第8章 タルムードの照明の下に

 (最新見直し2012.04.06日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「第八章 タルムードの照明の下に(1)」、「第八章 タルムードの照明の下に(2)」、「第八章 タルムードの照明の下に(3)」を転載しておく。

 2012.04.06日 れんだいこ拝


 それと全く同様にタルムードの著述者等は、バイブルの言葉を更に自分の言葉に言い換えて、これは前に述べた如きいろいろの荒唐無稽な内容を混入して、バイブルを全然歪曲した。その一例挙げると、太古には神は人間を男女両性を具備する者に造った。アダムとエホバは一体をなして居たが、神は後に考案を変更してそれを二人に分体した。両性具有はタルムード中重要な位置を占めている。ユダヤ秘密教徒はこれに対する興味を各種の神秘学派の大半に伝えた。現代に於ても我等は或る絵画に現われている両性具有の徴候について、真面目な議論を述べている錬金術の学者のあることを知っている。これ等の絵画にこの徴候の存在している事は、ルーヴル(現在博物館となっているパリ―最高の王宮)にあるイタリ―の世界的有名な画伯レオナルド・ダ・ヴィンチの描いた名画「前驅(さきがけ)」(ヨハネ)の如きにも推想されている。〔傍註〕

 「アダムはその時非常な長軀(ちょうく)を有して、その頭が天に支えていた。彼が横に臥(ふ)した時は彼の足は西方の極端にあり、その頭は東方の極端にあった。そして彼が罪を犯した時、神は彼を普通の人よりも小さくしたとサンヘドリンに書いてある。
バイブルに載せられているバザンの王オーグも殆んど同型の巨人であった。この人物はタルムード中の舞台にしばしば引き出されている。ラウウィン等の力説する所によれば、彼はその長身の為に大洪水の時も水中に溺れなかった。最も高い山が水に蔽(おお)い隠れた時にも、彼の頭は常に水面上に露出していた。しかし彼は大なる危険に曝されていた。それはその時全地を蔽っていた水が非常に熱していた為に、彼の身体は煮られて了う恐れがあった。しかるに彼は仲々狡猾(こうかつ)であったので方舟(はこぶね)の水が冷たいのに気がつくと同時に、その側から一寸も離れなかった。この期間中精進食の外に食べるものがなかったので、これが彼をしていたく不安を感ぜしめた。何となれば彼は通常毎日二千頭の牛とこれと同数の野獣とを屠(ほふ)って食し、これを肴として二千樽の酒を飲んでいたからである」。

 「ユダヤ人がバザン国に攻めて来た時、彼は一撃の下にユダヤ人を鏖殺(おうさつ)せんとし、そして彼等の陣営が三マイルの土地を占めていることを知ると、彼は山からその陣営に蓋(ふた)するだけの大きな岩を割き取って、モーゼに引率せられていたユダヤ人の上に投げ落そうとして、これを自分の頭の上に載せた。エホバは彼のこの意図を看破するや、多くの蟻をやってその岩を蝕ませた。この蟻の工作は異常な敏速力をもって活動し、遂にその岩はオーグの頭上で蝕まれて、彼の左右の肩の上に崩れ落ちて彼の頸(くび)を罠の如くに固く締めた。オーグがこの岩を頸から取り除かうと悶え苦しんでいる間に、モーゼは柄の長さ二十尺に達する斧を執(と)って彼の側に走り寄った。そして二十尺の高さに跳びつき斧を振ってオーグの踵を打って重傷を負わせた。頸は碎岩(いわくだき)に締めつけられ、足に深傷を負わされた彼は遂に死んだ。後世ラッピのヨハナンは荒野で巨大な骨を発見した。そしてこの骨の長さを試みんと骨に沿うて進んだところ、他の一端に達するまでに三マイル以上歩き、之がオーグの脛(すね)の骨であったと云う事である」(ゼバゼム章)。

 「ある時、オーグが一本の歯を失った。それをアブラハムが拾って自分の寝室を造った。アブラハムはその身長も肥大さも普通人の七十四倍あって、食物も通常人の七十四人分食べる習慣をもっていた。もっともタルムードは、この歯が寝室の材料になったとか、また安楽椅子の材料になったとか、區々(おうおう)に言っているからこの問題は未解決になっている」(マゼク・ゾファリム)。

 タルムードがかかる寓話のみを含んでいるものとの考えは大なる誤解である。この書を編纂したパリサイ派の人は、これ等の作り話を以って神とバイブルを嘲笑して、新たな聖書に於て自分の教義の本質的基礎を確立しようと努めたのである。かようにして、タルムードの中には輪廻に関する古来の教義を判然述べている個所が二十以上もある。輪廻の信仰は、パリサイ派の起る当初、即ちバビロン俘囚の時彼等がハルデヤ人から受け容れて、その後ユダヤ人の間に伝播されたのであるが、現在ではキリスト教徒の間にも降神術、神智学等の形を以って宣伝せられている。

 タルムードの説く所によると、神はユダヤ人の霊魂を自身の本体から恰度(ちょうど)子が父の本体から出る如くに造って、彼等総ての者に楽園に於ける永久の福楽を備えた。しかし神が彼等をその所へ入れるのは、彼等がいろいろの化身を経て洗練せられた後でなければならぬ。故に死人の霊魂は、神がそれを自分に召すまでの間は、生れる子に於て化身するが為に再び帰って来る。しかるにユダヤ人が悪事を行うことがある。他のユダヤ人を殺したり、同民族に背反したりする事がある。この場合神はかかる逆徒に対して如何に処置するであらうか。彼は之を永遠の苦悩に定めない。最悪の場合に於てもただ一年間だけ苦悩を嘗めさせる。その後この霊魂は植物に生れ変る。そして更に動物に、それから非ユダヤ人に生まれ変わり、最後に再びユダヤ人の身体に帰るに当る者となって、再び永久の福楽を得る者となる。

 既に25世紀を経過したパリサイ派のこの教義と、現今アラン・カルデク或はブラワツカヤ女史の門弟等の信奉している教説との間に存ずる類似の大なるに我らは驚かざるを得ない。ただその間の根本的相異は次の点に存する。即ちタルムードの謂う所の永遠の福楽はただユダヤ人にのみ予定せられているが、降神術者及び神智学者は総ての人々が皆この境域に到達することができると云うにある。この場合に於ても両者の間に或は判然たる矛盾はないかも知れない。何となればタルムードの説によればユダヤ人以外の異邦人異教徒も自己修養によって、ユダヤ人の身体に生れ変ることができる。それで神智学者が無機物から始めて人間を以って終るこの存在の連鎖は、タルムードによれば余計な環を一つ加えることになる。ユダヤ人あるいは超人が加わるのである。神智学者あるいは降神術者は一時この追加の環を認めないこともできよう。

 けれども、これによってユダヤ人の哲学に対する彼らの依存関係が精神的に減少する訳ではない。ただ之に因って門弟らの心をユダヤ教に転向するに準備するのみである。時機到来すればユダヤ教は彼らの中、最も聡明なる者を呑み込むであらう。なおタルムードは輪廻説を只概要的に述べているだけでないことを玆(ここ)に附加しておかねばならぬ。即ちその中には判然たる実例まで示されている。例えばヤペテの霊魂はサムソンに生れ変り、ファレスの霊魂はヨブに、エホバの霊魂はイサクに、淫婦ラホバの霊魂はヘテヤ人ゲベルに、サウルの霊魂はヘリに生れ変ったと述べている。

 この男女の生れ変ることは特に注目に値する。タルムードの著者なるラウウィンらは或る淫奔(いんぽん)者の変態性慾的傾向を之を以て説明している。彼らの言う所によれば、かかる人々は、先に女であった霊魂の目覚めたことを感じているのである。故にあらゆる時代のユダヤ秘密教徒は、キリスト教国の法律がモーゼの律法と同様にこの種の罪行を燔刑(ひあぶり)に処すべき程の重罪と認めているに反して、これに対しては極めて寛大な見解を持している。

 
以上擧示(きょじ)した人々よりも遙かに多くの天資を賦与せられたるカインは三つの霊魂を持っていた。その一つはグドロの身体に、その二はコレヤの身体に、その三はモーゼに殺されたエジプト人に宿っていたものであった。タルムードの中に殺人者及び姦淫者として描かれているイザヤについては、その霊魂が憎むべきキリスト教の始祖なるナザンのイエスに更生したと云われている。そのイエスはラウウィンらの言によれば、「地獄に於て糞尿の沸騰している釜の中に投げ入れられている」(サンヘドリン章)。これはタルムード中最も嫌忌すべき個処で、一再ならずその削除を試みられたが、その度毎にラウウィンらによって複抹された。「ユダヤ人以外の人々の霊魂も同様に地獄へ行く。(罪を犯した為にただ一時非ユダヤに生れ変ったユダヤ人と之を混同してはならぬ) しかし総てのユダヤ人は早晩楽園に入る。他のすべての人々殊にキリスト教徒及び回々教徒は咀(のろ)はれて永劫、膽汁(たんじゅう)と汚穢(おわい)の満ちた樽の中に漬けられる」(レスト・ショタルマ・ゼフェル・ゼマル・ハマール章)。

 彼らは地獄の苦悩から救われる唯一の方法は、割礼を受けることと、生存中にユダヤ教に転向することに於て認めている。総ての「ゴイ」(非ユダヤ人民特にキリスト教信徒を呼ぶ侮蔑の語)の呪咀せられることは全く当然である。「何となれば、もしユダヤ人が神から出た者とするならば、すべてのゴイは悪魔から出た者である。そして彼等の霊魂は最も不潔なる動物の霊魂と同一であるからである」(スケファタル、ジャルキュシャド)。

 ここに於て、我らはパリサイ派の教義の他の方面に触れるものである。これはハルデヤ人の哲学思想から借用したものではなく、ユダヤ人の古昔からの国民的驕傲(きょうごう)から出発したものである。パリサイ派の人々は形而上世界に対するハルデヤ人の見解を受け容れると共に、それをユダヤ風に改造し、イスラエル民の選民たる地位と世界的覇権の約束を固守した。

 この大無神論者は、ただ天の摂理によってユダヤ人に予定せられたる役割の観念を発展せしめたのみで、救世主をば全世界の征服者に化しめ、純真の信仰を守った者としてのイスラエル民に属する、優越権を他の諸国民に対する人権的優越性に化せしめた。宗教的優越性がイスラエル民をして、すべての非ユダヤ民に対して一層公平無私なるべき義務を感ぜしめるに反して、人為的優越の確信は、ユダヤ人をして他国民を見ること最下等の存在の如くせしめる。そして他国民が自分ら選民に屈従して、その利益に務むる間は之を容認し得べき存在として扱い、一朝彼らと平等の権利を主張する時は、これを罪人の如く扱うのが彼ら古来の習慣である。パリサイ派はユダヤ人にタルムードを授けて、之をもって彼らの心に世界とその物質的資材とを領有する希望のみならず、その出生の優越性によって彼らがこの覇権に予定せられたものであり、他の総ての人々の禽獣(きんじゅう)類的天性は、之をただ奴隷の地位に予定するのみであるとの意識を値付けたのである。

 タルムードは、世の末に至ってユダヤの王なる救世主が現われて、王の乗座せるその馬車の車輪の下に総てのゴイらを轢(ひ)き潰す時に生ずべき種々の出来事の預言を以って満たされている。このタルムードによれば、「その時大なる戦争が起る。そしてゴイ(豚)の三分の二は滅亡する。戦勝者なるユダヤ人は敗北者らの武器を焼却するに7年を費やす。この敗北者らはユダヤ人に屈服して、豊かな贈品を献じるであろう。しかし王なる救世主はキリスト教徒の貢物は受けない。彼らは算(かぞ)え尽せないであらう。メッシャ王の富は、これを収容する倉庫の鍵だけでも三百頭の馬に負わせる荷物となるほど尨大であらう。一般のユダヤ人についていえば、その中の最も卑賤な者一人でも、二千八百人の奴隷(ゴイ)を所有するであらう。キリスト教徒の殲滅せられた後には、残った人々の心眼は開かれ、彼らは割礼とユダヤ教に入会する為の儀式を請願するであらう。その時全世界の住民は只だユダヤ人のみとなろう。その時は地は耕さずして蜂蜜のケーキと、毛織物の衣服と各一粒の大きさが最も大きい牛の腎臓に等しい程の不思議な小麦を生ずるであらう」(サンヘドリン章)。

 我らはタルムード中に「物語」と称せられているこれらすべての寓話や預言を引用することを義務と認めている。何となればこれがパリサイ派の勝利によって生じたるユダヤ人の精神的堕落を測る尺度となり得るからである。又これによって幾多世紀の間イスラエル民が呼吸していた狂的倨傲(きょごう)と、覇権の渇望との雰囲気を理解する為の鍵を見出し得るからである。以上、我らは短い格言の形を以て戒命と教義とを述べた。この教義は、従来もまた今日も全世界の各会堂の教義の基礎を成すもので、これによってユダヤ人の心が如何にして燃るが如き憎悪の念と、彼らに縁のない総ての人々に対し、特にキリスト教徒に対する極端なる不信義との結合に化するに至ったかを説明することができる。




(私論.私見)