ユダヤ人の密使は各国に散住している同胞の在留地を洩れなく訪歴して、「我らの救世主(メッシャ)来臨の時期が近く到来する。その時こそ祖国復興の為、ユダヤ人は献身賭命起奮進しなければならぬ」と云って激励した。アキバ・ベン・ヨセフの如きは、「この救世主はかの士師の時代にヤエルに殺されたカカナン人の将軍シザルの家から出るのである、しかも純血ユダヤ人の母から生れるのだ」と力説した。そして彼はヤッファよりスペイン、ガルリヤ、イタリーを巡歴し、ローマには永らく滞在していたが、ギリシャに赴き、その所から小アジヤを経てバビロンに往って、最後にエジプトを訪れた。このヨセフの祖国の復興に燃ゆる情熱は、各所に離散しているユダヤ人に強烈なる刺激を与えた。遺憾なく指導を終ったヨセフはパレスチナに帰った。そして大なる熱意を以ってシネドリオンとパリサイ派大学とを指導した。これによって彼はタルムド伝説の諸父の一人と認められた。このヨセフの活躍とあいまってラーウィン、サムエルがキリスト教徒に対する激逸なる呪詛文を書いた。この呪詛文は今日までユダヤ人各会堂に於て毎日祈祷式に謹んで誦読せられる。
その後程なく蜂起したユダヤ人の暴徒は、彼らの国民復興の工作が続いて行われつつあることを示した。紀元115年に於けるユダヤの部分的反乱は、ローマ皇帝トラヤヌスの将軍等によって辛うじて鎮定せられたが、その反響はエジプト及びキレナイクに及んで、この地方に於て、武装せるユダヤ人が二十万人のキリスト教信者及び異教徒を殺戮した。そして三年間戦争の後漸(ようや)く暴徒は敗北した。これと同時にキプル島のユダヤ人は全島を占領して、サロミナ市を破壊し、キプル島の住民二十四万人を殺したが、その大半はキリス教徒であった。又メソポタミヤのユダヤ人は数カ月の間ローマの軍隊に対して堅忍持久の防戦をなした。その他小規模の騒擾(そうじょう)は諸所に誘起された。
これらの騒擾は一層懼(おそ)るべき反乱の前兆であった。紀元134年にヨセフ・ベン・アキバはバルコヘバ(星の子)なる者を王位に就かしめた。彼の力説する所によれば、この人に於て彼は来臨すべきメッシャの前兆であると認めたのであった。この為メッシャは忽ち二十万のユダヤ大軍を編成したが、その中には他の諸国から馳せ参じたるものも多くあった。彼はユダヤ国に駐屯していたローマ総督アィンコー・ルフスの軍隊と戦って連勝し、一時ユダヤ国の主権を握った。この短期間を利用して、彼はその権下に服した諸州に於てキリスト教徒に対して残虐の限りを尽した。この事実はエフセウイウスの年代記及びローマ皇帝アドリアタス治世17年の記録及び哲学者エスチヌスの書す所である。
アドリアヌス帝は勇将ユリウス・セウエルスをブリテン国から召して反乱を邀撃(ようげき)せしめた。バルコヘバは戦うこと二ヶ年の後遂に敗れた。彼はアキバ及びパッピウスと共にユリウス・セウェルの捕虜となった。ユリウスは彼らがローマ人に与えた惨虐に報ゆるに彼らの身体から生きながら皮を剥ぎ取ったと伝えられている。エルサレムはこの抗戦の中心地ではなかったが再度の突撃によって占領せられ、先に聖殿のあった場所は徹底的に掘り返され、塩を撒かれて浄められた。ここに於てユダヤ人が殆んど絶滅せられ、僅(わずか)に生き残ったものは奴隷に売られ、あるいはエジプトへ追放された。
この敗北はパリサイ派の野望を達成せん為には一大打視察に赴いた撃であった。ヤッファのシネドリオンは、エルサレムのそれと同様に解放せられ、四方に追放せられ、全イスラエル民は大なる恐怖に襲はれた。それでもパリサイ派は活力を失はなかった。ローマ軍の馬蹄の音がユダヤの地に消えるや否や、パリサイ派のシネドリオンはペテリヤに設立せられ、そこにヤッファの大学校も移された。アドリアヌス帝がエジプトの情勢を時其地に会々、地方の会堂を視察する為に来たユダヤ人の総教長シメオン三世の滞在している事を知ったが、アドリアヌス皇帝及び従者はユダヤ人の遠大なる宿望を看破することができなかった為に、たとえ一時消滅しても、再び灰燼(かいじん)の中から復興し、依然として各地のユダヤ居留民団に動かすべからざる勢力を有する、この秘密的権力の調査を行う必要を認めなかった。この権力を危険せざるのみならず、後に至ってその存在を他の諸宗派の最高教職と同様に公認するに至った。
この公認の年代は確定されていない。とにかくテペリヤの総教長は疑いなく慎重の態度を取っていた。しかし即位の当初ユダヤ人に敵意を懐いていたアントニヌスが後に至って彼らに少なからず好意を持つようになったと云うラウウィン等の伝説は、真面目に注意を払って見る必要があらう。