。ソ連消滅後、ネオコンはアメリカが唯一の超大国になったと考え、ロシアや中国にも簡単に勝てると思い込んだ。フォーリン・アフェアーズ誌の2006年3/4月号に掲載された論文はそうした心情を表している。​キアー・リーバーとダリル・プレスはその論文​の中で、アメリカが近いうちにロシアと中国の長距離核兵器を先制第1撃で破壊する能力を持てるとしている。
1991.12.  中東和平第二段階の二国間交渉ワシントンで開始。

1992  【イスラエル、労働党とメレツを中核としたラビン内閣誕生】 PLOとの接触を合法化。イスラエルがバチカ ンを公式訪問し教皇と会見。南レバノンの国連レバノン暫定軍(UNIFIL)襲われ兵士 死傷。
1992.12  イスラエルがパレスチナ人418人を国外追放。
1992  日本福音キリスト教会連合(JECA)設立。

 厳格な反シオニズムで超正統派ユダヤ教徒グループ「ナトレイ・カルタ」の指導者であるラビ・モシェ・ヒルシュは、1992年に以下のような声明を発表した。ちなみに彼は自らを“パレスチナ人”と呼んでいる。アシュケナジー系ユダヤ人なのであるが、パレスチナ人と同じ心を持っているという意味なのである。
 「敵であるZionistと私たちの戦いは、妥協の余地のない、まさに “神学戦争”なのである」。
 「ユダヤ人たちが全世界に追放されたのは、神の意志によるのであって、彼らが神の律法を守らなかったためである。あらゆる苦難をへて、メシア(救世主)が到来するまでそれは続く。メシア到来によってのみそれが終わるのである。それゆえに、Zionistあるいはその関係機関が神を無視して世界中からユダヤ人たちに帰ってくるように強要するのは、ユダヤ人たちをいよいよ危険に陥れる“不敬の罪”を犯していることになる」。
 「もしZionistが神を無視し続けるならば事は重大である。ここ、すなわちイスラエルは地上で最も危険な場所となろう」。

【イスラエルとPLO間でパレスチナ暫定自治宣言(オスロ合意)調印】
 1993.9.13日、ラビン・イスラエル首相とアラファト・PLO議長との間において、ワシントンのホワイトハウスで「原則の宣言」に調印・握手した。これにより、 PLOは「イスラエルが国家として、平和と安全の内に存在する権利を認める」、イスラエルは「PLOをパレスチナ人の代表として認める」ことになった。その見返りとして、 イスラエルは、PLOがイスラエルが占領していたヨルダン川西岸とガザ地区にミニ・パレスチナ国家を作り、パレスチナ人の自治区とすることを認めた。PAは、占領下のヨルダン川西岸とガザ地区の一部で限定的な自治を認められた暫定政府である。インティファーダは1993年のオスロ合意の調印とパレスチナ自治政府(PA)の成立によって終結した。
 (解説)
 「暫定自治に関する原則宣言」に調印で、パレスチナの和平に向けた歴史的和解の第一歩が踏み出された。国際的な支援体制が作られ急ピッチで作業が進められていった。先進諸国のほとんどが対パレスチナ援助の拠出学の公表をし、10月にワシントンで開かれた援助国会議では5年間に20億ドルを超える資金援助がヨルダン川西岸・ガザ地区だけでも行われることが取り決められた。ラビン・ペレス・アラファト三氏の指導者としての地位が高まったが、アラブ急進派はアラファトの対イスラエル屈服とみなした。
 PLOは2国家解決策に基づいてイスラエルを承認し、ヨルダン川西岸の60%、同地域の土地と水資源の大部分をイスラエルに支配させる協定に事実上調印した。PAは東エルサレムに首都を置き、ヨルダン川西岸とガザ地区で独立国家を運営する初の選挙で選ばれたパレスチナ政府に道を開くはずだったが、それは実現しなかった。PAの批評家は、PAをイスラエルの占領に対する腐敗した下請け業者と見なし、イスラエル軍と緊密に協力してイスラエルに対する異議や政治活動を抑圧していると見なしている。

1993.12  イスラエル軍が12.13日期限のヨルダン川西岸およびガザ両地区からの撤退開始を延期。
1993.12  湾岸戦争後に大きな動きを見せたのはカトリックの総本山であるバチカン(ローマ法王庁)です。バチカンは独自の外交権を駆使して、イスラエル共和国との国交を樹立させました! 新聞では「2000年がかりの和解」という見出しが踊っていましたが、両国の国交締結はイスラエル政府が不法占拠し続ける「聖地エルサレム」の帰属問題をユダヤとアラブだけの問題ではなく、全世界的な宗教問題として広げることになったといえます。
1994.1  ユダヤ人入植者がヘブロンでパレスチナ人へ銃乱射で死傷者多数。
1994.2  ユダヤ人によるパレスチナ人39名の射殺事件発生。「和平気運」が危機に瀕した。

【ガザ・エリコ先行自治実施協定(カイロ協定)で5年間の暫定自治が開始される】
 1994.5月、ガザとヨルダン川西岸のエリコを手始めとして、5年間の先行自治が開始した。パレスチナ暫定自治政府が創立され、7月アラファト議長はガザに帰還する。

1994.10.14  ビン(イスラエル)首相、ペレス(イスラエル)外相、アラファト(PLO)議長がノーベル平和賞を受賞。中東の平和への尽力が評価された。
1994.10.19  ハマスの自爆テロで、テルアビブのバスの乗客が死傷。ハマスが犯行声明。
1994.10.26  イスラエル・ヨルダンが平和条約に調印。イスラエルとヨルダンはクリントン大統領らの立ち会いのもと、両国国境のアラバで外交関係樹立などをうたった平和条約に調印した。
 ラビンとアラファト、暫定自治合意(カイロ調定)に調印。アラファト、ガザ入り。イスラエル政府、入植地建設凍結を一部解除。イスラエル・パレスチナ双方の過激派がこれらに反対、テロや虐殺事件激化。ガザとヨルダン川西岸のエリコを手始めとして、5年間の暫定自治開始。
1995.9月  【「オスロ2」協定(暫定自治拡大協定)調印される】 PLOとイスラエルは、ヨルダン川西岸地区への自治拡大協定に調印した。ベツレヘム、ラマラーなど6 都市が自治区へ。年末にはイスラエル軍が西岸の6主要都市(ラマラ等)から撤退し、ヘブロンを除くヨルダン川西岸からの撤退が完了した。
 1995年、イスラエルはガザ地区の周囲に電子フェンスとコンクリートの壁を建設し、分断されたパレスチナ自治区間の交流を遮断した。

 「1995年エルサレム大使館法」成立。この法律はエルサレムをイスラエルの首都だと承認すべきで、1999年5月31日までにエルサレムにアメリカ大使館を設置すべきだとしている。その法律が定める期限までにアメリカ政府はエルサレムを首都と認めず、大使館を設置することもなかった。そこで2017年6月5日に上院はその法律を再確認する決議を賛成90、棄権10で採択している。アメリカでは民主党議員も共和党議員も立場は同じだ。その決議に従う形でドナルド・トランプ大統領は2017年12月6日にエルサレムをイスラエルの首都だと承認、アメリカ大使館のエルサレムへの移転を発表した。

【イスラエルのラビン首相暗殺される】
 1995.11.4日、イスラエル第2の都市テルアビブでパレスチナ人との和平を市民に促すための大規模な平和集会が開催され、その帰りに暫定自治合意に反対していたイスラエルの極右ユダヤ人青年/イガル・アミールが、演説を終えたイツハック・ラビン首相(享年73歳)を殺害。彼の犯行理由は”ユダヤ人への裏切り者の殺害”であったことを堂々表明しており、現在も彼の裁判は続いている。犯人は右派ユダヤ人。
 ラビン政権は、1993年にオスロ合意に調印し、西岸地域のイスラエル入植地の撤退と、最終的に独立したパレスチナ国家の建設を含む和平協定交渉をしている最中だった。「大イスラエル」と呼ばれるイスラエルの領土思想が終わることを想像できなかった急進右派の入植者を含め、イスラエル人の多くはパレスチナ人との交渉に反対していた。 当時の政治的言説は暴力的で攻撃的であり、ある人々はラビン首相を「裏切り者」と呼んでいた。二度目(1992年)の首相に就任したラビン氏は、紛争を抱える自国の現状を変えようと、困難やリスク、そして国内の政治的反対にもかかわらず、和平を進めることを勇敢に決定し、自分の人生を捧げた。ラビン首相の暗殺は和平プロセスの継続を止めた。 暗殺翌年の1996年には、ラビン首相の政策に反対していたリクード党のベンヤミン・ネタニヤフ氏が首相に選ばれ、パレスチナ人との交渉がほぼ停止した。

 【イスラエル、ペレス政権発足 ペレス政権発足、「オスロ2」の実施を早める。
1995  日本福音キリスト教会連合(JECA)、「第二次大戦における日本の教会の罪責に関する私たちの悔い改め」の声明を発表。
1995
  オウム真理教事件。
1996.1  【パレスチナ評議会選挙実施。パレスチナ暫定自治政府が初めての首長選を実施、アラファト議長が選出され、パレスチナ暫定自治政府が実現する】「オスロ2」によりパレスチナ評議会とパレスチナ自治政府が代表を決定する初めての首長選を実施し、アラファトが当選した。かくて、PLOのアラファト議長が自治政府首長に就任した。選挙の結果、自治政府の内閣は5月に組閣され、立法府、行政府を含めた政治機構が整えられていった。この国政選挙では故小渕元首相をはじめ選挙監視団の派遣と80万ドルの支援を行っている。
1996.2.26  イスラエルで連続爆弾テロが起こる。イスラム過激派が二年前のパレスチナ人虐殺への報復として、テロを実行した。25人死亡、80人けが。イスラエル、レバノン南部のヒズボラ支配地域を空爆(怒りのブドウ作戦)。
1996.5  【イスラエルで、「リクード」党首ネタニヤフが首相に選出される】 超タカ派で、双方の歩み寄りは途絶えがちになる。入植地の拡張や新しい入植地の建設に対する制限廃止。
1996.  エルサレム旧市街のトンネル完成で衝突
1996.9月末  アフガニスタンでイスラム教の聖職者を中心としたゲリラ組織「タリバン」が、ゲリラどうしの内戦に勝ち、首都カブールを占領したことで、79年のソ連の侵略で始まったアフガニスタン内戦は、一つの区切りを迎えた。
1996
 日本リバイバル同盟(NRA)設立。
1996
 教皇ヨハネ・パウロ二世、進化論容認発言。
1997.1  【へブロン合意】 イスラエル軍が西岸へブロンから部分撤退開始。
1997  イスラエルによる東エルサレム南部への大規模な入植地「ハル・ホマ」建設工事開始。 国連総会は「ハル・ホマ」反対決議を二度採択するがアメリカの拒否権発動により葬られる。イスラエルとパレスチナの衝突、激化。
1997.10ー11.1  バチカンで開かれた「キリスト教世界での反ユダヤ主義の起源」セミナーで、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が、「反ユダヤ主義は弾劾されるべきだ」、「ヨーロッパでユダヤ人迫害が起きた時、キリストの教えに基づく精神的な抵抗は十分ではなかった」との見方を示した。
1997.11  エジプト・ルクソールで観光客に対するテロ事件発生。
1997  日本基督教団讃美歌委員会「讃美歌21」発行。
1998.4.30  建国50周年式典がエルサレムで開催される。アルバート・ゴア副大統領がアメリカ政府を代表して、「アメリカとイスラエルの結びつきは永遠です」と祝辞演説している。
1998.10  【ワイ・リバー合意】 クリントン米大統領の介入によりワシントンで調印された。イスラエル軍の追加撤退交渉が合意され、ヨルダン川西岸からのイスラエル軍の13%の追加撤退となった(ワイ・リバー合意)。西岸地区での暫定自治区が拡大したが、パレスチナ人の自治区は、ユダヤ人入植地を除いたガザ地区と西岸の40%にとどまった。これはパレスチナ全域(2万6300平方キロ)の僅か9.6%であり、しかもイスラエル軍の監視下に置かれて実現する変則となった。「ワイ・リバー合意」の評価は、イスラエル側からもパレスチナ側からも芳しくなかった。アラファトは、パレスチナ人たちに約束した政治的な希望も成就させていない。彼らはエルサレムを首都とすることも、1967年の戦争で失ったウエストバンク(ヨルダン川西岸地区)全域の返還も見ていない。オスロ合意で予告されたはずの経済的ユートピアは、イスラエル、パレスチナ双方に未だに訪れていない。パレスチナ紛争の根本的解決にはならず、以降も相互の継続的テロとパレスチナ住民の暴動が繰り返されていくことになる。
 ガザ国際空港開港(2001年、イスラエルにより破壊された)。パレスチナ国民憲章の「改訂」確認。
1998.11  クリントンが、ガザ、イスラエルを訪問。ネタニヤフ政権に和平交渉圧力をかける。
1999.
 ヨルダンのフセイン国王は死の数日前に,米国のマヨ・クリニックから急きょ帰国し、王位継承者であった実弟のハッサン皇太子を解任し、代わりに息子のアブドラ(36歳)を王位継承者に任命した。かくてアブドラ2世が後継者となったが、新国王アブドラ2世は、イスラエル政府幹部と会談し、父親時代の和平を継続すると約束した。が、前皇太子であった叔父のハッサンが、今後どう行動するか不気味であり、ヨルダン情勢は流動局面に入ったと見られる。
1999.  ヨルダンのフセイン国王死去。
1999.5.4  PLOが独立宣言延期を決定。が、ヤセル・アラファトはオスロ合意から5年目にあたるこの日に、「パレスチナ国家独立宣言を行う」と言明。イスラエル政府は、「アラファトの宣言は、オスロ合意を無視するものだ」と応酬している。アリエル・シャロン外相は「パレスチナ支配下にしないように、ウエストバンク全域の領土併合をする」と警告。
1999.5  「オスロ合意」における暫定自治の期限切れ。
1999.5  【イスラエルで、和平推進派の労働党バラク政権が誕生】 「平和的手段によるイスラエル・アラブ紛争の解決」を訴える。レバノンからのイスラエルの撤退とシリアとの交渉の推進、西岸地区の自治拡大を約束したワイ・リバー合意の完全実施を提案した。
1999.9  エジプトのシャルム・エルシェイクでバラク・アラファト会談が行われる。
1999.10  パレスチナ人が西岸とガザとの間を行き来するために、イスラエルが通行を認めたのが安全通行路(または安全回廊)という道路。安全通行路の設置は95年にイスラエルとパレスチナとの間で合意したもので、99年10月にガザ北端のエレツ検問所と西岸のヘブロンとを結ぶ45kmの南ルートが開放された。安全通行路が開放されるのは朝7時から夕方5時までで、イスラエルの休日には通行できない。イスラエルの入境許可証を持つパレスチナ人が車で通過する場合は、車に電子装置が取り付けられ、90~120分以内に向こう側に到着しないと警報が作動し、不審車と見なされることになる(つまり「安全」に通してもらえなくなる)。入境許可証を持たないパレスチナ人はバスに乗り、イスラエルの治安当局の車が並走する。もし途中でバスを降りようとすれば、ただちに「安全」は保障されなくなってしまう。また安全通行路を通ろうとする者は、16~50歳の男性は事前に磁気カードの交付を受けなくてはならず、それ以外の者も前日までに自治政府へ氏名を届けなくてはならない。なんとも不自由な通行路だが、このルートができたことで生まれて初めてガザから外に出たというパレスチナ人も少なくなかった。
1999.12  アメリカでイスラエル・シリアの首脳級協議を開催。ロス特使が頻繁に現地入りしたクリントン外交の成果であった。





(私論.私見)