第7章 神、天使及び悪魔に就いてのタルムードの教義

 (最新見直し2012.04.06日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「第七章 神、天使及び悪魔に就いてのタルムードの教義(1)」、「第七章 神、天使及び悪魔に就いてのタルムードの教義(2)」、「第七章 神、天使及び悪魔に就いてのタルムードの教義(3)」を転載しておく。

 2012.04.06日 れんだいこ拝


 叙上(じょじょう)のようにしてタルムードの著述者ら及び註訳者らが既に自身を神その者に化せしめたる以上、神に対しては全然反対態度をとる外はなかった。即ち神を以て人間の虚構に過ぎざる者であり、人間と同様に卑しき存在であり、ユダヤ人の嘲笑の目標たり得る者であり、彼らの祖先がその威厳の前に畏服し崇拝したるエホバの神の追想を根底から覆し得べき存在であると認めたのである。

 かくの如くして自然以外の何物をも認めず、一切の神を否定しようとしたパリサイ派の久しき以前からの希望は、唯一の最も確実なるしかも極めて用心深い方法によって達成せられた。何となれば、彼ら自身のこの見解をイスラエル民の間に公然発表することは強硬なる反抗を誘発する冒険を敢(あえ)てせずしてはできなかったからだ。かくの如き理由で一般民衆の為には、その信仰の基礎として、造物主なる主を保持することが是非共必要であったので、パリサイ派はその汎神論的原理をただその秘密文書に於て、また最高秘密教の集会に於てのみ、純正に守る事を以って満足していた。そしてタルムードの中には、神はただ弱小化された、異様な、宛然(えんぜん)オッフェンババ(註、有名なる歌劇の作曲家なるユダヤ人)の小歌劇にでも出そうな可笑しいエホバに化せられている。故にこのユダヤ人の作曲家がその「地獄のオルフェイ」に出る神々の標本を探す場合には、自国民の古文書を調べるだけで充分であったに違いない。タルムードを繙(ひもと)いてその中から、全能の神の名を弄(もてあそ)んでいる滑稽的な作り話の実例を取り敢えず数個挙げて見よう。

 「『日』は十二時間である。最始の三時間に神は坐しでタルムードを学んでいる。その次の3時間、彼は世界を審判する。次の3時間、彼は之を養う。その後これまでの9時間の工作に満足して、神は坐し、漁族の王レウィファンを召して之と遊戯をする」。このレウィファンは懼(おそ)るべき怪物である。タルムードの力説する所によると、彼はその咽喉を害する事なくして長さ300キロメートルに達する魚を呑み込むことができる。故にこの巨大なる怪物の子孫が世界に満ちて、これを亡ぼす事を恐れて、神はレウィファンを去勢し、その牝を殺して彼はその肉を塩漬けにした。牝の塩肉を神に選ばれたる人々が楽園で食べる。その後夜になった時、神は何を為すか。教師メナハムは之についてこう断言している。即ち「初めに神は天使らと共にタルムードを研究する。しかしエホバがこの聖書と共に審議するものは天使らのみではない。悪魔の王アスモティも天上に昇って、この談話に参加する。その後神はエホバと共に舞踏する。またエホバの衣服を着、髪を梳(くしけ)るに助ける」。

 しかしこの時間割は幾分変更された。エルサレム聖殿の破壊された後、神は最早レウィファンと遊戯をしない。最早エホバと跳ね廻らない。何となれば重く罪を犯した事を悲しんでいる。この罪は彼の良心を重く圧しているのだ、タルムードに従えば、彼は夜の四分の三の間坐して獅子の如く叫び感嘆してこう言っている。「禍なるかな、我は我が家を破り、わが殿を焼き、我が子らを幽囚に追いやることを敢えてした」と。彼を慰むるが為に、讃美歌を彼に歌っているが何の效(こう)もない。彼はただ首を振って、「讃美歌をその家に於て歌はれる王は幸福である。自分の子らを貧困の中に叩き込み幸じて生活せしめるような父は如何なる処罰に当るであろう」と繰り言を云っている。この悲歎(ひたん)の結果、「彼は大いに衰弱して甚しく小さくなった。先に彼は全世界を満たしていたが、今は僅かに四ロコテイ(一ロコテイは約二尺)の所に居るのみとなった」。ここに忘るべからざる事は、タルムードの著者がいろいろの寓話を作るに実に巧妙であると云う事である。この巨大なるエホバが全く小さい者となったと云うのは、バイブルに於ける神の想念をタルムードのそれに替える意味を表わしたものである。〔傍註〕

 「彼は泣いている。そして彼の涙は天から非常な響音を以って落ちて、遠く聞こえた。そしてそれが為に地震が起った」。かくして失望の結果悲痛の為に叫聲を揚げることを余儀なくせしめられた時、彼は、タルムードの言葉によれば、驚くべき咽喉を持っているエラヤの獅子の聲を真似た。ある時はローマの皇帝がこの獅子を見ようと欲して、これを引き連れ来る為に人を遣(つかわ)した。神が皇帝から400マイルの距離に近づいた時、彼は非常な力をもって叫んだので、あらゆる妊婦が皆悉(みなことごとく)流産してしまい、のみならずローマのすべての城壁が崩れた。彼が更に300マイルの距離に近づいた時再び大声を出して叫んだ。それが為に人々の歯が皆抜け落ちてしまった。そこで皇帝は王座から倒れ落ちて、獅子を引き去るように哀願した。

 かような形容をもって表象せられている神が人々に対する威厳に於て欠く所の少なくないことは云うまでもない。そこでタルムードは彼が諸方から非難を浴びせかけられている者として描いている。月までも彼が自分を太陽より小さいものに造ったと云って彼を責めている。これに対して神は自ら卑しくして疎忽(そこつ)を告白している。しかのみならず神はまた軽躁で深く考える所なく濫(みだり)に約束を与えている。この約束を履行する義務を免れるが為に「ミ」と称する強力な天使がいる。この天使は常に天地の間に往来して、神が軽忽(きょうこつ)に引受けられた義務の解除に努めている。だが、時としてこの天使がその場所に居らないこともある。その時神は困難な立場に陥る。ある時イスラエルの一賢人が、「嗚呼我は禍なるかな、誰が我を我が約束から救うか」と浩歎(こうたん)した神の声を聞いた。賢人はこの事を自分の同僚のラウウィンらに話そうと欲して走って行った。しかるにラウウィンらは、この賢人が自ら神を約束から救わなかった為に彼を驢馬(ロバ)と詈(ののし)った。何となれば各ラウウィンは之を為す権利を有しているからである。

 タルムードに描かれている神の道義的風格を補足する為に、なお次の事を附言しよう。タルムードは寛大の態度をもって地上に行われる総ての罪業の責任を神に帰している。タルムードの著者なるラウウィンらが言うには、「これは神が人々に放蕩(ほうとう)な天性を賦与したからである」。それで神自ら人々を罪悪に予定した以上、彼らが罪悪に陥った為にこれを責めることはできない。だから姦淫を行ったダビデも、収賄を行ったエリの子らも実際罪を犯したのではない。ただ神のみ独り彼らの罪業の原因者であるとザブ章に説いている。

 タルムードが既に神をその様に取り扱って居る以上、天使に対するその態度が毎日半日づつを人々の睡眠を準備するが為に費やしているものの如くに描いている。彼らの焦慮(しょうりょ)に対して人々は感謝せねばならぬ。さればと云って、天使なくしては全くどうする事もできないと云う訳ではない。実際天使らは至って学者ではあるが、しかしハルデヤ語を知らない。それ故にユダヤ人が天使らから秘密にして何か神に求めようと欲するならば、ただハルデヤ語で祈祷せねばならぬ。そうすれば天軍はただ口を開いて茫然たるのみで、エホバ独り祈祷の意味を解するであらう。ここにハルデヤ語に優越性を認めていることは注目に値する。これは明らかにパリサイ派の教義のバビロンで起った事を物語るものである。

 「天使らはその権限に於て互に極めて平等でない。そしてその中の少数の者のみ人間の霊魂と同様に永久不死である。この特に選抜された天使らは世界創造の最初、その第二日に造られたのであるが、その他のすべての天使らは世界終末までに滅亡するばかりでなく、エホバは毎日新しい天使の軍をつくっている。しかしこの天使らはただ一瞬間生きているのみである。彼らは神に敬意を表するために讃美歌を合唱したる後消えて了う。神の発する各一言によって天子は生れる。二万一千の天使は地球上に分布せる二万一千の植物に付随せしめられている。野獣の為にも、鳥類の為にも、薬物の為にさえも天使がある。福音の天使なる幸福な天使長ガブリエルは熟した果実を譲る義務を負っている」(ペサシム章、サンヘドリン章、ゼフェルアンシェード、シブカブ章)。

 「或る金曜日の晩に、最早余程遅くなった時、神は悪魔を造った。そして安息日が近づいたので、その創造を終って、肉体を与える時間が足りなかった。それで彼らは月の世界にある、何の役にも立たぬ物質から造られた霊魂と或る者は水と火、他の者は土と空気からなり立った物質的形相を持っている。しかし肉体を持たない。ここに注目に値する一言は、霊魂と形相と肉体との区別は古代のハルデヤ人から借用されたものである。ユダヤ秘密教徒はこれをパリサイ派から継承し、更に現代の神秘学者、神智学者らに伝った。以上の中形相と霊体に化したのである」(ジャルキュ・シャード章。ゼフェル・ニシマト・ハイム章。ゼフェル・チュブ・ハアレツ章)。

 「タルムードの著者なるラウウィンらの言う所によれば、多くの悪魔はアダムから出ている。初めての人アダムが地上の楽園から遂出された時、彼は神に呪われた人々に生命を与えない為に、最初エホバに近づくことを拒絶した。女性の二悪魔がその時彼に現れて、彼によって妊娠した。百三十年の間その中の一魔女リリトと称する者がアダムから悪魔、悪霊、夜の変幻を生んだ。しかしリリトはアダムに対して罪を犯した。そこで神はこの魔女を裁いて、毎日百人づつの子の滅亡を見るべく宣告した。魔女の悲哀が余りに大きいので彼女はその時以来四百八十の悪霊に伴はれて空中に叫声を立てつつ、絶えず世界中を飛び廻っている」(ジャルキュレユバ・エリュベナ章)。

 「アダムがかくまで軽佻(けいちょう)な生活をなしていた時、エホバの品行もそれに優ってはいなかった。彼女は男性の悪魔の情婦となって、その間にアダムと同様な子孫が生まれた。その時以来多数の男女が悪魔と姦通した。故に悪魔の数の甚だ多いことは驚くに足らぬ。まして彼らはまた相互の間からも繁殖し、もし彼らがそれ程大洒と大食の傾向をもっていなかったら、彼らの数は、一層増すべき筈であったらうが、しかしこの為胃病を起して死亡する者が彼らの中に多い」(シャド章)。

 「大魔術者であったソロモンは彼らのこの特質を美しく知り、七百人の妻と三百人の妾のある上、なおこの魔女の中から世人の妻を娶った。その中の一人は既にアダムの妻となって、それ以来前に述べたが如き騒がしい生活を送っていたリリトであった。他の一人の魔女は絶間なく踊っていた。そして四百七十九の悪魔を自分の従者としていた。それが皆この魔女の滑稽な身振りを真似ていた。しかし、この魔女もソロモンが撰んだ第三の魔女とは競争もできなかった。それは最も力の強いサンマエルと云う悪魔の妻であった。そして地獄にいるその夫に敬意を表する為に、十八万の最も凶悪なる魔鬼がこれに従っていた」。

 「人々の為に悪魔を殺す唯一の方法は、過越しの祭の饅頭(マツツア)を作ることである。それはこの饅頭の香が彼等に耐え切れぬ苦通を感ぜしめるからである。もしノアが数万の悪魔を箱舟の中に入れるほど無邪気でなかったら大洪水の時以来とうに悪魔から免れることができたらう。その時以来彼らの数は甚だしく増加し、到る所に彼らを見るようになった。彼らは水飲場から帰って来る牛の角の間で、あるいは葬式の後家に帰って来る婦人の群れの中に踊るのを好む。彼らは嫉妬心に駆られて、ラウウィンらを訪れる。終に胡桃(くるみ)の樹は彼らの避難所になっている。胡桃の葉一枚毎に一悪魔が隠れている。故にこの樹の蔭で眠ることは避けねばならぬ。それは悪魔は之に対して悪戯をなすことがあるからである」。タルムードは悪魔の問題についてはその材料につくる所を知らない。そしてその中に述べてある寓話は、中世紀時代に広く行われ、最近二十五年以来再び社会の注意を喚起している種々の術書、妖術書の基礎をなしている。破門僧ルイ・コンスタンが「タルムードは妖術の基礎である」と言ったのは十分根拠ある言である。悪魔、悪法、妖術といったようなことは、この書の第一頁毎に見ることができる。「寂しい場所には危険を冒して往かぬがよい。何となればその所には悪魔が住んでいる」、「月の満ちたる時と虧(か)ける時には独居せぬがよい。その時刻こそ悪魔の跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する時である」、「夜には誰にも頭を下げてはならぬ。汝らが頭を下げたその人が偶然悪魔であり得るからである」等々。「ペレザム章。ジョレデア。ベラショット」の至る所に列挙してある。

 後世最も低級な占者及び魔法使と称する詐欺師らによって、十字架に行き会う事は、近く不幸を招来する前兆だとか、金曜日は外出に最も不吉な危日であるとかその他いろいろな愚味な迷信が広付されている。就中タルムードの中に記載せられ、ラウウィンの教授課目中に編入せられている、ユダヤ人と非ユダヤ人との別なく一般に実際生活に於ける超自然なる事の価値を低くすることを有利であると認める外に、タルムード創作者なるパリサイ派の人々は、タルムードの迷信的見解に一種の象徴的意義を附していた。

 
そしてラウウィンらは、現在でも多くのキリスト教信者らが、他の萬事に於ては自分の信仰を固守しながら、十字架と金曜日を凶事の前兆と認める会堂の教義を採用しているのを見て喜んでいる。自分の智慧は全知全能の神より優れて高いと誇称して逆せ上がり、迷信しているラウウィンらは、悪魔に対する大なる機能をも自ら有するものと考えるに至った。タルムードは、この権能が無限であると力説している。そしてラウウィンらが最も驚くべき魔術の実験の為にこの権能を行使しているのだと述べ、なおタルムード創作者の人らについても左の如く言っている。「ある一人は自ら殺した人間を蘇生せしめる魔術を知っていた。まして動物の活殺の如きは問題ではなかった。であるから彼は自分の生活費を軽減するために毎晩三歳の犢(こうし)を殺して、それを同僚とおいしく食べた。そして翌朝になると殺して食べたその犢を蘇らして、晩になるとまた殺して食べる」。

 「著名なる別のラウウィンは、極めて獣類の肉が好きであったので、最も自分の得意である魔術の力を以て、南瓜を鹿に化しめ、メロンを麋(おほじか)に化しめて食べていた。教師エイゼルが南瓜が不足すると二言三言神秘的な呪文を称(とな)へると忽ち畑一面が南瓜に蔽(おお)はれる(サンヘドリン章)。ヤンナイも、それに劣らぬ魔術師で、水を蛇蝎(だかつ)に化しめることができたし、また或る時、彼には乗用の家畜が居なかったので、一人の女を驢馬に化せしめてこれに乗り、家に帰って来るとまた以前の人体を戻した(サンヘドリン章)。有名なラウウィンは、奇蹟を行うに之を助ける魔法石を持っていた。そしてその中の一人の如きは、この石を以て塩漬けの鳥に触れると、その鳥は直ちに蘇って飛び去るのを娯(たの)しんでいた」(バイバ・バトラ。





(私論.私見)