ユダヤ教のエホバ神信仰考

 (最新見直し2006.11.15日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「ユダヤ教のエホバ神信仰考」をものしておく。

 2004.8.17日 れんだいこ拝


【ユダヤ教のエホバ神信仰考】
 なぜエホバと呼ばれるのか。エホバはもともとYHWHの母音を除いた、4文字をその様に読んだだけであるが、YHWHの意味は、出エジプト記3/14に次のように記されている。
 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」。

 「ある」がヘブライ語でヤーハーで、YHWHと書かれている。出エジプト記 20/7に次のように記されている。
 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。

 ユダヤ人はモーセの十戒の為に、この言葉をみだりに口にすることが許されない。

 この4文字を読んで、「アドナイ」と口にしていた為に、この4文字の正確な表現が出来なくなり、ヨッロッパの学者がこの4文字を見て、YEHOWHAと母音を入れた為に「エホバ」が一般的な呼び名になった。「私はある」の意味を考えたら「ヤーウェ」か「ヤーヴェ」の方が、ユダヤ人の表現近いかもしれない。
 ◆もともと唯一の神だったのか

 申命記 32/8-9
 いと高き神が国々に嗣業の土地を分け、人の子らを割りふられたとき、神の子らの数に従い国々の境を設けられた。主に割り当てられたのはその民、ヤコブが主に定められた嗣業。

 詩篇 82/1-
 神は神聖な会議の中に立ち、神々の間で裁きを行われる。「いつまであなたたちは不正に裁き、神に逆らう者の味方をするのか」。

 旧約聖書が編纂される前のユダヤ人達は、オリエント世界に広く普及していた神々への信仰、すなわち多神教の思想を持っていた。

 旧約聖書で「神」を意味する、ヘブライ語の「エル」は、ユダヤ神話ではカナンの天上の大会議において神々を裁く「至高神」の名前である。


 聖書の中で邪神として忌み嫌われたカナンの地方神バアルは、エルの行政官であり、エルの息子たちの中で最も力強い神々の主だった。かつてのユダヤ人たちはヤ-ヴェを唯一神としてではなく、こうした神々の宮廷、神々の家族の中で大きな力を持った「エルの息子の一人」として捉えていた様である。先の申命記や詩篇は、その残存であり、詩篇ではその後神々の会議を非難し、ヤーヴェ以外の神々が人間に成り下がって死ぬと書いてあるが、かえってその神々が存在を示した事になる。

 創世記のE伝承による文章では、神を「エロイヒム」と書いてあるが、「エロイヒム」は「エル」の複数形で「神々」と訳すべきなのでしょうか、先の出エジプト記の「わたしはある」についても、モーセがエジプトから帰還するときに、それぞれの部族で神の名前が違うので、モーセが神に尋ねた事になっている。

 出エジプト記 3/13
 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」。

 創世記に「アブラハムの神」、「イサクの神」、「ナホルの神」と殊更、誰々の神と人の名前を入れるのは、部族毎に違う神がいたことを示している。出エジプト記 3/14はユダヤ教の成立過程を示している。それまで部族毎に違う神だったのが、それはすべてYHWHの神と同質の物で、みんな同じ物だと言う教義でYHWHに一神化したように思われる。こういう教義のまとめ方は、キリスト教の三位一体論(イエス・キリストと神と聖霊とが同質の物とする教義)と似ている。キリスト教の神学者はこの辺を参考にしたのだろうか。
 ◆キリスト教の功罪

 キリスト教では、ヤーヴェを唯一なる絶対神としている。キリスト教会はさかんに聖書を書き換えている。申命記についても、新共同訳だけが「神の子らの数に従い」であり、他の訳本では「イスラエルの子らの数に従い」になっている。最初のギリシャ語への訳本の時、書き換えたらしい。何らかの教義を打ち立てた時、不都合な場所を書き換えたり表現を変えたり、一般信者に説法しない業は、古今東西のキリスト教会がやってきた事なので、あらためて文句も言う気はしない。




(私論.私見)