第5章 復興せられたる最高評議会及びタルム―ド

 (最新見直し2012.04.06日)

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 「第五章 復興せられたる最高評議会及びタルムド(1)」、「第五章 復興せられたる最高評議会及びタルムド(2)」、「第五章 復興せられたる最高評議会及びタルムド(3)」、「第五章 復興せられたる最高評議会及びタルムド(4) 」、「第五章 復興せられたる最高評議会及びタルムド(5)」、「第五章 復興せられたる最高評議会及びタルムド(6)」を転載しておく。

 2012.04.06日 れんだいこ拝


 紀元90年、上記の迫害は程なくキリストの預言した「神罰」がエルサレムの上に臨んだ。パリサイ派がシネドリオン及びユダヤの輿論(よろん)を完全に支配する者であったにも拘らず、彼らは分派の発展を防止することができなかった。殊に下層階級に於て然りであった。彼らの間に国民の独立を直に要求する或る分派が起った。ローマ人反対の一揆が成功して、エルサレムの代官は滅びた。その援助の為に来たシリヤの地方総督も敗北した。この反乱によって遂に将軍ウエスパシャヌスとその子ティトウスは大軍を率いてユダヤ国を攻撃することとなった。ティトウスはあたかも過越(すぎこし)の祭に当ってユダヤ人の大半が例年の献祭執行の為にエルサレムに集った時、この聖域を包囲攻撃した。悲壮なる奮闘によって凄絶(せいぜつ)なる惨劇を極めた後、遂にエルサレムはティトウスによって占領された、この戦争に於てエルサレム城内で惨死した老幼男女のユダヤ人の数は実に60万に達し、ユダヤ国全人口の三分の一を失ったのであった。その後ティトウスは全市を焼却し、聖殿を破壊すべく命令した。その結果、キリストの預言の如く、石の上にも石を残さぬ程全滅した。包囲攻撃の後生き残ったユダヤ人は、競売によって奴隷に売られた。しかもユダヤ国その他ローマ帝国の諸州に居った親族が彼等を買収して救い出したが、国民の分散は益々強化されるのみであった。

 この反乱にパリサイ派はただ隠れたる役割を演じたのみであった。それはこれが時期尚早であると考えたからである。彼らはユダヤ人の居留民間に於ける自分の勢力を強化するが為に、この反乱の結果を利用しようと欲した。そしてそれに彼らは何らの困難もなく成功した。何となればローマ人は表面に現われた反乱を鎮定し、エルサレムを破壊したが、しかし世界中に離散しているユダヤ国民の分団と密接な連絡を有していた彼らの全然知らなかった宗派には十分注意を払わなかったからである。それでパリサイ派は、自分らが多年の間精神的感化を与え来ったイスラエル民の法権の連綿たる系統を復興することができた。神聖なる都エルサレムの滅亡、聖殿の破壊、大半の住民の惨死、シネドリオンの廃絶を聞いて戦慄しつつあった各地のユダヤ居留民団は、程なく地中海沿岸のヤツファ市に新たにシネドリオンが組織された事、破壊された聖殿に於て献祭を行う事が不可能となったため、又災厄の際に大祭司も聖務執行者も行方不明となった為、イスラエル民の伝説を保存する機関として大学校が創立せられた事、そして総教長(パトリアルク)が人民を統治していることを聞き及んだ。この総長と大学校は、ユダヤ人の政治的及び宗教的中心となるべきもので、大学長は校長と評議会とパリサイ派の学士から組織された。パリサイ派は今や国家の機関が一般に荒廃した間を唯一の一致結合した集団となっていた。そして巧妙なる陰謀によってイスラエル民の統治権を自分の秘密結社の手中に収めた。しかし急激なる国家の滅亡は一般民をしてこの政権の簒奪を一種の恩恵と感ぜしめた。何となれば彼らは之によりてとにかく自分の国家の外形だけでも保つことができたからである。
 我らがイスラエル民の政治的及び宗教的発達に於て、著しく演じられていたものと認むるパリサイ派の役割は、今日までキリスト教の学者の間では殆んど気付かれなかった。然るにこれと反対にユダヤ教の歴史家はこの間の消息を熟知し、ユダヤ民族の保全団結とを以てパリサイ派の功績に帰している。彼らの著書の内容を綜合するに、パリサイ派は、キリストの来臨前既に従来ユダヤ民統治のために規定されたる民間の有司と異なる秘密結社と祭司の階級を成立せしめていた。この結社の最初の中心が俘囚後多数のユダヤが残留していたバビロンであったかどうかと云うに、これはあり得べき事と思はれる。

 とにかくタルム―ドに従えば、西暦紀元前30年、ヘデロ大王の後世にエルサレムに組織せられたパリサイ派の承認を得た最初の総教長ギーレルはバビロンの出生であった。彼は多数の門弟を遺(のこ)して紀元13年に没したが、彼の後継者となったのはその子シメオンであった。この人については祭司ダビデ・ガンツがその年代記に殆んど何も知られていないと自白している。シメオンの後継者であったのが、エルサレム陥落及びヤツファのパリサイ派大学校の占領当時に生存していた教師ヨハナムである。彼はこの町にシネドリオンを復興して、全世界の会堂にこれを承認せしめた。

 パリサイ派の権力はかくしてユダヤ国を手中に収めていた。ヨハナムは紀元76年に没してヤツファのと云う肩書を附せられているガマリエルがこれに交代した。ガマリエルについてダビデ・ガンツが証言して云うには、彼は全世界のユダヤ人の間に大なる勢力を有していた。のみならず外国の王らもその領域内に居ったユダヤ人に対する彼の裁判権を認めていたと。〔傍註〕

 総教長(パトリアルク)及びパリサイ派のシネドリオンは、その承認を得、且つその権力の確立を謀るために実に三十年を要した。イスラエル民の政権が既に全く消滅したものと見做していたローマ人の為には、殆んどその存在を認められなかった彼らは、自分の使者を各地のユダヤ居留民団に絶えず派遣して、「デイドラクマ」の殿税を徴収していた。この租税は、ローマ政府がエルサレムの聖殿の破滅後直に之を国庫に納めるべく要求したにも拘らず、ユダヤ人は依然正確に之をユダヤの有司に納めていた。之と同時にパリサイ派の秘密教は、そのあらゆる捏造説や迷信や、輪廻説メッシア(救世主)の人間的本質についての曲解と共に、又ユダヤ人ならざる総ての者、殊にキリスト教信者に対する嫉みと共に最も遠隔せる国々のユダヤ居留民団にまでも浸透した。


 かくまで好成績を挙げつつあったパリサイ派のユダヤ人血盟は必ずしも全民悉く皆一致した訳ではなかった。キリスト教に転向した者でも、とにかくモーゼの律法とユダヤ秘密教との不一致を憤(いきどお)ったユダヤ人は皆この新教説に反抗する為に団結した。この党派はカライム派と云う名称を受けた、それは文書に録されたる律法(カラ)の信奉者と云う意味である。彼らは最初少数であったが、パリサイ派の圧迫が次第に強く感ぜらるるに従ってその人員も益々増加して、紀元600年の頃には強大なる分派を形造った。それはちょうどパリサイ派がタルム―ドの結果を完了した時であった。紀元775年、バビロンに於ける『追放民の首長』の兄弟アナヌスが分派に加担した、これによってこの分派は一時著しく増した。しかし13世紀以後次第に哀頽に傾いて、現今カライム派の人員は僅に数千を算(かぞ)ふるに過ぎないようになり、これが為にロシヤ、オーストリヤ、トルコに分散しているカライム派を甚だしく虐待した。タルム―ド信奉者なるユダヤ人に対する彼らの敵慨心は周知の事実である。バイブルの外に他の聖書を認めない彼らは、キリスト教信者に対して頗(すこぶ)る好意を有している。彼らの個人としての生活は何ら非難すべき所はない。

 ユダヤ人の密使は各国に散住している同胞の在留地を洩れなく訪歴して、「我らの救世主(メッシャ)来臨の時期が近く到来する。その時こそ祖国復興の為、ユダヤ人は献身賭命起奮進しなければならぬ」と云って激励した。アキバ・ベン・ヨセフの如きは、「この救世主はかの士師の時代にヤエルに殺されたカカナン人の将軍シザルの家から出るのである、しかも純血ユダヤ人の母から生れるのだ」と力説した。そして彼はヤッファよりスペイン、ガルリヤ、イタリーを巡歴し、ローマには永らく滞在していたが、ギリシャに赴き、その所から小アジヤを経てバビロンに往って、最後にエジプトを訪れた。このヨセフの祖国の復興に燃ゆる情熱は、各所に離散しているユダヤ人に強烈なる刺激を与えた。遺憾なく指導を終ったヨセフはパレスチナに帰った。そして大なる熱意を以ってシネドリオンとパリサイ派大学とを指導した。これによって彼はタルムド伝説の諸父の一人と認められた。このヨセフの活躍とあいまってラーウィン、サムエルがキリスト教徒に対する激逸なる呪詛文を書いた。この呪詛文は今日までユダヤ人各会堂に於て毎日祈祷式に謹んで誦読せられる。

 その後程なく蜂起したユダヤ人の暴徒は、彼らの国民復興の工作が続いて行われつつあることを示した。紀元115年に於けるユダヤの部分的反乱は、ローマ皇帝トラヤヌスの将軍等によって辛うじて鎮定せられたが、その反響はエジプト及びキレナイクに及んで、この地方に於て、武装せるユダヤ人が二十万人のキリスト教信者及び異教徒を殺戮した。そして三年間戦争の後漸(ようや)く暴徒は敗北した。これと同時にキプル島のユダヤ人は全島を占領して、サロミナ市を破壊し、キプル島の住民二十四万人を殺したが、その大半はキリス教徒であった。又メソポタミヤのユダヤ人は数カ月の間ローマの軍隊に対して堅忍持久の防戦をなした。その他小規模の騒擾(そうじょう)は諸所に誘起された。

 これらの騒擾は一層懼(おそ)るべき反乱の前兆であった。紀元134年にヨセフ・ベン・アキバはバルコヘバ(星の子)なる者を王位に就かしめた。彼の力説する所によれば、この人に於て彼は来臨すべきメッシャの前兆であると認めたのであった。この為メッシャは忽ち二十万のユダヤ大軍を編成したが、その中には他の諸国から馳せ参じたるものも多くあった。彼はユダヤ国に駐屯していたローマ総督アィンコー・ルフスの軍隊と戦って連勝し、一時ユダヤ国の主権を握った。この短期間を利用して、彼はその権下に服した諸州に於てキリスト教徒に対して残虐の限りを尽した。この事実はエフセウイウスの年代記及びローマ皇帝アドリアタス治世17年の記録及び哲学者エスチヌスの書す所である。

 アドリアヌス帝は勇将ユリウス・セウエルスをブリテン国から召して反乱を邀撃(ようげき)せしめた。バルコヘバは戦うこと二ヶ年の後遂に敗れた。彼はアキバ及びパッピウスと共にユリウス・セウェルの捕虜となった。ユリウスは彼らがローマ人に与えた惨虐に報ゆるに彼らの身体から生きながら皮を剥ぎ取ったと伝えられている。エルサレムはこの抗戦の中心地ではなかったが再度の突撃によって占領せられ、先に聖殿のあった場所は徹底的に掘り返され、塩を撒かれて浄められた。ここに於てユダヤ人が殆んど絶滅せられ、僅(わずか)に生き残ったものは奴隷に売られ、あるいはエジプトへ追放された。


 この敗北はパリサイ派の野望を達成せん為には一大打視察に赴いた撃であった。ヤッファのシネドリオンは、エルサレムのそれと同様に解放せられ、四方に追放せられ、全イスラエル民は大なる恐怖に襲はれた。それでもパリサイ派は活力を失はなかった。ローマ軍の馬蹄の音がユダヤの地に消えるや否や、パリサイ派のシネドリオンはペテリヤに設立せられ、そこにヤッファの大学校も移された。アドリアヌス帝がエジプトの情勢を時其地に会々、地方の会堂を視察する為に来たユダヤ人の総教長シメオン三世の滞在している事を知ったが、アドリアヌス皇帝及び従者はユダヤ人の遠大なる宿望を看破することができなかった為に、たとえ一時消滅しても、再び灰燼(かいじん)の中から復興し、依然として各地のユダヤ居留民団に動かすべからざる勢力を有する、この秘密的権力の調査を行う必要を認めなかった。この権力を危険せざるのみならず、後に至ってその存在を他の諸宗派の最高教職と同様に公認するに至った。

 この公認の年代は確定されていない。とにかくテペリヤの総教長は疑いなく慎重の態度を取っていた。しかし即位の当初ユダヤ人に敵意を懐いていたアントニヌスが後に至って彼らに少なからず好意を持つようになったと云うラウウィン等の伝説は、真面目に注意を払って見る必要があらう。

 とにかくその出生がシリヤ人で、ユダヤ人の母を持っていたアレキサンダー・セウェル帝の時(紀元252年)から始めてテペリヤの総教長の存在と、その全ユダヤ人に対する支配権はローマ皇帝の勅令によって確認された。コンスタンティヌス大帝はキリスト教信者であったにも拘わらず、この教職を廃止しようともしなかった。のみならずユダヤ総教長の或る課役、例えばさほど名誉でもなく、面倒で多くの時間を奪う十人長の任務を免除することに同意した(テオドシウス法典)。甚だしく残酷にキリスト教徒を迫害したユリアヌス皇帝は、エペソのマクシムによってユダヤ秘密教の秘密を授けられた後、ユダヤ民に宛てた親書中に総教長を兄弟と呼んでいた、そして総教長の請願に応じて、エルサレムの聖殿の再建を命じた。しかしこの工事は奇蹟的に不成功に終った。

 この奇蹟、殊にこの工事の時火の玉が現れて、そこに働いていた人々を滅した事の記述は、キリスト教の学者ソクラト、テオドリト・サゾメンらのみならず、教会外の歴史家、例えばジュリアヌス皇帝の側近者としてその証言に疑を挟み難きアミエン・マルツェリンの如き学者の著書中にもある。この事件はユダヤ人教師ゲラリヤもその労作「シャルシュレト・ハ・カツバラー」の中に認めている。またエルサレムの主教聖キリルの書翰(しょかん)中にも記されてある。〔傍註〕

 東ローマ帝公のテオドシウス皇帝は、その反対にテペリヤの総教長に各会堂からディドラクマの殿税を徴収する事を禁じた。この勅令は紀元390年にその子ゴノリウス皇帝も確認した。しかしその後五年を経て、総教長は皇帝に請願してこの勅令の廃止を得た。終に小デオドシウス皇帝は最初415年に総教長の権限を著しく縮小した(テオドシウス法典、ユダヤ人について)が、420年、我らがなお以下述べる事情に際して、総教長の職を全然撤廃した。これに依って見れば、パリサイ派は完全にその目的を達成し得たのである。即ち最初彼らはユダヤ人の為に精神的祖国に類似したものを造り、そして彼らは自らその政府の地位を占めた。

 その後ローマ皇帝の権力によってこのユダヤ政府が承認されるようにしたのである。
 このユダヤ政府という名称は、我らが次の如き事情を知ればさほど驚くに足りない。即ちローマ皇帝の勅令中にテペリヤの総教長について「最も栄誉ある最も輝かしき」と云う尊称を用いてある。この尊称は、当時の高等官に任ぜられた程度のものであった。この特権はエルサレム聖殿の滅亡前の大司祭の有していたそれと同等であった。実際総教長は、全世界の会堂に対する問題を解決し、「ロ・シアボト」即ち一州内の全会堂を統治する民の長老を任命し或いは交迭した。彼はまた自分の『使徒』即ち全権を有する吏員(りいん)を通じて長老を指導した。これら使徒の任務は、ローマ帝国の東部、西部、アフリカのローマ領地及び小アジヤを巡歴して、命令を伝達し、租税を徴収するにあった。総教長の裁判権は至って広汎であった。即ち彼は或いは裁判官を通じて裁判を行い、ユダヤ人の間に起った訴訟を審査するばかりでなく、刑事裁判を行い、罰金、投獄、死刑以外の種々の体刑を宣告す権利を有していた。

 オリゲヌスは、テベリヤの総教長が死刑の宣告を行っていたと言っているが、しかしこの証言は総てのローマの法律と矛盾している。もっともパラディウスはその「聖クリゾストムスの伝記」に於て、総教長がユダヤ民に対する権限を屡々(しばしば)超越していた事を指摘しているが、しかしそれは専ら財政問題についてであった。

 紀元415年に発行した勅令に於て、小テオドシウス皇帝は、当時ユダヤ人を統治していた総教長がマリエルに対して、訴訟で争っていたユダヤ人とキリスト教信者を自分の法廷に召致して、自分の権限を拡張することを禁じている。これは左様な権限の超越が行なわれていた事を立証するものである。その様に自分に属せざる権利を僣取したことに対して彼を罰する為にテオドシウス皇帝は最初彼に与えた多くの名誉職を解いた。〔傍註〕

 終に総教長に隷属していたシネドリオン議長の職は、常に選挙に由ったものであるが、総教長の権力は久しき以前から世襲的とされていたようである。それはこれに由ってユダヤ民のこの至上に王権の性質を附するが為であった。この権力の創立は勿論一朝一夕の事ではなかった。総教長は紀元135年、エルサレムの再度の破壊から252年、アレキサンダー・セウェルの治世に至るまでの期間に、徐々とその権力を強化したのであった。しかし彼らの権力はその歴史全体を通じて最も偉大なる人格とも謂うべき聖ユダの総教長の職に就いた当初、即ち190年の頃既に牢固となったのである。

 
このパリサイ派の学者なるユダ(ユダヤ教の歴史家の言う所に従えば、アキバの死刑に処せられた日に生れた人で、アキバの生れ変わった者である)はこう悟ったのである、即ちイスラエル民は今後久しき間に亘って或いは最早永劫武力を以てユダヤ国を奪還しようと云う考慮を棄てて、これに代えるに分散したるユダヤ民のため国民的中心を造らねばならぬと。しかしこの思想は彼をしてこう云う危険を感ぜしめた。即ち、パリサイ派の教義は、ただ辛うじて各ユダヤ居留民団を心服せしめていることに限らぬから、もし一朝迫害が起り、パリサイ派のシネドリオンが解散せられ、或いは全世界に散在しているユダヤ人との連絡を維持する便宜を失った暁には、この教義は彼らの間に保持せられ得なくなるであろう。それ故に彼はシネドリオンの『使徒等』の口述の宣伝を補うに、パリサイ派の秘密教とユダヤ民の道徳的、宗教的及び民事的律法の解釈を組織化したる文献を以てせねばならぬと考えた。聖ユダは自らミシナ、即ちエルサレムのタルムードの最も本質的部分を成し立てている『第二の律法』を編纂して、上記の如き大労作の礎を置いたのである。
 この多言で、乱雑な、矛盾と誤謬に満ちた労作(タルムード)は、パリサイ派に教育されたユダヤの学士等の見解を最も善く説明している。この労作は六篇に分けられている、第一編は播種及び刈入れについて述べている、そして所有権及び所得税その他にも言及している、第二編は祭日及び之に関する風習を守る規則を述べている、第三編は婚姻に関する総ての問題を含んでいる、第四編は裁判及び商業の問題、又異端の問題について説いている、第五編及び第六編は本分及び洗浄の問題を解説している。この書は同時に民事法典、宗教的規定集、譬諭(ひゆ)及び逸話集又ユダヤ民の道徳教訓書である。その如何なる教訓であるかは以下述べてみよう。

 この労作の編纂に自分の総教長在職三十年を献げた。そしてその編纂の進むに従ってこれを部分的に各会堂に頒布(はんぷ)したのであったが、パリサイ派の総ての教師らの目的としていた人生のあらゆる偶発的なる場合に対する解決を提供することはできなかった。それで彼の存命中、又その死後テベリヤのシネドリオンは、彼の労作に対する、多数の解釈者による増補を、その追加として編纂することを企てた。

 ミシナ及びその解釈全集(その中最も重要なるものは四世紀のラーウィンであった教師ヨハナンの編成に係るゲマラである)は、エルサレムのタルムードを成し立ってるものである。このタルムードの編纂は、テベリヤに総教長及びシネドリオンの存在していた時代を通じて継続された、そして不満を懐いて離反した数千のユダヤ人、即ちカライム派を除く全世界の会堂はこのタルムードを受くると共に何らの反抗もなく一斎に之を承認した。しかしシリヤ王の治世の間、総教らの受けつつあった擁護は、キリスト教がコンスタティヌス大帝に由って帝座に登った時以来極めて不安定なるものとなった。実際背信者ユリヤヌスの治世以後、ローマ皇帝は何れも皆総教長の特権を制限するに傾いていた。

 紀元429年、小テオドル帝(テオドシウスの誤りと思はる)は総教長ガマリエル四世を眨黜(へんちゅつ)するに決した、眨黜せられた後ガマリエルは民間に身を潜めてイダヤに於て医学の研究を続けていたようである。セクスト・エシピリクは之についてその著書33巻中に彼を称賛している。そして同時に彼は総教長の職を廃止した。この処置はイスラエル民に特別の動揺を惹起しなかった。その理由は明白である。ガマリエル四世の父ギレル三世は、攻撃の目的を以って、真面目に研究していたキリスト教を、死する前に受けた為に自分の一族に対するユダヤ人の信用を傷つけたのである。

 このギレル三世はオリゲヌスを知っていた、そして彼と信書を交換していた。聖エビタヌスが、キリスト教の洗礼を受けて後にテベリヤの主教になった。ユダヤ人ヨセフから聞いたと云う物語によると、ギレル三世が死する前にこのユダヤ人を自分の許に招いて洗礼を受けることを求めたと云うことである。〔傍註〕 それでその子の眨黜(へんちゅつ)は、シネドリオンの為にも皇帝の政府と殆んど同様に望ましい事であった。他の一面に於てキリスト教を捧ずる皇帝の先に発布した勅令とその政権の確立とによって、イスラエル民の政府の首都がローマ帝国の属領にあった場合、この政府の平静なる工作は多くを期待し得らなかった。これらの原因によってシネドリオンは自然その目を東方に向けるようになった。何となればその処にサッサニド王朝の権下にあったペルシャ帝国に移住していたユダヤ人が大に繁栄していたからである。こうしてシネドリオンは遂にバビロニアに移るに決した。
バビロニアは、バイブル時代には天を征服せんと努力していた地の諸子の陰謀を行った舞台であった(以上既に述べた神化人の崇拝への興味ある序奏曲)、故に常にユダヤ人の憧憬の的となっていた。バビロニアの領地にあった町なる所謂ハルデヤのウルから彼らの祖先アブラハムが出た、バビロニアにはまたユダヤ国の住民が俘虜として移された。

 バビロニアの哲学は彼らの信仰を神道に導いた。バビロニアからはまた紀元前30年にパリサイ派の第一総教長大ギルレルが出た。終にバビロニアへは小デオドシウス帝の勅令発布後ユダヤの秘密政府が帰った。そして紀元1005年までそこに存在していた。なお次の一事を加えておこう。即ち俘囚時代以後ユダヤ人の口語は、最早古典的ヘブライ語ではなく、アラメヤ語、即ちシリオ語とハルデヤ語の混淆(こんこう)したる方言であった。そして古典的ヘブライ語は単に学者のみ使用する言語となった。エルサレムのタルムードはアラメヤ語で書かれた。

 1911年の8月に文芸大学に於てピニオンの述べた調査報告の結論によれば、ユダヤ人は俘囚の後バビロニヤの暦を採用したと云うことである、その論拠となっているのはエレファンテイナで発見された古代エジプトの写本である。〔傍註〕 このユダヤ民の政府がバビロニアに樹立されたのは、或る学者らの著書、殊にカトリック修道院長シヤボティの労作「ユダヤ人は我らの教師なり」によれば、西暦紀元2世紀である。それによると聖ユダは2世紀の初に当時バビロニアに君臨していた「追放民の君主」(バビロニアに於けるユダヤ民族長)及び全ユダヤ民の首長グーナの至上権を承認していた。この問題を塾々研究した結果、又我らが決定的なるものと認める理由によって、我らは以上の証言を放棄せねばならぬ。

 5世紀以前にバビロニアに「追放民の君主」が存在していた事の唯一の論拠は、以上擧示(こじ)した「ゲルマラの結論」中の一句に含まっている。しかるにタルムードのこの部分は殊に時代錯誤や、寓話や、非条理の妄語に満ちている。この句の筆者であった解釈家は、多分その時代の「追放民の君主」に媚びて、この「君主」なる職の由来が古代に属するものである事を誇張しようと欲したのであろう、この解釈家は、「追放民の君主」以前に存在していたユダヤ国の総教長を黙殺し去ることの不可能なるを知って、総教長を以て「追放民の君主」に隷属していた者と爲したに過ぎない。しかしこのグーナなる者の祖先についても、その子孫についても知られている者は何もない。そして歴史に出されている初代の「追放民の君主」は五世紀、即ち総教長ガマリエル四世の眨黜(へんちゅつ)とテベリヤのシネドリオンの解散の後にいた人である。そしてこの人は未完成のままになっていた。タルムードの編纂の継続を企てたバビロニアのシネドリオンと同時に現われたものである。これは単なるシネドリオンの場所の変更を示すものに過ぎない。そしてこの変更と同時に総教長の血統の変更を生じ、これによって、シネドリオンも或いは一層能率の向上をはかり得たかも知れない。

 惟(おも)うに、エルサレム宮殿の破壊の時以来ただ同一のユダヤ政府が続いて存在し得たのみで、それが相続いてヤッフワ、テビリヤ、バビロンと所在地を変更したのである。そして我らの考うる所によれば、この政府は後世コンスタンチノーボルに移され、その後更にサロニキにその所在地を変えたのである。我らは「ゼフェル・オラム・ズータ」には何らの価値をも認めない。これは極めて曖昧なる書で、エルサレムがネブカデネザル王に占領された時から五世紀の中葉までの「追放民の君主」の族譜を載せている。著者は我らの上述の見解を裏書きするに足るべき荒唐無稽の言説を多く述べている。
例えば、彼は「マッセヘット・アボド」の創述者なる教師ナタンをグーナの父であると言っている。しかしこの教師ナタンは有名な人物で、彼は3世紀の初めの総教長聖ユダの時代にテベリヤのシネドリオンの議長であった。総てこの調子である。〔傍註〕

 紀元249年にテオドシウス帝の勅令発布も歴史の表面からその跡を消した。テベリヤのシネドリオンは、その後二十年を経て、以前と同じ組織、同じ権限、また同権能を以ってバビロンに復興せられた。そしてその勢力は総てのユダヤ居留民団によって承認する所となった。このシネドリオンの上には、伝説によれば、古代のユダヤの総教長と同様にユダの王族から出た、世襲的「追放民の君主」の一人が君臨して居た。この仮想的撤廃は所在地の変更によって、ユダヤ民の政府は、ローマ皇帝の監視を避け得たに過ぎなかった。何となればローマ政府は最早これに対して、動きかける何らの便宜をも有しなかったからである。

 「追放民の君主」及びバビロンのシネドリオンの歴史は、ユダヤ年代記によって、我らに殊によく知られている。この年代記は、君主とシネドリオンをあらゆる荒唐無稽の記事や造り話をもって飾っている。当時ペルシャ国を治めていたサッサニド王家は、最初彼らを庇護したのみならず、ある程度の栄誉をも保たしめていた。「追放民の君主」の即位式は次のように描かれている。
シネドリオンの議長は、玉座に出る「新君主」に向って「自分の権力を濫用せざる事」の誓文を読んだ。そして国民の現に遭遇しつつある悲境の為に彼は王位よりも寧ろ端役に召されたものである事を彼に示唆した。その次の木曜日に大学校の長老らは喇叭の音と人民の歓呼の声の中に会堂に於て彼の頭に手を置いた。人民は荘厳に彼のその家まで送って、豊かな贈品を献じ、土曜日の朝すべての貴顕(きけん)紳士が彼の家に集まり、彼はその主席を占め、金襴(きんらん)でその顔を掩(おお)ったままその家を出た。そして民衆に伴われて会堂に行った。そこで大学校の長老等と唱歌隊が、彼の治世に神の祝福の臨む事を祈る聖歌を合唱し、そこで律法の書を彼に手交した。

 すると、彼はその第一節を通読し、次いで敬意を表する意味で、眼を掩(おお)ったまま人民に述べた。また彼に代ってシリヤ大学校の校長が説教を演べた。儀式は新君主に対する敬意の高唱と神が彼の治世の間に国民を解放せん事の祈祷をもって結ばれた。彼は人民を祝福し、各州の為に神が之を悪疫と戦争から防疫する様に個々に祈祷を献げた。彼は儀式を黙祷を以って結んだ。それは彼が他の国王の滅亡を祈って居る事を誰かが聞いて、これを彼らに通告する事を恐れていた為であった。何となれば実際ユダヤ人の国家は他の国家の廃墟の上に建設され得たからである。会堂を出た後、彼は厳粛に宮殿に送られ、その所に人民の長老等を招いて盛大な酒宴を催した。これは彼の最後の外出であった。
その後、彼が大学校を訪れる時以外に宮殿を離れる事ができなかった。彼が大学校に行った時は皆起立して、彼が着座を求めるまでに立っていた。なお一つの外出の場合はバビロン王の許に行く時で、それは彼の即位式に次ぐ盛儀を以って行われた。バビロン王がこの訪問予報を得るや、特別差回しの馬車を引き行く事を命じてこれを以って自分の敬意と依存関係を表明した。

 この時、彼は華麗な金襴の服装を着け、五十人の親衛隊が彼の前に進んで行き、途中彼に行き合った人々が、皆彼に随行して王宮まで送ることを自分の義務と心得て居た。王国では竉臣等が彼を迎えて王の王座に導いた。この時官吏の一人が彼に先行して金銀を分與した。王に近づいた時彼はその前に伏して、これを以って自分の属国の君であり、王の臣下である事を表明した。最始の挨拶の後、彼は王に自分の希望と自国民の政務とを陳述した。王は直ちに之が解決を与えた(1710年、パリに於て発行されたルイ・ルラン著「ユダヤ史」より)。
だが、ペルシャ王らは程なくユダヤ政府の行動が、彼らの為に有害である事を悟ったに違いない。何となれば彼らは遂にこの政府に対して断行たる処置を講じたからである。即ち数人の「追放の君主」は相次いで殺害せられた。シネドリオンは解散せられ、ユダヤ人の学校は閉鎖せられた。そこでユダヤ人は自分の勢力をつくしてアラビヤ人の侵略を支持した。この侵略の結果遂にペルシャ国は滅亡してユダヤ人は新たに復興する事を得た。

 未曾有の強大なる勢力を得て、「ナジ」(シネドリオンの議長)はアラビヤ国王回々教主の治下に1005年までその存在を保った。この年アラビヤ王カデル・ビルラクは以前サッサニド王朝のペルシャ王と同様なる危惧の念を懐いて「追放民の君主」エゼグリヤを絞刑に処する事を命じ、なおその属領内からユダヤ人の勢力を全滅せしめた。爾来(じらい)「追放民の君主」なる職位は合法的に再興せられなかった。そしてシネドリオンも亦遂に召集せられなかった。しかしユダヤ民がその人種的一致の永続を保証すべき中心機関なくしては止まなかったと考えられる充分の根拠がある。
1005年にアラビヤ王カデル・ビラクの命令によってユダヤ政府が廃滅された後、我らは最早その痕跡を見ない。12世紀の有名なユダヤ人の旅行家ベニヤミン・トゥデリスキイはバビロンに王位に就いて居た一人の追放者君主を見たと力説している。だが、この力説は単独である。そして惟(おも)うに、この祭司トゥデリスキイはその記述しているすべての国を巡歴したのではなかった。仮にその中の一人が、当時実際に存在していて、ベニヤミン・トゥデリスキイがそれを訪問したとしても、この存在はアラビヤ王から隠されていて、ただ秘密教の極意に通じていたユダヤ人にのみ知られていたことが、恰度最初ローマ政府から隠れて居た総教長及びヤッファのシネドリオンと同様ではなかったらうか。これによって万事、殊に次の総ての事は説明されるであらう。

 実際、数多の証明に幾多世紀の間ユダヤ民の至上権の連綿として存在していた事を裏書きしている。しかしこの至上権は公開的のものでなく、隨(したが)って過去の時代のように容易に毀損(きそん)せられ易いものでなく、むしろ精緻(せいち)を極めて、カムフラジせられてただ専らユダヤ僧団の首脳部、イスラエル民団の長老にのみ知られているものである。
かかる政府、真正の秘密会議が限定された人員の統治者に働きかけて、これによって容易に全ユダヤ民に自分の権力を普及させることができた。現今「団結進歩委員会」と称する機関の設置してあるトルコに於て、叙上の如き秩序の下に収め得べき結果の標本を見ることができる。左に我らの論拠となって居る文献を擧示(こじ)しよう。
 一、1640年、アウィニオンに於けるカトリック教会の司祭イ・ブイの発表した著書によれば、この労作中に或る地方の修道院の文庫に於て謄写(とうしゃ)された、その当時すでに150年を経過していた二通の書翰(しょかん)の複製が載せてある。その中の一つは1489年、「サバト」の月13日、アルリ市にあるユダヤ長老会長ラウウィン・シヤモルからコンスタンチノーブルのユダヤ長老会に宛てた書翰である。この書翰中に、前者は、プロワンスの新統治者なるフランス王がユダヤ人に対して洗礼を受けるか、退去するか何れかを強要しようと欲している事を報告して、この場合如何に善処すべきかを諮問(しもん)している。第二の書翰は同年「デ・カスレウ」の月21日の日付になっている。その中に「ユダヤ民最高司祭等」の回答が含まっている。そして「コンスタンチノーブルのユダヤ人の君主」と署名してある。そして後日キリスト教徒の上に如何にして主権を保持すべきかについて種々の方法を教示している。また彼らの生活に於て、宗教及び所有権の問題に於て彼等は損害を加える方を授けている。1880年にプロワンス文芸作品集がこの書翰を公表した時、ユダヤ人新聞界に喧囂(けんごう)たる論議が起り、非友誼(ひゆうぎ)的態度を非難する声があがった。これに対し、この書翰の発表は1640年、まだユダヤ人反対運動のなかった時分、既にカトリック修道院長ブイが行ったものであると云って反駁(はんばく)した。

 そこでユダヤ人は、しからばこの偽造も頗(すこぶ)る古いものであるといって逃げる外はなかった。16世紀の末にトレンドの古文書倉庫で発見されて、1583年にスペインのナワルラ町の或る貴族ユリアン・デ・メラノが「シルバ・クリオザ」と題するスペイン語の著書中に、発見されたスペインのユダヤ人に宛てた書翰が知られるやうになった時、ユダヤ人の計画は全然失敗に帰した。かくして1489年即ち上記の書翰の往復せられた時代に追放民の君主及びシネドリオンがコンスタンチノーブルに隠然(いんぜん)存在していた事は確実となったように思われる。
 二、1851年、ロンドンに於て発行されたモーセ・マルゴリウス著の「ユダヤ史」によれば、イタリ―のフェルララ町の一ユダヤ人エンマヌエル・トンメリは虚偽的にキリスト新教を受けて、ケンブリッチ大学のヘブライ語の教授となった。そして当時の英国王室と親交を結んで居た彼は、それと同様にカトリック教会の深甚なる敵であった。そして彼は密教の秘密を授けられて女王エリザベスの寵遇(ちょうぐう)を得て居た神学者であり、またヘブライ語の学者であるヒューゴ・プラウトンの教師となった。

 或る時、ヒューゴ・プラウトンは、英国とユダヤとの間に真正の同盟を締結する事を定義したコンスタンチノーブルの、ユダヤ人の首長なる教師(ラッピ)レーベンの公書を女王に伝達した。教師レーベンは自分の代表者となっている集会は全世界のユダヤ人の中心となっている、とその書中に言明していた。彼は協定の交渉を行う全権を賦与(ふよ)された女王の代表者をコンスタンチノーブルに派遣する事を求め、その交換条件としてバイブルの英訳を発行する為に、ユダヤの学者を派遣する事を提議した。エリザベス女王はこの提議を認可する事を余り念がなかった。だが、女王崩御の後、ヤコブ一世スチュアルトの治世に、ヒューゴ・プラウトンは再び同件案の解決に着手し、比較的成功を見た。
例えば、彼は数世紀以前に英国から追放されたユダヤ人の帰還について許可を得る事に成功した。ユダヤ人の著書から借用したこの歴史の一頁は、紀元1600年の頃、即ちアルリからユダヤ人に宛てた書翰の書かれた時から一世紀以後シネドリオンがなおコンスタンチノーブルに存在していたことを立証するものである。

 三、1710年、パリに於て発表されたルイ・ルラン著の「ユダヤ史」によると「ディドラクマ」の殿税は、なおその当時にも微収せられていた。彼の言うには「この風習は保存せられていた。何となればオランダその他ユダヤ人が多少余裕を有していた国で、この国民の微収した金は先ずベニスに送られ、その所から更にフェツサロニキに送られていた。この金で聖地パレスチナの教師らの被服に必要な総ての品物を買い求めた。これらの品物はまたこの教師らを毎年の初めに公平に配置したラベリヤの大学の長老等の手に渡された。けれども、これらを輸送した舟が途中に待ち受けていた海賊の眼を避け得ることはなかなか容易でなかった。本書の著者は、その当時ユダヤの秘密政府の存在していた事を考えた事もなかったのであるから、18世紀の初にディドラクマを徴収すると云うような、彼の為に驚くべき事実に対しても明らかに他から注入された解釈を加えている。

 彼はこの事実を慈善の目的から行われたものと認め、そして租税を微収する権利を有していたユダヤの政権とは何ものであったか、その目的が慈善であったか否かは少しも問題としていなかった。次の点もまた同様に指摘しておこう、即ちこの如くしてベニスで徴収した金はその後コンスタンチノーブルに近い、殆んど全部ユダヤ人の町であったサロニキに送られた。それ故にその処へシネドリオンを移すことも至って容易にできた訳である。爾後(じご)の金銭の使途は全く架空の話で、ただ著者を疑惑に陥らしめる為に予定されてあったとしたら、何の為にそれをサロニキに送ったのであろう。聖地は全然この海路にあたっていないのである。

 なおここに指摘すべき事は、ユダヤ人のサロニキは今日もなお依然不安な町で、トルト(コ)青年党の革命もここから起り、団結進歩委員会もここで創立されたと云うことである。また各国のユダヤ人からディドラクマを徴収することは常に義務的であって、それが常に会堂を通じて行われていると云うこともここに指摘しておこう。我らはこれに関する無数の証拠をドレイフス事件の際にも見たのである。




(私論.私見)